プロローグと新世界へ
無知を恐れるなかれ、偽りの知識を恐れよ――ブレーズ・パスカル
遠くから、誰ともつかない声が聞こえてきたが、視界は真っ暗で、一寸先すら、分からない。
耳に意識を集中させるが、某が何を言っているのか判然としないのだ。
分かるのは、自分の体が脈打つ音だけ。それすら、本当は、不確かだ。
目を開けているのか、いないのか、自分が今どんな状態なのか、そもそも、どこにいるのか分からない。思考も鈍くなっている。
沸々と、憤りに似た感情が頭に湧いてくると、手足に痺れが浮かんできた。
それに、胸の圧迫感も、気になりだす。
そのせいなのか、呼吸がし辛い。
おまけに、黴臭く埃に満ちた匂いが鼻腔を苛む。
すると、歪だった声が、鮮明になり、大きくなってくる。
いや、そもそも、声の主は最初から、直ぐ近くから、声を張り上げていたのだ。
ただ自分の聴覚が、つい先ほど、一瞬のうちに訪れた破壊に随伴した轟音にまいったので、どうも調子が宜しくなかっただけなのだ。と、私が承知したのは、戻ってきた色彩が、煙に巻かれた景色を映し、碧い目が、真っ直ぐ此方を見下ろしているのが、見えたからだ。
「大丈夫か!」
少年の如き声の独逸言葉が耳に届く。
大丈夫だ、と私は言ったつもりだが、喉が渇いて上手く声が出ない。
彼は構わず私の直着の肩先を握りしめ、引っ張る。
私は引きずられると、腹と背中に硬いものがぶつかり、何か分からぬが強く引っ掛けた。
体が動かぬ私は、悶えるが、引っ張る方も根気がいる。
頭を仰け反らせると、娘さんと見間違えそうな容姿が、しかめ面に代わるのが、ぼんやりと見えた。
友人の言葉に、御国訛りが無くなったな、と思ってしまうが、遥々海を越えて、ここ伯林にやってきた私が言えることではあるまい、そう自問自答して、失笑を堪えた。
上半身が楽になったのは、瓦礫から半ば抜け出たからだで、腹には依然、大きなものが張り付いている。
だが、苦痛を感じるのはむしろ足で、体を起こせるようになると、私は、手を使って床を這い、横たわる梁から、足を引っ張り出した。
履物は擦り切れ、革靴も傷んでいるが、痛みを堪えれば、幸い、足は動いた。
そのころには、目もましになって、周りが凄惨を極めていることを確と理解した。
板張りの滑らかな床には、建材の礫と、塵芥でごった返し、空気は粉に汚れて、これは見えない訳だと、得心いった。
私の後ろでは、助けてくれた友人が、膝を床に立てて、咳き込んでいる。
私は立ち上がると、感謝の言葉より、まず健常であるかを問い質そうと口を開いた。
濁る景色にあって、どこそこで火がついているようだ。
故に、暗い中で赤々と人の顔も見えたし、こちらに投げ出された友人の足を見ることもできた。
だが私は、驚き、声も出なかったのだ。
私の目の前で、友人は、ゆらゆらと立ち上がり、草臥れた服の肩や胸の埃を払う。
「大丈夫か?」友人はそう言って、振り返り、私と視線が重なった。
友人は目を丸くすると、視線を下げ、私の腹を凝視し、口を開け放つ。
「足…」「腹…」お互いの言葉が重なり、何を言ったのか聴き取れぬ。
それでも、何かを覚ると、私たち二人は、自分自身の下に目を向けた。
私の腹に、赤い色に照らされて、琥珀色の石が突き刺さっていた。
友人の足には、千切れた履物から見える脹脛に、幾つもの虫食いが生まれ、碧い水が流動し、絶えず表皮を覆っていた。
お互い顔を上げると、茫然とした表情を見せ合う。
私は、苦い唾を飲み込むと、さっそく、腹の石を掴み、引っ張る。
「大丈夫なのか?」目の前の友人が問い質す。
私は「痛みはない」と告げる。
しかし、いくら力を入れても、腹にめり込む石は、全く動かない。
それに、今気づいたが、石自体が、仄暗い空間において、闇を切り取り発色していた。
それは、友人の足に纏わりつく水も同じで、私の目には、はっきりと、碧く見えていた。
「き、君はどうなんだ。その足は……」
友人は、己の足を恐慌した顔で見つめ、しゃがみ、張り付く水滴を突き、触れる。
だが、水は水で、掴み処など元より無いと、友人の指から逃れる。
友人は、凍えた溜息をつくと、小首を傾げるばかり。
「分からない、痛くはない…」
訳が分からぬ、どうにもならぬ、それは私も同じで、石は押せども、引けども、外れない。
武家に生まれておきながら、膂力の衰えを感じていたが、これでも動じないとなると、腹の石については、一旦、諦めることにする。
体が強張り、緊張で思考がままならぬ、と云うのもあるが、周りを見れば、他に動かしようのあるものばかりだ。
そちらから手を付けて、朋輩を探すのを提案しようとした。その時
「誰かいる?」と聞き慣れたお嬢さんの声が立ち昇る煙の方から轟いた。
友人と私は、お互いの喜色を見せ合うと、声の方を向いた。
霞んだ視界の向こうに見えるのは、揺らめく灯。それが僅かずつ、此方に近づいて来る。
思い出に浮かぶ赤毛の髪を結んだ異国娘である、と、私は確信した。
どうやら彼女は、明かりを持っているらしい。
友人と私も、散乱する瓦礫に気を止め乍ら、浮かぶ灯に向かって足を進める。
ついに、煙から顔を出したのは、記憶の娘さんだった。
だが、友人も私も、表情を凍てつかせ、安堵の表情を浮かべた娘さんに、不審な目を向けられる。
「ど、どうしたの?大丈夫?」と言った娘さんは、私の腹を見ると、顔に恐怖が滲みだし、乙女らしく開いた口を手で隠した。
娘さんは震える指で私の腹を差し示し、舌を咬みそうになりながら「刺さってる!」と叫んだ。
私は「嗚呼知っている…」と答える。娘さんは私に迫り「早く医者に見せるのよ!と強く言った。
私と友人は「それは、君もだ…」と口をそろえた。
娘さんは我々の言葉が飲み込めず、私と友人の顔を交互に見た後、目線が自分の胸元に注がれていることを知り、自分の体を見下ろした。
彼女にとって見慣れた縁飾の端と、その下の寛衣が丸く焦げ付き、身体を抉る、深い空洞が出来ていた。
その内部には、赤々と焔が燻っていた。
娘さんは、項を丸めて、胸元の穴の奥をやっと覗き込み、暫し黙ってから、ゆるりと頭を上げ、今にも泣きだしそうな顔を私と友人に見せた。
そして、体から、するりと力が抜け出た様に、娘さんの足が崩れる。
私と友人は咄嗟に彼女の体を受け止める。
友人は強い声で「大丈夫か」と問いただす。娘さんは、震えた弱い声で「だいじょうぶ…」と答える。
しかし彼女は、友人と私が降ろすままに、床に座り込んだ。
女人に厳しい時世において、それでも学問を収める志を胸に秘めた娘さん。
気丈に振舞う、何時もの姿を知っているからここそ、彼女の青ざめた表情が、私の胸に刺さる。
すると今度は、私の背後ろから、大丈夫!大丈夫!などと、流暢とはいかない男の声が聞こえてきた。
その直後「大丈夫か」と女性の流暢な独逸言葉が聞こえた。
私たち三人は、声の聞こえた方を振り向く。そして、私たち三人は、目を大きくした。
漂う塵芥を振り払い、現れたのは、露西亜より単身でやってきた女傑。
清楚な装いに、凛とした佇まいが、常に目を引く聡明な女性だった。
それが今は、寛衣も洋袴も埃に塗れ、普段は硬く結い上げている銀髪を振り乱し、目の奥と額から、銀と紫紺が絡み合う、粉雪、とも云うべき気体を立ち昇らせていた。
友人も、娘さんも、私も、口を開けて、それに見入る。
女傑は足元の梁を乗り越えながら「済まない、説明は後で…」と申してから私たちを見た。
すると、女傑も、私たちと同じような顔になった。
そんな女傑の後ろから、今度は、陽気な口調で「みんな無事ですね、私も無事ですね」と唱える紳士が現れる。
整った口ひげと身ぎれいな背広が似合う異国紳士は、女傑と同じ道筋を通ってきた。
彼は米利堅から遊学して来た学者であると言う。
まだ普魯西に来てから、二週間ほどなのに、会話が成り立つほど言葉を覚えた、英明で、陽気な御仁だ。
紳士も、梁を乗り越えると、後ろ振り返り、自分が来た道を振り返る。
「皆さん!向こうは、とんでもねえ!」そう告げた紳士が、私たちに晒す背中の背広には、深い裂け目が横に開き。中から、萌黄色の蒸気が絶え間なく噴き上がって、翼のように広がっていた。
娘さんは、ついに、気を失うと、女傑と私と友人が一斉に声を上げた。
娘さんは、ふらつく頭を上げて「だいじょうぶ…」と力なく答える。
友人は「早くここを離れよう」と言い。女傑も私も首肯した。
すると、女傑の背後に居た紳士が「あれは、何 でしょうね?」と言った。
女傑が振り返り「今はそれどころでは…」と言って、最後は言葉を詰まらせる。
その時、紳士は上を指差していた。釣られて、私たち四人も上を見た。
天井の板が、大きく丸く抜け落ちて、空から緩やかに光が降り、暗い室内が明るくなっていた。
だから最初、私は、空から光が注ぎ込んでいる、と思った。
しかし、私が見たのは、空ではなく。
いや、天上の穴から、私たちを覗き込んでいたのは、白磁の様に一転の曇りなく滑らかな肌をした能面の如く虚ろな顔から飛び出す、二つの目玉だった。
私は、鷹の目を間近で見たことがある。まさしくそれと同じに思えた。
その左右の眼は、ぎょろりと動き、鋭くこちらを観察していたのだ。
1884年4月29日
プロイセン王国の首都にある大学から、突如、蒼い光の柱が現れた。
光の柱は、曇天を貫き、大気圏すら超えると、先端を花開かせ、雷の如く光明の枝を茂らせる。
無数に枝分かれした光は、やがて地球を包み込み、幹から、灰や粉雪と形容される、蒼い粒子を散布し、世界中に振り撒いた。
やがて、粒子は、飛来した地と、そこに生きるもの達に降り注ぎ、溶け込んだと言う。
後に、人々は、この事象を発端の地から名をとり、ベルリン事変、と歴史書に乗せた。
嗚呼、腕を鍛えるべきだったのか。郷里は遠く、命は短し……