4 たまに彼らは距離感を間違える。
さらに数十分後。
一秋がソファーに座ってテレビをぼうっと眺めていると、リビングの扉が開き、廊下の向こうから石鹸の香りが漂ってきた。それに気付いた彼が入り口を振り向くと、そこにはジャージ姿の陽が立っていた。
胸元に白い糸で「月城」と刺繍されていることと、髪がやや濡れていることを除けば、高校の体育の授業で飽きるほど見た恰好だ。
「シャワーありがとね」
「おう、気にすんな」
――やけに長いと思ったら、髪か体でも洗ってたのか?
彼がそんなことを考えていると、彼女が不思議そうに首を傾げた。
「……えっと、どうしたの? 私どっか変?」
「え、ああ。すまん、何でもない」
どうやら無意識のうちに凝視してしまっていたらしい。彼は謝ってから視線を反らし、再びテレビを眺め始める。
「ふーん。まあ別に良いけどね」
彼女はそう言いながら扉を閉めると、リビングを歩き、座っている彼のすぐ隣に腰を下ろした。
「隣、座って良い?」
「もう座ってるし……好きにしろ」
「そ。じゃあ好きにする」
並んで座る二人の間には二十センチメートルほど距離があるのだが、湯の湿り気と熱気が微かに伝わってくる。
そんな感触に、たとえ一瞬でも「あれ、俺ってこんなに女の子と近づいたの何年振りだったっけ」などという考えが浮かんで来ようものなら……その末路は自明。
平常時は毎分およそ六十五拍で鼓動している彼の心臓は、今やその二倍以上――毎分およそ百五十拍を記録していた。こうなってしまったが最後、もはや彼に冷静な判断は不可能。……有り体に言えば、月城一秋には刺激が強すぎた。
そんな状況から意識を逸らそうと、彼は無意識のうちに口を開いていた。
「あ、あのさ」
マズい――と、そう思った時にはすでに遅かった。
いくら後悔しても、口をついて出た言葉を飲み込むことはできない。しかし、そんな現実の厳しさが、かえって彼を冷静にさせたようだ。絶好調とは言えずとも普段と遜色ない程度に回るようになった頭で、彼は、現状から逃げるための一手を考える。
――何も解決する必要なんてない……やり過ごせれば御の字だ。
自然な会話における応答間の切れ目は、一般に約〇・三秒と言われている。ここに彼女の応答時間を加味して、残り時間をおよそ一・五秒と推定。この僅かな残り時間で実現可能な最善手、それは――
――これより、全力を以って時間稼ぎを行う……ッ!
ある話題が時間稼ぎとして機能するための要件は、主に三つ――(一秋調べ)
【一】相手と共通の話題であること。
【二】多からず相手の関心を引く話題であること。
【三】二を満たした上で、互いにとって絶妙にどうでもいい話題であること。
……以上。
残り時間およそ一秒で、これら全てを満たす魔法のような話題を――。
「ん、何?」
コンマ数秒前の彼が苦し紛れに発した声に、彼女が首を傾げた。ふと彼は、そんな彼女に一瞥――その瞬間。
――そうか、これがあった……いや、むしろこれしかない……ッ‼
我、天啓を得たり――と。
内心では勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、しかしそれを悟られないように、彼は真顔のままそろそろと口を開いた。
「俺が言っておいて何だけどさ……本当にそれでいいのか? 着替え」
「え? うん。……そりゃあ最初はちょっと違和感あったけど、もう慣れちゃったし」
唐突な話題に、彼女はやや不思議そうな表情でそう答えた。
「あ、そう……」
「……まあ、サイズがピッタリなのは逆にちょっとアレだけど……いや、身長は良いのよ? カズだし」
平然と言う彼女に、これ幸いと彼がやや大げさに噛みつく。
「おい、こら。どういう意味だ」
「まあまあ、怒らないの。私たちの仲じゃない」
「どんな仲だよ……いや、別に良いけどさ」
わざとらしくげんなりとする彼に、彼女が続ける。
「それは良いとして……全身の寸法がほとんどピッタリってどういうことよ」
――なるほど、そう来たか……。
当初予定していた展開とは少し異なっているものの、彼女が話題を発展させたという点を見ればむしろ好都合だ。彼はそう考えて、とりあえず話の流れに身を任せることにした。
陽が着ているジャージは一秋から借りたものなのだが、それは別に大した問題ではない。
そもそも学校ジャージは学年ごとに大体共通のデザインで、違うことと言えば、名前が刺繍されていることと、サイズが数種類あることのみ。しかし彼らの身長差は現時点でおよそ一センチメートル程度で、ジャージのサイズはもちろん同じだった。そのため彼女曰く、ジャージに関しては全く文句なしとのことだ。
――つまり、問題はそこではない。
彼女はジャージを着ている――が、彼女は別にジャージだけを着ているわけではない。裸ジャージだとかノーパンだとか、そういう恰好では断じてない。彼女は下着を着用しているのだ。
すると当然、そこに一つの疑義が生まれる。
下着は今も洗っている最中で、替えなんてものは最初から持っていない。しかし彼女は今も下着を穿いている。
ならばこれは――そう、ファントム・アンダーウェアとでも名付けよう……ッ‼
「――とか分析するとめっちゃアホらしいな……」
「え?」
先ほどはファントム・アンダーウェアなどと仰々しい名前を付けたものだが、その真相は、端的に言えば「ジャージと一緒に下着も用意した」というだけのことである。
しかしあいにく彼には女性用下着の持ち合わせなど無かったため、下はボクサーブリーフ(三枚セットで九百円くらいのやつ)、上は半袖シャツ(五百円くらいのやつ)に申し訳程度の絆創膏という少々珍しい恰好ではあるのだが。……ちなみに彼女曰く、割と快適らしい。
「……何というか、こう、逞しいよな」
「えっと……真剣な顔して考え込んでたけど、急にどうしたの? アホらしいとか逞しいとか……」
「いや、何でもない。あれだ、ちょっと持病の発作が出ただけだから。気にするな」
「ええ……それ大丈夫なの?」
「一種の精神病みたいなもんだ。感染はしない――と思う。……ところで何の話だっけ?」
彼がそう問うと、彼女は呆れたように肩を落とした。
「やっぱり聞いてなかった……要約すると、アンタが瘦せすぎって話よ」
「はあ。そうですか」
気の抜けた返事をする彼には構わず、彼女が続ける。
「身長はともかく、ウエストまでピッタリってどういうことなのよ。こういうのって普通、腰回りがブカブカとか、胸がキツイとか、そういうのがあって然るべきなんじゃないの?」
「いや、俺に言われましても。特に後半」
早口でまくし立てる彼女に、彼が低い声でそう呟いた。
それを聞いてか否か、彼女はがっくりとうなだれ、大きく息を吐く。
「はあ……」
そんな彼女の様子に、彼は少し考えてからそちらを向くと、神妙な面持ちで口を開いた。
「気にすることはないぞ、桐山。大きさなんてさほど重要じゃないから」
そう言う彼の目線は、よく見ると彼女の顔より少し下あたりに向けられている。
「ちょっと。どういう意味よ」
「まあまあ、俺たちの仲じゃないか」
「どんな仲よ……いや、別に良いんだけどね」
苦笑気味に、しかし堂々と言う彼女の顔を見つめて、彼は小さく息を吐いた。
「ん、どうかした?」
異変を察知した彼女が問うと、彼は少しの間目を閉じて、それから思い切ったように口を開いた。
「あのさ、そろそろ本題に入らないか」