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シュガー  作者: すもも
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 睛を醒ますと、涙が渇いていて、頬や睛の周りに張り付いていた。陽はもうずいぶん昇り、部屋はかなり明るい。障子を通して太陽の光が溢れている。

私は起き上がり、洗面台に行く。こわばる顔を鏡で見る。

「ひどい顔だな」

 さすがに誰にも見せられないな。

 私はすぐさま水を張り、すべてを洗い流す。冷たい水が頬を引き締め、睛を醒まさせてくれる。次第に頭もスッキリしてゆく。意外に柔らかいタオルで水滴をぬぐう。頬が冷たい。

「気持ちいい……」

 ふう、と溜め息をついて、もう一度鏡を見る。

 泣いていたと分かるだろうか。睛は赤くはないが、少し腫れぼったいような気がする。

「ほんの少し。大丈夫だろう。冷たい水で顔を洗ったし」

 私はブツブツと呟き、身支度を整える。

 砂糖くんはもう起きているだろうか。朝ご飯はもう食べてしまっただろう。時計を見ると、もう一○時を過ぎている。

「少し会いにくいな」

 何となくそう思う。

 何故? 泣いてしまったから?

 まあ、いい。気にしないことにしよう。

 部屋を出て、鍵をかける。和風の古い建物なのでオートロックじゃないのだ。

「あれ……?」

 隣の部屋の扉が全開になっている。砂糖くんが泊まっている部屋だ。

 私は鍵をポケットにしまいながら、その部屋の前を通ってゆく。

 すべて見えたわけではないが、畳の上には荷物が何もなく、綺麗に片付けられている。掃除係の従業員が入った後のようだ。

 私は一瞬、ドキリとする。

 障子と玻璃戸が開け放たれ、空気が流れてゆく。

砂糖くんがいない。

食堂にいるのだろうか。

心臓がドキドキする。私は慌てて食堂へ向かう。朝食の時間を過ぎているせいか、ほとんど人がいない。

「………」

 私はポツンとひとり立ち尽くす。

 何だろう。この気持ち。頭が真っ白だ。

「朝食ですか?」

 宿の人に聞かれ、私は頷く。

「じゃあ、席に座って待っててくださいね。すぐ準備しますから」

 窓際の席に座る。ここからは海が見えない。何か森のような林のような、樹々のざわめきが見えるだけだ。

 朝食はすぐに運ばれてきた。ご飯とお味噌汁と焼き魚。海苔と納豆。漬物。純和風で、あっさりとした朝食だ。

 黙々とひとりで食べ、食後には珈琲まで飲んだ。

 樹々のざわめきを聴く。汐騒に似ている。瞼を閉じるともう自分が何処にいるのか分からなくなる。

 ざわざわ、ざわざわ、緑が揺れる。白い水の粒がコロコロ転がる。ここは何処だろう。緑が流れる。水が揺れる。チラチラ光るのは水の泡? 星? ここは宇宙だろうか。私は何処にいるのだろうか。

「お客様……?」

 どれくらいそうしていたのだろう。瞼を開けると、宿の人が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「ああ、すみません。食べ終わりました」

 私は慌てて席を立ち、食器を片付ける。そそくさと食堂を出て、フロントの前を通る。私は思わず立ち止まる。

 私がじっとして動かなかったからか、凝視していたからか、フロントの人が声を掛けてきた。

「どうかしましたか?」

「あ、はい。あの、私の隣の部屋の人って……あの二○二号室の……」

「ああ、そのお客様なら今朝早く出て行かれましたよ」

 あっさりとそう云う。

「……そうですか」

 私は呆然と歩いてゆく。

 何だろう。この気持ち。

 哀しい? 悔しい? それとも、淋しいとか?

 違う。そういうんじゃない。

 何だろう。ただ呆然とする。ぽっかりと穴が開いたような。ただがらんとした空洞がそこにある。

 随分、あっさりと行くんだな。

「まあ……そんなものか……」

 私たちは知り合っていくらも経っていない。ただほんの一時、一緒に旅をしただけだ。彼には行く処があるんだろう。

 私だって黙って行こうとしたではないか。きっと彼にも黙って行く理由が何かあるのだ。或いは最初から何もないのか。

「ふう……」

 私は溜め息をつき、部屋へ戻る。

 さて、どうしようか。ひとりでしばらくここに泊まろうか。どうせ最初からひとりでいるつもりだったし、いままでだってずっとそうだったのだ。ひとりは慣れている。

 慣れているけど、何だろう。この感じ。

「………」

 私は頭を振り、頬をパンと叩く。

「散歩でも行こう……」

 私はのろのろと準備をして、部屋を出る。

 フロントに鍵を預け、外に出ると、陽がもうずいぶん昇っていて、かなり暑かった。

「もうすぐ夏がやってくるんだなあ」

 Tシャツとかサンダルとか買わないといけないな。あと他にも色々……

「頭が廻らない」

 私は独り言を云い、周りの人に振り返って見られるのも構わずに、さらに溜め息をつく。

「とりあえず、この辺、散歩しよう」

 海は昨日行ったから、今日は反対側の森みたいな処に行こうか。いや、やっぱりやめよう。迷って出られなくなったら困るし、行くなら誰かと一緒の方が安心だ。

「……誰かって誰だよ」

 独り言が止まらない。また周りの人が振り返って私を見る。

 私はさすがに気まずくなり、そそくさと歩いてゆく。

 結局海岸沿いを歩く。前とは反対方向に歩いてゆくと、砂浜ではなくごつごつと岩の並んだ波打ち際が見えてくる。

 行ってみようか。でも、岩で足を滑らせて転んだりしたら痛いしなあ。ぬるぬるしそうだし、私の運動神経でも転ぶかもな。なんて、もともとそんなに運動神経がいいわけでもないけど。

 声に出さず、ブツブツ思う。いや、もしかしたら声に出てるかも。

 岩に降りてゆくのはやめて、海岸沿いの道からフェンスに寄りかかって海風に当たる。太陽が照っていて暑いけど、風が吹くとずいぶん涼しくなる。気持ちがいい。

 ふと道の先を見ると、お土産屋とかアイスクリームを売っている処があるのが見える。

「アイスクリーム……まだ奢ってもらってなかったのに」

 私はアイスクリーム屋へ向かう。ずんずん行くと、その先に赤い大きな鳥居が見えてきた。道の反対側だ。

「神社があるんだ」

 私はアイスクリームをやめ、道を渡った。石段を登り、真っ赤で大きな鳥居の下に辿り着く。首を曲げて空を眺める。

「大きいなあ……」

 碧い空の真ん中に赤い鳥居がある。周りの樹々が揺れ、ざわめく。陽が遮られ、私の顔に影を落とす。時折、木漏れ日がフラッシュを焚いたように眩しく光る。

「ここ縁結びの神社なんだって」

「へえ」

 そんな会話が耳に聞こえてくる。

 今日はやけに人が睛につくな。

「ああ、そうか。休日だからか……」

 私はひとりだなあと今更ながら思う。一緒に行く友人も恋人もいない。家族はいるが、あまり現実的ではない。家族とはもうずっとまともに会話をしていない。うん、とか、ううん、とか、返事をするだけ。嫌いとか好きとかそんな感情さえない。

 私はいつからこうなんだろう。

 ひとりが好き? 確かにひとりは楽だ。何にも煩わされることはない。哀しむこともなければ喜ぶこともない。その方がいい。傷つくくらいなら、感情などなくなればいい。機械になりたい。ずっとそう思っていた。

機械(ロボット)のようになれたら。そうすれば楽になれる。哀しむことも苦しむことも、こんなふうに落ち込むこともない。砂糖くんだって、あんな想いをすることなどないのに。

「………」

 機械になるのがいいのか、悪いのか。本当の幸せは何処にあるのか。

「……そう云えば、玻璃(がらす)細工の薔薇を探しに来てたんだっけ」

 それを見つけたら、どうなるのだろう。私にも感情が戻って、すべてが動き出す? いま以上に苦しむことになる? 砂糖くんはどうだろう。砂糖くんが心臓の薔薇を取り戻したら、また絵が描けるようになるだろうか。

「ふふ……」

 見知らぬ人が振り返って私を見る。変な人を見る目つきだ。

 玻璃細工の薔薇。自動人形(ロボット)の心臓。

 そんなもの本当にあるわけがないのに。

 それに私はともかく砂糖くんは機械なんかじゃない。だから、あんなに苦しんでいるのだ。のたうち回るほど、苦しんでいる。笑顔の裏で泣いているのだ。でも、このままいったら私のように感情がなくなってゆくのかもしれない。そのためにはやはり玻璃の薔薇は必要なのでは。

 それじゃあ、私は? 本当にそれが欲しいのかな。まだ微かに残る感情を完全に消して、本当のロボットになってしまいたいのではないのかな。

「とりあえず、縁結びのお守りでも買うか……」

 そしたら、砂浜に戻ってみよう。砂を漁って、二人分の貝殻を見つけてこよう。薔薇の貝殻。玻璃のように(はかな)(もろ)い。

 もう二度と砂糖くんと会うことはないのだろうけれど。

 お守りを買うため人ごみの中へ入ってゆく。

 ざわざわ、ざわざわ……いつの間にこんなに人が賑わっていたのか。休日を楽しく過ごす人達。たくさんの笑顔。たくさんの声。光。眩しい。いたたまれない。

私はひとり。

 こんなの慣れているはずなのに。

 キラキラ、キラキラと光が眩しい。

 ちりん、ちりんと何処かで鈴の音がする。小さな音だ。きっと誰かが買ったお守りについている鈴だ。ちりん、ちりんと幾つもの音が重なる。小さいけれど確かに幸福な音だ。音で溢れている。

「………」

 私はそそくさとその場を立ち去る。

海岸に降りてゆく。

大きく息を吸う。海の匂い。汐の空気。

ここはまだ砂浜ではなく岩肌の処だ。大きな岩がごろごろ転がり、波を受けて水飛沫を散らしている。あまり大きな波ではない。陽を浴びて、キラキラと水の粒が零れてゆく。

 カップルたちが手を取り合って岩の上を渡ってゆく。些細なことではしゃいで水飛沫のように弾けている。

家族連れもいて、子供たちが岩と岩の間にたまった水を覗き込んでいる。彼らの両親も一緒に覗き込む。

はしゃぐ声と笑い声。

私はそれらを聴きながら、海岸沿いを歩いてゆく。スニーカーを脱ぎ、裸足で行く。初めは石が転がっていて歩きにくかった海沿いも、次第にさらさらした砂浜に変わってゆく。ここにも人はまばらにいて、波打ち際を駈けたり、砂の城を作ったりしていた。私は乾いた砂の上を歩き、薔薇の貝殻を探す。

 スニーカーを片手に持ち、ふらふらと彷徨(さまよ)う姿は、傍から見たらどんな感じなのだろう。

 淋しい人に見えるだろうか。可哀想な人に見えるだろうか。

 私は時折、立ち止まり、屈んで砂をすくう。

 ピンクの貝殻はいくつかあるけれど、薔薇のようではない。一枚一枚ばらばらになった欠片(かけら)だ。

「あるわけがないんだよねえ」

 私はまたしばらく歩いて、立ち止まり、少し疲れて、砂の上に座った。近くの砂をさらさらとすくってみる。小さい貝殻はたくさんある。ピンクや水色、他にも濁った白や茶色のものもある。

「これ、綺麗だなあ……」

 それは透き徹った水色の欠片で、空に透かして見ると、水のようにきらりと流れて光った。

 たった一枚だけれど、とても綺麗だ。

 こういうものがたくさん集まって薔薇になるのかな。

「水色の薔薇かあ……」

 それはそれでいいんじゃないかな。

「何だか涙みたい」

 これは砂糖くんにあげよう。もしも何処かで会えたなら。

「自分のも探さないとなあ……」

 私はしばらく砂を漁っていたが、なかなか気に入ったものが見つからない。もちろん完成した薔薇なども落ちてはいない。

「ま、いいか……」

 心臓の欠片ひとつしか見つけられなかったけれど、何もないよりはいいんじゃないかな。私の分はまた明日にでも来て探してみよう。

 どうせ時間はたくさんあるのだから。

 私はロボットのように歩いてゆく。ふと自分の足元を見ると、アスファルトの上を裸足で歩いていることに気づく。

「もう砂浜じゃないんだった」

 私は立ち止まって、スニーカーを履く。砂が少しジャリジャリする。私は苦笑し、それでも、そのまま歩いてゆく。

 陽がゆっくりと暮れてゆく。いつの間にか夕方だ。

今日は時間の進み方が少しおかしい。時間の経つのが遅いようでいて、過ぎてしまうとあっという間だった気もする。まるで砂時計の砂のようだな。私は思う。砂は流れてゆくまではゆっくりなのだけれど、落ち始めたら一瞬だ。あっという間に下の硝子(ガラス)に沈んでゆく。そして、他の砂と混じり合い、混沌の中に消えてしまう。

「………」

 空が(だいだい)色に染まってゆく。

 私はとぼとぼと歩く。今日はずっと砂の中に埋もれていたような気分だ。

 民宿のような小ぢんまりした宿に着く。木造の建物と緑の樹々が橙色に沈んでゆく。

私はフロントから鍵をもらい、自分の部屋へと向かう。建物の中も何故か橙色で、ほんのりと薄暗い。まだ電燈を点ける前なのだろう。窓ガラスから入り込む夕焼けの(あかり)だけが室内を照らしている。

砂糖くんの泊まっていた部屋の扉は閉まっている。私はその前でしばらく立ち止まり、じっとその奥を透かして見つめる。

もう新しいお客さんが泊まっているのだろうか。微かに気配がする。

 私は顔をしかめ、諦めて隣の自分の部屋へ向かう。ドアノブに鍵を挿し、カチャリと回すと同時に隣の扉も同じような音を立てた。軋んだ音を立てて扉が開き、宿泊客が顔を出す。

「あ、お帰りなさい」

 私は驚いて彼を見る。

「砂糖くん」

「うん、どうしたの、そんなびっくりしたような顔して」

 砂糖くんだ。砂糖くんがいる。砂糖くんが目の前に立って、とぼけた顔をして、屈託なく笑っている。

「何でここにいるの?」

「え、何でって……ここ僕の部屋でしょ」

「出て行ったんじゃなかったの?」

「え、何それ」

「だって、フロントの人に聞いたら朝早く出て行ったって……」

「確かに朝早くに出掛けたけど、チェックアウトはしてないよ」

「だって、扉が開いてて荷物もなかったし……」

「確かに夜、絵の具で部屋を汚しちゃったから掃除を頼んだけど……荷物は残っていたよ」

「嘘だ。からっとしてたよ」

「絵を描きに出たから、画材とか大きな荷物は持って行ったけど、服とかはクローゼットに入ってたよ」

「確かにそこまでは覗いていない」

「ははっ」

「どうして笑うの」

「僕が黙って行っちゃったと思った?」

「思ったよ」

 私は怒って云う。

「自分だって黙って行ったくせに」

「まあ……そうだけど。だからって、もしかして仕返し?」

「まさか。急に思い立って出掛けたのは確かだけど」

 砂糖くんは機嫌良さそうに笑っている。

 私は何だかホッとして泣きそうになった。

「ごめん、ごめん」

 砂糖くんは慌てて云う。

「僕が桜さん置いて、黙って行くわけがないじゃない」

「なら、いいけど。アイスまだ奢ってもらってないし」

「はははっ、そうだったね」

「そうだよ」

「夜ご飯、食べた?」

「まだ」

「とりあえず、一緒に食べに行こう」

「うん。お昼も食べてないから、お腹空いた」

「食べてないの?」

「うん。気づいたら夕方で。砂糖くんは何処へ行っていたの」

「すごい(ところ)、見つけたよ。明日、一緒に行こう」

「そこで絵を描いていたの?」

「ううん、少しだけ。まだ探ってる状態。でも、何だかイメージが湧いてくる」

「そっか」

 私たちは食堂に向かい、四角いテーブルを挟んで座った。

 夕食は二種類あって、どちらかを選ぶことが出来るようだ。

「ハンバーグ定食と刺身定食だって」

「朝は有無を云わさず、和食だけだったよね」

「小さい民宿みたいだから、みんな一緒なんだよ。夜は選べるだけ、いいんじゃない?」

「砂糖くんはどっちにする?」

「うーん、桜さんは?」

「ハンバーグ」

「ははっ、僕も」

「どうして笑うの?」

「だって、海にいるんだから、海の幸の方が絶対においしいだろうに、何でわざわざハンバーグなんだろうって」

「砂糖くんだってそうじゃない」

「うん、何となく、ハンバーグが食べたい気分」

「私もそうだよ」

 程なくして運ばれてきたハンバーグ定食はふたりの予想を超えていた。

「大きいね」

「うん、大きい」

 ハンバーグが円くて、やけに大きい。ソースがたっぷりとかかっていて、美味しそうではあるが。付け合わせの人参とブロッコリー、ポテトもやけに多い。サラダとデザートもある。お味噌汁も。

「すごい、サラダにサーモンも入ってる」

「お味噌汁も朝と違って具だくさんだね」

「デザートが二種類もある」

「これはチーズケーキ?」

「うん。でかいけど」

「でかいね」

「ヨーグルトにフルーツが入ってる。しかも大粒」

「何だか、豪華だね」

 私たちはほくほくとして、食べ始めた。

 ハンバーグを箸で割る。肉汁と一緒にチーズがとろけ出てきた。

「すごい、チーズだ」

「もしかして、カマンベールチーズが丸ごと入ってるんじゃない? だから大きいんだ」

「へえー、おいしー」

 私はハンバーグを頬張る。思わず笑みが零れる。砂糖くんもニコニコと笑っている。

「何だかこうしてふたりで食べるの随分と久しぶりな気がする」

「そうだね。半日会っていないだけなのに、桜さんの顔を見るの久しぶりな気がするよ」

「砂糖くん、何だか元気が出たみたいだね」

「直球だね。探りながら訊くとかじゃないんだ。もし空元気だったらどうするの」

 砂糖くんは笑う。

 私も笑う。

「探りならさっき入れたよ」

「本当に?」

「うん。元気なのかな、どうなのかな、ってさっきちゃんと探りを入れてたよ」

「ちゃんとね」

「当たってるでしょう」

「確かに気分はいいけど、たぶん桜さんが思ってる理由とは違うと思うよ」

「絵が描けそうだからご機嫌なんじゃないの?」

「ははっ、確かにそれもあるけど、もっと何だか嬉しいことがあったんだよ、きっと」

「きっと?」

「うん。僕にもよく分からない」

「いい処を見つけたって云ってたけど、そのこと?」

「ううん、それとは別だよ」

「何だか分からないな」

「僕もね、自分の気持ちが分からない時があるよ。でも、本当は分かってるんだけどね」

「砂糖くん、何を云ってるのか分からないよ」

「ふふ、いいんだよ。そのうち云うから」

「ふうん?」

「それより、さっき云ったいい処。明日の朝早く出発するけど、いい?」

「何時?」

「四時には出たい」

「うわっ、早い。もしかして今日もそんな早く出たの?」

「うん」

「もしかして寝てない?」

「まあね。でも、平気。今日は早く寝るよ」

「私、ちゃんと起きられるかなあ」

「起こしてあげるよ」

「ははっ、それはどうも」

「桜さんは、今日は何処へ行っていたの」

「うん。神社とか、ひとりでぶらぶらしてた」

「神社か。僕も通ったよ。その向こうに森があるよね。そこから行くんだよ」

「いい処?」

「そう」

 私たちは大量な夕食を終え、部屋へ向かった。

古い造りの建物は時折、ギシギシと音を立てたり、パキッと鳴ったりする。宿泊客も少ないのか、他に誰も見当たらない。代わりに何処からかひそひそと囁くような声がする。

「何だろう。幽霊でもいるのかな」

「何?」

「こそこそと何か聴こえない?」

「波の音じゃない?」

「ううん。波の音もするけど……何か、こう、建物の隅からひそひそと……」

「桜さん、怖いの?」

 砂糖くんがクスクス笑う。

「怖くはないけど、幽霊とは会いたくない」

「会ったことあるの」

「ない」

「僕、実は霊感強いんだ」

「嘘っ」

 私は驚いて、思わずぎょっとする。

「だから、僕と一緒にいると幽霊に会っちゃうかもよ」

「……ほんとに?」

 私は心なしか遠巻きに砂糖くんを見る。

「うわ、ひどい。離れないでよ。冗談だから」

「何でそんな嘘つくの」

 私はホッとして砂糖くんのそばに寄る。

「ごめん、ごめん。でも桜さんの弱点が知れてラッキー」

「別にそんなに怖がりじゃないよ」

 私はムキになって云う。

「そう?」

「夜の闇とか嫌いじゃないし。ただ幽霊は見たくないってだけだよ」

「確かに僕だって見たいわけじゃないけど」

「普段は幽霊とか心霊とかそんなこと考えもしない。でも、フッと何かの拍子に一度考え出すと頭から離れなくなる。今日の夜は少し怖いな」

「一緒にいてあげようか」

「朝まで?」

「うん」

「今日はちゃんと寝た方がいいよ」

「ははっ、そうだね。もし怖くなったら呼んでね」

 砂糖くんは手を振り、自分の部屋へ入ってゆく。

 私も隣の部屋へ入り、すぐに電気を点ける。部屋の中がパッと明るくなり、一瞬見えた闇を掻き消す。布団がすでに敷いてあった。

「考えるなと思えば思うほど考えてしまうのは何故だろう」

 私は大きな声で呟き、バタバタと部屋を歩く。

 隣から音がする。砂糖くんの部屋だ。壁が薄いからなのか、歩いたり、何かをカチャカチャしたりする音が聴こえてくる。昨日は何も物音がしなかったから、本当にいなかったんだな。

 私は隣の音に少しホッとして、落ち着きを取り戻す。

 パソコンを開いて日記を書く。

 今日一日のことを振り返ってみる。何だか随分長い時間(とき)を過ごしたような気がする。永遠とも思える長い時間。けれど、過ぎてしまうとあっという間で、吸い込まれるように流れてゆく。

 砂糖くんがいなくなったと早とちりして感じたあの時の気持ちを考える。

 哀しい。淋しい。憎たらしい。何だろう。空虚。後悔。違うなあ。絶望。諦め。うん、少し似ている。でも、やっぱり違う。

絶望するということは期待していたということだ。私はもう何も期待しない。何も期待しなければ絶望することもない。一%の期待は時折絶望よりも残酷で、何も望まなければ失うこともないのに、期待して無意味に落ち込むことのないのに、どうして人は微かな何かに光を見つけようとするのだろう。ずっと闇の中にいれば、これ以上、傷つくことはないのに。どん底にいれば、これ以上、落ちることはないのに。

なのに、どうしても光を探してしまう。たった一筋でもいいと希望をつないでしまう。

私は。

そう、何も望まない、期待しないと云いながら、心の奥底では何かを探している。小さな小さな欠片が私の何処かにあって、人生に何かを期待していて、感情などいらないと云いながら、砂糖くんがいなくなった時、私は確かに哀しかったのだ。絶望して、そして、傷つく前に慌てて自分の殻に閉じこもった。感情を消したふりをして。

私は砂糖くんに何かを期待しているんだろうか。私の殻を打ち破ってくれる何か。深い底から私を連れ出して光のある場処へ連れて行ってくれる誰か。

私はキーボードの手を止める。

隣からは相変わらずカタカタと音がする。壁をコツンと何かが叩く音、ごそごそと何かを動かすような音。

私はとても安心する。

「ああ、そうだ。貝殻を見つけたんだっけ」

 砂糖くんにあげようと思っていた水色の貝殻。私はポーチからそれを取り出す。部屋の灯りに翳してみる。外で見るのと違って少し透明度が薄い気がする。白い光が眩しくて、睛がチカチカする。

 私は貝殻をテーブルの上に置き、パソコンを閉じる。思ったことをそのまま書くことは難しい。言葉にすると、思っていることが微妙にズレてくる。思ったことを言葉に変換することなど出来ないのかもしれない。だから、私は人と喋ることが苦手なのだ。思っていることと話すことが少しずつズレてゆく。

 人はいったい私を何処まで理解してくれているのかと思う。私が喋れば喋るほど、本当に云いたいことと離れていってしまうような気がする。みんなテレパスにでもなって、心の中を読めたら簡単なのに、と思う。そうすれば嘘も誤解も偽りもなくなる。思っていることが少しのズレもなく伝わって、世の中は平和になるんじゃないのかな。

「思った通りにちゃんと書けないって、絵も一緒なのかなあ……」

 砂糖くんの頭の中は色々なイメージで埋め尽くされていて、いまはそれがうまく出ていかないのだ。きっと何かのきっかけを摑めれば、それはするすると流れ出すに違いない。

「そんな単純なものじゃないか……」

 私は敷いてあった布団に転がる。

 このまま寝てしまおうか。いいや、ダメだ。ちゃんとシャワーは浴びなきゃ。明日は朝早くてそんな暇などないだろうから。

 私はのろのろと起き上がり、浴室へ向かう。ユニットバスではなく、小さいけれどトイレとお風呂はちゃんと分かれている。

 無添加石鹸で素早く全身を洗い、湯船に一〇分浸かる。汗をかき、躰が温まったところでお風呂から上がって、コップ一杯の水を飲む。

「ぬるい」

 自動販売機で冷たいお茶でも買って来たいところだけれど、面倒くさくてそのまま布団に倒れ込む。

 瞼を閉じる。闇が睛の前に広がってゆく。電燈の灯りが瞼を透かして見えているのか処々に白い光がぼやけて浮かんでゆく。じんわりと広がってゆく闇と現れては消える白い渦。まるで宇宙の始まりを見ているようだ。きっと銀河もこんなふうにして生まれるのだろう。もしかしたら、いま私たちが生きている宇宙も誰かの瞼の裏なのかもしれないな。

 私はクスクスと笑い、微睡(まどろ)んでゆく。

 コツン、コツンと音がする。扉をノックしているような音だ。コツン、コツン。何をしているんだろう。あれ? もしかして本当に扉を叩いているのかな。誰だろう。砂糖くんかな。躰が重くて起き上がらない。(ねむ)い。カチャっと音がして誰かが扉を開ける。あれ? 自分だ。自分が部屋の扉を開けている。扉の向こうには砂糖くんがいて、私は砂糖くんを部屋へ招き入れる。

 ああ、何だ、夢か。

 砂糖くんは、幽霊が怖くないかと訊く。私は大丈夫と答える。砂糖くんは笑って、それなら良かったと云う。そして、頭をポンポンと撫でてくれる。それから二人は丸まって同じ布団の中で睡る。とても安心する。

 幸せだなあ。

 私はそう思う。

 ずっとこうして丸まっていたい。幸せな夢の中でいつか生まれる順番を待ちながら睡り続ける胎児のように。

 それなら僕たちは双子だね。砂糖くんは微笑んで云う。そうだね……私は答えるよりも先に意識が遠のいてゆく。深い深い睡りに落ちてゆく。

 ゆらゆらと浮かんでいる此処は宇宙だろうか海だろうか。それとも卵の中だろうか。私は間もなく生まれるのだ。期待と不安を胸に幸せに包まれながら、やがて生まれてゆくのだ。



 コンコンとノックの音がする。私はハッとして睛を醒ます。

 これは現実だ。時計を見る。間もなく四時になる。辺りはまだ暗い。

「桜さん、起きてる?」

 扉の向こうから砂糖くんの小声が聴こえる。

「ま、待って。起きてる。あと五分待って」

 私は慌てて顔を洗い、歯を磨いて、最低限の身支度をする。服はもうこのままでいい。家を出てきた時に着ていた普段着だ。私は手串で髪を整えながら、扉を開ける。

「おはよう」

「おはよう」

「寝癖すごいね」

「ちょっと寝坊した」

「やっぱり来てみて正解」

 砂糖くんが笑う。

「もうちょっと待とうか?」

「大丈夫。もうこれ以上準備することなんてない」

「桜さんはやっぱり身軽だよねえ」

莫迦(ばか)にしてる?」

「ううん、全然。褒めてるんだよ」

「そうかなあ」

「うん。それより、早く行こう。朝早いから静かにね」

 砂糖くんは声をひそめ、そそくさとフロントを通り過ぎる。

「何も云わなくていいの?」

「うん。昨日、云ってある。わざわざ呼び鈴を鳴らすのも悪いし」

 確かにフロントには誰も居らず、御用の方は呼び鈴を鳴らしてください、と紙が貼ってある。

「奥で仮眠をとってるんだよ。起こしちゃ可哀想でしょ」

「泥棒入りたい放題じゃない」

「まあね。でも、監視カメラとかあるでしょ。それに、たぶん外から入ってくるとすぐに分かるのかも」

「じゃあ、帰って来られないじゃん」

「大丈夫。その頃にはもうフロントの人も起きてるよ」

 外の空気は冷たく、薄手のパーカーでは少し肌寒い。空はまだ暗く、星がチカチカと瞬いている。月が傾き、沈みかけている。東の空がほんのり明るいような気がする。明るいというか闇が薄いというか。

「夜明けかな」

「まだだよ」

 砂糖くんは黙々と歩き出す。

「急ぐよ」

「うん」

 私は素直についていく。

「寒い?」

「ううん。歩いているうちにあったかくなった」

「それなら良かった」

「星が綺麗だね」

「そうだね。真夜中に見るのとは少し違う」

「うん。闇の色が違うのかな。星の瞬き具合が朝と夜とでは違う気がする」

「さすが」

 砂糖くんは笑って、私を見る。

「何が」

「ううん。桜さんはきっと本当の睛を持っているんだなと思って」

「本当の睛?」

「うん。真実を見分けられる睛」

「人を見る目はないけどね」

「ないの?」

「たぶん」

「そうなの? たぶんあるんじゃない?」

「ないない」

「どうして? 騙されたこととかあるの?」

「ないけど……」

「けど?」

「人って信用できないなって思う時はあるよ」

 私はきっぱりと云う。

「そうだよねえ……」

 砂糖くんはそう云って、再び黙々と歩き出す。

 砂糖くんは岩場の多い海岸沿いを行き、神社のある方へ向かってゆく。

「何処へ行くの」

「まだ秘密」

「もしかして神社? 神社なら昨日行ったけど」

「違うよ。神社の奥へ行くと森があるでしょう。其処からさらに奥へ行くんだよ」

 確かに神社の奥にはうっそうと繁る森があった。ひとりで行くのはやめておこうと思った場処だ。

「神社から森へ行けるんだね」

「そう。ずっと奥へ行くよ。奥というか上というか」

「登るの?」

「ちょっとした登山だよ」

「登山」

「うそうそ。そんなすごくない。ちょっと登るだけ」

「森って山なの?」

「山じゃない。崖だよ」

 縁結びの鳥居をくぐって、さらに奥へ行く。草の生い茂った道なき道だ。随分と急斜面だ。

「ここ通っていいの?」

「さあ」

「正規の道じゃないよね」

 私は樹を伝って登りながら、神殿を上から眺める。月燈だけが頼りだ。樹々の間から手水舎や社務所も見える。

「結構簡単に登れるね。すごい急斜面だけど」

「普通こんなところ誰も登らないからね」

 砂糖くんは先をずんずんと行く。

「早くしないと間に合わない。月も沈んでしまう」

「懐中電灯とかあれば良かったかな」

「ペンライト持ってるよ。でも、もう着くから大丈夫」

 砂糖くんにしては珍しく急いでいる。時々振り返り、私がちゃんとついて来られているか気にしてくれているけれど。

 登って行くうちに草木がなくなり、急にごつごつした岩場に出る。苔が少し生えただけのだだっ広い岩場だ。

「あんまり先に行かないでね。あそこ、切り立っているから」

「え」

「断崖なんだよ。真っ逆さまに落っこちちゃう」

「もしかして下は海?」

「ううん。道路挟んでるから。でも海は見えるよ」

 私は恐る恐る切り立った崖の方へ行く。

 岩場は平らになり、緩やかに上ってゆく。私はギリギリ崖の先まで行く。

「それ以上は、危険」

「うん」

 暗くて海はよく見えないが、波がチラチラと光っているのが分かる。波の音が聴こえる。大きな円い海がそこにあるのが感じられる。

 星がぽつぽつと光っている。月はもう見えない。夜の空というより、世界の終末のような空だ。星がひとつひとつ消えてゆく。チカチカと(はかな)げに(またた)いて、(まばた)きをして睛を開けた瞬間に消えている。そうやっていつの間にかひとつずつ消えてゆく。

「まるで世界の終りのようだね」

 私が云う。

 砂糖くんは私の隣に並んで、微笑む。

「違うよ。反対だよ。世界が始まるんだ」

 カチリと音がした。

 私は空と海の境界線あたりをじっと見る。

 透明な闇が次第に薄くなってゆく。気のせいかと思うほどゆっくりと、でも確実に闇が淡くなってゆく。

 天辺はまだ暗い。暗くて深い闇。でも、確かに地平線はほのかに白んで闇が溶け出している。

濃紺の夜の色から淡い碧。

薄紫。

濃いピンク。

それが溶けて淡いピンクへと移ろいでゆく。太陽が昇ってくるのが感じられる。空は水色に流れ出す。反対の空はまだ夜。星の瞬きも大きい。けれど、東の空は確実に明けてゆく。地球の縁はオレンジ色だ。オレンジ色に縁取られた地平線から白い光が洩れてくる。

 太陽だ。

 宝石のように白い光が射してくる。

 海がチカチカ瞬く。さざ波が起こるあちこちでキラリと煌めいて揺れ動く。

 太陽は次第に昇ってゆく。睛で見てはっきりとそれが分かる。

「………」

 私は言葉をなくす。

 なんて景色だろう。広大だとか神々しいとか、そんな単純なものではない。色々な想いが一瞬で過ぎり、けれど、もっとシンプルで、単純な一言で表せるような気もする。この気持ちを何と呼べばいいのだろう。

 涙も零れない。喜びや哀しみもない。感情も何もなく呆然とただそこに立ち尽くす。ここにいるのにいないような、空気にでもなってしまったような、けれど、確かに私はここにいて、崖の上から朝日を眺めている。

 いまこの瞬間、私は何者でもなく、まだ誰でもない、ただひとつの魂として生まれ落ちた気がした。

 私はこれから何にでもなれる。どんな風にでもなれる。まっさらで透明な新しい自分。

 太陽が昇る。地球が廻る。それは何て素晴らしい営みなのだろう。波が寄せては返してゆく。悠久の海。

 私は空気だ。いつでも何処でもそこにいて生まれ落ちる。

砂糖くんが隣にいる。砂糖くんも空気だ。ふたつの空気が溶け合って、境界線などないように思える。でも、確かにふたりはここにいる。それが何だかとても嬉しい。

隣にいるだけでこんな気持ちになるなんて、こんな感情があるなんて、いままで私は知らなかった。幸せってこういうことなのだろうかと思った。

時間の感覚がなく、夢を見ているような奇妙な感じだ。

太陽が昇ってゆく。空はすっかり透き徹った水色だ。

「昇っちゃったね」

 言葉を零した瞬間、夢から醒めて、時間が流れ出した。

 砂糖くんは嬉しそうに笑っている。

「どうして笑ってるの」

「桜さんが、僕が黙っていなくなったと勘違いしていた時、その時の顔が泣きそうになってて、僕がいなくて哀しかったのかなって」

「どうしていまそれを云うの」

 私は怒ったように云う。

「だから、それが嬉しかったんだ」

「だから笑ってるの」

「うん、思い出し笑い」

「変なの」

 砂糖くんは微笑んで、私を見る。砂糖くんは白いシャツを着て、水色の空を背景にそこに立っている。

 砂糖くんは天使なんじゃないかと私は思った。いまにも溶けて消えてしまいそうだ。本当に一瞬、消えたかと思った。

「桜さんは大丈夫だよ」

「何が」

「桜さんは何処へ行っても大丈夫」

「そうかな」

「うん。だから安心していいよ」

「逃げてきたのに?」

「逃げてきたの?」

「うん」

「何から?」

「何もかも。すべてのものから」

「親とか友達とかからも?」

「親はいるけど私に関心なんてないから」

「友達は?」

「いない」

「本当に? 本当にいなかったの?」

「いなかった。……ううん、いたのかもしれない。でも、突然、誰も信用できなくなった。どうしても、会いたくなくなった。何故なのか分からない。急に、誰にも会いたくなくなった」

 初めてそれを言葉にしたような気がする。

 誰にも会いたくない。

 誰とも会いたくない。

 こんな気持ちにかつてなったことがあっただろうか。分からない。どうしてこんな気持ちになるのか。こんな感情が何処から溢れて来るのか。

 私は泣いていた。

「大丈夫だよ」

 砂糖くんは私の頭を撫でる。

「うん」

 砂糖くんは微笑み溶けてゆく。

 ゆらゆらと陽炎のように、朝の光の中へ、朝靄の中へ、すうっと瞬きながら消えてゆく。

 私は睛を細める。

 砂糖くんが大丈夫と何度も云う声がぼんやりと聴こえる。その声は優しく、砂糖くんにそう云われると、本当にすべてが大丈夫なような気がしてくる。

 私はあの時、発作的に逃げ出した。すべての(しがらみ)を断ち切るように、何もかも捨てて逃げ出した。それはもう突然、まるで躰が自分のものじゃないみたいに走り出した。いままで積み上げてきたものをすべて壊し、すべてを裏切ったようなものだ。みんな許してくれるだろうか。私は弱い。そんな私を誰か理解してくれるだろうか。

 分かってほしい。でも、そんなの無理だと諦める。淋しい。でも、ひとりになりたい。とても矛盾している。淋しくて淋しくてたまらないくせに、孤独が好きで、ひとりでいるのが好きなのに、けれど、心の中では誰かを求めている。

 助けて、と私は暗闇から手を伸ばす。誰かがそれを摑もうと手を差し出してくれる。すると、私は何故がその手を振り払ってしまう。

 光と共に現れるその人はとても眩しい。私の睛には眩し過ぎて直視できない。

 私の周りには人がたくさんいた。それを遠ざけてきたのは私自身だ。どうせ私のことなど誰も本当には理解してくれないと諦めて、けれど、期待して、勝手に裏切られたような気持になって、壁を作る。そして、深い暗闇の底にうずくまる。

 恐らく私にもそれなりに友達はいたのだ。人並みに笑って過ごしたりもしていたのだろう。けれど、急に信じられなくなった。何だろう、この気持ち。私のことを否定していると思い込み、誰にも会いたくなくなった。それはもう突然に。

そして、本当に逃げ出した。

 きっとみんな呆れているだろう。

「大丈夫だよ」

 本当に?

「みんな意外と分かっているよ。あなたが淋しがり屋で、頑張り屋で、優しいってことが」

 嘘。

「嘘じゃないよ……」

 睛の前がぼやける。砂糖くんの姿が滲んで見えない。

「消えるの……?」

「え」

 光の中で砂糖くんが笑う。

「天使みたいに昇って、消えるのかと思った」

「ふふ……消えるわけないじゃない」

 砂糖くんは私の頭をふわりと撫でる。まるで透明な手で実体のあるものを触るかのように、優しく、そっと。

「僕は嘘をついていたんだ」

 砂糖くんがぽつりと云う。

「僕は画家じゃないんだ」

 私は黙って頷く。涙が零れる。

「画家だったのは僕じゃなくて、僕の父なんだ」

 もう砂糖くんの声しか聞こえない。姿は何処かへ溶けている。光の瞬きとともに、光の残像と錯覚に紛れて、消えてゆく。これは夢だろうか。それともこの世界が幻なのだろうか。

「僕も絵を描くのが好きで、父の姿を追っていたけれど、追いつけなかった。もう二度と追いつけない。父は死んでしまったから」

 光の粒が風に舞う。

「でも、僕は絵を描き続けるよ。ずっと迷っていたけれど、何だかいまとても描けそうなんだ。描きたくてたまらない」

「お父さんの処へ行くの……?」

 砂糖くんは首を横に振る。

「旅を続けるよ」

「……うん」

「桜さんも頑張って小説を書いて」

 私は困ったように笑う。

「ごめんね、私も嘘をついていたんだよ。気づいてたでしょう?」

 砂糖くんは優しく微笑み、書けるよ、と呟く。

 書くって何を……?

私は最初から何も書いてなどいないのに。分かっているくせに。ただ真似事をしていただけだ。

 砂糖くんはただゆったりと微笑む。

「………」

 砂糖くんの姿はゆらゆらと揺らぎ、とうとう消えてしまった。それはまるで最初からそこにいなかったかのようだ。初めから存在などしていなかったかのようだ。

 私はパチパチと何度も瞬きをして、ぼんやりとそこに佇んだ。

 これは夢なのか。

 光の渦だけが取り残されたようにそこかしこに漂っている。



 いや、本当に消えたのだろうか。

 私は夢を見ていたのだろうか。

 いまとなっては分からない。

 記憶が曖昧で、私はどうやってひとり、部屋へ戻ってきたのか思い出せない。

 砂糖くんはいなくなった。けれど、不思議と哀しくはない。気分がスッキリとしていて、まるで長い夢から醒めたようだ。

 淋しくはない。振り返ればすぐそこにいるような気さえする。空気となって、そこここに漂っているような感じ。

 砂糖くんが隣にいるだけで幸せだと思う。あんな気持ちは初めてだった。隣にいる。ただそれだけで。あの満たされた気持ち。あれは何?

「ふふ」

 私にもそんな感情があったのだと驚くと同時に少し嬉しい。

 もしかしたら砂糖くんは私のために遣わされた天使なんじゃないか。グチグチした私のために神様が救いを差し向けてくださったのだ。素直じゃない私のために。

「はは……」

 私は笑う。そんなわけないか。

 天使。或いは自分で作り出した幻とか。それが一番あり得る。

「うーん、そうだとすると、それも怖いな……」

 でも、あんなにはっきり見えたし、あんなキャラクターを自分の脳が作れるかなあ。やっぱり、もしかしたらこの世界には本当に光の精とか妖精とかいて、あちこちを漂っているのかも。

「相変わらずメルヘンだなあ……」

 ひとりになると独り言が多くなる。

 砂糖くんの心臓がテーブルの上に置いてある。

 夢じゃない。

 それは水色に輝いて、朝の光と共につるりと煌めく。

 障子を開ける。

太陽がゆっくりと昇ってゆく。空は碧い。碧い。抜けるような碧だ。何処までも何処までも続いてゆく。

一日が始まる。

「私も帰ろう……」

 砂糖くんが大丈夫だと云うから。

「きっと大丈夫なんだろう」

 すべてが。

 きっとすべてがうまく流れてゆく。そういうふうに出来ているんだろう。泣いても笑っても。そんな些細な事などお構いなしに、すべて包んで、優しくそっと流れてゆく。風がそこかしこに吹くように。光の粒が川となって流れてゆくように。

それはきっと自然の在り方と同じなのだ。

「私も」

 凜と光る太陽に睛を細め、私はゆっくりと笑った。


         ◇


     エピローグ


「久しぶり」

 光が眩しい。私は睛を細める。

「砂糖くん?」

「そう」

 聞き覚えのある声。話し方。確かにそうだ。

「砂糖くんって、実在したんだ」

「何で」

「溶けるように消えていなくなったから、妖精か何かかと思ってた」

「ふふ」

「ずいぶん黒くなったね」

「うん、日焼け。僕、南の島に行きたいって云っていたでしょう?」

「まるで黒砂糖だね」

「面白いこと言うね」

「どうしてここにいるの」

「あなたを追って」

「よくこの街が分かったね」

「うん」

「どうして来たの?」

「ひとりじゃつまらなくって。南の島に行っても、何処に行っても」

「………」

「あなたが好きなんだよ」

「ふふ」

「そこで笑うんだ」

「うん。面白いね」

「面白いの?」

「うん」

 砂糖くんは笑う。いままで見た中で一番綺麗だ。

「これ、あげる」

 私は砂糖くんの手のひらにそれを載せる。

「これ、何」

「きみの心臓の欠片(かけら)

「ふふ、やっぱりここにあったんだ。これで生き返る」

「ふふ」

「何を笑ってるの」

「嬉しいの」

「嬉しいんだ」

「うん」

 私は砂糖くんの手を握り、笑った。



                           おわり




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