9.割れる人の海
スラスターを吹かし、グランゾが封印街を飛び越えてゆく。
住人たちはそれを不安げに、或いは単に珍しいものを眺めるように見上げていた。
「あれは……グランゾ?」
クレフもまたそれを見ていた。街からやや南東の荒野で。
メーネがもし心変わりしたとしても決して出会わないよう、東側に大きく迂回して街へと戻るつもりだったのだが、あんな物が空を飛んでいるのを見るとは。
彼が復活したという噂は聞いていた。しかし特に会いたいと思える人物でもないことだ。
クレフは特に彼を探しもしなかったし、むしろその居場所を避けて通っていた。ために復活後の姿を見るのはこれが初めてだ。
「南へ行くのか……」
その行先を視線で追い、何か胸騒ぎを感じて、クレフは踵を返していた。
元きた方角、メーネの軍勢が居る場所へと駆け戻ってゆく。
カーラ達はようやく、メーネの軍勢を捕捉していた。
街の真南、やや遠い場所に陣を構えるその集団は、輿を中心にして動かずに居る。
「さて……遂にここまで来てしまったが」
カーラは呟くようにして言う。そう――ここまで来てしまったが、未だプランと言えるものはない。
「救出って事でいいのかい? それとも相手さんとの交渉になるのか」
デコイはそう言っていた。そうだろう、とカーラはうなずく。
「選択肢としてはその二つしかあるまいな。だが、正直なところ後者は無い」
そもそも交渉が可能な相手とも思えぬ。
気分次第で即開戦となるのだから、メーネの機嫌が極めて良い時に訪れ、話を切り出し即快諾、という展開でもなければ目的を遂げることは出来まい。それは交渉と言うのかどうか。
「……博打ですらねえな」
デコイはそう言って苦笑していた。
「では、救出ということですか」
ディーネは身を低くしながら鞭を取り出し、右手に構える。
「それも至難だろうがな……」
言いながら、カーラも長剣を鞘ごと抜いていた。
おそらくはあの輿の中に居るクレフを救出し、メーネの追撃を振り切って逃げる。グレイが帰還のためのゲートを開けるというのならそれが叶う場所まで。
幸いこちらには隠密能力の高い者が揃っていることだし、遭遇時の一撃さえ何とか出来ればこれは可能であると思えた。
或いは――現実的ではないが――全く気づかれずに救出するのが至上。次点として混乱に乗じて連れ出すことだ。輿の周囲には大勢の配下が居るため、救出のさい発覚を免れない隠密よりは、端から混乱させるほうを選択するのが良いと思える。
「突撃して荒らし回ればいいのね。へっへぇ、得意分野得意分野」
シラヌイはにやにやと笑ってみせ、レイリアもやや緊張した面持ちながらうなずいて応じる。
「後は……そうだな。なるべくなら買う恨みは少なくしたい。殺すなよ」
そう言ったカーラの長剣にアーベルは接合の魔術をかけ、鞘が外れないようにした上でその強度を高める。ただの鈍器、でも彼女が使うのならそれは非殺傷兵器たりえるのだろうか、という若干の不安を感じながら。
「では――」
仕掛けると、そうカーラが告げようとするその寸前、スゥは飛び出していた。
「ち、あいつ……!」
カーラはその後を追う。他も次々とそれに続き、なし崩し的に襲撃に入ってゆく。
スゥの背中を苦々しく見ながら、しかしその実カーラは仕方がないか、といった感想を抱いていた。ここへ辿り着いた時点でスゥは激発寸前だったのだから。
結局、作戦とすら呼べたものではないこんな事のためにうだうだとやっていた――そんな風に思われていたとしたら心外だが。いずれにせよ、ここまで持っただけで良く我慢したといったところか。
「くそ、クレフめ……」
貴様一人居ないだけでこの有様だぞと。カーラは彼が戻ったなら、たっぷりと文句を言ってやるつもりでいた。
「え……!?」
走りながら、アーベルは声をあげる。
彼の前方を、彼女は以前からこんなにも速かったかと思うほどのスピードで駆け抜けるスゥの全身に数種の魔法陣が展開してゆく。アーベルの目には、藍色の魔力光がスゥから翼のように伸びるのが見えた。
「彼女、身体強化の魔術なんて使ったっけ?」
そればかりではない。アーベルから見てすら、身体強化系の魔術にこれほどの種類が存在しただろうかと。見覚えのない魔法陣が次々と閃いてゆく。
クレフに教えて貰っていたのだろうか、という推測はすぐに否定される。彼ならば、スゥに本格的に魔術を教える気になったのだとしたら、使用しやすい初級魔術から順に教科書通りに教えてゆくだろう。
妙なカスタムなどもさせず、それぞれの詠唱まできっちりと。
しかし、スゥが今やっている事はそうではない。
無詠唱で複数種を同時に多重展開している。こういった事はクレフすらあまりやらない。
「……あれは無意識だな。おそらく魔術を使っているという認識すらあるまい」
カーラはそう言っていた。
身体強化系魔術のイメージなど、極論してしまえば"もっと強く、もっと速く"だ。
よって魔力を使う感覚に慣れてさえいるなら、強化系と障壁系の魔術に関しては自分すら知らないものが自動的に発動してしまうなどという事も無いとは言えない。
無論、普通の人間ではそうそう起きない事ではあるが。
「なにしろ奴は、世界チャンプ級のバカだからな」
カーラはそう言って笑っていた。
「そこをどけえぇぇぇぇぇぇっ!」
トンファーを抜きながら叫ぶスゥ。メーネの配下たちが困惑したように彼女を見る。
そのうち最も外周に居た者に、スゥは接近し打撃を打ち込む。冗談のように宙を舞うその相手が地面に叩きつけられる前にもうひとりの足が地面から離れ、そして次々と。
何にどう何をされたのか、周囲から見てすら把握出来ない状態で、人が吹き飛んでゆく。
慣性制御と磁力操作による物理法則を無視しかけた挙動を、高速神経系と高速演算による強化された反応が完璧に制御し、元々の頑強な身体を更に魔術で強化した肉体がそれらの負荷に耐える。
特に技術などは何もなかった。
ただ、常軌を逸した速度と力でその場に居た者を押しのけていっただけだった。
たかがそんなものを相手に、かつて魔王やその配下と呼ばれた者達がほぼ抵抗も出来ずに宙を舞う。人の波が割れる。
「いやあ、凄いね。うちに欲しいくらい」
笑うシラヌイをカエデは窘めるように見ていた。
「相手は黒き民ですよ。正気ですか?」
「いいじゃない、その辺はあたし達が言えた事でもない訳だしさ」
そう言ったシラヌイはグレイの方に視線を送る。肩をすくめながら両手を広げ、続ける。
「ねえ閣下。こんな世界に来てまで隠しとく必要あるのかな? ちょっと窮屈なんだけど」
「……仕方ないねえ」
溜め息を吐くように言われた許しに、シラヌイは使用していた変装用の魔術を解いていた。
頭の上に生える長い耳、腰から伸びる太い尻尾。銀狐のそれをぱたぱたと動かし、彼女はやっと楽になったとばかりに笑う。
「エルフだって!?」
ようやっと付いて来ていたクライスがぎょっとしたように仰け反り、その場にこける。
それを助け起こすメディアに、カエデはちらりと申し訳無さそうな視線を送り、自身も元の姿へと戻っていた。
「側近がエルフか。確か、エルフもそちらでは人間としては扱っていなかった筈だろう」
スゥの開けた一本の道を進みながら、カーラ。
それはまるで割られた海の如くに。スゥが駆け抜けた後で他の者も我に返り、それとそこと通る者を押し止めようと、道を閉じようとしていた。
そんな人間と魔物の群れをカーラは手に持った鞘で適当に薙ぎ払ってゆく。ぎゃあぎゃあ言いながら彼女の後に必死で付いてくるレイリアの腰を掴もうとしていた者の腕を叩き折り、更に土壁の魔術をばら撒いてこちらを魔術で狙撃しようとしていた者たちの視界を切る。
「貴様という人間が、いよいよ良く分からんな?」
「僕は、自分を普通過ぎるほど普通だと思うんだけどねえ」
グレイはそう言って苦笑していた。




