すべてとの出会い
彼は私とは正反対の人間であった。
しかし、誤解して貰いたくないが、それが理由で彼と私との仲が悪くなったなどというわけではない。
私は対することさえ出来なかった。
彼が月なら私は地下を歩くドブネズミ。
月なんて知ることもなく、一生を過ごすはずだったドブネズミが月を知った。
知らぬが仏とはこの事だ。
私の人生は彼を知ったことでめちゃくちゃになった。
水に黒い絵の具を浸せば、水には戻らないように……。
彼との出会いは私を狂わせて酔わせた。
美酒のように麻薬のように……。
さて、突然ではあるが、彼のことは6と呼ぶことにしよう。
なぜ6なのかは、私が始めて彼と出会ったのが6月6日だったとかいう理由だ。深い意味も考察もありゃしない。
Aなんて呼んだら、まるで事件の関係者みたいな印象を与えてしまう。今回、A……いや6は何も悪いことはしていない。彼はただ僕の前に姿を現しただけである。
Aと言われるべきなのは僕だ。
すべては僕のせいなのだ。
美術が好きだ。美は美しい。芸術は素晴らしい。そんな芸術を私も愛していた。芸術も私を愛してくれていたはずだった。
私は幼少の頃から絵を描くのが好きだった。絵が心の支えになってくれていた。辛い日々も絵があれば生きていけた。
これまでに人物画、風景画、キャラクター画、漫画……いろいろな絵をたくさん書いてきた。
その中でも特に自画像が好きだった。
自分が芸術と一体になっているようで、自分が芸術の世界に閉じ込められているのを見て、安堵していたのだ。
ただし、こんな偉そうな事を言ってはいたが。当時の私は有名画家でもなんでもない。
落選・落選・参加賞。
小学校の時に唯一貰えた公民館での展示会で1位を取ったくらいだ。
それでも私は諦めなかった。負けず嫌いだったからだ。
いつかは必ず私も有名画家たちと肩を並べて談話を行っていると信じた。それを夢見ていた。
そんな私も大学生になった。国公立の大学に一浪して入学したのである。
もちろん、私が入るべきサークルは決まっていた。
美術サークルだ。
私は入学して入部期間になった瞬間に美術サークルに入部した。
その気合いの入れ様から私はすぐに先輩たちに気に入られるようになった。
年齢は明かすことなく。1つ年下として先輩たちに可愛がられる。
女子部員はなぜか1人もいない。男子部員だけである。
それでも次第に私と同学年の新入生も入ってきた。5月にはそれなりの人数が揃っていた。
そこで私にも友人が数人できてきた。そしていつの間にかグループで固まったりしていた。
彼らの絵の出来は私よりも劣ってはいたが……。
私もそれもまた芸術と考えていた。人によって芸術は違う。それぞれに味がある。そう考えていた。
休みの日はグループで風景画を書きに行ったりもした。
壮大な海、そびえたつ山、のどかな田舎、古ぼけた神社、静かな湖、美しき星空。
どれもが思い出になる素晴らしい時間だった。
私には変えがたい友との日々である。
美術という私の古くからの友人は、友人という私の新たな友人を連れてきてくれたのだ。
私はその大学生の時期が人生で2番目に楽しかった。
そんな幸せで充実した日々が続き、私は2年生になっていた。
2年生になった。私は先輩と呼ばれる事になるのだろう。なんだかたったの1年歳が違うだけで先輩と呼ばれるのは恥ずかしい。
けれども、美術サークルが廃部になることはなく。今年も新入生がやってくるはずだ。
先輩として良きお手本になろうと心に誓ってみる。
そして来るべき日の6月6日。
それが彼を僕が見た初めての日付であった。
6月6日。
美術サークルの扉を1人の青年が叩く。
美術サークルに入ってきた彼はまるで絵画の中の住人のように美しかった。
透き通るような白い肌、さらさらとした美しい髪、優しい瞳に、完璧な鼻、かわいらしい唇。
彼ならどこへ行っても好まれるだろうし、彼ならどんな格好をしても好まれるだろう。
人を惹き付けて、視線を集めることができる超能力者みたいな男であった。まるで魔法だ。
もちろん、彼は部員の視線を独り占めにした。
6と私が影で呼ぶようになる存在は一瞬にしてこのサークル内に溶け込んだ。
ただし、不思議な事に彼は決して他人の前で絵を描こうとはしない。入部して数日が経っても彼は絵を描こうとはしない。
うちの美術室は広く体育館のように広い。何人もが集まってそこで絵を描くことができる。場所を譲り合う機会といったら窓からの日光による問題が起きた時くらいだ。
なので、人が人の邪魔になるといった出来事もない。
まぁ、6を見物しに多くの女子たちが美術室を訪れたが、何の返答もしない彼を諦めたのか次第に来なくはなった。
だから、絵を描く邪魔する人はいないはずだ。
けれど、彼はいつも美術室の中央付近を陣取って、そこで白いキャンパスを眺めていた。
それだけで時間が過ぎていき、解散する時まで彼は筆を動かすことはしなかった。
そんな彼は彼はその美貌を自慢にすることもなく。人付き合いも少ない。
飲み会にも歓迎会にも彼は来なかった。それでも彼に人気があったのは彼の美貌からだろう。
彼を邪険に扱えば彼という美が欠けてしまう。
だからこそ、彼は嫌われることなく好かれ続けた。
とある日の飲み会後である。
さんざん酔っ払った私は友人たちの支えを断り、一人で酔っぱらいながらフラフラと道を歩いていた。
自分の足では自宅に帰ろうとしているのだろうが、私は違う方向へと歩いているようだった。
それは大学である。
私の酔いが少し治まって気がつくと、私は大学の校門の前にいた。
私は大学に戻ってきたらしいと頭で自覚する。
そして一刻も早く帰ろうと考えていた時に、私はふと気づいた。
誰もいない。もうみんなが下校していて、部活なんてやっていないはずの時間に美術室の窓の電気が1つ付けられていたのである。誰かが電気を消し忘れたのだろう。私はそのまま見て見ぬふりをして帰ろうとも思ったが、その光に吸い寄せられるように大学内へと入っていく。
それはまるで暗い嵐の夜の海に光差す灯台の灯りのようだった。
私が美術室の電気を消そうと扉を開けた時。
世界が変わった。私の中で何かが切れた。
私の視界に入ったのは美しすぎる名画である。
これまでの美しさとは比べ物にならない。美しさの究極形態の1つ。美の極み。
「これはなんだ…………」
これを美しいと呼んでしまえば、私は今後の人生で同じ言葉は使えないだろう。
その名画はまるで神が降臨した世界のように私の記憶に焼き付いた。キラキラと金色に光る。
その絵画を見た私の目からは自然と涙がこぼれ落ちる。
号泣する涙。
自分でも訳がわからず混乱している状態で私は泣き続けた。