case 03 トンネルの向こうの俺の世界
誠は息を飲む。
彼が入ったのは、四畳半よりは少し狭い、と思える白い円筒形の空間で、壁一面には、ピンポン玉ほどの大きさの黒い球体が、等間隔で埋め込まれていた。
もはや、冗談を言う余裕も相手もない。
誠は目をつぶり、深呼吸をする。静寂を破ったのは、ポーン、というアナウンスの合図だ。
『この度は、ご入学おめでとうございます。これより指示を出します。必ず指示に従い、行動してください。
まず、学園指定の『入学時軽装』に着替えてください。
それ以外の装身具。ピアス、指輪などは外してください。
眼鏡は、装着したままで、構いません。
医療器具などを装着している場合は、事前に学園に相談している場合、そのまま装着していて構いません。
連絡をしていない場合、或いは、連絡が不十分、だとお考えの場合、壁の青いマークに手を入れて、中のレバーをおさげください。係員がすぐに駆け付けます。
その必要がないのであれば、学生証明端末をお手に取り、ご準備ください。
なお、具合が悪くなった場合。先ほど説明した壁の青いマークに手を入れて、中のレバーをおさげください。この場合も、係員がすぐに駆け付けます』
すると、壁の一部が長方形に浮き上がり、横にスライドし、荷物と着衣をしまう収納スペースが現れた。
その脇には、丸い青地に白の文字で『緊急時レバー』と書かれた標識がある。
壁に直接書かれているのではない。あの矢印のように、壁から指二本分離れた位置で浮かんでいる。
そんな標識の向こうに、薄っすらとレバーが見えた。
しかし、誠はそれに注目することなく、上着を脱ぎ、収納スペースにあったハンガーラックに衣類を押かけると、靴も靴下もズボンも脱いで、上下とも、スポーツインナーのような服装となった。
これら一連の手順は、事前に連絡されていた。よって、別段慌てることも、戸惑うこともなかった。
偽スマホ、もとい、学生証明端末のことも忘れず手に持つ。
『準備ができましたら、次は、床に示された、赤い円の中へお入りください』
収納スペースの扉を閉めると、壁と同化する。
床を見ると、アナウンス通り、床の中心に、赤い円が浮き上がっている。
円の中には、ご丁寧に、足を置くマークまで描かれており、誠は、それを踏みつけて、足を並べた。
そして、次にアナウンスが語った言葉は、些か奇妙に思えた。
『学生証明端末を取り出したら、なるべく素手で学生証明端末を握ってください。
その際、片方でも構いませんし、両手で持っていてもかまいません。
持つ事ができたら、今から、学生証明端末を起動準備に移行させます。指示があるまで、絶対に端末を離さないでください。
工程を開始する直前、カウントダウンを十から開始します。
何か不都合や、指示に従えない状況になった、と判断した場合。壁の青いマークに手を入れて、中のレバーをおさげください。係員がすぐに駆け付けます。
それでは、カウントダウンを開始します。端末を放さないでください。十、九、八、七…』
誠は端末を右手で掴む。心臓の鼓動が強まる。発せられる数字が減少していく。
『三、二、一…工程を開始します』
アナウンスが告げた、次の瞬間、持っていた端末が小刻みに震えだした。
端末を持つ誠の手に力がこもると、今度は、端末を持つ右手自体に圧力が加わる。
まるで、見えない手で、端末を落とさないよう自分の手を包まれるような、あるいは、包帯で右手を縛られたような、そんな感覚が襲う。
さらに、端末の画面が薄紫色に光りだした。
何が起こっているのか、誠には、まったく分からず、アナウンスの指示通り、端末を落とさないよう必死に握ることしか出来ない。一方で、端末は震えを強めていく。
アナウンスが『端末をしっかり握ってください』と告げる。
激しく振動する端末が手から逃げるのでは、と、焦りを覚える誠。そうならなくても、何か予期せぬことが起こる。そう直感した。
その時、誠の瞳に青い燐光が浮き上がる。それは、細い渦となって回り始め、やがて黒目の縁を囲む青い円環に変わった。
蒼い円環の端からは、青い筋が幾本も生じ、誠の頬を涙の様に伝い、首筋を通って、右肩に流れ、着衣の下を潜る。その後、短い袖口から現れた青い筋は、枝分かれしながら右腕の表面を突き進み、右手にまで伸びていく。
右手に広がる青い筋は、血管の様に描かれ、握られていた端末の表面に根を下ろした。
青い筋に浸食される端末は、逃れようとしているのか、一層激しく振動して、誠の右手の中で藻掻きだす。
すると、端末に絡んだ青い筋が、先端の方から少しずつ、崩れていく。
まるで、植物が、萎びて枯れていくかのように見えたが、端末の表面に残った青い筋は、新たに分岐して、成長を続けた。
震える端末。青い筋は朽ちては成長を繰り返すが、一本、また一本と、筋が途切れて消えていく。その最中、端末から、青い火花が飛び、青い湯気が立ち昇る。
誠が握りしめる中、端末は段々と熱を発する。まとわりついた光の筋が、半分ほど消えた。
直後、荒ぶっていた端末がその動きを、ぴたり、と停止させた。
誠の右手に加わった圧力も霧散していく。熱の上昇も止まり、煙も火花も消沈する。
青い筋も、端末から退き、徐々に誠の右手を伝って、腕から頬を遡り、瞳に灯る青い環へ吸い込まれる。
次に誠が瞬きをすると、瞳に浮かんでいた青い円環は、消失した。
『起動準備完了。学生証明端末から手をお放しください』
一方的なアナウンスにうんざりしながらも、指示に従うため、どこかに端末を置こうと周りを見たが、何かを置けるような棚も出っ張りも見当たらない。
床に置こうか、と思った。そのとき。端末を持つ右手に奇妙な感覚が生まれた。
それは、壁に手をかけたような、動きそうにないものを引っ張るような感覚。
その感覚に誘われるまま、思わず、端末から、手を離す。
端末に支えはない。そのままだと、床に……落ちなかった。
端末は、右手に収まった角度で、誠の胸くらいの高さで、空中に固定されていた。
それだけでも驚嘆に値するが、浮遊する端末は、なんと、上昇を始める。
胸くらいの高さから、首元を超え、まだ上がっていく端末を、誠は、ただ目で追うことしかできない。見上げる高さまで昇り詰めると、端末は静止した。
『これから、学生証明端末とあなたの個人データを同期させます。暗くなります。ご注意ください』
すると今度は、白い空間が暗転した。誠が驚く間もなく。薄暗闇で、なにかが蠢き、それがカメラのようなものだと、誠が推理したところで、アナウンスが告げる。
『これからスキャニングを開始します。目を閉じてください。指示があるまで、絶対に目を開けないでください。失明の恐れがあります。指示があるまで、絶対に目を開けないでください。そして、なるべく動かないようにしてください』
すぐに目を閉じる誠。彼の体の表面に、緑色の光でグリッド線が描かれた。
結果、彼の全体の輪郭が暗闇に浮き上がる。
さらに、壁一面の黒い半球体から赤いレーザーが照射され、誠の体表面を隙間なく照射する。
この間、誠は命ぜられるまま動かず、目をつむっていた。
やがて、レーザー光は数を消し、グリット線も薄らいで、すべてが闇に消える。
室内も、明かりを取り戻し、元の白い部屋に戻った。
『スキャニングを終わります。目を開けてください』
目を開ける誠。瞳孔が収縮し、目の奥に痛みにも似た感覚が訪れる。
それも消えると、部屋の明るさに安堵した。
『それでは、最後に学生証明端末をご覧ください』
誠は宙に浮かぶ端末を見上げる。驚いたことに、端末の画面は白く光っていた。
その画面を中心に、機体表面が波打ち、脈動していた。
ゆっくりと下降する端末。誠は顔と同じくらいの高さになった端末を思わず手に取り、眺める。
脈動していると思ったのは、画面を除く端末の表面の色合いが揺らめいていたからだ。
すると今度は、画面の白色が薄らいで、映像が浮き上がる。それは、今まさに端末を見つめる誠の顔だった。
『画面に自分の顔が正面に映るよう、学生証明端末のカメラをむけてください』
誠は、指示通り、画面に自分の顔の正面が映るよう、端末を傾ける。
腕を伸ばしたり、足を曲げたり、頭を傾けたり、試行錯誤の末、顔の正面が画面に映った。
すると、端末がそこで固定される。まるで、見えない糸で引っ張られたような気がした。
部屋中に、カシャ、という聞き慣れた音が響く。
『これにて、すべての工程は完了しました。ありがとうございました。学生証明端末を手に取り。着替えて退室してください』
収納スペースの扉が開く。
端末をどうすればいいのか戸惑う。誠は意を決して、空中に固定された端末を手に取り、軽く引っ張った。
端末の端々で青白い火花が飛び散ると、それが糸の様に真っ直ぐな残像を残す。
目に見えない糸は、比喩などではなかったようだ。
服を着て、靴下を履き、靴を履き、元の姿に戻った誠。
壁には、『着替えが済み、退室する場合、ここに手を入れてください』という、空中表示が出ていた。
さっそく、壁際に浮かぶ輪の標識に手を入れる。
輪は手を入れたとたん、二重の同心円に分裂して、回り始め、その上に『オープン』の文字が浮かぶ。
壁ごと輪の標識が、横にスライドする。
誠の前に現れた空間は、白い床に、黒いアーチのトンネル。その向こうに光が見えた。
周りを見ると、隣り合うほかの扉から人が出てくる。
トンネルの奥には、あの苦行を一足先に終わらせた人々が進んでいた。
誠もこの先に行きたいが、しばらくここで歩みを止め、数分待つ。
ドアが横にスライドすると、中から出てきたのは、礼人。その姿には、疲労の色が見て取れる。
「よっ」
聞き覚えのある声に呼びかけられた礼人が顔を上げると、誠が近づいてきた。
「お疲れ」と誠は礼人をねぎらう。
礼人は、ゆらゆらとトランクを引く。
「なんか…すごかったよ……」
「ほんと、すごかったな、あれ」と誠は答える。
二人は並ぶと、トンネルを歩き始めた。
トンネルは、床一面が照明になっているようで、暗くはないし、眩しくもなかった。
だが、さっきの後で、青空が恋しい。
「このあと、どうなるんだろうね」礼人が不穏なことを口にする。
「あれを超える衝撃は、もうないだろう……そう願いたい……」誠はやつれた笑みを浮かべた。
二人に限らず、誰にとっても、あの室内での出来事はすさまじく感じたようで、トンネルを行く人全てが、疲れ切っているように見えた。
中には、泣いている女性もいて、誰かが、その肩を撫でている。
更に、誠たちの後方、つまり、あの白い部屋から、係員と思われる白い作業着姿の男性が入学生と思われる少年を抱えて走ってきた。
周りはその様子を見送る。礼人は口を開いた。
「事前に手続きをするって言ってたけど、あんな無茶苦茶なやりかた。倫理的にも、健康的にも、問題ないのかな?」
その疑問はもっともだ、と誠は思った。
「まあ、あれぐらいして、俺たちを守るってことの裏返し……なのか?」
「だと信じたいね……あ、そうだ。スマホ、というか、学校からもらったこれ」
ため息交じりの会話をしていると、礼人が歩きながら、あの端末を取り出す。
見ると、彼の端末の表面も、波打っているように見えた。
「これ何なんだろうね?」と礼人は不思議そうに聞く。
聞かれた誠も「さあ…」としか言いようがなく。お互いに脈動する端末を見せ合い比較する。
「めちゃくちゃ振動しなかった?」と誠が聞くと
「うん、手に持ってください、って言われた後、ものすごく震えだした」
礼人は思い出したように言う。
「ああ、俺も、火花とか出てさ…」
「えっ!火花?!」と礼人は驚いた様に聞いた。
「うん、本当にびっくりしたわ、爆発すると思ったもん」
「へぇ、僕は火花とか出なかったけど……で、そのあと空中に飛んで…」
「失明の恐れが、とか言われて…」誠は視線を逸らす。
「そう、何されるんだろうって思った……」礼人は俯く。
「あれ、怪我人とか、出るんじゃないのか?というか…さっき運ばれたのって……」
誠は抱えられた少年のぐったりとした顔を思い出す。
興奮と寒気を交えながら、共通の思い出話に花を咲かせていた誠と礼人。
次第に、前方から差し込む光に、色が滲み始める。トンネルの出口が、もう目の前に迫っていた。
これまでの苦労が報われるときが来たのか。それとも、いままで以上の苦労が待ち受けているのか。
ここに来る前は、そんな考えが何度も頭をよぎった。
だが、その杞憂かどうか分からない思いは、青空のもとに広がる世界を目の当たりにした瞬間、かき消される。
家から出て、ここまで来るのに、半日もたっていない。それなのに、長い時間を費やしたように思えた。
トンネルの出口から伸びる。長くて広い道。
その先に、山の頂上に塔を刺したような巨大建築物が聳え立つ。
待ち焦がれた場所『明現学園』の校舎だ。
それ以外にも、高層の建物群が、視界の左側、はるか遠くに並ぶ。
見た目から、おそらくマンションやビルの類だろう。
近い場所、遠い場所の至る所に緑が見える。
広場に見えるあれは公園だろうか?今いるところは、高い位置であるため、より広域が見える。
潮の香りもする。海が近い、この学園は、伊豆半島の先端を埋め尽くしていた。
「ここが、俺たちの楽園か……」
誠も礼人も、顔から憔悴は消え、期待と興奮に、笑顔を浮かべる。
未来はどこに向かうか分からない。それでも、今は、悪いものにはなりえない、そう思えた。