1 月城一秋は部外者である。
今日も今日とて、三月の太陽がとあるアパートの一室を照らしている。その部屋の窓には白いレースカーテンが掛けられており、それに遮られた日光が、クッションフロアの床に縞模様を描いていた。
部屋の外では強い風が吹いているようで、窓がガタガタと音を立てている。一方部屋の中には、その景色をぼんやりと見つめる者がいた。
時刻はもうすぐ午後一時。
およそ一時間前に高校を卒業し、つい先ほど帰宅したばかりの青年――月城 一秋は、制服姿のまま床にうつ伏せで寝転がっていた。
「……意外とあっけないんだな」
改めて実感し、そう小さく独り言つ。
思い返してみれば、良くも悪くも平和な三年間だった。
「平和、ねぇ……とりあえず着替えますか」
ため息を一つ吐いてから、彼はゆっくり立ち上がった。
ブレザーとスラックスを脱いでハンガーに掛け、ネクタイとともにクローゼットに仕舞う。三年間で体に染み付いたこの一連の動作も、多分これが最後になるのだろう。
彼は、そんなことを考えている自分自身を俯瞰して嫌な笑みを浮かべつつ、部屋を出てリビングへと歩いて行った。
「――にしたって、これのどこが“穏やかな陽気”なんですかね」
食卓で温め直しの餃子を口に運びながら、一秋は恨めしそうに呟いた。
今朝の天気予報では「一日中穏やかな陽気が続く」と言っていた。だが外を見てみれば、正午を回った辺りから急に吹き始めた強風が今も相変わらずの猛威を振るっており、穏やかな陽気とは程遠い。
「……洗濯物、干さなくて正解だったな」
気付けば、風上の方向に面した窓ガラスが砂埃で黄色っぽく汚れていた。
――今度窓掃除しなきゃ……はあ、面倒くさい……。
近い将来のことを考えて憂鬱な気分になりながら、彼は皿に残った最後の餃子を口に放り込んだ。
それからおよそ一時間後。
「……そういや、今頃どうしてるかな」
ソファーに腰掛けて天井をぼうっと見つめながら、一秋が小さく呟いた。
ふと脳裏に浮かんだのは、幼稚園に通い始めるより前から嫌というほど見てきた彼女――桐山 陽の顔だった。
偶然家が近かったというだけの理由で幼馴染になった彼女だが、彼のことを語る上では非常に重要な存在である。
今までに彼が歩んできた十八年と数か月の人生において、彼女が占める割合はかなり大きい。生まれて初めてできた友人が彼女であり、彼が写ったアルバムの写真には大抵彼女の姿もある。
最近だと、彼が第一高校に入学したきっかけも彼女だった。……入学するきっかけ、と言えば聞こえは良いが、どちらかと言えば「上手い具合に誘導され、いつの間にか入学していた」の方が正解に近い。
あれは今からおよそ四年前、中学校で書いた進路希望調査票を彼女に拾われたことが始まりだった。
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中学校二年生の末頃のこと。
卒業後の進路について真剣に考え始める時期になり、一秋が通っていた中学校でも、学級活動と称して、進路について考える時間が用意されていた。その一環として、彼ら生徒は「進路希望調査票」への記入を進めていた。
授業という名目上、調査票の提出は必須だったが、当時の彼はまだ進路について考えていなかった。そのため彼は、とりあえず聞いたことのある高校の名前を適当に書き入れ、大量に余った時間は居眠りに費やしていた。
かくして彼は、授業開始十五分あたりからずっと机に突っ伏していたのである。
「――はい、これ」
「……は?」
突然聞こえてきた小さな声に彼が目を覚ますと、隣の席に座っていた陽が、椅子から少しだけ腰を浮かせて彼の方へ身を乗り出していた。差し出された手には何やらプリントのようなものを持っている。
「ほら、調査票。落としたよ」
「調査票……ああ、調査票か。サンキュー」
寝ぼけ気味の彼が軽く礼を言って受け取ると、彼女はさらに身を乗り出し、ずいっと顔を近付けてきた。
「ねえ。カズって東成乃高校に行きたいの?」
耳元で囁く彼女に、彼は体をやや仰け反らせながら答える。
「いや、まだ決めてないから適当に書いただけだよ」
「そうなんだ。じゃあさ、第一高校にしない? 第一高校目指してるんだよね、私」
そう言ってから、彼女は自分の席に座りなおした。
――千葉県立第一高等学校。彼の家から徒歩十五分程度の場所にあるその高校は、“第一”の名を冠するだけあって、千葉県内ではかなり有名な学校だった……が、彼は最初からその学校を選択肢に入れていなかった。
「いや、俺は無理だろ……」
彼がそう考えるのにも無理はない。第一高校といえば、偏差値は七十弱、志願倍率は例年二倍以上と、総合的な難易度で言えば県内トップクラスの公立高校なのだ。一方彼は、定期試験では毎回八、九割程度の点を取っているものの、授業中はほとんど上の空で、評定の平均は五段階中の三程度。学力だけなら何とかなるだろうが、評定があまりに悪すぎる。
そんなことと知ってか知らずか、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「行けるんじゃない? カズは“やればできるのにやらない子”なんだし」
「最後の方にあった“のにやらない”は余計だ。俺だってやる時はやる――と思う。多分。知らんけど」
「じゃあ行けるってことだよね?」
「流石にそれは――いや、そうなるのか」
何かに納得した様子の彼に、彼女が言った。
「じゃあ決まりね。ほら、さっさと書き直して!」
「はいよ……」
――とまあこんな具合で、彼は彼女の勢いに流されるまま志望校を決定。それからおよそ一年間の受験勉強を経て、彼ら二人は揃ってめでたく第一高校に合格したのだった。
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「まあ、何だかんだで正解だったのかもな……」
数年前のことを懐かしんで、一秋は小さく呟いた。
時間とは不思議なもので、その時はひどく理不尽に思えた出来事でも、過ぎ去ってしまえば「それも良い思い出だった」だの「あれで良かった」だのと錯覚してしまう。もちろん限度というものはあるのだろうが、大抵のことはそうなってしまうのだから恐ろしい。
らしくない事を考えている自分自身に「こりゃいよいよ疲れてるわ」と嘲笑を浮かべてから、彼はふと思い出したように携帯電話の画面を見た。
相変わらず、着信はない。
「……はあ。ま、連絡が無いってことは上手く行ったのかね」
落胆とも安堵ともつかない表情で携帯電話を伏せ、小さくため息を吐く。
――卒業式。教育課程の修了と新たな道への門出を祝うその行事は、すでに形骸化して久しく、今では作法を重んじるだけの作業と化してしまった。
しかし卒業式というものは、今も変わらず学生にとって大きな節目であり続けている。それまでに築いてきた環境や人間関係の多くに影響を与え、強制的に区切りをつけるそれは、まさに青春の節目。事前にセーブしたものだけが残り、それ以外は全て消える。――卒業式とは、言うなればある種のリセットボタンなのだ。
ゆえに、恋する乙女――桐山陽にとって、今日という日は最後にして最大のチャンスだった。
「告白、か……ファンタジーの世界だけの話だと思ってたんだけどな」
しみじみと、彼は小さくそう呟いた。