【2】
草木のにおいのする、空を吹き渡る冷たい風。
ごうごうと耳のそばで暴れまわる風は、さっきまでの風とは全然違っていた。
まるで上空数百メートルにいるような……やだな、なんか目開けるのやだな……開けてしまったが最後、ものすごい光景が目の前に現れるような……
けど、いつまでも現実逃避しているわけにもいかなかった。
ホラー映画を見る時のように、うっすらと目を開ける。
……一面に、青空。千切れ雲。地面はどこですか?
「ってほらやっぱりぃぃぃぃぃぃぃ!!」
案の定上空じゃないですか!
まさか、あまりの遠心力にブリキの白馬の支柱が折れて宙に投げ出されたんじゃ――
ヒヒーン! ヒンヒン!
より一層力強くしがみついている首が突如いなないた。
たしかにいなないた。馬の声で。
よく触ってみればしがみついていたはずの冷たいブリキは温かな血の通った本物の馬の首になっていた。更に言えば、空を飛んでいるのも納得の立派な白い翼が生えている。
「ぺ、ぺがさすふぁんたじぃぃぃぃぃぃ!!」
ペガサスだ、リアルペガサスだ、私今ペガサスに乗ってる!
何をどう間違ったのか、ブリキのメリーゴーランドから天空を翔けるペガサスに乗り換えてる!
「ちょっともぉぉぉぉぉぉ何これぇぇぇぇぇぇぇていうか高い高い高い! 高度何万メートル!? 落ちたら死ぬ、絶対死ぬコレ!!」
平凡なモブ人生、初めて死を身近に感じた。こんなファンタジーな感じ方をすることになろうとは夢にも思わなかったけど!
とにかく落ちたら負けだと思って力の限りペガサスの首にしがみつく。けど、しがみつけばしがみつくほどペガサスは暴れた。お尻が浮いて、ずるっと滑る。
あ、落ちる。落ちて死ぬ。
結構あっけなく実感すると、途端に腕が震えて力が抜けた。落下までカウントダウン。
走馬灯が見えてきた――その時だった。
「おい、何やってんだ、こっち来い!」
すぐそば、左側から男の声が聞こえてきた。藁にでもすがりたい気分の私は上空に現れた隣人に視線で助けてコールを送ろうとして、そっちに目を向ける。
…………イケメンだった。
私より少し年上だろうか、やや痩せた長身の、しなやかな印象の男だ。赤い短髪が風になびき、オリーブ色の猫目は厳しくこっちを見ている。柔らかな雰囲気と硬い雰囲気が絶妙に同居した、派手ではないものの陰で人気がありそうな好青年。白いシャツがよく似合う。
受けにでも攻めにでもできそうな、まるでマンガから出てきたかのような素晴らしいイケメンだった。
間違いなく主人公の風格だ。それも正統派ファンタジーの。
今の状況を忘れて見入っていると、青年は手綱をつかみながら、ペガサスにしがみついている私に精一杯腕を伸ばしてきた。
「早くしろ! 死にたいのか!」
「い、いえいえいえいえ、わたくしめモブごときがイケメン様の手を取るなどとそんな!」
いきなりの上空。ペガサス。死の恐怖。突然現れたイケメン。
状況がキャパをオーバーしてワケの分からない発言が飛び出してくる。違うでしょ! 今死にそうになってるこの状況下でイケメンは関係ないでしょ! けど何か躊躇してしまう!
青年も一瞬呆れた顔をして、すぐさま怒鳴るように声を張り上げた。
「何意味の分からんこと言ってる! ああ、もういい! もう知らないからな!」
「あ、やっぱ助けてください! 見捨てないでお願いしますホントもうお願いします!」
「誰が見捨てるって言った!――こうするんだよ!」
懇願すると、青年の乗ったペガサスは私の真下へと回り込んだ。何をするんだろうとハラハラしながら見守っていると、青年は腰にさしていた木の棒を引き抜く。そしてその木の棒で、思いっきり私の乗っているペガサスの腹を突いた。
断末魔みたいないななきを上げ、これまでにないほど大きく跳ねるペガサスの体。当然、私の体は呆気なく宙に投げ出された。
「いやあぁぁぁぁぁぁ落ちるぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
私は死んだ。確実に死んだ。絶対死んだ。
浮遊感の中で諦めながら、再び走馬灯を見ようとしていた時だった。
「落ちねえよ!」
青年の声と共に、ぐいっと制服の襟に負荷がかかる。一旦落ちたところで首根っこをキャッチされたのだと分かるまでに少し時間がかかった。中空でぶらーんとぶら下がって、走馬灯は止まったもののまだ背筋がすうすうする。息をするのも忘れていた。
「よし、捕まえた! 腕つかまってよじ登ってこい!」
しばらく固まっていた私も、死んでないと分かるとすぐに言われるままに震える手で青年の腕につかまった。必死に登る内に青年が引き上げてくれて、何とかペガサスの後部座席に落ち着く。
死の恐怖から解放されて緊張の糸が切れたのか、震えが止まらない。不思議と涙は出なかった。ただ真っ青になってガタガタ体を震わせる。
「おい、背中につかまれ。また落ちるぞ」
「いっ、いひぇっ、そんにゃ、イケメン様相手に畏れ多い……」
「じゃあ別の言い方にする……命令通りにしないとまた落とすぞ」
「やめてやめてやめて! 言う通りにするから落とさないで!」
またしても落下の危機に直面して、大急ぎで青年の背中に縋り付いた。これがイケメン様のぬくもり……なんてしみじみ感じ入るキモい余裕すらない。
ペガサスに同乗しながら無言で空を滑る。青年も何も言わなかった。
それが気遣いなのかそうじゃないのかは分からなかったけど、舌が上手く回らないほど前後不覚になった私にとってはそれがありがたかった。
やがてペガサスは地上へと近づいていった。大きな屋敷と神殿みたいな建物が見えてくる。
地上ではなぜだか大勢の老若男女が待ち構えていて、降りてきた私たちを見上げて歓声を上げていた。何だよ、私が死にそうになったのがそんなに喜ばしいことなのか。
恨めしげにそんなことを考えるけど、状況を見るにどうやら違うらしい。
「おお!」
「恋神様だ!」
「恋神様が降臨なさったぞ!」
「託宣通りだ!」
あからさまな歓迎ムード。どの人も期待に満ち溢れた顔をして私たちが地上に降り立つのを待ち構えている。握手会に登場するアイドルにでもなったような気分。
っていうか、ペガサスとかイケメン様とかを見た時から思ってたんだけど、何このファンタジーな雰囲気は。みんな見慣れない髪と瞳の色をしてるし、服装だって中世ヨーロッパみたいなオールドファッション。ちゃんと言葉が分かるのが違和感バリバリ。
まさかコレって、マンガによくある異世界トリップというヤツなんでは……?
……夢? じゃあ、どこからが夢なんだろう? 遊園地に入ったところから? 今日の授業中居眠りしたところから? それとも朝目覚めて学校に行ったところから?
でも夢にしてはやたら感覚が生々しいし、記憶だってしっかりしてる。空の上で感じた死の予感を伴う落下の感触は、多分ウソじゃない。
じゃあ私は変な移動遊園地のメリーゴーランドに乗って異世界トリップしたってことになる。マンガでよく読んでいたのである意味予習はバッチリ。初心者にして玄人と言っても過言ではない。
ペガサスが地面に到着すると、一層人々の歓声が高まった。青年は先に鞍から降りると、私に手を貸してくれる。ペガサスの尻から飛び降りて、ようやく地面に足をつけることができた。
安心感を覚えるより先に、青年が私の腕を強引に引いて歩き出した。いきなりの連行に文句を言おうとしたけど、場の雰囲気がそれを許してくれない。ざわめく人々の間を縫って、青年はズカズカと私を引っ張ってどこかを目指す。
どこへ連れていかれるのかはすぐに分かった。降りてくる時に見た神殿みたいな建物の方だ。近づくにつれ、清浄な空気が辺りに立ち込めてくる。あれだけ騒いでいた人たちは誰もついてきていなかった。これから行く場所はきっと特別なところなのだろう。
やがて門前に到着すると、青年は大きな扉を開いて神殿の中に入った。私もそれに続く。何だろう、生贄にでもされるんだろうか。一難去ってまた一難。
「おい、連れてきたぞ!」
大きな広間を行く青年が声を上げると、奥の間へと続く薄い布の仕切りが払われ、向こう側から誰か出てくる。
その人物を見て、私は絶句した。
――どこからどう見ても、その男はあの縣書店のお兄さんそのままだったから。
もさもさした黒髪も人懐っこい糸目もそっくりだ。ただ違うのは、着ているものがたっぷりと白い布を使って作られた荘厳な法衣らしきものだっていうことくらい。
「お兄さんっ!」
気が付けば駆け寄っていた。見知らぬ世界でたった一人で死にかけて、とにかく心細くて、そこへ現れた知り合いに取りすがるなという方が無理な話だった。青年の脇をすり抜けてお兄さんの法衣に掴みかかる。
「ちょっと、聞いてよ! 大変だったんだから! 遊園地のメリーゴーランド乗ってて気づけば上空一万メートルのペガサスの上だし落ちて死ぬかと思ったしいきなりイケメン様出てくるしなんか異世界ファンタジーだし知ってる人いないし変なところ連れ込まれるし! っていうかなんでお兄さんこんなとこいるの! そのガンダルフみたいなカッコ何なの! お兄さんも飛ばされてきたの!? どうやったら帰れるの!? なんか魔王的なもの倒せばいいの!?」
「どうぞ落ち着いてください、恋神様」
お兄さんは微笑みながらやんわりと私を引きはがした。声までそっくりなのに、言葉の響きは初対面のそれだ。やたら訳知り顔だし。
なおも追い縋ろうとすると、お兄さんは私を落ち着かせるように肩を叩いて続けた。
「私によく似た誰かとお間違えでしょう。神の世の住人に似ているというのも光栄ですが、残念ながら私は『お兄さん』とやらではありません」
「いや、似てるってレベルじゃないし! そっくりの瓜二つだし! 本人でしょ、ねえ、悪い冗談やめてよ、ただでさえ異世界トリップなんて悪い冗談みたいなことになってるんだから!」
「冗談ではありません。私は神の世に通じ託宣を授かる神官長です。恋神様、貴方をこちらへ召喚し、今日ここへいらっしゃるという託宣を受けてお待ちしておりました」
あくまでお兄さん……いや、神官長は穏やかに淡々としている。どうやら本当に他人の空似らしい。期待していた分、体からガクッと力が抜ける。
っていうか、ますますワケが分からなくなってきた。
かみのよ? こいがみさま? たくせん? しょうかん?
専門用語が多いのは異世界トリップの常とはいえ、何の説明もないとさすがの玄人初心者の私でも混乱する。
「どういうこと? 説明してよ、ワケ分かんない」
「困惑なさるのも当然でしょう。まずは、いきなりお招きしてしまったことをお詫びさせてください。しかし、今私たちには恋神様のお力が必要なのです」
力説された。勢いにちょっと身を引くと、神官長は微笑んで言葉を継いだ。
「順を追ってご説明しましょう。この世ならざる神々が住まう土地、それが貴方がいらっしゃった神の世。貴方は、貴方を祀るこの領地に古くから伝わる書物でそこから召喚された、恋を司る神、恋神様なのです。書物に従い儀式を行えば、今日ここに天馬に乗って降臨なさるという託宣がありました。そこでお迎えに上がったということです」
……ええっと、つまり私のいた世界が神の世で、普通の人間だと思ってたもといた世界の住人はこの異世界の人たちにとっては一律全員神様で、その中でも私はこの辺の土地で信仰されてた神様という立場で、しかも恋を司る恋神様とやらで……
…………えええええええええ!?
「や、そんな、せっかく召喚してもらったところ悪いけど、私別に神様じゃないし! ごくフツーの女子高生だし! 恋を司るとか言われても困るし! どっちかっていうとリアルの恋バナとか得意じゃないし! 百戦恋魔なのは妄想オンリーだし!」
首と両手を横にブンブン振りながら全力否定。テンパりすぎて余計なことまで言ってしまった。
それでも神官長はニコニコしながら容赦なく現実を突きつける。
「いいえ、託宣は絶対です。貴方は恋を結ぶ神。人と人との恋はもちろん、国と国、世界と世界との縁さえ繋ぐ偉大な恋神様なのです。私たちはそのお力を必要としています。どうか、恋神様のお力で縁を繋いでくださいませ」
そう言って、神官長は両の拳を突き合わせるようにして深々とこうべを垂れた。
……どうやら、マジらしい。
どいつもこいつも何もかも、心の底から本気でマジらしい。
私はこれから、恋神様として何らかの恋を成就させなければならない。
そりゃあ、妄想の中だけだったら事実無根のカップルの恋をいくつもいくつも成就させてきた。果ては一生幸せに添い遂げさせてきた。そういう意味では私はものすごく恋愛マスターだ。そこら辺で小さな恋の話に花を咲かせているウブな女子高生とはワケが違う。
けど、それは妄想の話。リアルでの恋愛なんてほとんど経験がない。最後に恋をしたのなんて幼稚園の頃だ。男の人に免疫もないし、ユミオンたちの恋愛話を聞いていてもピンと来ない。実戦経験皆無、訓練だけは優等生の素人兵士だ。
そんな私が誰かの恋を実らせる?
まさか、悪い冗談だ。
「そんな……無理! 絶対無理! 何かの間違い! オファーミス!」
「まあまあ、そうおっしゃらないでください。ちょっとだけですから、ちょちょっと一つ恋を成就させていただければそれで我々満足ですから」
「無理だって! っていうか帰らせてよ! こんな異世界トリップファンタジーは別に望んでないから! マンガの中だけでお腹いっぱいだから! 私は平凡に生きるの、選ばれし者とかそういうの別にいいから! 大体、私には18禁BLゲー腹いっぱいやるっていう夢があるんだから! もうやだ、帰る! 帰ります!」
「――帰らせねえよ」
ヒステリーを起こしかけていると、それまでだんまりを決め込んでいた青年が口を開いた。有無を言わせぬ強い調子だ。ズカズカとこちらへ歩み寄ってくると、威嚇するように腕を組んで私を見下ろしてきた。ちょっと怖気づく。
「俺はここの領主の長子だ。今、どうしても王家との姻戚関係が必要になっている。だからお前を召喚した。いいから黙って恋を結べ」
お姫様と恋愛結婚したいからって、無関係な私を呼びつけたのだ。もうちょっと平身低頭してもいいところなのに、この上から目線。なんかとてもムカつく。
むっとして言い返そうとすると、睨みつけられた。怯んでいる間に更に言い募る青年。
「俺とこの国の王子との恋を成就させて、結婚させろ」
…………え?
…………あれ?
…………聞き間違いじゃなかったら……今、『王子』って言った?
「……王女じゃなくて?」
「現在の王家には王女はいない。王子だ」
「……あの、あなた男、ですよね?」
「見れば分かるだろう。男に決まってる」
「……王子って、もちろん男ですよね?」
「恋神とはいえ頭は残念なのか。王子が女のわけないだろう」
「…………男同士、ですよね?」
「それのどこに問題がある?」
すべてを確認し終えた私は、たまらずその場に膝を突いて頭を抱え、天井を仰いだ。
エンダアアアアアアアアアアアアアイヤアアアアアアアアアアアアウィルオオオオオオオオルェイズラアアアアユウウウウウウウウウウウ!!!
ヤッホォォォォォォォイ!! これってホモ合法な異世界なんだ!
やった! やった! わっしょいわっしょい! ホモ祭だ!! ホモ祭開催だ!! 私大勝利!! 夢だけど夢じゃなかったホモの国!!(五七五)
「……あの、恋神様?」
「はいっ!!」
心配そうに声をかけてきた神官長に、ばね仕掛けの人形みたいな勢いで立ち上がった私は元気よく挙手した。ついでに脳内ではしゃぐ私自身にジャーマンスープレックスホールドをかけて黙らせておく。
「気が変わりましたいいです当分帰りません! はい、帰りませんとも!!」
「それでは、この恋を成就させていただけると?」
「そりゃもちろん! めちゃくちゃ成就させますよ! 任せといてくださいよウフフフウフヒャヒャフフ!!」
「それでよし……にしても、何なんだその突然の張り切りようは……?」
イケメン様が若干引いている。神官長もニコニコしながらもちょっと不審そうだ。
だがもう遅い! 悪いが私は生粋の腐女子だ! 男同士の恋愛の(妄想の中だけだけど)エキスパートだ!
目を爛々と輝かせ、青年の手をガシっと両手で握りしめて宣言する。
「任せて! 絶対にあなたと王子様の恋、実らせてあげるから! ものすごいロマンチックで甘々なとびっきりの恋を! このシチュエーションには覚えがあるから! ちなみにあなたはどちらかというと受け受けしいけど攻めも捨てがたいああでも輿入れなんてシチュエーションだから受けで! ぜひとも受けで!!」
「セメとかウケとかどういう意味なんだ……?」
「気にしないで! ただ突っ込むか突っ込まれるかの違いだから!」
本来は突っ込む突っ込まないだけじゃない深遠なる意味のある区分だけど、詳しく説明し始めると三日間はかかるから省いておこう。
不思議そうな目でこっちを眺める青年を前に、あふれる笑みを押さえきれなくなる。さあ、どういうルートで攻めようか。王子様に求婚するうら若きイケメン様なんてなかなかグッとくるシチュじゃない、ここはひとつ視察の際に悪党に襲われる王子様をサッと助けて見初められるか、いや、お忍びの王子様と悪い遊びをして意気投合その後お互いの立場が判明してギクシャクののちに秘密を共有する快感からズルズルと――
「ともかく。お前はしばらく神殿に住め。身の回りの世話は巫女や神官がしてくれる、分からないことがあれば神官長に聞け。そして――俺には極力関わるな」
握りしめた手を振り払い冷たく告げられた一言に、思わず妄想をストップさせてきょとんとする。
「え、なんで? 私もっとあなたのこと知りたいし……」
「俺はお前のことが嫌いだ、恋神」
キッパリと言い切られた。長いモブ人生、人から好かれたり嫌われたりする経験なんてほとんどなかったから、鈍器で頭を殴られたような衝撃にびっくりする。っていうか、まさか会ってまだ一時間くらいしか経ってないのにいきなり嫌われるなんて……私、何かしたっけ?
混乱する私を前に、青年はびしっと人差し指を突き付けて苦々しい顔をした。
「俺はこんなの望んでないんだ、あんな野郎と結婚だなんて……だから恋神、俺はお前という存在自体が気に食わない」
「そ、それじゃ仕方ないけど……けど、え、なに、別に好きじゃない人と結婚するの?」
「そうだ、すべてはこの領地と領民のために、俺はいけすかない王子と恋に落ちて結婚するんだ」
突き付けていた指を下ろして腰に手をやり、青年は軽くため息をついた。
「この領地、フィルイール領は正直貧しい土地だ。小麦や農作物の収穫も多くはない、特産物や鉱脈があるわけでも交通の要所であるわけでもない、戦争で大きな功績を立てたこともない。アデレンシア王国の中でも存在を忘れ去られたようなちっぽけな領地だ」
滔々と現実を語る青年の表情に陰りが見える。それでも彼は続けた。
「だがな、どれだけちっぽけな領地だろうと、税の取り立てはある。今の王政府は、貧しい土地だからってお目こぼしをするほど甘くはない。有事の際には徴兵もある。現状、アデレンシア王国は国境付近で隣国と小競り合いの最中だ、いつ本格的な戦争が始まるか分からないし、今でも少なくない人手が兵として取り立てられている。今季の収穫すらほとんど税として巻き上げられる」
納税、貧困、戦争。歴史の授業でしか習ったことのない世界がそこにあった。異世界であっても王を戴いている国である以上、民が苦しむ点は同じらしい。
「戦争が始まれば、ただでさえ貴重な男手がごっそりやられる。それと小麦の収穫が重なってみろ、ロクに税も収められない。領地は取り潰される。流民となって他の領地に身を寄せざるを得なくなった民の扱いが分かるか?」
はっきりとは分からなかったけど、青年の口ぶりから察しはついた。けど私なんかが分かるなんて言えずに口をつぐんでいると、彼は暗くなりつつあった表情を正して話を続けた。
「そんな今にも破綻しそうな貧しい領地に必要なのが、王家とのつながりだ。王家の直轄領になれば税も軽減されるし、そうすれば多少は人も流入するから、もし徴兵があっても人手が足りて滞りなく税も収められる。何より、王家と姻戚関係がある領地を簡単に取り潰すことはできないからな、民が路頭に迷う心配もなくなる」
彼はそこまで考えて、好きでもない王子のところへ嫁入りしようとしている。だから私を喚んだ。心から領地と領民を大切にしていなければ、そんなことしようとも思わないだろう。覚悟を決めて、自分の身を売ろうとしているのだ。
彼は彼の境遇の中で、精いっぱいに己の役割を演じようとしている。
そういうところ、やっぱり彼は『主人公』だ。
モブの私なんか及びもつかない、コマ割りの枠線内に立っている人間なんだ。
だから私は、その覚悟に戸惑ってしまう。
「大変なんだ……けど、好きじゃない人と結婚とか、あなたはそれでいいの? 一人だけイヤな思いして他のみんなは幸せに、なんて良くないよ。ただの自己犠牲じゃん、そんなの。あなたはそれで満足かもしれないけど、他のみんなはそんなの望んでな――」
「お前に何が分かる」
私の言葉を遮って、青年は振り上げた拳を私のそばの壁に叩きつけた。思わず体をすくめて、脅すように顔を近づける青年を見上げる。彼は複雑な感情を無理に押し殺したような顔をして口を開いた。
「俺の幸せ? そんなものどうだっていい。全員が幸せになれるような都合のいいやり方が、そう簡単に転がっていてたまるか。他の誰かが不幸せになるっていうのなら、俺が割を食う方がまだマシだ」
彼は割り切ってる。私なんかよりずっと世界の仕組みを知っている。知っていて、その上でその残酷なシステムに我が身を捧げようとしている。他の誰かの幸せのために、生贄の祭壇に上ろうとしている。
その覚悟に口を挟もうとした私がバカだった。恥ずかしいとさえ思った。
「自己満足だと笑って見てるヒマがあれば、黙って俺たちを結婚させる方法を考えろ。そのために喚んだんだ、お前はその役割を果たせ。分かったな」
「……はい」
そこまで言われたら従うことしかできなかった。気圧されてそれ以上何も言えないでいると、青年は私から離れてきびすを返す。本気で私と関わりたくないみたいだ。
離れていく青年の背を見送りながら、そういえばまだ言ってないことがあったと思い出す。
「あのさ!」
「何だ、必要なものややってほしいことがあれば神官長に――」
「そうじゃなくて!」
ちょっと空いてしまった距離を、小走りで詰める。こういうことは近くで目を見て言わないと。駆け寄ってきた私を不思議そうに見下ろす青年に、できる限りの笑顔を浮かべて、
「さっきは助けてくれてありがとう」
青年がいなかったら死んでいたわけだし、ちゃんとお礼は言っておきたかった。嫌われててもそういうところはきちんとしておかないと。
けど、当たり前のように言葉にした感謝に、青年の顔色が見る見るうちに変わる。赤らむ頬を隠すようにそっぽを向き、子供みたいにふて腐れた顔をした。
「べ、別にお前のためなんかじゃないんだからな。せっかく喚んだ恋神だから仕方なく……だから礼なんて言うな、俺はお前が嫌いなんだからな!」
そのあとも何やらブツクサ言い訳めいたものを口にする。顔は赤くなったままだ。
……あ、コレはアレだ、ツンデレだ。テンプレ的なお手本のようなツンデレだ。
ツンデレ属性ということはほぼ受け確定なワケだけど、そうかぁ、ツンデレ受けかぁ……
「なにニヤニヤしてる、やめろ、生暖かい目でこっち見るな!」
「いやぁ、別に? 意外と可愛いとこあるなと思って」
「うるさい! 可愛くない!」
真面目な話をしていたさっきよりプンスカしてる。褒められるとツンツンする、これは結構いじり甲斐があるなぁ。
けどあんまりいじると本格的に怒られそうだったので、その辺にしておいた。
「とにかく、ありがとう。あなたが私のこと嫌いでも、私はあなたのこと嫌いじゃないよ。そういえば、名前は?」
「……キノア。キノア・ライツェルン」
「じゃあキノアって呼ぶね。私はアンリ。できれば恋神様じゃなくてアンリって名前で呼んでくれるとうれしい」
「……覚えとく」
ぶっきら棒に答えると、キノアはチラッとこっちを見た。目が合うとまた急いで視線をそらす。それが面白くて、いつのまにか吹き出してしまった。
「何がおかしい! 笑うな!」
「いや、だって、あはは!」
ツンデレキノアはふくれっ面で視線を合わせてくれない。
『主人公』で、イケメンで、自己犠牲をいとわなくて、領民思いの責任感の強い男で、照れ屋のツンデレで。
……なんだ、結構イイヤツじゃん。
何をすればいいかよく分かんないけど、少しの間、この人のためにこの世界に留まって神様やるのもいいかもしれない。
好きでもない人と結婚するなんてまだモヤモヤするところはあるけど、キノアの覚悟は本物だ。私がいることでその願いが叶えられるっていうのなら、ちょっと異世界トリップファンタジーするくらい何てことない。
「よろしくね、キノア」
片手を差し出すと、キノアは渋々といった顔をしてその手を握り返してくれた。
「……ちょっとだけならよろしくしてやる、アンリ」
言葉とは裏腹に、握手をする手は案外暖かくて力強かった。