case 01 天使とだれか
気が付くと、周りの静けさに心細さを覚えた。
と言っても、車内には、走行音が微かに流れている。それでも、寂しい気持ちは、拭えない。
ずっと前から、人の出入りを無意識にカウントして居た。
だから、今現在、車内に人が少ないことは感覚的にわかった。
知る人も、話す相手もいない状況では、人の気配がない事を漠然と捉えているのと、しっかりと認識するのとでは、湧き上がる印象と感情が違う。
寒々しさ、とも言うべきか、孤独感に近い思いが、微かに去来し、胸の奥に重くわだかまる。
現在の時刻は、二〇一七年 四月 某日 日曜日 午前8時半ごろ。
今いるのは、どこかの地下を走行するリニアの車両の一つ。
リニアとは何か?
正式名称は、リニア新幹線とか、リニアモーターカーと呼ばれている。
リニアモーターカーとは、いわば、浮かんで走行する新幹線だ。それ以上の事は、俺は、何も知らない。
縦20メートル以上、幅3メートルほどの車両の内装は、新幹線を乗ったか、見たことのある人からすれば、それとほぼ同一。
白を基調にした内壁。中央に通路が通り、その左右に座席が二つずつ並んでいる。
その席の一つ、車両の進む方を向いて、左側、進む方向から数えて四列目の窓側の席に俺は座る。
青を基調とした色彩の座面は、ふかふかのクッション。そこに座ってから、二十分以上は、経っていた。
乗車したときは、60程の座席が満員だった。
スーツ姿の人、山ボーイに山ガール。親子連れ。
泣き叫ぶ赤子は、戸惑う若いお母さんにあやされていた。
すると、通路を挟んで隣に席に座っていた、おかっぱ頭で、目元に隈が浮かんだ気力のなさそうな青年が、変顔や裏声を駆使して、上手に赤ちゃんを泣き止ませた。そんな一幕を思い出す。
あの時、感謝のお辞儀を繰り返していた若いお母さんの姿は、あと三日間は、忘れないだろう。
そう考えると、少し前までは、にぎやかな車内だった。
それが今では、座席から頭を出して数えるかぎり、自分を含めて、八人だけがこの空間を占領している状態だ。
静けさが支配する光景は、先ほどまで、新生活への不安と期待が入り乱れ、思考のスパイラルに陥った俺を、現実に引き戻す。
クッションの座面に、改めて深く座る。
検めて窓を見ても、今は、地下を走行中で、外の景色は真っ暗。つまらない、楽しめない。
現代社会の若者らしく、スマホで暇を埋めたい、ところだ。が、学園の指示で、通信端末、その他電子機器の不携帯を求められ、ICチップが埋め込まれたものとか、キャッシュカードすら拒まれた。
その代わり、学校側から、スマホっぽい真っ黒なデバイス(偽スマホ(仮))が厳重なケースに入れられて、家に郵送され、それを今は携帯している。
しかし、画面を押しても、側面のボタンを押しても、画面上部に埋め込まれた半球形のレンズが、様々な色に変わって明滅するだけで、画面は暗いまま、目に見えて起動しない。
偶に、学校からの一方的な連絡事項を伝える時は、画面上部のレンズから人物のホログラムが現れる。
最初の頃は、かなり興奮した。それも今は昔。
十度目の通信からは、感動と情熱も冷め始め、無反応、とまでは言わないが、見慣れてしまい。最初ほどの期待と興奮はなくなり、事務的な気分にしかならなかった。
結局、偽スマホも、こちらの意思では動かず、ほかに暇をつぶすことがない以上、今できることは、現代の若者には懐かしく、珍しくなった、思考をめぐらすことだけ。
地下を走る車両の真っ暗な窓ガラスに、うっすらと映る自分の姿を見つめる行為は、静かに思案に耽ることを援護する。
だが、現状考えうることは、確定しない未来のことばかり。予知能力などの使えるスキルはないし、知りえること、といえば、手に触れる範囲、見ている範囲に限られる。
そんな俺では、想像と妄想に不安と期待と若さゆえの無知を混合し、それを粘土替わりに不細工な未来予想図をこねくり回すか、稚拙な知識を基に描いた青春のプロットを堂々巡りさせるしか、出来ない。
もはや、症状に現れない脳細胞レベルの精神的苦痛を実感し始めると、遂に俺は、窓に映る自分の顔の構成要素を筋肉で歪めて出来た変顔を鑑賞し、不安を紛らわそうとし始めた。その時
不意に聞こえた「あ、あの…」と気後れした呼びかけが耳に届き、俺は、見ていた窓から目線を外し、振り返る。
直前まで、一人変顔大会に突入し、目を細め、口を尖らせていた。
そんなアホ丸出しの表情を見られてはいまいか?寒気が体を襲い。不安に心臓が拍動する。
未来に対する不安など矮小に思える危機。
人に醜態を晒す、という現実的な恐怖が脳内を占領す中、俺の目に映ったのは、俺が座る席に差し掛かる通路に立っていた少年?だった。
少年の頭髪は、少し巻き毛で、長さは耳が隠れる程度、背丈は150センチほどか。
服装は、白い厚手のシャツを着用し、紺のジーンズを履いている。だから、性別は男性だろうと、判断した。
しかし、大きな瞳、柔らかな輪郭、あどけないが、整った御尊顔は、天使そのもの、と言っても差し支えない。俺の目に前に現れたのは、そんな、男女差を超越した存在だった。
俺の対象は、今まで女性に限定していたが、そうでない人の気持ちが、分かったような、気がした。
(本当に、居るんだな、こういう顔の持ち主……)
などと考えていると、これまで抱いたどの不安も焦燥も忘れていく。
俺が面食らって言葉が出ないうちに、天使が口を開いた。
「あの、駅前で、カラスと格闘、していましたよね?」
天使からの突然の問いかけ。俺は戸惑いながらも、しかし、何を言っているか理解した。
遡ること、一時間前。
俺は、家からバスや電車を乗り継ぎ。東京のリニア発着駅の前に到着した。
そこは、駅と商業施設に囲まれた中庭のような広場。
地面を暖色の煉瓦で舗装し、中心には木々や花々が根付く植え込みが整備されている。
その植え込みの土を囲うのは、正方形を基本にしながら、一つずつ、大きさも色も違うオブジェ。
目を楽しませるオブジェは、しっかりと土と草木を守り、ベンチの代わりも務め、何の気なしに腰かける人々は、読書や、飲食、スマホの操作など、思い思いの時間を過ごしていた。
因みに、俺はその時、カーキ色のジャンパーを羽織り、肩にボストンバックをかけて、田舎者と揶揄されそうなほど、キラキラした瞳で、周囲を見渡していた。
前日に、同じ方法でここまで来て、同じく、目を輝かせていたのに、今日も同じことをしたのは、その日が特別だったから、見知った景色が違って見えたのかもしれない。
それか、乗り継ぎを間違えることも、迷うこともなく到着出来た安堵を堪能するためか。
ゆったりと落ち着いた時間が流れる憩いの場。しかし、残念ながら、俺はここでくつろぐ気はない。
すぐに駅へ向かう。リニアに乗るために。
とその前に、リニアに乗るには、搭乗券が必要だ。これは、学校側から、偽スマホと一緒に送られていた。
俺は、バックから財布を取り出した。
搭乗券は、掌に収まるサイズ。財布に入れておけばすぐに、出せ…る……はずだった。
しかし、財布の中のどこを開いても、小銭とお札しか、見つからなかった。
俺は、全力で財布の収納を一つずつ開き、これまた全力で開けた両眼で中をのぞき込む。
動いているのは、手元と眼球だけ。
段々と血の気が引き、呼吸は浅く短くなる。
前日に財布の中に搭乗券を入れたはずだ。急速に頭の中が真っ白になって…いる場合かッ!!
上着のポケット、デニムのズボンのポケット。生体器官以外の、手が入る穴という穴を探ったが、搭乗券らしいものはなかった。
もしや、忘れてきたか?ならば家に連絡だ。
時刻は八時半。弟は学校。父は仕事に出ただろうが、母は今日、パートは休み、明日も休み。家にいるはず。
繋がれば家中を探してもらえる。文明の利器!スマホ大先生のお力を借りることが……できない!
なぜなら、持っているのは偽スマホ(仮)のみ。それゆえ、事前の用意が欠かせなかった。
だから、備えあれば憂いないしの法則で、用心のために、財布も鞄に入れたのだ。
焦りが募る中、突如、偉大な四文字が脳裏によぎる。
『公!衆!電!話!』
そう、携帯電話が普及する前、世の人々の生活に繋がりを授け、日本全土に通信をもたらした、今は幻の機械。それを見つけられれば、勝ち確、であった。
早速、周りを見渡す。植え込みの周り、就業施設の周り、そこには、ない!
次に駅内に突入。自動ドアを潜ったその瞬間、左に視線を向けた。
俺の目に飛び込んで来たのは、入り口直ぐ、壁に備え付けられていた、公衆電話!
俺は公衆電話様に駆け寄って、持っていた財布から十円をピックアップ、硬貨投入口にシュート!超エキサイティングッ!
そして、すぐさま、下の取り出し口から、小銭が流れ出た。
俺は、一瞬、何が起きたか理解できず、目を見開き、呆然とした。
『このとき、彼はミスを犯していたのです。
公衆電話を使う場合、まず最初に、受話器を取り、それから硬貨を投入して、番号を入力するのです、が、しかし彼は、公衆電話の受話器を取る前に、硬貨を投入していたのです。
その結果、投入された硬貨は、料金を受領する機構ではなく。返金口に直通となっていた。
しかし、彼はそのことを知らず、更に、気が動転してこともあり、流れ出る十円を拾い、再投入して、流れ出る、という不毛な作業を繰り返しました、とさ――〈完〉――』
俺は、焦り、憤り、困惑し、それでも愚直に硬貨を入れること十数度。
その間にも、スーツ姿の男性や、壮年の女性や、若い男女が、すぐ後ろを失笑気味に通り過ぎたのを肌で感じた。
俺は、嘆きにかられ、むせび泣くのを堪え、屈辱に歯を食いしばり、目を瞑って手を伸ばし、公衆電話に掴みかかかる。
そのままの姿勢でしばしの間、停止し、苦悶の表情を浮かべるが、何も起こらず、何も起こさず、俺はゆっくりと公衆電話から手を放し、震える体を懸命に押さえつけて、その場を後にした。
しかし、まだ諦めてはいなかった!
駅の出入り口から、広場に出る。すぐに中央のオブジェ兼ベンチに駆け寄ると、肩にかけたボストンバックをその上に置いて、中の物を出し始めた。
出てきたのは、衣服数着、タオル、偽スマホ、筆記用具入れ、そして、封筒…
封筒!
その封筒は、乗車券が郵送されたとき、搭乗券を入れていたもの。
すぐさま開封済みの白い封筒を再度開け、指を入れ、のぞき込む。そこには
「……あった」
前日――俺はリビングに居た。
搭乗券を封筒から取り出して、財布に入れようと思っていた。
床に置かれていたボストンバックから、封筒を取り出し、中から搭乗券を抜き取って、財布のお札の収納に入れようとする。その時、俺は、母親に呼ばれた。
母親が俺を呼んだ理由は、棚からホットプレートを出してほしい、ということだった。
(焼肉か!)
俺はそう思い、心がにわかに沸き立つ。思わず搭乗券を、そばにあったソファーにおいて、飛び出すように駆けていった。そこからは、覚えていない。
誰もいなくなったリビング。そこに現れたのは、一冊の本を携えし少年。
見た目の年齢は、十代半ばくらい。いたって普通な私服姿で、理知的な雰囲気を纏っていたが、その表情からは、感情が読み取れない。
本を携えた少年は、ソファーに投げ出された搭乗券を目視した。
次の瞬間、少年は、搭乗券を拾い上げ、バックの中に見えた白い封筒に収める。
少年は、ボストンバックに入れられた衣服の隙間に、搭乗券を入れた封筒を丁寧に差し入れた。
それから、ソファーに座り、本を開く。
キッチンの方から、今宵の晩餐に気分上々な搭乗券の持ち主が戻ってきた。
「進!今日肉だってよ!」
搭乗券の持ち主が、嬉しそうに告げると、本を読む少年進は「……うん」と淡白な口調で答えた。
そして、搭乗券の持ち主は、券のことなど忘れ、荷づくりを再開。
畳んであった衣類をバックの中に入れ始め、かくして封筒は、バックの底に埋もれていった。
現在――
駅前に居た搭乗券の持ち主は、そのことを微塵も知らなかった。
俺は、激流のように駆け巡り変化する状況と、混乱と憔悴した感情に思考が停止し、そして
「よ、よかった……」と涙目で一人呟くのであった。
十数秒間、その場で蹲り、気持ちが切り替わるのを待つ。
その後、元の目的、リニアへの搭乗を果たすため、駅への突入を決行する。
その前に、バックから、オブジェの上に暴き出した荷物の数々を再度入れなおした。
(搭乗券以外)
着替え、着替え、タオル、着替え、筆箱、洗面具。そして、偽スマホに手を伸ばす。その時
「痛っ!」と俺は声を上げて、偽スマホへ延ばした左手を引っ込めた。
刺さる様な痛みが走った左手の甲を撫でる。バックの中に向けていた視線を偽スマホへ移した。
偽スマホはオブジェの上に置かれていて、微動だにしない。
しかし、その傍らに、一匹のカラスが居た。
偽スマホを挟んで、俺とカラスは見つめ合った。
それも束の間、カラスは、俺への興味を捨てて、目の前の偽スマホを自前の嘴で突き始める。
俺は慌てて、偽スマホを取り返そうと手を伸ばすが、すかさず、カラスが翼を広げ、喚いて、威嚇する。
その勢いときたら、体長数十センチとは思えないほど、荒々しいものだった。
このまま無理やり手を出せば、さっきの二の舞を踏む。寧ろ、カラスは、先ほどより興奮しているため、もっと危険に思えた。
「お願いだよぉ」俺は涙混じりの猫なで声で、その場にしゃがみ、カラスと目線を合わせて、懇願した。
しかし相手は、日本語はもとい、あらゆる言語の用法も用量も理解しているとは思えない。
カラスは、俺に構わず、自慢の黒光りする鋭い嘴で、偽スマホを突き回す。
そのたびに俺は、手を伸ばして、阻止しようとするが、カラスは負けじと威嚇する。
その応酬を幾度も繰り返した。
現在――
記憶の回想を終えて、俺は目の前の少年に向き直る。
「み、見られていたとは……」俺は照れたように答える。
「まあ、結構目立ってたからね」と少年は、天使の微笑みを返してくれた。
「座っていい?」と少年が聞く。俺は「どうぞ」と答えると、少年は俺の隣に座る。
「僕は、鈴宮 礼人」と天使君改め、礼人が丁寧に自己紹介してくれた。
ならば俺も名乗らずにはおれまい。
「俺は、椎名 誠」それが、カラスと戦った男の名前だった。
お互いに、よろしく、と言った後、誠は「なんで、話しかけてきたの?」と聞いた。
礼人は、申し訳なさそうな顔で「ウザかった?」聞き返す。
「いやいやいや、とんでもない、そんなことはない」
誠は強く否定した。それを聞いて、礼人は安堵したようだ。
「よかったぁ…じつは、駅前で見かけたとき…ほら、カラスに、あの機械を突かれてたのを見て、僕と同じ入学する人、なんだなって、思って……」
そういうと、礼人は、ズボンのポケットから、あのカラスが執着したものと、まったく同じ形をした偽スマホを取りだす。
誠も「ああ、これか」と言って、持っていた偽スマホを差し出し、お互い比較する。
二つとも、色も形も全く一緒で、シャッフルされたら、どれが、誰のものか分からなくなっただろう。
「カラスに突かれてたけど、見た目は、大丈夫そう…だけど、壊れてない?」
誠は苦笑いを浮かべて、改めて偽スマホを見渡した。
「うん、びっくりするくらい無傷だし……中身も…触った感じ、大丈夫、だと思う」
「そう……中身?」礼人は、少し疑問符を浮かべた。だが、言及しようと思うほどではなかった。
「いやしかし、あの攻防を見られていたとは、思い出すたび恥ずかしいですなぁ~」
誠は後頭部を押さえて、苦し紛れに笑って見せる。それに対し礼人は、楽しそうな口調で
「はたから見ると、カラスと格闘、というか会話してるみたいだったね」
そんな姿を衆目にさらしていたとは、容易に想像できる分、なお恥ずかしさがこみ上げてくる誠であった。すると礼人は
「なんていうか。すごく残念な人だな、って思って」
といきなり誠の心中を打ち据える一言を発した。さらに
「こんなところで、何をしてるんだろうって思って…」
と礼人は遠慮なく言葉を続ける。
「もう、恥ずかしくて、見ていて痛々しくって…」
言葉の三点攻めは、誠の心を打ち砕き。深い羞恥心と自己嫌悪の坩堝へ突き落すには、十分だった。
直後、礼人自身は、自分の言葉が歯に衣着せぬものだと気づき、気まずい表情を浮かべると、隣に目をやる。
誠は顔を下に向け、明らかにショックを受けたのが分かるくらい、負のオーラを全身から漂わせていた。
「ご、ごめん!悪気はなくって、その、なんというか、大丈夫だよ!誰も気にしないよ!というか、見ていても、覚えてないよ!」
礼人は、必死に、やさしくフォローする。ちなみに、カラスと誠の攻防は、SNS上にアップされていた。それを知るのは、また後程。
誠は気を持ち直し始め、「あ、ああ…うん、ありがとう」と力なく答える。
礼人の励ましによって、誠は、言葉を出せる程度には回復した。その矢先だった。
リニアの進行方向を前とすると、後方になる車両連結部の引き戸が、突如、開け放たれ、そこから、夕日を浴びた麦畑の色をした影が飛び出した。
そのまま影は、中央の通路を駆け抜ける。耳慣れない異音を聞いた車内の人々は、何事か、と頭を出して後ろを覗く。
通路側の席に座っていた礼人は、頭を通路に出した。その途端「わぁッ!」と声を上げて、頭をひっこめると、人影が高速で走り抜け、礼人の頭が出ていた場所を通過した。
危なかったな、と思う誠は、座席の上から頭を出して、一部始終をはっきりと見ていた。
走り抜けた影の正体は、明るい山吹色の長髪をなびかせた異国情緒あふれる少女で、その顔は、涙を流し、必死の形相を浮かべ、百メートル走さながらのスプリントを見せつけていた。
袖の短い白の上着とデニムのハーフパンツと足先のスニーカーは、全力疾走の助けになるだろう。
腰のベルトにねじ込んだ皮手袋は、関係なさそうだ。
少女の登場で、車内がざわつく。それも束の間、少女が開けっ放しにしたドアから、漆黒の影が飛び出し、通路を高速で移動する。
誠はそれも見ていた。漆黒の影の正体は、ボーダーの上着にオバーオールを履いた、腰まで届くほどの黒髪を垂らす人物だった。
その人の表情は、黒髪とマスクに隠れていたが、通り過ぎざまに、一瞬見えた眼は、限界まで開け放たれ、白目が真っ赤になるほど、血走っていた。
『本気』と書いて『マジ』と読ませたくなるほど、怖かった。
「ごぉぉぉめぇえんなさいぃぃぃいいぃッ!!」
走る山吹色の少女が発する謝罪の言葉。黒髪は、無言で少女を追いかけた。
それだけ見ると、リングチックなホラー映画のワンシーンだが、逃げる者と、追うものの一幕は一瞬で過ぎ去り、山吹色の少女が前方のドアを開け、飛び込むと、続いて黒髪もドアの向こうに消えていった。
車内のどよめきはなお収まらない。
その時「ぐぎゃあぁぁぁああッ!!」山吹色の少女の声と思われる絶叫が、開け放たれた前方のドアの奥から轟いた。
断末魔の叫びが響き渡り、車内が静寂に切り替わる。
そのあと、皆、耳を澄ませたが、聞こえるのは、静かな走行音だけで、少女の声は、一切聞こえなかった。
誠は座り、目を瞑ると、過ぎ去った黒髪の狂気的な眼が思い起こされて、身が竦んだ。
一方、礼人やほかの乗客が、再度通路に顔を出す。
「何があったんだろう……」と礼人は呟くと、誠が「わからん…」と簡素に答えた。
その後しばらく、礼人の返事がない。ただのしかbぁゲフンゲフン。と、そんなくだらない言葉を思い浮かべていた時。
隣の礼人が静かな動作で、頭を引っ込めて、姿勢を正して、席に深く座る。
そんな彼の表情が、どこか硬く見えた偕人は、何事か、と席の上から頭を出して前方のドアを覗いた。
彼女たちが走り去ったドアから鬼が入ってきた。