【ココロノチ】、ゲームセット
夏の盛りを謳歌するヒマワリの群れ。
刺すような真昼の陽射しの後押しを受け、蝉は合唱し蜂はダンスを興じる。
命をつかさどる真夏の太陽は、命を産み、育み、そして干上がらせる。
活発な命の交換が展開される8月初旬の昼下がり。日陰になった病室に居る息子は窓から好景気に沸き立つ命の市場を見下ろしていた。
母親の身体はすっかり干からびていた。もはや嚥下の力すらなく、何も食べなくなって半年になる。母の命は栄養を体内に送り続ける点滴によって長らえている。両腕は幾度となく刺し続けた注射針のせいで、点と点が結ばれて線になり、線と線が結ばれて面となって、赤黒い模様を描いている。描かれた模様の表面は分厚く硬くなり、生きることを拒むかのように点滴の注射針の挿入を受け付けない。だから今は左の足首に点滴の針が刺さっている。
視線を再び窓に向ける。見下ろすと、広大な運動公園の一角に野球場がある。かつて幾度となくプロ野球の公式戦が行われた歴史ある野球場も、今はほとんど利用されることなく、高い木々に囲まれてひっそりと、老いた身を横たえて静かに終わりの時を待っているようだった。
親子はこの野球場に、一度だけ入ろうとしたことがあった。息子は母の寝息を聞きながら、43年前の夏の出来事を脳裏に再生させた。
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そろそろ梅雨が明けそうな7月の夕方。学校から帰った息子は一人で留守番しながら宿題に取り組んでいた。木造アパートの二階の一室、六畳の一部屋が親子の生活の場だった。階段を上がり下りする足音だけで、息子はそれが誰のものか判別できた。つま先だけで軽快に駆け上がってくる、この音で母が帰宅してきたことが分かる。
いつも「ただいま」なんて言わない。部屋に入ってきてすぐ、息子が宿題に取り組んでたテーブルの向かい側に座る。この部屋には勉強机はない。
「今日はいいものを持って帰ったよ、ほら、みてみて」
母は毎日、息子のために「いいもの」を持って仕事から帰ってきた。たいていはお菓子か、いつもより少し高価な夕飯のおかずだった。貧しい生活の中で、一人息子にささやかなぜいたくをさせようという、母の精いっぱいの親心だった。
母がカバンから出したものは、2枚のチケットだった。機械油で薄汚れた親指と人差し指で、シワがつかないようにていねいにつかんで息子に示した。垂れ下がったクセのない長い黒髪の合間から見えたのは、プロ野球公式戦の優待券だった。
昭和40年代半ば、息子の同級生の母親は皆パーマをあてていて、少女のような艶のある長髪を維持する母は異質な存在として扱われていたのだろうか、母親同士の交流に加わることがなかった。息子もまた学校では一人でいることを好み、自宅にクラスメイトが来ることを嫌っていた。われわれ親子は【嫌われ者の化け物】なのだろうか、そんなことを息子は思うことがあった。母がパーマをあてないのは、美容院に行く金がないからであった。余計な手入れをしなかったことで若さを維持できてたのだろう。息子には、同級生の母親たちの老け込んだ様子こそが化け物に見えた。果たして化け物はどちらのことか。親子で孤立する自分たちなのか、それとも、自分たちが化け物の巣に投げ込まれた存在だったのか。
「いつか観たいって、言ってたでしょ?ママが夢を叶えてあげるんだから!」
いつもより上機嫌で、うわずった母の声を聞きながら、息子はチケットに印刷されてある文字の一つ一つに目を奪われた。地元の球場で開催される、阪神と中日の公式戦。どちらのファンというわけでもなかったが、憧れのプロ野球選手を目の前で見る機会が現実のものとなって、いつもはあまり表情を崩さず口数も少ない息子が、珍しく「やった!」と声をあげた。母は息子の反応を見て頬を紅潮させた。
「今からお金節約して、この日にお弁当持っていくからね」
「じゃあ明日からしばらく、おやつナシでいいよ」
「職場の余りものをたくさん持って帰るから。ないときはゴメンね」
母は両腕のひじをテーブルに乗せて息子に向かって身を乗り出す。近づいてきた顔は化粧など一切しておらず、余計な手入れをしないおかげか毛穴の広がりもない。細い腰を振りながら「楽しみだね!」と、はじける笑顔に向かって、息子は額を当てて応える。かけていた眼鏡が母の鼻に当たって少しずれると、母が人差し指で直し、あらためてニッと笑った。
テレビのないこの部屋で過ごす親子の時間はいつもなら静かなものだったが、この日から一か月、野球の話題を欠かすことがなかった。母は職場から新聞を持ち帰り、それをテーブルを広げては、親子で阪神と中日の選手の名前を憶えたり、試合結果を話し合って、当日が来ることを心待ちにした。
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1万2千人収容の小さな野球場だからスタンドの壁は低く、ナイター用の照明が球場外の広場も明々と照らしていた。試合は中盤に差し掛かっているのだろう、もうチケットを持った客がやってくる様子もなく、2人の係員は暇そうにたたずんでいる。時々談笑しているようだが、照明塔の影になっていて、表情をうかがい知ることができない。
親子はその暗い関所をくぐり抜けることなく、手前のベンチに座り込んでいた。チアリーディングの太鼓や笛の音、翻る大旗、時々沸き起きる地鳴りのような歓声、その全てが親子にとって初めて目にする光景であり、体験であった。ひどく蒸し暑い8月初旬の午後7時半、親子の座るベンチと、親子の入場を阻む金網の切れ目の入場門だけが、華やかな夏の球宴を拒むかのように重苦しい夕闇が包み込んでいた。母の視線はずっと、内野席最上段の通路を絶えず往来する人々に向いていた。時々顔を真上に向ける。この場に来ておよそ1時間、二人には会話がない。席を立ったのは小遣いをもらった息子が一人で露店まで行ってカキ氷を買ったときだけだった。
「ごめんね」
ようやく、母が声を搾り出した。
「ママ、ばかで、ごめんね」
息子は黙って、カキ氷を口に運び続けた。今夏初めて食べる氷菓だった。
「優待券って、これでは入れないなんて」
金網の向こうでは、一つの小さな灰皿を囲んで中年の男たちがタバコを吸っている。息子は最初誰もいなかった喫煙所にだんだんと人が増えていく様子を観察していた。一人だけだったところにもう一人が加わったところで会話が始まり、その後加わってきた人たちもすぐに打ち解けて談笑していた。他人同士でもこうやってすぐ仲良くなれるものなんだと、息子は少し関心を持った。
両手に飲み物を持った女性が階段を上がっていく。階段の向こうのスタンドで、きっと子供が試合を観ながら飲み物の到着を待ってるのだろう。
スタンドに向かわず、金網にくくりつけてあるゴミ袋の前で焼き鳥をほおばる老人がいる。
観戦に飽きたのか、親に連れられただけで野球に興味がないのか、小学生くらいの4人の女の子たちが鬼ごっこで走り回っている。こちらもおそらく初めて会った者同士で、一夜限りの友情を楽しんでいるのだろう。
チケットを持ち、スタンド内の一席を占有する権利を持っている人たちへ、親子は異なる感情をもって視線を向けていた。
「こんなことも知らないなんて」
壁の向こうから大歓声が上がって、母の声がかき消された。ほんの一瞬、打球も見えた。後で知ったことだが、阪神の田淵が打った本塁打だった。露天に並ぶ客も一斉に顔を上げる。
「ごめんね、お金なくて」
ひざの上に置いた両手のこぶしで水色のワンピースの裾をぎゅっと握りしめる。あらわになった左のひざに、おてんば娘のような擦りむいた痕があった。今年30になったばかりの母の細い脚には人の目を惹く若々しさが残っていた。クセがなく艶のある黒髪の毛先が、母を慰めようと両肩に軽く触れる。鏡を見ながら自分で切った毛先はふぞろいで、肩に届かない毛もあれば、肩甲骨の下まで垂れ下がるものもあった。前髪は注意深く切りそろえたのか、眉毛の上でキレイに整列している。汗に湿った数本が額に張り付いていた。
「内野指定席B、一人2500円、二人で5000円」
声を震わせながら、母は恨めしそうに券売所の看板を読み上げた。
「野球を観るのに、そんなにお金がかかるなんてね・・優待券だから少し安くなるらしいけど、それすら払えないなんて」
息子はここに座っていることに少し快適さをおぼえていた。ときどき吹いてくる風が、カキ氷を持った手元を冷やしてくれる。壁の向こうにテレビや少年誌でよく見る有名な野球選手たちが居る。この目で見ることができなくても、それだけで心が弾む気持ちだった。試合を観ることができなくても、時々全身を響かせる歓声の重厚感が心を奮い立たせてくれた。慣れてくるとその歓声の響き方で今どんなプレイが展開されているのか想像できるようになってきた。野球のルールが分かっていない母はきっと、楽しんでる人と楽しんでいない人、幸せな人と不幸な人という明確な二元論が心の中で展開され、目の前の金網と、スタンドを構成する壁が、その二元論の境界線だと恨めしく思っているのだろう。息子にとっては超えられない壁でもなければ壊せない壁でもなく、手元のカキ氷のように儚く融解するものにしか思えなかった。だから母にはそんな罪悪感を持たないでほしいと思った。ここに母と一緒にいるだけで、いつもと違う夜を楽しむことができた。
「ママ、ばかで、貧しくて」
母の自虐的な独り言を遮るべく、息子はそっと、食べかけのかき氷を差し出した。
母親は黙って受け取り、一度だけ口に入れて、また息子に返した。息子もまた、何も言わず受け取り、残りを食べきった。親子の夏休みは、これが唯一つの思い出になった。
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あの時、見ることができなかった野球場のグラウンドを、今、こうして高いところから眺めている。長くこの病室に居住している母も気づいているだろうか、二人で見たかったグランド、今なら一緒に見ることができるのに、母はベッドに横たわったまま、天井と壁だけを見る日々を送ってきた。親子の夢は、こうも叶え難いものなのか、それとも、夢があるからこそ、【ココロノチ】が通い続けるのか。
子供のころは貧しかったから、とにかくお金が欲しかった。
自分の時間は、放っておけば勝手に消えてなくなってしまう。
火のついたタバコは放置してても灰に変わっていく。
時間もまた、持て余していたところで残るものは空虚さだけである。
それならば、売った方がマシというもの、せいぜい高く売ってやろうじゃないか。
貧困を国や社会のせいにして、自分で頑張らない連中は、いつまでたっても貧困のままだ。公的な支援があったとしても、もっとよこせもっとよこせと、いつまでも弱者のままでいたほうが都合がいいと思っている。そんな心の貧しい、みっともない人生にはしたくない。
そう思ったから、息子は中学校に上がると同時に、母の反対を押し切って、たまたま求人していた近所の牛乳販売店で配達員として働き始めた。そうやって貯めたお金をできるだけ使わないよう、夜間部のある高校の建築科に進学し、早朝の牛乳配達業と昼間の工場勤務、そして夜間の学業という過密な日課を4年間耐え抜いて作った貯金と奨学金で大学を出た。そして今まで大手の建築会社の設計士として夢中になって働き、財産を築いてきた。幸い結婚することができ、産んでくれた子供は二人とも健康な大人になった。長女は三十代になったというのに未婚で仕事を生きがいとしている。次女は夫を婿養子として迎え入れ、三人の孫と一緒に我が家で暮らしている。母と二人だけだった少年時代を思えば信じられないくらい、家の中がとてもにぎやかになった。
考えてみるとおかしなものだ。息子はそう思った。
母があんなに悲しんだ夏の夜のひと時を、一瞬たりとも忘れたことなどなかった。だから必死になって働き、夢中になって学んだ。その結果、親子二人で過ごす時間が犠牲になった。
あの夏の一夜以来、親子で野球の話は一切しなくなった。中学校に上がってから朝食時は配達で不在、夕食時は翌早朝の勤務に備えてすでに床につくようになり、親子が食事を共にすることがなくなった。大学は奨学金のおかげで働かずに通えたが、膨大な課題に取り組むため研究室で寝泊まりする日々が続き、そんな日々は会社員になっても、二人の娘をもうけても同じだった。すべては、あの夜の母の暗く沈み込んだ顔に、暖かい光を照らしたい一心でのことだった。財産と幸せな家庭を築いたものの、先延ばしに先延ばしを繰り返してきた親子二人の時間を、すっかり老け込んだ今ようやく取り戻すことができた。長年背を向け合っていても、親子の絆は【ココロノチ】でつながっていた。
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息子は母のベッドの片隅に座った。母が起きたことに気づいたからだ。
「今日の具合はどうだ?」
母は荒い呼吸をしながら、首を縦に振った。
髪はほとんど抜け落ち、枯れ果てた顔に白く長い数本が残るだけだった。
息子は立ち上がり、また窓の外に目を向けた。
厚い層を成した入道雲が、青く澄みきった空から不気味な威圧感を持って、地上にある人の気配がない古びた野球場を夏の日差しから守っている。
この野球場で1967年に読売ジャイアンツの優勝が決まって川上哲治監督が胴上げされた。今ではV9時代と呼ばれている、あの9年連続優勝の3年目のことだ。読売ジャイアンツがどこの球団のフランチャイズでもない地方球場で優勝を決めたのは、後にも先にもあの一度だけ、この球場でのことだった。
阪神タイガースが1968年と1974年に、ここで開幕試合を主催した。一つの球団がペナントレースの開幕戦を同じ地方球場で二度も行ったのもまた、この球場だけである。また、現在の千葉ロッテマリーンズの前身である高橋ユニオンズが1954年に結成式を、1957年に解散式を披露した場所でもある。ユニオンズは神奈川の川崎市を本拠地とする球団である。それなのに、こんな地方の球場で重要な式典を開催することも異例だったろう。このように、プロ野球史上に残る様々な出来事の舞台となった。小さいながらも大きな存在感を示し続けた野球の聖地が、今は時の流れに身を任せ、静かにその身の終わりを待っている。かつては照明塔の柱に取り付けられていた地元の大手百貨店のロゴマークも、今は外されている。
「さて、仕事に戻るから。そろそろ帰るよ」
「明日も来るん?」
母のしわがれた声は、どこか子供が甘えてるかのような響きを持っていた。
「ちゃんと来るよ、明日はいったん家に帰って、孫連れてくるよ」
こんな約束をしておきながら、忘れてしまって一人で来たことが何度もあった。そんなとき母はいつもと変わらず、壁に少し虚ろな視線を向けながら黙って息子を迎え入れた。
息子は、母の枯れ木のような手を見て、43年前の8月をまた思い出した。カキ氷を渡したときの母の、機械油で少しだけ汚れた白い手。あのとき言おうとして言わなかったこと。その気になればいつでも果たせたことを、親子はまるで破滅に至る禁忌であるかのように、一切触れてこなかった。
悔やむべきなのか、それでよかったのか。
息子はついに、その封印を解いた。
「来年の夏は」
タバコと酒ですり減らされた声は、空気を震わせるには力が足りなかった。狭い部屋にあって、母に届かない声をもどかしく思った。
「来年の夏は」
意を決して声を振り絞る。母は首をすこしひねって、視線を息子に向けた。
「来年の夏は、野球観に行こうよ、ママ」
母のしわでたるんだ皮膚に隠れていた大きく目が見開かれた。息子は目を合わせながらも、母の表情の一変に驚いた。息子は思春期を迎えてから母とほとんど会話しなくなり、結婚を機に妻に合わせて「お母さん」と呼ぶようになり、子供が出来てからは「おばあちゃん」と呼んだ。人生の半分、ずいぶん長い間「おばあちゃん」で居続けたものだと、母は心の中で苦笑した。
「ママ・・ママも」
母が小さな声でつぶやく。40年近く、自分に向けられなかった言葉の響きを懐かしみ、心の中でしっかりと味わった。息子からカキ氷を受け取った、あの夏の日の記憶が一気によみがえり、時はいつでも後戻りできることを知って心から喜んだ。
「行きたいね、けい君」
わずかにくすぶっていた命の気が、母の顔を赤く弾けさせた。
親子は40年以上前の、貧しかったけど二人だけの幸せだったあの夏の夜を再び迎えた。43年間言わないまま息子の心に封印されてきた短い一言によって、息子の思春期以来ずっとお互い寄せ付けてこなかった【ココロノチ】が、いまこの瞬間だけ宇宙のように一つになった。「ママ」「けい君」と呼び合った、頼りないけど必死に働き子供を精一杯可愛がってきた母と、無口だけど甘えん坊だった息子の、貧しいながらも二人きりの、静かで心安らぐ日々。振り返ってみると余りにも短かかった日々。そして二度と戻ってこないと思っていたそんな日々を長年愛しく思っていた。そして胸の中に抑え込んでいたあの日々が戻ってきたことに、あふれ出る喜びを隠すことができなかった。
「楽しみだよ、次の夏が」
母は目を細め、枕から頭を浮かせた。起き上がろうとしてると息子は察し、息子は右手を差し出した。
「ほら、手を握って、いつものように」
息子は別れ際、いつも母と手を強く握り合った。母の握力に、少しだけ安心感を得ることができたからだ。「これだけ強く握れるなら、まだまだ大丈夫だ」というのが、別れ際の定番の一言だった。
息子は母の手を引き、上半身を起こさせた。
「今日も元気だ、大いによろしい」
息子が大きな声で賞賛する。
あの夏、野球場へ向かう道中、ときどき母の手を引いていたことを思い出した。夢にまでみたプロ野球観戦を目の前にして、はやる気持ちが足取りに現れ、つないでいた母の手を引っ張りながら歩いていた。母も無口で無表情な息子が珍しく示す高揚感を握った手に感じ取りながら、心が浮き立っていた。
「元気になろうよ、来年までに」
ベッドのリクライニングを息子が起こす。母はしずかにもたれかかる。
「がんばるよ」
「目標は、来年夏までに退院、いいね」
「できるもんかなぁ、あと一年」
「できるできる、がんばろ」
「楽しみができたら、少しは元気がわいてきたかもね」
「病気なんて気持ち次第さ。早くゴハン食べれるようになれよ」
ゴハンという言葉を聞いて、母は少しうつむいて黙り込んだ。
「帰りたいねえ、うちに」
「帰ろうよ、みんな待ってるよ」
「帰りたいよ」
「そのためにも、いつまでもこんな点滴を頼らないように。ゴハン食べれるようになろ」
「ああ、がんばるよ」
親子が弾ける笑顔で向かい合う。握った手を放し、息子は病室を後にした。
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病棟を出た息子は駐車場に向かうべく中庭の石畳を歩く。
両脇に花壇がある。入院患者とその家族がボランティアで手入れをしている花壇は、猛暑のせいもあって人の気配がない。息子は自分より背の高いヒマワリの群れを見上げた。母のいる病室の窓が居並ぶヒマワリの顔の間から見える。さっきはあの窓から見下ろしていたヒマワリが、こうして見上げてみるとオレンジ色の花びらの端々を茶色に濁らせている。種を作る準備を始めている。
蝉の喧騒、窓枠に反射する夕暮れ前の太陽の光。病院に面した歩道をには、野球帽をかぶった日に焼けた高校生たちが乗る自転車の列。
暑さに少し緩みを感じた。見上げる空やヒマワリや窓枠が放つまぶしさから、息子にはいたわるような優しさを感じ取った。8月は最も暑い日々でありながら、夏の終わりを少しずつ感じさせる時期でもある。別れゆくものは、いつだって優しくなる。
息子はずっと、ヒマワリと病室の窓を見上げた。こぼれ落ちそうな涙を、周囲に見られないようごまかしていた。
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息子が去った病室の静寂の中、母はエアコンが冷気を送りつけてくる音を聴いていた。射し込んでくる西日が、壁に模様を描いている。息子はベッドの背もたれを戻すことなく立ち去っていた。
「楽しみだね、けい君」
母は壁に向かってつぶやく。
「待たせてもらうよ、次の夏を」
母は自分の身体が少しずつ熱を帯びてくることに気づいた。
エアコンが故障したのかと思った。しかし熱は自分の身体の中心から強く発していた。
毛穴から蒸気が噴き出すような感触。自分の身体が抜け殻になっていくような気がした。
「でもね、けい君。あんたの人生だから」
しっかりと息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
「できるだけ長く、待たせてもらうよ」
心の準備を整えようと、呼吸に意識を集中させた。
まぶたを開ける。西日が壁の一点に矢のように集中し、今にも穴を開けそうだった。
少しずつ小さくなっていくその点が一転して、急速に大きくなっていく。
母は目を閉じなかった。まぶたが光を遮断しないことを本能で知っていた。
「ゲームセット。勝ったのは誰なんだろうねぇ」
声に出したつもりだったが、呼吸器も唇も声帯も、母の意思に従わなかった。
白く熱い光はやがて、母のすべてを包み込み、母はすべてに身をゆだねた。
光と熱が頂点に達すると、さらに一転して冷たい闇となった。
光の激しさと対照的な闇の優しさに、母は安堵した。
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闇の中を一人きりで歩く。
老いた足取りは重く、歩みは遅い。しかし疲れは感じなかった。どのくらい歩き続けたのか分からなかった。いつから歩き始めたのか、それすら分からなかった。
錯覚だと思っていた闇の中の白い一点が、少しずつ大きくなり、また数を増していった。やがて人の声や何かを叩く音がかすかに聞こえてきた。目指す場所があって歩いていたことを、それまで全く意識していなかった。
時間の概念が意識から失われ、永遠なのか一瞬なのかも分からない感覚の中、光と音を目指して歩く。歩みを急がせなかった。慌てる必要性を感じなかった。時を意識しないということは、時に始まりも終わりもないということ。あの光と音が消え失せる心配を全くしていなかった。ただ、距離だけは意識していた。
母の視界が一変する。暗い闇が支配するなかに差し込む優しい光の帯と、心に響く無数の人の声。目の前の暗い壁を見上げると、壁の上に多数の人の背中と後ろ頭が並んでいる。
記憶が一気に脳裏にあふれ出してくる。あの日の夜だ。息子を連れて、悔しさと腹立たしさで体中を震わせたあの夜。壁の向こうで展開される大舞台を、自分たち親子だけ観ることが出来ずにいた、惨めで恥ずかしくて孤立していたあの夜。多数の後ろ頭を恨めしく見ながら、自分たちだけが違う世界の人間であるということを思い知らされたあの夜。しかし、独りではなかった。表情ひとつ変えることなく独り言を聞き続けてくれた息子に、心救われた、あの夜。そっと差し出してくれたカキ氷の冷たさと、心を暖めてくれたほのかな甘さ、まさしくたった今体験したことのように鮮明に思い出す。あの時と今の違いは、壁を見上げる自分の傍らに愛する息子がいないことだった。
すると、壁の上に並んでいる頭が、一斉に振り返った。そして彼らは立ち上がり、こちらを向いた。高さ3メートル程度の低い壁だったため、彼ら一人一人の顔と服装を識別することができた。母は彼らの視線が全て自分に向いていることにとまどいを感じた。視点を変えると、スタンドとと金網の間の通路に居た人たちも、こちらを向いていた。その通路脇に立ち並ぶ露店の人たちも、調理や販売の手を止め、誰もが自分に注目している。。
すべての視線が自分に向き、やがて大きな拍手の音が鳴り響いた。母はその光景を呆然と眺めるしかなかった。
さらに視界が切り替わる。全身を包み込む照明塔の光と、地鳴りのような歓声、さっきとは比べようもない大音響の拍手喝采。そして、母は野球場の中、マウンドの上に居た。
周囲を取り囲むスタンドから、1万を超える人たちの視線を一点に受け、母は足が震え、そこから動くことが出来なかった。そもそも、どこに行けばいいのか、これから何をしていいのか、何も分からなかった。ただ、自分に向けられている光と賞賛を、ただ全身に浴び続けるしかなかった。
少しずつ目が慣れてきて、1塁側のベンチに目を向ける。村山実、藤村富美男、藤本定義、山内一弘、金田正泰、ドン・ブレイザー、遠井吾郎、小林繁、中村勝弘、伊良部秀樹、そして星野仙一。阪神の球団史を飾る往年の野球人たちが、揃いの縦縞のユニフォーム姿で、全員がベンチ前に横一列にならんで母に向かって喝采を送っている。3塁側は仰木彬、衣笠祥雄、大杉勝男、津田恒美、上田利治、西本幸雄、川上哲治、稲尾和久等々、1塁側とは対照的に多彩なユニフォーム姿の人たちであふれかえっている。
観客が、選手が、監督が、グランドキーパーまでもが、マウンドに立つただ一人の人物に注目し、そして祝福していた。ただ一人、主役だけが、事の次第を理解できずたたずんでいた。
傍らに息子がいたこと、手をつないでいたことに母はようやく気がついた。息子は母のわき腹ほどの背丈で、小学3年生くらいの子供だった。スカイブルーを基調とした黄色い縁取りのユニフォームに身をまとっている。いつからこうして二人でいたのかと不思議に思いつつ、自分自身の、白くシワもシミもない手を見つめた。
「夢だよ!夢!」
息子は精一杯の甲高い声を上げた。それでも、身体の芯まで振るわせる歓声と拍手にかき消されそうな声だった。銀縁のメガネにナイター照明が反射し、母の目を強く刺す。細い目をつり上げ、日焼けした小さな頬、汗による微小な水滴が放つ無数の反射光。
息子が一歩、身を寄せてきた。母は無意識のうちに一歩下がった。つないでいた手を離す。薄手の水色のワンピースが風をうけて裾がひらめく、自分の衣装にもようやく意識が向いた。ノースリーブの肩に黒髪の毛先が触れる感覚にも。
息子はマウンドに立ち、グラブをはめた左手と野球ボールを持った右手を真上にのばす。そして両手を下ろしながら身体を右にひねって左足のひざを高く上げ、右足から左足のつま先へと体重を移しながら、力いっぱいの一球を投じた。
白球は一直線にホームベース上を通過し、その向こうに見える白く光る霧の中へと吸い込まれていった。歓声がより一層大きくなり、霧がホームベースを覆い隠し、やがて母の視界をまばゆく光る白一色で満たした。歓声と光度はいつまでも増し続けた。
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隣市に3万2千人収容の巨大な野球場が造られた。それ以来、プロ野球の興行はこの球場で行われるようになった。晴天に恵まれた初夏の夕暮れ、スタンドはすでに試合開始を待ちわびた観衆で満たされている。一列に並んで振られる応援旗、吹き渡るトランペットの甲高いメロディと音頭を取る太鼓のリズムが鳴り響く。
人通りの少なくなった球場外の広場に一組の親子がやってきた。若い母と小学校高学年くらいの男児が満面の笑みを浮かべながら手をつないで歩いてくる。黄色の長袖Tシャツとデニムのパンツで衣装をそろえている。息子だけ阪神のロゴが縫いこまれたキャップをかぶり、母はクセのない黒髪を風になびかせている。
息子が少し歩みを速め、母の手を引くような格好で入場ゲート前で立ち止まった。
息子が背負っていたリュックに母が手を入れて二枚のチケットを取り出し、係員に提示してゲートを通過した。
長い階段を上りきると、眼前に緑の映えた広大なフィールドが広がり、親子はその光景に圧倒されて足を止めた。親子は顔を見合わせた。母が何か話しかけ、息子は首を横に振った。やがて二人は、チケットに刷り込まれた座席番号を目指して歩き出し、3万2千の観衆の中に溶け込んでいった。
夕日が沈み行き、ナイター照明が灯る。一塁側からグランドに選手たちが飛び出し、歓声と熱気が最高潮に達した。
いまも、この世界のどこかで、「プレイボール」の声が響き渡る。