【11】
誰にも見つかることなく王都を抜け、私たちはしばしの夜間飛行に入った。たなびく雲の合間から覗く月が近い。私はキノアの背中にしがみつきながら、ただぼんやりと月の明かりを眺めていた。
やがて朝日が昇り始めるころ、ペガサスは眼下の村へと降りて行った。山の端から差し込む朝日に照らされた小麦畑や牧草地が上空から見える。この領地は王都から近いこともあって、フィルイール領よりは豊からしい。
早朝の村にはまばらにしか人がいなかった。降り立った私たちを、早起きの家畜番がぽかんと見つめている。ペガサスから降りたキノアはその家畜番に小銭を握らせると、宿屋までの案内を頼んだ。家畜番は快く承諾して、私たちを旅人だと判断したんだろう、世間話をしながら宿屋まで連れて行ってくれた。
さて、これからどうしようか。逃げ出してきたはいいけど、ヴァイドが追いかけてこないとも限らないし、暗殺者のこともある。このままフィルイール領に直接帰るのはちょっと危ないかもしれない。この村で少しほとぼりをさまそうか。
そうやってキノアと相談している内に、家畜番と私たちは民家みたいな宿屋に到着した。扉を開けると、朝の準備をしているらしい女将さんが出迎えてくれる。
「二部屋取りたいんだが」
キノアが言うと、女将さんは困った顔をして頭を下げた。
「ごめんなさいね、うちは小さい宿屋だから、部屋が一つしかないの。旅人さんたち、ご夫婦でしょ? 一室で我慢してもらえないかしら」
「ふ……!」
いきなり放たれた破壊力抜群の一言に、キノアが目を丸くする。いえいえいえいえいえ、こんなイケメン様と夫婦だなんてそんな畏れ多い! 一生懸命首を横に振っていると、キノアが何とか二部屋確保できないかと食い下がった。しかし女将さんも頑として譲らず、結局一部屋に二人で収まることになった。
二階に案内されて、鍵を渡されて、『ごゆっくり』と扉を閉められる。密室に二人っきりで取り残されて、私たちはしばらく無言で突っ立っていた。
「…………いいか、これは緊急事態だ。やましいことなんか何も」
「へえ、結構ベッド広いね。けど、しばらく王宮のベッドに慣れてたから転げ落ちるかも」
夜間飛行で疲れ切っていたので真っ先にベッドをチェックする。シーツは清潔だしスプリングも死んでない。数日間ここで過ごすんだから寝る場所のチェックは欠かせない。
続いていそいそと洗面所のチェックをしに行く私に、キノアは深々とため息をついて額に手をやった。
「お前……分かってるのか?」
「何が?」
サッパリだ。あ、そうか、王宮からの追手とか暗殺者とか、そういうのがあるんだからもっと緊張感を持てってことか。私が口を開きかけると、キノアが先に言った。
「男女が同じ部屋で同衾するんだぞ?」
「男女……男女……それって、キノアと私のこと?」
「他に誰がいる?」
ちょっとイラついた声で言われたことを、頭の中で反芻する。ええと、男女が同衾……それって……
ピコーン!と閃いたので、私は急いで首を横に振った。
「襲わないから!」
「普通逆だろ!」
「いやいやいや、イケメン受け様にモブ腐女子が手を出すとか、それはありえないから! 大丈夫! っていうかその白い柔肌を見られるのは攻めだけだから!」
「お前女として何か間違ってるぞ! 色々と!」
「女の子である前に腐女子ですから! それ以前にモブですから!」
頑として宣言すると、キノアはより深いため息をついて肩を落とした。何か知らないけど勝ったらしい。
「ともかく。俺は絶対に妙な過ちは犯さないからな。だから、安心しろ」
過ちも何も、キノアは受けでしょ? モブ腐女子が何を不安がるの?
心底不思議に思っていると、やがて部屋の扉がノックされた。キノアが出ると、女将さんが体を拭く用の暖かいお湯とタオル、それから簡単な朝食を持ってきてくれていた。田舎の民宿ってこういうアットホームな心遣いが嬉しい。キノアがお礼を言って女将さんは去っていく。
「先に湯を使え。俺はあとでいい」
お湯の入ったタライとタオルを手渡されて、私は力強くうなずいた。
「大丈夫、あとから覗いたりしないから!」
「いいからとっとと洗面所へ行け!」
どやされた。何が悪かったのか分からないまま、私はお湯とタオルを持って洗面所へ行く。服を脱いで体を拭いて、さっぱりした気分になったところでまた同じ服を着る。洗面所から出てキノアと交代すると、私は朝食が用意されたテーブルに座った。
同じように体を拭いて出て来たキノアと一緒にパンとスープの質素な朝食を取って、お茶を飲みながらこれからのことを相談する。とりあえず数日の間ここに滞在して、ほとぼりが冷めたころにフィルイール領に戻ろうということになった。明日にでも留守番しているフィルケに伝書鳩を飛ばすそうだ。
それから色々と王宮での出来事の話をしていたら、いつの間にか日が暮れていた。女将さんが持ってきてくれたパンとシチューとオムレツの夕食を食べると、疲れがどっと出てきて急に眠たくなってきた。少し早いけど今夜はもう眠ろう。
着替えがないので服はそのままにベッドに潜り込む。キノアはしばらく躊躇してたけど、ようやく腹をくくったのか隣にあけてあった一人分のスペースにそっと入ってきた。だから襲わないって、心配性だな。
カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。静かな夜だ。
こんな夜は何だか不安になって、少しでもおしゃべりがしたくなる。
「……ねえ、キノア」
「なっ、何だ!? 別に緊張して眠れないとかはないからな!」
隣からガチガチに固い声が返ってきた。襲いませんって。信用ないな私。
「それなら良かった。いや、ちょっとさ、こういうのって修学旅行っぽいじゃん? だから何か語りたくなって」
「しゅうがくりょこう? 旅の一種か?」
「そう。私たちの世界の学校で、クラスメイト達と一緒に旅行するの。先生の監視厳しくてさ、それをかいくぐって夜中に騒ぐのが楽しいんだよね。旅だし、お互いのこともっと知りたくなるし。そういうのってない?」
「お互いのこと、か」
仰向けに寝転んでいる私の隣で、背中を向けていたキノアがぼそりとつぶやいた。それは同意の響きを含んでいて、語れ、と促しているように聞こえる。お言葉に甘えて、私はつらつらと語り出した。
「ほら、私、自分のこと主人公になれないって言ってたじゃん。キノアもヴァイドも、そんなことない、自分の人生の主人公は自分しかいないって言ってくれたけど、やっぱり私は主人公の器じゃないと思うんだよね……昔、自分がモブだって思い知らされたことがあったんだ」
思い出す、幼い日の出来事。キノアは相槌も打たずに聞いているのかいないのか、背中を向けたままだ。
「今じゃ立派な腐女子だけど、小さいころは人並みに好きな男子とかいてさ。毎日幼稚園が終わったあと公園で一緒に遊んでたんだ。すごく仲良くなって、どんどん好きになった。きっとその子も私のこと好きになってくれるんだろうな、私は恋物語の主人公になれるんだろうなって毎日ワクワクしてた」
今でも覚えてる、夏の暑い公園。ジャングルジムで競争したり、ブランコを一緒に漕いだり。他の幼稚園の子だったのであだ名しか知らなかったけど、私はたしかにその子が好きだった。
その子が好きな私は、たしかに世界の中心にいた。
「それでね、ある日その子の幼稚園の友達が公園に遊びに来たの。そしたら当然、そいつ誰?ってなるよね。その子は言ったの、『知らない人』って……もうね、その瞬間、私は世界の中心から引き摺り下ろされて、その他大勢の群の中に放り込まれたの。友達と一緒にどこかへ行っちゃうその子の背中を見ながら、ああ、私は名前も覚えてもらえない、記憶に残す価値もない、ただの『知らない人』なんだなって実感したんだ。涙も出なくて、ただ『そうであること』を思い知った」
モブは世界の中心にいちゃいけないんだってしみじみ思った。恋なんてもってのほかだ。そうやって私はその他大勢の中に埋もれることを選んだ。
子供の他愛ない思い出話と言えばそうだけど、あの出来事が今の私を決定づけたのだ。
話が湿っぽくなってきたので、無理矢理声のトーンを笑い話用に作り替えて続ける。
「けどね、いいこともあったよ。その子と友達が楽しそうにどこかへ行っちゃうのを見てさ、あれ、男同士っていいよね、その子も友達もカッコいいし、二人でくっついちゃったらものすごく幸せになれるんじゃないかなって思ったんだ。私が男同士の恋愛が好きなのはきっとそのせいだな」
もう二人なんかくっついちゃえばいいのに、私を置き去りにしてさ。
そんな諦めというか、ふて腐れた思いが、今の私の腐女子としての原動力になっているような気がする。
言ってみれば、はた迷惑なやっかみだ。
自嘲気味に笑っていると、背中を向けたままのキノアがぽつりとつぶやいた。
「それでも。誰がお前を覚えていなくても。お前だけはお前自身を忘れるな」
やめてよ、そんなフォローしないで。気まずくなるじゃん。更なるモブエピソードを面白おかしく語ろうとしていた私の言葉を遮るように、キノアは静かに続けた。
「お前がお前自身を忘れなければ、それはきっといつか、お前の軸になってくれる。まっすぐ立って人生の主人公を演じるための軸に。大舞台から遠く離れた誰も観客のいない小さな舞台でも、それがお前の人生だ。無理に観客を呼ばなくていい、最後まで演じ続ければそれでいい」
「……キノア」
「それに、少なくとも観客ならここにいる。俺はお前を忘れない。『知らない人』なんて言ったりしない。アンリという人間の舞台を、俺はずっと見守ってる」
「……そっか、ありがと」
何だか胸がくすぐったくて、それでいてあったかくなってきた。くしゃっと崩れた笑みを浮かべて、私は背中を向けるキノアの頭に手を伸ばす。柔らかな髪を撫でると、キノアは一瞬びくっと体を震わせてから、布団の中で体を丸めて息をついた。
「ごめん、イヤだった?」
「別に。思い出しただけだ。昔はこうして頭を撫でてくれた人がいた」
今度はキノアが昔語りを始めた。私が聞く番だ。ポンポンと頭を撫でながら、
「それってあのラズロおじさん?」
「いや、母だ。もう十年以上前に亡くなったけどな」
そうか、道理で。お母さんの姿が屋敷の中にないと思ったら、やっぱりもう亡くなってたのか。何て声をかけていいか分からず、私は頭を撫でる手を止めた。それでもキノアは続ける。
「何かするたびに、偉い偉いと頭を撫でて褒めてくれた。フィルケと遊んでやって偉い、文字を覚えて頑張ったね、領民の手伝いをして良い子だと。父は年中視察に出ていて不在がちだし、厳しい人であまり褒められたことはなくてな。俺にとって、俺の頑張りを認めてくれるのは母だけだった」
優しいお母さんだったんだろう。小さかったとはいえ、こんなに強がりのキノアがよりどころにするくらいだから。つられて私もうちのお母さんのことを思いだしてしまった。そういえば、私も小さいころはお母さんに褒めてもらうのが嬉しかった。口うるさいけど優しいお母さん。急に元の世界に帰りたくなった。
「思えば俺は、母に甘えていたんだ。褒めてもらうために頑張っていた。けど、いつまでもそんなことが続くはずがなかった。母は病で死んで、俺は俺を褒めてくれる人を失った。それからは、次頑張るために今頑張る、その繰り返しだ。目標もなくただがむしゃらになることが当たり前だと思うようになった」
お母さんというよりどころを失ったキノアは、一人で立っていかなければならなくなった。誰からも褒められなくても当たり前のように頑張ることを強いられた。
キノアは更に体を丸め、胎児のような格好で小さく言葉を継ぐ。
「……しんどかった。けど、いつまでも子供のままで甘えてはいられないんだ。俺は俺の人生という舞台の主人公を張るために、まっすぐ立っていなければいけない。どんな理不尽な運命に打ちのめされようとも、膝を折らずに立ち向かっていかなければならない。それが俺の責務だから」
一人っきりで頑張る。だって、主人公は舞台の上に一人しかいないんだから。
ヴァイドといい、やっぱり主人公っていうのは孤独なものだ。
かける言葉が見つからないのは相変わらずだけど、私はまたキノアの頭をゆっくりと撫でた。そうしていると、次第に言葉が浮かんでくる。
「けど、私があの時頑張ってるって言って、キノアはうれしかったんでしょ?」
「……それは、そうだが」
「じゃあ、私は褒めるよ。誰が褒めなくても、私が褒めてあげる」
キノアが私を忘れないでいてくれるなら、私もキノアのことを褒めよう。
一人で立っていたら、折れた時に立ち直れなくなる。
主人公は舞台の上に一人きりだけど、脇役がいたっていいじゃないか。こういう時にモブは役に立つんだから、その他大勢なりに彼の脇役になろう。
キノアはやっぱりこっちに顔を向けてくれない。どんな表情をしているのか分からないまま、声だけで感情を計る。
「……弱音、吐いていいか?」
少し震える声音で問うキノアに、私は返事の代わりに頭をポンと撫でた。
長い沈黙の後、キノアは重いため息のように言葉を吐く。
「……しんどい。辛い……一人で頑張るのは、苦しい」
「大丈夫だよ、キノアは頑張ってる。私がそれを認めてあげる。ほら、キノアの舞台だって観客はいるんだよ。私なんかよりたくさん。きっとみんな、言葉に出さないだけでキノアのこと認めてくれてるよ。だから、脇役がいるってこと忘れないでね」
髪をわしゃわしゃすると、キノアはくすぐったそうに身じろぎした。
まるで猫みたいだ。ほほえましい気持ちでなごんでいると、段々と眠気がやってきた。
「……大丈夫、キノアは大丈夫……だからね……」
うわごとのようにつぶやきながら、私は眠気に身を任せた。
眠りに落ちる直前、キノアがやっとこっちを向いてくれたような気がしたけど、それを確認するより先に、私の意識は闇へと落ちていった。
どうか、キノアが私の隣で安心して眠れますように、と祈りながら。




