17.他愛もない、けれど深刻な、嘘
メディアは膝を落とし、その場に座り込んでいた。
その肩に手をかけるカトランに取りすがって泣く。
何が起きていたのか、正確なところは把握出来ない。
しかし、もう緊張は解いても良いのかと、クレフ達は深い息を吐き出していた。
だが。
「う……わわっ」
慌てたような声をあげるアーベル。
その視線が向く方向を、疲労しながらもクレフ達の目がゆっくりと追ってゆく。
「…………ニー、ア」
そこには彼女が居た。かつての姿で。
「目、治したんすか……ゲッシュさん」
レイリアは警戒しながら彼女を見ていた。これまでずっと視覚を"封じ"、自ら動く事を"否定"して来た彼女が傷を癒やして立ち上がったのだ。尋常な事態ではないと思わざるを得ない。
というか、彼女はつい先程やらかした。
その続きをしようというのか、という想像に至るのが自然だ。
けれど、何だろう。レイリアは未だ武器を手に取っては居なかった。彼女に感じる禍々しさは、以前に比べれば随分と弱まっているかのように思ったのだ。
あの涙のせいっすかね、などと思う。
彼女に変化があれば。そう願うような気持ちだった。
「はい。もう……要らないので」
それでも声が響けば、ぞくりと背筋が震えてしまう。
彼女は顔を上げて、静かに立っていた。
自分の中で結論が出た事ではあるが、もう一度おのれに問い直す。
まだ――わたくしは、彼を殺したいのだろうかと。
殺したい。それは確かだ。
だが、今では色々と冷静になれた事もあって、その殺意には理由がないものだということも受け入れられている。これはたんなる逆恨みに過ぎない。
彼らには自分を恨む理由があっても、自分に彼らを恨む理由など無いのだ。
いや、自分を恨む理由があるのにも関わらず、彼がそうしない事こそ、わたくしには受け入れ難かった。――そう考えると理由はある。
どうしようもなさという理由が。
おのれがそういう、どうしようもない生き物であるという理由が。
ただそれを受け入れるのは楽だ。
笑い、殺し、破滅へと向かってゆく。それはひどく楽しい。
受け入れてしまえば快楽そのものだった。
だが――。
楽しいから選んでいた、から、こそ。
……そうでなくなれば、もう何の理由も存在しないのね。
あの獣人め、ほんとうに――興を削ぐような事を言ってくれる。
この何もかもが下らない世界。
この何もかもに価値のない世界で、何も自分からは捨てたくはないなどと。
このあそびは、他人の事なんて考え始めてしまったら、もう出来ないのよ。
絶望し、向ける悪意と向けられる悪意を愉しんでいたわたくしが、ふと失笑してしまった。
悪意に善意を返されたところでただ腹立たしいだけのわたくしが、ふと耳を傾けてしまった。
そうして、少し相手の事をわかってしまったら。
もう、立ち尽くすしか出来なくなってしまった。
「……クレフさん」
最初に会った時のような声で、ニーアは彼の名前を呼んだ。
「……久しぶりだな」
気の利いた台詞一つすら出て来ない。それはいつもの事だが。
ニーアは糸のように細めた目でクレフを見ていた。
眠たげで、微笑みがひどく分かりづらい。
「お変わりないようですね……」
「そっちは……少しやつれたな」
二ヶ月ほどしか経っていないが、仕方がないだろう。
変わらない。へんに真面目で言うことに面白みがない所も。
わたくしの事を警戒しながらも、あちらから構える事は出来ない所も。
こんなにも……つまらない男だった。
そう。わたくしは、ようやく――他人にこの言葉が言えるのか。
殺す価値もない――と。
「ええ……。このような生活では、仕方がありませんね。けれど、わたくしは今の生活に満足しています。共に行動する方達も、良い人たちばかりで……」
「このヒトが言うと別な意味にっぎ!」
アーベルの脛がカーラに蹴られる。まだお前が口を出すのは早い、とばかりに。
なおパメラとレイリアは若干青ざめていた。
何かを頼まなければ動こうとしないゲッシュを、この二人はあまり良く扱った覚えがない。
「ときに。あのホーリーシンボルは、まだ持っておられますか」
「え……あ、ああ。……ここにあるぜ」
クレフは胸元からホーリーシンボルを取り出していた。彼女の宗派に改宗した際渡されたものだ。円と十字、それに下向きに伸びた翼を組み合わせた、やや装飾過剰と思えるもの。
クレフがそれを持っている事にニーアは驚くでもなかった。当たり前のように表情を動かさない。しかし口から飛び出したのは全く逆の言葉である。
「あなたにとっては、もはや。忌まわしいものでしかなかったでしょうに。どうして、それを捨てずに持ち続けていたのか……わたくしにはわかりません」
「そりゃ、まあ……な」
クレフはそれを否定しなかった。やや考えた後、再び口を開く。
「捨てられなかった。あんたを思い出すことを恐れていたが、同時に忘れたくもなかった。俺は何故――あんたにあれほど憎まれたのだろうと、そうずっと思っていた。でもな……」
考えながら言葉を継ぎ、クレフは続ける。
「今では仕方なかったんだろうって思ってる。あれ以外にあんたから生き延びる道はなかったんだろうし、そうすると俺の感じ方は間違ってなかったんだろうと思える。その上であんたから憎まれるなら、俺はそれを忘れないまま、あんたとは会わない。このままが一番いいんだろうってな」
今回は仕方なくこうなってしまったが、望んだことではなかった。
細く長い糸でずっと繋がっている。
それがクレフとニーアの、最良の関わり方。
ニーアはそれを聞き、うなずいていた。
「では、それを続けなさい。わたくしの――唯一の信徒、クレフ」
彼女は踵を返し去ってゆく。行く手にいたパメラとレイリアが短い悲鳴をあげて道を開ける。
と、彼女は不意にぴたりと足を止めてクレフを振り返っていた。
「そう――ひとつだけ面白い事をあなたには教えておかなければ。クレフさん、あなたの治療はわたくしが行いましたが、それにわたくしが何を用いたか――知っていますね」
「あ、ああ……蘇生だろ。再生で回復しきれなかったから、その後にもう一度……」
「いえ?」
ニーアはそう言って、くすくすと笑った。以前にも見た笑いを。
「最初に使ったのが蘇生。それでなくては効かなかった。クレフさん、あなたは――わたくしの前に連れてこられた時、既に死んでいたのですよ?」
「え――?」
「な――」
メディアが同時に小さく声をあげるが、クレフにはそれどころではなかった。
頭の中がざわつく。死――? 確かに、蘇生は、その名の通り死者の蘇生をも。
いや、おかしくはないか? 蘇生は最高の治癒魔法。完全に効果を発揮したのなら、その後に身体を動かせないほどの後遺症など残る筈が――。
しかも、その後に再び、他の人間を部屋から出して行われた治療とは、なんだ。
覚えていない。自分がされた事なのに、覚えていない。
あの後俺は、見たものを分析したのではなく、知識の中に最初からあったものをアーベルに対して披露しただけだった……か?
震えながら呆然と佇むクレフの場所へと、ニーアが歩み寄る。
クレフはそれにも気付かないように、記憶をたどり続けている。
「あなたは……そのホーリーシンボルに、毎日大量の魔力を注いでくれていますね。特に魔術を使う予定などがなければ、余剰ぶんを全てと言えるくらいに。驚きました。もしや、気付いているのではないかと思いましたよ。わたくしの命を繋ぐことが、自身の命をも繋ぐものである、と――」
耳元で囁かれた言葉がクレフの理解を否応なく呼び起こす。
「あ――」
振り返るクレフに、ニーアはその眼を開いて笑いかける。
「死霊術――ごきげんよう。祈りなさい、その生命尽きるときまで」