16.選択とすら言えないもの
ツヴェルケルはスゥへと近づいてゆく。
スゥはそちらへと顔を向ける事もなく、倒れたまま動かないクレフを見ていた。
「スゥ……」
名を呼ばれて、スゥはびくりと肩を震わせる。
「納得は出来ないだろうと思う。だが、まだ迷ってくれているのなら……」
ツヴェルケルは自分の首にかけていた鎖を外した。
そこから指輪を取って、スゥの手に乗せる。
「この指輪を付けてくれるか」
彼女は無言のままだった。
自分の掌に置かれた指輪をじっと眺めて、一度クレフへと目をやり。
仕方ないと言うようにそれを嵌める。
嵌める指には少し迷って、指の太さと輪の大きさを合わせた後、薬指を選んでいた。
その瞬間、スゥの頭の中には何かが流れ込む。
この指輪の使いみちと、この指輪の意味。そして本来これが誰の手にあったのか。
それらが妙な違和感や気持ち悪さを伴うでもなく、自然に頭の中へと入ってきて。
スゥは指輪を嵌めた右手をすっと後ろへ引いていた。
ツヴェルケルの頬に拳がめり込む。
倒れ込む事もなく、いや上体を揺らす程度の衝撃もない一撃だったが、ツヴェルケルは呆然とそこに突っ立っていた。そして目の前に立つスゥを眺める。
『あなたは、やはり……わたしを見ていた訳ではありませんよね』
スゥの姿に再び、もうひとりの姿が重なっていた。肌の色と角の有無が違う彼女。
かつて彼女にも言われた台詞が、記憶の中と現実の耳の両方から響く。
「あ――シェルディア……」
俺はまた同じ間違いをしたのか。そう言う前に、二度目の拳が顔面に入る。
「はは……なんだあれ」
大の字になって地面に横たわりながら、アーベルはそれを見ていた。
「彼女の魔力は藍色なのに……右手だけが白紫いや……」
スゥはツヴェルケルを殴り続ける。
適応装甲が一切働かない事に、ツヴェルケルは疑問を抱くでもなくむしろ当たり前と思っていた。彼女のギフトが彼女に効く筈が無いではないか。
そして、スゥは右手を顔の前に掲げ、呪文を唱える。
自分がただ一つだけ知っている呪文を。
唱えながらイメージを纏める。
刃がそこにあれば斬れる場所に、指輪のアクアマリンを置く。
砕ける宝石。不可視の刃に指輪自体も押し広げられ、そこに描かれていた魔術文字が周囲に展開してゆく。
スゥの持つ刃に絡まるそれはどんどんと巨大化し、彼女の頭上には魔力の刃ではない、巨大な魔力の柱とでも呼べるものが出来上がっていた。
トスするようにそれを押すスゥ。
それは、ゆっくりとツヴェルケルの上に落ちた。
「シェルディア……ここでの俺の役目は、終わったのだな」
ツヴェルケルはそう言って、白い光に解けた。
それらは蛍のように空中に散って、もはや戻らなかった。
「クレフ様!」
「スゥ……」
駆け寄ってくるスゥ。彼女に抱き起こされて、クレフは呻くようにその名を呼ぶ。
「クレフ様もクレフ様ですよ、わたしは……行けば良かったのか、戻れば良かったのか、いったいどっちだったんです?」
不満げに言うスゥに、そういうことかと理解する。
彼女はただ、俺が何を望んでいるのか分からなくなっていたのか、と。
「悪いな。下らない事ばかり考えすぎていたんだ」
クレフはそう言い、ようやくにして認める。
何が娘のようなものだ。
何が依存だ。
何が離れさせなくてはならない、だ。
俺はこんなにも、彼女を独り占めしたい。
「最初からはっきりとしない事ばかり言っているから、こういうややこしい事になる」
肩をすくめるカーラに何も言い返す事が出来ない。
スゥと抱き合い、支えられながら立って、クレフはこれでようやく終わったのだと、そんな事を思っていた。
「――異端者クレフ」
途轍もない悪意を乗せた言葉が、笑いかけた者達の表情を凍らせる。
そこにはメディアが立っていた。
明らかな憎悪を込めた表情に誰もが困惑する。
「……なん、だい? あれ……」
アーベルはそう呟いていた。誰もそれに答えられない。
彼女の憎しみの理由が、誰にもわからない。
ああ――。
そういうことだったのか、とメディアは理解していた。
全ては仕方のないことだったのだと自分に言い聞かせていた。
魔王との戦いがああいうことになったのも。
その後自分がこうなったのも。
全ては誰のミスでも悪意でもなく、そうなるべくしてなったと。
他に選べるもっと良い道などなく、仕方のない。
少なくとも妥協出来る、最良のうちの一つだったのだと。
だが、そうではなかったのか?
おまえが、その女のことを考える想いによって。
歪められた果ての始末だったというのか?
ただの色恋、欲であったと。
それならば――私はおまえを恨める。
メディアはその憎悪を喜んで受け入れた。
どこへも向ける事が出来ずに燻っていた感情を今こそ処理出来た。
武器も持ってはいないが武器など要らない。
自分には魔法がある。
このために、即死が使える階位まで一時的に許されていたのだ。
割り当てられた魔力量は一度きりだが、それで構わない。
やつ一人を殺せばそれで済む。
自分の気持ちは報いられる。
メディアは標的を定めるために集中し――。
しかし、それは背後から組み付いた何者かによって乱されていた。
「それをやってはならない」
メディアを背後から抱きつくように抑えながら、カトランはそう言っていた。
「邪魔を……しないで下さい!」
身を捩って暴れるメディア。神聖魔法に別段準備動作は要らない。ただ心の中で引き金を引けば良いだけだが、狙いを付けるにはやはり集中が必要だった。この状態ではやりにくい。
「お前が何をしようとしているのかは分からない。だが、それをしてはならない」
カトランはなおも言う。メディアも重装を身に着けて旅をするため身体は鍛えていたが、獣人であるカトランに筋力ではかなわない。
「あなたには関係のない事です。離して下さい」
「駄目だ、関係がある。むしろ……お前のしようとしている事が、お前ひとりの私怨であるからこそ、させるわけには行かない」
メディアの中で怒りが弾けた。この訳知り顔で語る獣人が憎い。
「会ってまだ一日。少しばかり言葉を交わした程度で何を……あなたには命を救われましたが、だからといって、私のすることに口を出す権利が出来たとでも?」
「そうではない。そうではないのだ。おれの気持ちは最初から同じだ。お前を捨てたくなかったのだ」
意味がわからない、といった顔をメディアはしていた。カトランは更に続ける。
「お前の使命とやらについて、先刻聞いた。だが……お前はそれにたいした意味がないと思っている事も、同時に聞いている。今やろうとしている事は、使命を果たすためではない……そうだな?」
「……はい」
「何か許せぬ事が出来たか、それに気付いてしまったか。それが……我等と共有出来るものならそう言うがいい。彼らと敵対するに足る理由なら、そう言ってくれ」
「…………く」
そうではなかった。これはただ自分ひとりの屈辱だった。
「では、それをやってしまった後、どうなる」
メディアはやや冷めた頭で周囲を見渡した。
アーベルやカーラが事態に気付き、今にも激発しそうにこちらを見ている。
「私は、殺されるでしょうね。……でもそれもあなたにはどうでもいい筈」
「その後だ」
その……後?
「我々と共にいた者のしたことだ。どういうことかと、我々は問われるだろう。その時……おれはお前を捨てなければならないのだ。おれは……そうしたくないのだ」
「う……」
「戦いの中で失うならば良い。それは仕方がないと思える。敵対する事でさえ、やはりその時納得づくのことだ。だが――おれは誰かを捨てたくないのだ。もう誰も、失いたくないのだ」
静かな声だった。メディアにはもう抵抗する気は失せていた。
「これはたんなるおれの我儘だ。お前にはどうでもいいことかもしれない。だが……おれに、自ら誰かを捨てさせてくれるな。そんなことはもう……したくないのだ」
レイリアは、何か近くで小刻みに息を吸うような音がしているのに気付いた。
そちらへと目を遣る。音のあるじは、横たわったままのゲッシュだ。
「ゲッシュさん、笑って……いや、もしかして……泣いてるんすか?」
まさか、信じられぬというようにレイリアは呟いていた。