【9】
パーティーの翌日も、ヴァイドは『まんが』を持ってやってきた。
何でも、今度は宮廷画家三人がかりで描かせたそうな。
どれどれと見てみると、昨日の美術品仕上がりよりは幾分かマシになっていた。四コマながらちゃんとコマ割りもされてるし、吹き出しも採用されているみたい。ただ、やっぱり絵柄は印象派っぽい仕上がりで、セリフも詩歌だし、ヤマなしオチなしイミなしだし、マンガとしてはガッカリな出来だ。
「どうだ?」
「うーん、まだ全然。もっとこう、親しみやすい庶民的なカンジ?が欲しいなあ。四コマにしたのは正解だけど、それだとオチ持ってこなきゃいけないし。大体、男と男からませときゃいいってもんじゃないから。BL舐めんな」
腐女子の注文の多さを甘く見てもらっちゃ困る。そうか、と油彩画を預かって、ヴァイドは難しい顔をして四コマを眺めた。
「それにしても、お前は本当に男同士の恋愛が好きなのだな。理由はあるのか?」
不意に投げかけられた質問に、私は少したじろいだ。
改めて聞かれると回答に困る。そういえば、私はなんでホモが好きなんだろう。
少し考え込む。自分のことを分析する。
答えの取っ掛かりはつかめたものの、まだ曖昧だ。考えながらしゃべることにした。
「ほら、私って何の取り柄もないその他大勢じゃない。きれいじゃないし賢くもないし、地位があるでもない。そりゃあ最低人間ってワケじゃないけど、上等な人間ってワケでもない。いてもいなくても同じ、背景と同じモブ」
自嘲気味に語る私の言葉に、ヴァイドは口を挟まず黙って聞いている。
「主人公たちには干渉できない。モブは遠くから見てることしかできないの。だから、せめて好きな人たちには幸せになってもらいたくて。好きな人と好きな人が結ばれれば、二人まとめて幸せになるでしょ? ステキな人たち同士がくっついて、それでハッピーエンドなんて最高じゃない。だから私はBL好きなんだと思う」
思い返せば、私は本当にその他大勢だ。ちょっといいなと思った人と帰り道一緒になっても『ええと、名前何だっけ?』なんて言われるし、遊びに誘われても数合わせだし、頑張って描いた美術の絵も一番上手な絵の引き立て役のような配置で張り出されるし。
頼られることも好かれることもなく、褒められることもなくけなされることすらなく、ひたすら人の陰に隠れて生きてきた。だから、私は死ぬまで『モブちゃん』なのだ。
「私は私の手で好きな人を幸せにはできない。だってどうせ主人公にはなれないんだから。けど、いてもいなくてもいいその他大勢にも、好きな人たちが幸せになる姿を妄想する権利くらいあるでしょ? 私はそれでいいんだ。主人公じゃない私ができる精一杯のことが、それなんだと思う」
「……主人公にはなれない、か」
答えを出した私に、ヴァイドはため息のような声でつぶやいた。分かってもらえただろうか。改めて現実を再認識した私は軽く死にたくなったけど、これが偽りない私の本心だ。
ね、そういうこと、と言おうとした私の手首を、突然ヴァイドがつかんだ。痛いくらいの力加減だ。思わず顔をしかめていると、ヴァイドは珍しく少し怒ったような表情で私の顔を覗き込んできた。
「それは逃げだな。お前は逃げているだけだ」
「そんなことっ……ない。私はどうせ、」
「主人公になれないなど、甘えた寝言だ。お前には分かるか、生涯主人公で居続けなければならない者の気持ちが。逃げられずに自分の役を演じ続けることしかできない者の懊悩が。無論、その境遇に恨み言を漏らす気はない。俺は俺の劇の主人公であることを受け入れている」
王子様であるヴァイドはそうだろう。けど私は違う。いなくなっても困らないただのモブなのだ。
けど、彼はそれを逃避だと言う。私は逃げてる? 何から? どうして? ぐるぐる考えても答えは見つからない。
「逃げるな。お前の人生の主人公はお前ただ一人だ。役を降りるな。悲劇であろうと喜劇であろうと、お前が演じる舞台だ。幕が下りるまでは、お前はお前という役割を演じ続けるしかない……俺が見込んだ女だ、お前はきっと、立派にやり遂げる。だからこそ、みっともなく逃げ回るようなことを言うな」
「……無理だよ。私には主人公なんて務まらない。モブでいた方が気がラクなんだよ」
言ってから、はっとした。
つまりはそういうことだったのか。私は主人公という大役から逃げて、ラクなその他大勢に紛れ込んでいただけなのか。自分の人生という大舞台が怖くて、諦めたフリしてふて腐れて。
モブにだって、描かれていないだけでそれぞれの人生が、役割がある。黙って突っ立って、大事な場面ではフェードアウトしようなんて虫が良すぎる。
……カッコ悪い。
本気でダサい。
こんなのただの責任放棄じゃん。ラクな方ラクな方へと逃げて、覚悟もなく。
「……やっぱ、私主人公の器じゃないね」
「まだそんなことを言っているのか」
「いや、そうじゃなくてさ。主人公ってもっとカッコいいもんじゃん。勇敢に困難に立ち向かって、仲間思いで、悩んだり立ち止まったりすることはあっても必ずそれを打ち破って、最後は敵に勝って。努力、友情、勝利だよ。私には絶対無理。けど、」
私は笑った。
大きな物語の中ではモブでしかないけど、それでも自分の人生では主人公を張る情けない登場人物らしく。
「そういう主人公がいたっていいんだよね。カッコ悪くて、勝ちはしないけど最後まで役割を全うして、さ。誰だってそうなんだよね、勝ち負けなんて関係ない、カッコ悪くてもいい、最後まで演じ続けることが大切なんだよね」
認めると、急に気が楽になった。
私の人生の主人公は、私しかいない。
逃げちゃダメなんだ。
「そうだな、お前は俺ほど恰好の良い主人公ではない。が、役目を果たせ。それが生まれてきた以上課せられた義務であり権利だ」
やっと手首を離してくれたヴァイドは、力強く言ってニヤリと笑った。
「お前はお前にしかできない舞台を演じるがいい」
「うん、目立たなくて地味だけど、味のある舞台を演じてみせるよ」
同じような笑みを浮かべて、私は真っ向からヴァイドに宣言した。
そうだ、私は世界の真っただ中ではただのモブかもしれない。
けど、自分の人生まで諦める必要はない。
カッコ悪い主人公だけど、よろしくね、私の人生。
二人で笑い合っていた――その時だった。
ばたん、と天井板と一緒に何かが落ちてくる。
ネズミにしては大きい音だな、と慌てて振り返ると、そこには黒い装束を身にまとった小柄な人間が音もなく着地していた。
人間だ。忍者っぽい人間だ。時代劇とかによくあるけど、殿ならぬ王子様の隠密だろうか。それにしたって空気読まずこんなところにまで出てくるのは……
「下がれ、アン!」
「へ?」
「馬鹿者、暗殺者だ!」
普段の余裕からは考えられない切羽詰った声を上げるヴァイド。
なるほど、隠密じゃなくて曲者か、王子様も大変だなあ、なんて平和ボケしたことを考えていると、背後に庇われた。
暗殺者が飛びかかって来たのはそれと同時だった。片手に鋭く光る銀の刃を携え、まっすぐにこっちに向かってくる。
ヴァイドは咄嗟にテーブルをひっくり返して防壁にした。がつん!とテーブルに刃が刺さる音がして、私はそこで初めてぞっとする。
すぐに刃を引き抜いた暗殺者はテーブルを蹴ってよけた。けど、ヴァイドが動く方が早い。腰に下げていた装飾品みたいな短剣を引き抜いて、刃を握る手を狙う。けどさすが相手も手練れ、短剣を刃で巧みに弾く。
弾いた後も更に連撃。ヴァイドの首筋を狙った一撃は寸でのところでかわされた。その代り、白皙の頬に赤い傷がつけられる。
ヴァイドは暗殺者の伸びた腕を片手で捕まえると、ひねり上げるようにして足払いをかけた。この国の柔術みたいなものだろうか、暗殺者はすとんとその場に抑え込まれる。
それで終わりだった。攻防はほとんど一瞬、声をかける間もなかった。暗殺者は床に押さえつけられ、もがきながら顔を上げる。
布に覆われた顔に光る両目が、まっすぐに私に視線を投げかけた。
白刃の切っ先がこっちに向けられる。
「……え?」
「アン!」
ヴァイドが手刀で刃を払おうとしたのと、その刃の部分だけが弾けるように飛び出したのは同じタイミングだった。中でばね仕掛けになっていたんだろう、刃がまっすぐ空を切り裂いて私の方を目指す。
あ、ダメだこれ、死ぬ。
刹那の間では何気なくそう思うのが精いっぱいだった。目をつむる暇もない。軽く口を開けて他人事のように一瞬を過ごす。
がつ、と刃が当たる。……私の背後の壁に。寸前でヴァイドが叩き落そうとしてくれたおかげで軌道が微妙に変わったんだろうか、刃は私をかすめることなく、けどものすごく間近の壁に突き刺さって終わった。
しばしの間静寂が訪れる。その間に、私はようやくへなへなとその場に崩れ落ちた。
「大丈夫か、おい、アン!」
暗殺者を取り押さえながら呼びかけるヴァイドの声も遠い。
え、なに、私いま、殺されかけた?
震えながら混乱して、涙も出ない。平凡なモブ人生、好かれこそしないけど嫌われもしない生活を歩んできた私にとって、混じりけのない殺意を向けられたのはこれが初めてのことだった。
スローモーションで迫る刃の切っ先の、霜のように目を射る輝きがまだ焼き付いている。
そこでやっと騒ぎに気付いた戸外の衛兵たちが室内に入って来た。ヴァイドに代わって暗殺者を取り押さえ、これで一件落着。
服を払って立ち上がるヴァイドに、私は生まれたての小鹿のような足取りで近づいて頬に手を伸ばした。
「……ヴァイド、けが……」
「どうということはない。俺の美貌に傷をつけたことは万死に値するが、依頼人を吐くまでは生かしておいてやろう。それより、お前は大丈夫なのか?」
「うん、平気……ちょっと腰が抜けそうになってるけど」
無理に笑って拳を握って見せる。超強がり。
ヴァイドは衛兵と二言三言交わすと、あとを衛兵に任せた。暗殺者を連行していく衛兵たちの背を見送って、私たちは再び二人きりになる。
「しかし、妙だな」
「何が?」
難しい顔で首をひねるヴァイドに尋ねると、殺されかけたばかりとは思えないほど落ち着いた声音で続ける。
「暗殺者を送り込まれることは慣れている。が、普段なら食事中や風呂の最中、寝室にヤツらはやってくる。このように誰かと会う時に襲われることはめったにない。ヤツらはどうしても気が緩む隙を狙ってくるからな」
「おお、暗殺対象のプロフェッショナルの意見」
「これだけの地位に就いていればいやでもこうなる。大切なのは殺されかけたとしても取り乱さず、冷静に本質を分析し、暗殺者を送り込んできた相手の懐を探って最良の一手を取ることだ」
「王子様も大変だね。私なんてまだ心臓バクバクだもん」
「お前はそれでいい。今考えるのは俺の役目だ。そうだな……なぜこの場を暗殺の舞台に選んだのか。ここは堅牢な塔の上、警備も厳重だ。もっと他に狙いやすい場があったというのに、暗殺者はここを選んだ。だとすれば」
考え込んでいたヴァイドの瞳にふと光が差し込む。彼ははっとして顔を上げ、
「……今回の狙いは、俺の暗殺ではないのか?」
「じゃあ他に何の狙いがあるっていうの?」
ついていけなくて問いかけてみると、ヴァイドは急にまっすぐに私を見つめた。強い眼差しに視線をそらしそうになるけど、なんとかこらえる。
「暗殺者の刃が最後の最後に狙ったのは、お前だったな、アン」
「……まさか」
「そうだ。暗殺者の狙い……俺ではなくお前だったのかもしれん。堅固な警備も俺が来れば多少は緩められる。ヤツは俺の後をついてくればそれでいい。それに、俺がいれば俺を狙ったと言い張ることで本来の目的は隠匿できる。恋神は巻き込まれただけだと言い訳が立つ。そうすることで依頼人までたどり着きにくくすることができる」
次々と投げかけられる言葉に、私はひたすら目をパチパチさせることしかできなかった。
狙われたのは、私? 誰かが私を殺そうとした?
……なんで私なんかを?
全然ピンとこない。
アホ面丸出しできょとんとしていると、ヴァイドは苦笑いして肩をすくめた。
「まったく、肝が太いのかただの馬鹿者なのか。いいか、お前は恋神なのだぞ。しかも俺の妃を決める上で重要な役割を果たそうとしている。妃の座を狙っている者は山ほどいるからな、誰かがお前のことを疎ましく思っていてもそれは当然だ。王家への輿入れは、お前がしようとしていることは、それほどに大それたことなのだ」
私はただ、私を喚んでくれたキノアたちのためにこの恋を結ぼうとしていた。別にそれ以上のことは望んでない。
けど、よくよく考えてみれば一番のお妃様の座は一つなのだ。ナンバーワンかつオンリーワンなのだ。その席を取られたらたまらないっていう人たちは、そりゃあ山ほどいるだろう。暗殺者を差し向けたっておかしくはないほどに。
私が何気なくやろうとしていたことは、実は大きな渦を呼び起こそうとしているらしい。
「どうした、怖くなったか?」
黙り込んでいる私の顔を、ヴァイドは面白そうに覗き込んできた。ちょっとムカついたので、きっと顔を上げてまっすぐ睨み返してやる。
「そうだよ、怖いよ。誰かが私に死んでほしいと思ってるなんて、考えただけでぞっとする。けどね、私は約束したんだよ、キノアと、自分と。絶対この恋結んでやるって。ヴァイドには悪いけど、まだ諦めてないんだ。私は私の役目を果たすよ。何たって、これは私の舞台なんだから」
「……そうか」
それだけ言って、ヴァイドはきびすを返した。すぐに後ろを向いてしまったので表情はうかがえない。ただ、声はやっぱり面白そうな響きを帯びていた。
「これからこの塔の警備を増員する。お前は安心して俺の妃になる日を待っていればいい」
「まだ言ってんの? 妃じゃなくて友達だって!」
「お前と同じく、俺もまだ諦めていないのだ。意地の張り合いだな」
「ああー、もう!」
こんな時までいつも通りの彼のおかげでちょっとペースが戻った、とは言わない。口が裂けても言わない。
代わりに、
「……ありがと」
そう小さくつぶやいた。小さすぎて彼には届いていなかったらしく、これといった反応はない。けど、それでいいのだ。
「ともかく、お前は俺が守ってやる。大人しくしていろ」
言い残して、ヴァイドは部屋を出ていった。
荒れた部屋に一人残されて、ふと気づく。
ああ、震えてる。私、ものすごく震えてる。
殺意の切っ先の鋭さに今更ながらに恐怖が沸いてきて、私はしばらくその場にうずくまっていた。