10.からっぽの輿の中へ
振るわれる武器をディーネが鞭で叩き落とし、その間をデコイは転がるように進んでゆく。
「しかし何だな、こりゃもう混乱に乗じるとかどころの話じゃねえな!」
スゥの後について、ただ敵の中を一直線に進むだけ。
それが逆に、周囲をかこむ敵集団が相応の手数を彼らに向けられない理由ともなってはいたのだが、それもそろそろ限界だろう。彼ら自身がスゥとは引き離されつつあったし、後方から追いすがる者も増えている。
「……ニーア殿」
カトランは傍らのニーアをちらりと見、そう呟くようにして言った。
「心得ました」
ニーアは、かつてゲッシュと名乗っていた時のようにそう答え、くすくすと笑ってみせた。
光学系の幻術が発動する。黒き盾と呼ばれるこの魔術は影響下にある者の目に飛び込む光を捕らえ、ごく近距離に事象の地平線を形成する。
見ていた光景が一瞬にして全て静止したことにメーネの配下たちはうろたえ、一切の行動が取れなくなっていた。その中を彼らは走り抜けてゆく。
「お前たち……いったいどういうつもりだ!」
スゥの前に飛び出すのは、かつて彼女とも言葉を交わした事のある魔族の男。
彼は慣性制御を展開し、スゥが無意識に起動していたそれに干渉し、彼女を押し止めようとする。
「……ザウロン殿!?」
カトランは彼の姿を見て、驚いたような声をあげていた。
似ている――いやしかし、別人かと。
「メーネ様も、あの精霊騎士も、もはやここには居ない!」
「どこへやったぁ!」
男の言葉に殺意を込めた叫びで応じるスゥ。慣性制御の出力が増し、男は押し切られそうになる。
そして振りかぶったスゥの拳には不可視の刃が形成されていた。
「待たれよ、スゥ殿。……あなたがクレフ殿を見つけたいと思うのであれば、話が聞ける機会は無駄にすべきではないのでは!」
男を庇うように前に出たカトランの姿に、スゥは一瞬力を抜く。
しかしその背後から次々と飛びかかりスゥとカトランを制圧しようとする者達に、再び彼女は凄まじい形相に戻っていた。全身に魔法陣が展開し、のしかかる者達を振り払おうとする。
「やめろ! お前たち、下がれ!」
男の叫びは最早誰の耳にも届いていない。そして、スゥが停止した事で完全に乱戦となりかけたその場所から、シラヌイは一人高く飛び上がって抜け出していた。
どうやったのか、空中でもう一段高く跳び、輿の上へと降り立つ。
アーベルはもみくちゃにされながら、シラヌイがその身に纏わせる魔法陣を見ていた。
「あれは……まさか」
これまでにただ一度だけ、見たことがある魔法陣。
機会があれば解析したいといいながら、結局その気にはなれなかったもの。
「さぁて、お仕事を始めましょうかね」
シラヌイはそう言うと、二人に分裂する。更に分かれた一体が同じ魔術を使い、三人へ。そして更に見たこともない魔術を使って、現れた大量のシラヌイが周囲に散ってゆく。
「まさか……まさかとは思うんだけど!?」
「ええ――」
かつて二重身の魔術を使い二人に分裂してみせたニーアは、呆れたように笑いながら口を開いていた。
「あれら全てが実体ですわね。多重影分身の魔術……無茶をするものです」
100人近いシラヌイが暴れまわる中、その場には本当の混沌が満ちる。
誰が味方で誰が敵なのかも分からずあちこちで起こる同士討ち。悲鳴と怒号、そして魔術の炸裂音の中をカーラ達は駆け抜け、輿の中へと飛び込む。
「シラヌイさんは上っすけど、カエデさんは!?」
そう言ったレイリアに、グレイは同じ場所に居るよと答える。
「本体と、その中継機はあれをやっている間、完全に無防備だからね。彼女が付いていないと」
そのグレイの言葉に、アーベルは先程見た魔術の正体について推測をつけていた。
「なるほど……分身の役割を完全に本体と端末に分けてるわけか」
自分を二人に分けたところで結局のところは一人に過ぎない。
咄嗟の状況に対し同時に同じ反応を返してしまう自分自身と、連携など出来ない。
そういった理屈によって、かつてクレフ達はニーアの二重身を破ったのだが、この魔術はその問題をある方法によって克服していた。
動かない"本体"が分身を指揮し、その戦術判断の大部分を担い。
端末となる者達は主に目の前の状況に対する条件反射のみで行動する。
――これにより、自分自身だけで構成された部隊を作り上げる事を可能としたのだ。
「だけど……いかれてるとしか言い様がないな」
ニーアすら呆れるような魔術だ。短時間使うだけでどれだけの負荷がかかるのか。
アーベルは苦笑すら出来ずにその表情を歪める。
「……クレフ様は、どこに居るのです」
スゥは輿の中へと飛び込む際、先程の男を共に引きずり込んでいた。
今は彼を組み敷き、その首筋へと無影剣をあてながらそう問いかけている。
「既に解放されている。メーネ様はあの塔を見に行き、奴への興味を一時的に失った。……ここへ来る途中で出会わなかったのか?」
男は軽く咳をしながら言い、その言葉を聞いたカーラは苦く吐き捨てる。
「無駄足だったと言うのか」
「して……どう致しましょう、カーラ様」
これまでずっと無言で居たパメラが問い、カーラは即座にそれに答えた。
「撤退だ。もはやここに用がないならば、連中が混乱から立ち直る前に――シラヌイが暴れている間にここを脱出する」
一刻の猶予もないと言うカーラに、パメラとレイリアはうなずき一つを返して輿を出た。
それを追ってカーラ達も飛び出し、二人が先導する方角に向かって走り出そうとする。
が、彼らの頭上を巨大な影が覆い、陽光を遮ったのはまさにその瞬間だった。
「……グランゾ!?」
カトランの口から絶望的な叫びがあがる。
まさにカーラ達が逃げ去ろうとしていた方角、その先へと降り立ったグランゾは、未だ混乱の只中にあるメーネの軍勢を見て、やや困惑したような声をあげていた。
「……随分と奇妙な事となっている。殆どのものが、我にも気付いておらぬようではないか」
「では、まずはこちらを向かせねばならぬのぅ?」
言ったノエニムの手に膨れ上がる白光。
そして魔法陣の展開とほぼ同時に降り注ぐその光を、その場に居た全員が回避を意識する間も与えられずに頭上から受けていた。
「ぐ……っ」
多重影分身を強制解除される衝撃に、その場に膝をつくシラヌイ。
周囲に散らした設置型の防壁が次々と砕け散るのを感じながら、カエデもまた舌打ちをする。
光の正体は軽い衝撃波を混ぜた強力な魔力霧散である。突如として音の消えた世界に呆然と立ち尽くす彼らは、今気付いたとでも言うようにグランゾの巨体を見上げる。
グランゾは、特に何も言うべきことはないとでも言うように立ち尽くしていた。
代わりにその肩から降りてくるのはノエニム。
彼女は手を触れぬまま、浮かせたように支えるメーネの身体をその場に下ろすと、魔術によって拡大された声でその場に居る者達へと告げる。
「誰ぞ、受け取りに来るが良い。そなたらの主――その死体を、のぅ」
軍勢がざわめいていた。再びの混乱に叩き込まれ、小波のようにそれは広がっていった。
やがて彼らはノエニムの身体がもはや乾いた血に塗れている事と、それが彼女の足元に置かれたメーネのものである事を認め、撒かれた油に火が着くように憎しみと殺意の念を彼女へと向ける。
「貴様ぁ……!」
「グランゾと組み、メーネ様を……」
「どのツラを下げてここへ現れた!」
数百の声が混ぜ合わされた中で辛うじて聞こえた言葉はそのようなもの。
しかしノエニムは面倒くさそうにそれを受け止め、ただ一言で適当に受け流す。
「黙らぬか。……勘違いをするでない、やったのは我らではないわ。あの塔相手に食われようとしておったこやつを、せめて死体だけでも持ち帰った事について、礼の一つくらいあっても良かろうが」
信じられぬ、というように配下たちはその言葉を聞いていた。
そしてカーラたちはそれ以上に。信じられぬといった面持ちでその光景を眺めていた。
「……メーネが死んだ、だと?」
「地上侵攻の日から今までのことが全部夢だったって言われた方が、まだ信じられそうだね」
カーラの言葉に呟きを返すアーベル。パメラもまた受けた衝撃は似たようなものらしい。
レイリアだけが、良く分からないといった風に彼らを見上げていた。




