【12】
深い眠りから浮上すると、かすかな頭痛がした。眉をしかめながらゆっくりと目を開けていく。あれ、私、昨日キノアを撫でながら先に寝ちゃって……
身じろぎしようとしたら何かに阻まれて手足が動かなかった。どころか、頬には床の感触がある。何というか……縛られて床に転がされてるような感覚?
いや、感覚じゃなくて。実際縛られて床に転がされてる! そこで私の意識は急激に覚醒した。目を開いて状況を確認する。
やっぱり床だった。辺りを見回すと、なんとなく豪華な執務室のようなところにいるのが分かる。そして、私の隣には……
「キノア!」
同じように縛られて転がされて、むすっとした顔をしているキノアがいた。
「何コレ、どうなってんの!? なんで!?」
「落ち着け。多分、宿の女将の手引きだろう。俺もあの後疲れ切って眠って、気づいたらこうだ」
「どうして女将さんが?」
「それは、そこにいるヤツが説明してくれる」
「おや、せっかく『やっとお目覚めですか?』と始めようとしていたところなのに、これでは台無しですね」
突然の第三者の声の闖入に、私は慌てて声の聞こえた方へと視線を向けた。執務室の窓際、大きなデスクについた誰かがこっちを見ている。
優雅に椅子に座ってデスクに肘を突いているのは、長い銀髪を結った紳士だった。三十路前くらいだろうか、優しげな容貌は知的に整っていて、なかなかの美形。ただ、黒い両目は油断なく細められていて、直感的に信用できないヤツだと分かった。仕立てのいい文官らしい服を着ていて、それだけで身分が高いことが知れる。
紳士はゆったりと笑いながら私たちを眺めている。
「……どちら様?」
「失礼、ご挨拶が遅れましたね。私はドライド・フォルト・ヴォルクスと申します。隣国イストアリア王国で宰相をしておりましてね、恋神様に用がありましたのでお連れした次第です。少々手荒にはなりましたが」
「この村の人間全員、イストアリア王国の息がかかってるってワケか」
「村? いえいえ、領主を買収しましたからね、この領土すべてですよ。もっとも、一時的にですが。いやあ、やはり人間、お金が絡むと物分りが良くなる方が多くて助かりますよ」
油断ならない目をしながらクスクスと笑うドライド。
全身からイヤなヤツオーラが漂っている。
けど、これって腹黒ドS攻めじゃね?と変換すればイケないこともない。腐女子はお得だ。
キノアはそうはいかないのか、さっきからじっとドライドを睨んでいる。
「ああ、貴方方の自己紹介は必要ありませんよ。キノア・ライツェルン氏と恋神様。よぅく、存じ上げています」
蛇みたいな視線に撫でまわされてぞくっとする。ああ、もしかして。
「まさか、暗殺者を送り込んできたのも?」
恐る恐る尋ねてみると、ドライドは爽やかな笑みを浮かべてうなずいた。
「はい、私です。もっとも、最初は殺してしまおうと思っていたのですが、そういえば利用する手もあるなと思い立ち、ここへお招きした次第です」
「暗殺者って、アンリ、お前……!」
「ヴァイドのところにいた時に、ちょっとね」
なぜ送り込んできたのかは分かっている。キノアとヴァイドの婚姻を望んでいないからだ。だから、その手助けをしようとしている私を疎ましがっている。ヴァイドが言っていたように、私がしようとしていることはそれくらい重大なことなのだ。
私が思惑をしっかりと理解していることに気を良くしたのか、ドライドはニッコリと張り付けたような表情をしてまたうなずいた。
「もうお察しいただけているとは思いますが……邪魔なのですよ、貴方方は」
不思議と悪意は感じられない。それは、この男が政略だけで動いているからだろう。そこに個人的な感情が挟まれる余地はない。
ドライドは椅子から立ち上がり、デスクを迂回して私たちの目の前にやってきた。床に這いつくばって見上げているせいか、やたらと背が高く感じられる。彼はそのまま身振り手振りを加えてやや芝居がかった調子で語り始めた。
「アデレンシア王国の王子の妃という地位の重要性をまったく理解していない。その座は、田舎領主が領民のために、だなんてくだらない理由で手にしていいものではありません」
「くだらないだと……?」
「ええ、まったくもってくだらないですね」
悔しげにうめくキノアの声にかぶせるようにドライドが断じる。
「我が国イストアリア王国の王は、こう言っては難ですが能無しでしてね。毎日毎日贅沢三昧、ロクに政治も顧みず、いかに肥え太るかばかりを考える王族ばかりで、民は苦しんでいます。ですがその中でもマシな王族というのもおりましてね、私はその人物に王座を簒奪していただこうと、『手柄』を用意しようとしているのですよ」
「『手柄』……それが、ヴァイドとの婚姻関係ってこと?」
「ええ、物分りが良くて助かります。大国アデレンシアと婚姻関係を結んでいる王族というのは、それだけで格段に王位継承というレースにおいて優遇されます。私はね、その手札をお膳立てしようとしています。今どうしてもアデレンシア王室との国交が必要なのは、私たちも同じなのですよ」
「そのために、暗殺や誘拐だなんて汚い手を使ってでも?」
私が苦い口調で問いかけると、ドライドは一瞬だけ笑みを消した。瞳の中に宿る光だけがやけに目を引く。
それは、まぎれもなくキノアやヴァイドと同じ、『主人公の覚悟』の光だった。
「他ならぬ私が手を汚さなくてはならないのです。国のために、誰かが汚れ役を引き受けなくてはならない。それを私が買って出た、ただそれだけの話です」
ドライドもまた、自分の役割を果たそうとしている。どれだけ汚れても、誰かのために、何かのために最善を尽くそうとしている。形は違っても、彼もまた主人公なのだ。
ドライドはすぐに笑顔を取り戻した。蛇のような隙のない眼差しは同じだけど。それから私の前にしゃがみこんで、ゆっくりと頬を撫でた。冷たい指先に背筋が粟立つ。
「恋神の力は国交の兵器となると言っても過言ではない。貴方の力は国と国とをも結ぶ。それくらい強大な力なのですよ……さて、一国の国民と一領地の領民、どちらが優先されるべきかはお分かりですよね? ならばどうかふさわしい場所で貴方のお力をお使いください、恋神様」
「やだ!」
するっと口から出て来た言葉は、子供の駄々のように格好の付かない拒絶だった。それでもその力強さに気おされたのか、ドライドは目を細めて頬から手を引いた。その隙を突いて、私は言いたいことを洗いざらいぶちまける。
「こういうやり方、気に食わない! 邪魔だからって殺そうとして、今度は利用したいからって脅しつけて! 大体ね、キノアの願いは絶対にくだらなくない! 数じゃないんだよ、救いたいって気持ちは! 大家族だろうと核家族だろうと、家族の大切さは変わらないでしょ!」
見る見るうちにドライドの表情から温度が消えていって、つられてこっちも冷や冷やしてくる。それでも私は言ってやった。
「私は決めてるの、キノアをヴァイドのお妃様にするって! キノアの覚悟に惚れ込んだの! だから、やだ! あんたの思い通りにはならないから!」
息を乱して荒ぶって、我ながらなかなか見事な啖呵を切る。
それを見て、ドライドは――ふふ、と笑った。
冷たく冴え冴えとした笑みに、体温が一気に下がる。この男は諦めるつもりはないらしい。
「ほう、分かりました。では、あまり好みではないのですが手荒な手段に出ることにしましょう」
イヤな予感が加速する。手荒な手段って……ドライドは笑顔のまま続ける。
「さて、恋神様自身が辛い目に遭うのと、キノアさんが辛い目に遭うのと、どちらがお好みですか?」
うぐ、腹黒ドSめ……! 不覚にもちょっと震えが止まらなくなっちゃったじゃん……!
どっちとも答えられなくて、私はただドライドを睨みあげることしかできなかった。