Ⅱ
本当にあのまま寝てしまったようだ。
気がつくと朝で、私はふとんもかぶらず、ベッドの上で寝ていた。爆睡していたのだろうか。一度も睛を醒まさなかった。
夢は見ていたようだ。
いい夢を見るかと思っていたのに、どうやら実際見たのは悪夢だったらしい。躰はしっとりと汗をかいていて、喉はカラカラだ。よく覚えていないが、嫌な感じだけが残っている。躰が重く、ずっと海底を泳いでいたかのようだ。
もがいてもがいて苦しくて、海面を求めて必死に泳いでいる。泡がくるくると昇ってゆく。時折、チラチラと光りながら、闇の中をくるくると廻りながら昇ってゆく。私は必死で泳ぐ。上へ上へと。もしかしたら、間違っているんじゃないか? 上へ上へと泳いでいるつもりが、気づかないうちに下へ下へと向かっているんじゃないか。さらに深い処へ落ちていってしまっているんじゃないか。不安と闘いながらそれでも必死で泳ぐ。自分が泣いているのかどうかも分からない。こんなに深い海の底では涙も海に混ざって、跡形もなく溶けてしまう。光るのは海の粒。涙のように昇ってゆく。
「ああ……」
私は深く溜め息をつく。
「朝からしんどいなあ」
私はのろのろとベッドから降り、顔を洗う。冷蔵庫に入れてあった緑茶でうがいをして、歯を磨く。少しさっぱりして、気分も良くなる。緑茶を飲んで、髪を梳かす。櫛はホテルのアメニティ用品だ。小さいので昨日買った小物入れに入る。鏡をじっと見る。悪夢の割には顔色が良く、くまもない。ストレスがないからか。いや、あるのか? 分からない。
時計を見ると、七時を過ぎている。朝ご飯を食べに行こう。
部屋を出る。砂糖くんの部屋の前を通る。砂糖くんは何時に食べるんだろう。一緒に食べると約束したけど、声を掛けてから行くべき? いや、いいだろう。ほっといてもカフェで会うだろう。
昨日と同じ窓際の席を確保して、食べ物を取りに行く。
レーズンパン、ヨーグルト、ハチミツとパイナップル。オレンジとサラダ。目玉焼きとベーコン、ウインナー。あと、大根おろし。トレイに次々と載せていると、隣に砂糖くんが立っていた。
「また大根おろしだけが浮いている」
「今日はウインナーに載せて食べるのよ。青じそドレッシングをかけて」
「大根おろしと青じそドレッシングは合うよね」
「砂糖くん、今日は洋風なのね」
「うん」
砂糖くんのトレイにはクロワッサンとフルーツヨーグルト、オムレツにベーコン、肉団子のトマト煮が載っている。
「野菜が足りなくない?」
「煮物を取るよ」
「それだけ浮いてない?」
「ふふ、真似してみたんだよ」
ふたりで席に着く。
窓からは中庭が見える。日本庭園のような和風な庭だ。朝の光がキラキラしてる。
「晴れてよかったね」
砂糖くんはクロワッサンをもぐもぐ食べながら云う。
「そうだね」
「今日は暑くなるみたいだよ。夏みたいに」
「Tシャツが必要かなあ」
「持って来てないの?」
「うん」
「僕の貸してあげようか?」
「それはさすがに遠慮します」
「あ、そう。気にしなくていいのに」
砂糖くんは屈託なく笑う。
「きみは変わってるよね」
「どうして」
「見知らぬ人とごはん食べたりするし、一緒に出掛けようとするし、煮物だけ浮いてるし」
「見知らぬ人じゃないよ。桜さんでしょ。もう顔見知りでしょ」
「まだ三日も経ってない」
「時間なんて関係ないよ。なんかピーンと来たんだよね」
「何が」
「絶対、桜さんと一緒にいると面白いって」
「面白くないでしょ。愛想もないしね」
「ふふ、それがいいんじゃない」
砂糖くんは煮物を食べ、それからヨーグルトを食べた。
「絶対、変」
「おいしいよ」
「確かにレンコンは美味しいだろうけど、その後にすぐヨーグルトってどうなの?」
「たまたまだよ。たまたま。おかわり行ってこよう」
そう云って、砂糖くんは席を立っていった。
私はパイナップルにハチミツをかけて食べ、窓の外を眺めた。
大きな石と石の間から綺麗な水が流れている。滝の小型版といった感じだ。透明な水はとても冷たそうだ。それはそのまま流れて池まで続いている。池の向こうには竹が生えていて、その他にも様々な緑が生い茂っている。岩が無造作に転がっていたり、いたるところが苔むしていたり、手入れしているのか、していないのか分からないような感じだ。趣があるような、そうでもないような、ただ無造作にしているだけのような。
「でも、まあ、綺麗だな」
「庭?」
砂糖くんが戻ってきて、云った。
「うん」
「そうだよね。古臭い感じがいい。それでいてキラキラしてる。洋と和が混ざっているようなところもいい」
「うん」
「建物も古いのに綺麗でしょ。洋館なのに古屋敷のような趣もある」
「ずいぶん気に入っているんだね。だから、三ヶ月もいるの?」
「うん、まあ、色々あってね」
「色々?」
「うん。大したことじゃないんだけどね。喋ってしまうと特にね、簡単に終わってしまうつまらない話。でも、僕にとっては大きなことなんだ」
「うん。分かる」
「ふふ、分かる?」
「たぶんね」
私は席を立ち、アイスクリームと珈琲を取りに行く。
あまり詮索は出来ない。私の方に話が向いても困るし。まあ、私には話すほどのことなど何もないけど。つまらない人生を歩いてきたもんだ。彼は画家だから、何か色々あるのだろう。私が聞いても分からないようなことが。
本当に画家なのかどうか分からないけれど。
「あ、アイス、おいしそう」
「色んな種類があったよ。取ってきたら?」
私は席に座って、アイスクリームと珈琲を交互にいただく。
「あったかいのと冷たいの」
「そう。甘いのと苦いの」
「いいね」
砂糖くんは笑う。無邪気な笑顔だ。本当に悩みなんてあるの?
人の心の中なんて表面だけ見ても分からないけれど。もしかしたらこの笑顔の裏で泣いているのかもしれない。或いは私を嘲笑っている? 三十路を過ぎたおばさんをからかって面白がっているのかも。
「三十路……嫌な響き」
「え、何? みそじ?」
「嫌な響きよね」
「桜さんて三十路なの?」
「見ての通りよ」
「ふうん、よく分からないや」
砂糖くんは子供のように、まじまじと私を見る。
遠慮がないな。まあ、もう、どうだっていいけど。
「よく分からないと云っても、年上だって分かっていたでしょ」
「うん。まあね」
砂糖くんはおかわりした分も平らげると、私のアイスクリームを指さして云った。
「ひとくち貰っていい?」
「何で、あっちにたくさんあるのに」
「もうお腹いっぱいだから、ひとくちだけでいい」
「まあ、どうぞ。たくさん持ってきたから」
砂糖くんはストロベリーの方を選んでスプーンですくった。その他にはチョコと抹茶も持って来ている。
「よし、満足」
「先に行ってていいよ。私はまだ食べてるから」
「それじゃ、また後でね」
砂糖くんは自分のトレイを片付け、帰っていった。
私は彼の後ろ姿を見ながら、考えた。
彼はよく笑う。子供のように無邪気に。彼といると、さすがの私も警戒心を解いているのが分かる。いつもなら私は他人とこんなに会話をしない。それとも、ただ旅先だからだろうか。束縛から解かれたという開放感が私を自由にしているのだろうか。知らず知らずのうちに氷も壁も溶けてしまっているのだろうか。
彼が画家だというのはもしかしたら本当なのかもしれない。彼の笑顔の奥に何か感じた気がした。儚い影のような、哀しみ?何だろう。彼はただ無邪気なだけではないのだ。そうでなければ、ひとりでこんな処に何ヶ月もいないだろう。
「私と似てる……?」
いや、それはないか。彼ならもっと他人とうまくやれるだろう。
私はすべてのアイスクリームを平らげると、席を立った。
お腹が痛い。どんな時でもお腹は空くし、トイレには行きたくなるんだなあ。当たり前だけど。寝て食べて出して、毎日毎日、繰り返してる。泣こうが喚こうが、苦しくて消えてしまいたくても、こうしてお腹が痛くなったり、お腹が鳴ったりすると笑いたくなってしまう。
広大な宇宙を想う。何処までも続いてるとか信じられない。惑星や恒星がくるくる廻っている様を想像すると不思議な気持ちになる。
「私なんてちっぽけなんだよなあ……」
でも、そう思うと何故か心が軽くなってゆくのだ。宇宙が広大で、自分がちっぽけであればあるほど、反対に心は大きくなってゆくのだ。
「………」
まあ、とりあえず、トイレだ。
妄想を振り払い、私は苦笑する。彼もきっと今頃トイレに入っているだろう。生きていれば人間誰でもそうなのだ。私も彼も、あの人もこの人も、みんな一緒だ。
みんなこの惑星の上でくるくる廻っているのだ。
トイレを済ませ、部屋でのんびりしていると、呼び鈴が鳴った。
「はい?」
「砂糖です」
「あれ? もう時間?」
「そう。だから、呼びに来ました」
私は慌ててパーカーを羽織り、ショルダーポーチを肩から下げた。
「ごめん、ごめん」
ドアを開け、私は云う。
「寝てた?」
「ううん。ぼんやりしてた」
「それなら良かった。じゃあ、行きましょう」
彼は身軽で荷物が何もない。ジーンズのポケットに財布が入っているのが見える。それくらいだ。まあ、私も似たようなものだが。
「まだ涼しいし快適だ」
外に出て、砂糖くんは伸びをして云った。
「本当だ。ちょっと寒いくらい」
「大丈夫?」
「うん。頭がツーンとして、睛が冴える。気持ちいいよ」
私たちはぶらぶらと歩き出す。
「雨上がりみたいな感じだね。昨日の夜、降ったのかな」
「どうだろう。確かにしっとりする。空も瑞々しい」
「髪が跳ねてるね」
「あれ、そう? 前からは見えなかった」
「朝見た時はお洒落でそうなっているのかなあって思ったんだけど、さっきとまた違う感じになってたから、ああ、寝てたんだなって」
「だから、寝てないって。ベッドに転がってぼんやりしてただけ。寝癖、変? 短いから直さなくてもいいかと思って」
「ふわふわしている髪の毛だから、変でもないよ」
「将来、私、禿げるかもしれない」
「何で?」
「髪の毛細いし、猫っ毛って禿げるよね」
「大丈夫でしょ」
「他人事だと思って適当に云ってるでしょ」
「はは、大丈夫だよ。いまは鬘とかよく出来てるから」
「大丈夫って、そういう意味か」
「気にしてるの」
砂糖くんに云われ、ちょっと考える。
「あんまり」
「だよねえ」
「どういう意味」
「あまり色々気にしているようには見えない。悩みがなさそう」
「悩みがなさそう?」
「うん。のほほんとしてて、マイペースで、自然体な感じ」
私は驚きを隠せない。
のほほんとしてる? 悩みがなさそう?
「そんなこと云われたの生まれて初めてだわ」
「そうなの?」
「うん」
こんなに悩んでいるのに人から見たら私はそう映るのか。もがいてもがいて、もがいてきたのに。
「………」
何だか今まで色々悩んでいたのが莫迦らしく思える。
「どうかした?」
「ううん。禿げないようにこれからも気を付けよう」
「どうやって」
「シャンプーで髪を洗うと禿げるっていうから、ずっと石鹸を使ってる」
「ずっと?」
「うん。無添加の石鹸ね」
「結構こだわってるね」
「安いよ。百円とかだから」
「こだわってるのか、無頓着なのか、分からないね」
「自分でもよく分からないわ」
「ははは、そうなの?」
「自分でも自分が謎」
いつの間にか玻璃山の麓まで辿り着いた。
小さい山だ。車で通れる道もあるが、それとは別に散歩道のような登山道のような別ルートもある。山は緑が色づき始めていて、もうすぐ夏が来るんだなあと感じさせた。
「歩くの平気?」
「もちろんだよ。歩かないで何で行くって云うの」
「貸自転車という手もある」
「自転車の方がつらいんじゃない?」
「だよねえ。ハイカットのスニーカーだ」
砂糖くんは私の足元を見て云う。
「そうだよ」
「まだ新しいね。靴擦れしないかな」
「大丈夫だよ、いつもこれだから慣れてる」
「でも、新しいのはまだ馴染んでないでしょう」
「おろしたての時に靴擦れするのに慣れてるの」
「いざとなったら担いであげる」
「それはどうも。絆創膏も持ってるから大丈夫だけどね」
「強いねえ」
「きみに担がれて、バランス崩して、ふたりで転げ落ちたりしたら嫌だから」
「ははは、僕、これでも力あるんだよ」
「画家なのに?」
「画家なのに」
「今日は描かないの? 城跡とか」
「昨日描いたから。今日は単純に景色を堪能するんだよ」
「ふーん」
登って行くにつれ、次第に汗をかいてゆく。おでこにうっすらと滲んで、時折吹く風が涼しい。緑がざわざわと揺れ、何かの花びらが零れ落ちる。淡いオレンジ色の花びらだ。
「綺麗」
雪みたい。円くて小さい。ぽろぽろと風に吹かれてゆく。甘いシトラスのような香りもする。空気がおいしい。
しばらく行くと、すぐ頂上に辿り着いた。
街が見える。空を映して、水色に見える。電車で通り抜けたと思っていたのに、ここも水色の街の続きだったのか。ブロッコリーのような樹々がよく見える。空は晴れ渡り、地平線は白く霞んでいる。
「あっという間に着いたね。城跡は何処?」
「こっちだよ」
砂糖くんはさらに奥へ進んでゆく。樹々をかき分け細い道を行くと、その先が急に開け、そこに城跡があった。
石垣だけが残った場処だ。城の基礎の部分なのだろうか。その他にも城壁のように長く続いている石垣もある。苔むした階段を昇り、石垣のてっぺんに立つ。さらに景色がよくなる。何処までも続く緑と苔むした石垣、碧い空と、水色の街。風が吹いて、花びらが舞う。光が降り注ぐ。
何だろう。ここは。不思議な感じ。ここで遠い昔、何があった? 石垣からだけではどんな城だったのか想像できない。出来ないけれど、何か感じる。
絨毯のような緑の上に岩や石がところどころに転がっている。苔で覆われた石垣はまるで緑の大地から生えているようだ。光が刺して明るい。神様が降りて来る場処にいるようだ。
瞼を閉じると光の渦がぼんやりと浮かぶ。風が吹く。自分の躰が透明になって、空気になる。遠い昔からずっとここにいたように感じる。空気に溶けて、時間も空間も関係なく、ずっとここにいて、すべてを感じている。
記憶が流れる。
私はすべて知っている。地球の一部になって、ずっとここにいたんだ。光の刺すそこかしこに。粒子よりも小さい粒になって、風に吹かれて、ぽろぽろと流れていたんだ。遺伝子よりも小さい私の元が、あちらこちらに散らばっている。今はたまたまそれらが集まって、こうなっているだけ。そして、いずれまた風に還るんだ。キラキラと光の中を、そっと優しく撫でるように。
どれくらいそうしていただろう。瞼を開けると、隣に砂糖くんがいて、穏やかに微笑んでいた。
「ね、すごいでしょう」
「うん」
私は顔に風を受ける。おでこが全開だ。
「うん、圧倒的」
「桜さんなら分かると思った」
「誰もいないんだね」
「花見の季節は終わっちゃったからね。でも、その方が却っていいよね」
「この時々流れて来るオレンジ色の花びらは何だろう。円くて可愛い」
「何だろうね。雪かな」
「雪かな」
私は笑う。
「おにぎりとか買ってこれば良かったね。まだお昼じゃないけど、ここに座って街を眺めながら食べたら気持ちよさそう」
「下の自動販売機でジュースは買ってきたよ」
「え、いつの間に」
「そう、いつの間に」
砂糖くんはパーカーのポケットからペットボトルを取り出す。
「檸檬スカッシュ。半分こして飲もう」
「半分こ」
「お先にどうぞ」
砂糖くんはプシュッと蓋を開け、私に差し出す。ペットボトルは少し汗をかいている。
「どうもありがとう」
私はほんのり冷たいスカッシュを飲む。炭酸が少しだけシュワシュワする。
「おいしい」
私は砂糖くんに返し、じっと見る。
「何?」
「砂糖くんもそれ飲むの」
「飲むよ。ダメ?」
「ダメじゃないけど嫌じゃない?」
「何が?」
そう云って、砂糖くんはごくごく飲む。
「まあ、いいけど」
「もっと飲む?」
「もう大丈夫」
「じゃあ、また後でね」
砂糖くんはボトルをポケットに戻し、城跡を歩き出す。石垣を手で触り、じっと見る。色とか材質とか調べているんだろうか。絵を描くときに参考にするのかな。
私もぶらぶらと歩く。
風が気持ちいい。きっといつかまた私は風になるのだろう。そうして、こんなふうにそこかしこを吹き抜けてゆくのだ。巡り巡っていつかまた……
「帰ろうか」
「うん」
その日の夜、私は夢も見ずに睡った。いや、もしかしたら見たのかもしれない。それは、ただ真っ暗で、温かく、時間も何もない場処でじっと丸まって睡っている夢だ。幸せでほんのりと温かくなる夢を見ている。まるで母親の胎内に戻ったようだ。或いは遠い昔の微生物に還ったのだろうか。温かい海の中で幸せな夢を見ている。自分はまだ何者でもなく、何にでもなれる、あらゆる可能性を持っている。枝分かれする前の自分。透明でまわりとすぐに溶け合う。自分と他のものの境界線がなく、果てしなく自由だ。自分は自分であり、他の何かでもある。きっと昔はすべてがひとつだったのだろう。いつの間にか分かれて、ぶつかって、様々なものが出来上がったのだ。でも、いつかそれらも分解して、漂って、また何か別のものになるのだ。どんな自分にもなれるのだ。
私は瞼を閉じ、夢の中で夢を見ていた。
それは恐ろしく幸福な夢だ。
それから私と砂糖くんは何度か一緒に食事をした。朝食はたいてい同じ時間帯にそれぞれカフェへやって来る。まあ、夕食もだいたいそんな感じか。コンビニ弁当の日もあるけれど。カフェで時間が合えば、当然のように同じ席に砂糖くんは座ってきた。
私と砂糖くんは他愛のない話ばかりをした。
「一番最初の記憶って何?」
砂糖くんは脈絡もなく、突然、おかしなことを訊いてくる。
「一番最初の記憶?」
「自分が覚えている中で一番古い記憶」
私はねぎ味噌の載った豆腐をつつきながら考える。
「道路をふわふわと歩いているところかな」
「ふわふわと?」
「うん。ずっと小さい時、家から少し離れたところの細い道路を歩いているの。ふわふわと、いまにも宙に浮きそうに。たぶん、あれが最初の記憶かな」
「へえ、変わってるね」
「何が」
「そんな何でもないことを覚えてるなんて」
「そんなものでしょ?」
「何歳の頃?」
「さあ……二歳とかかなあ……私っていう認識もあまり出来ていない頃……不思議な感覚……ふわふわ、ふわふわって……」
「きっとその時、初めて自我が生まれたんだよ」
「そうかなあ」
「自分と他との境界線が出来てきたんだ」
「それっていいことなのかな」
私はぽつりと云う。
「どうして?」
「自我なんてなければ、何も悩むこともないのかなあって」
「何か悩み事でもあるの」
「別に」
私はそそくさとヨーグルトを食べる。
「もう行くの」
「うん」
「僕の最初の記憶の話も聞いてないのに?」
「また今度ね」
砂糖くんと何度か話すうちに彼のことが少しずつ分かってくる。彼は屈託がないだけではない。もしかしたら、私以上に脆いかもしれない。……いや、そんなわけないか。私以上に心が弱い人間なんているものか。
「全然、自慢にもならないけど」
「何?」
私はじっと砂糖くんを見る。
「砂糖くんは、平和そうでいいねえ」
「そう見える?」
「うん、悩み事なんて何もなさそう」
「そうでしょ」
しれっと云う砂糖くんを私は探るように見て、やっぱりそうだよなあ、と思う。
みんな何かを抱えてる。重いもの、つらいもの、苦しいもの、哀しみ、淋しさ。みんなそれらを抱えて、頑張って生きている。
それから逃げたのは私くらいだ。
「かけっこ得意だった?」
ある時、砂糖くんにそう訊かれ、私はギクリとする。
「どうして? 逃げ足早そう?」
「誰もそんなこと云ってないじゃない」
「どうせ逃げるのだけは得意ですよ」
「どうしたの? 今日は何かいじけてるね」
「そんな日だってあるよ」
「まあね」
「砂糖くんはどうだったの?」
「逃げ足?」
「そうじゃなくて、かけっこだよ」
「まあまあかな」
「そんなもやしっ子なのに速かったの?」
「もやしっ子って何」
「だって画家でしょう?」
「画家だって運動くらいするんだよ。結構、いいんだよ」
「へえ」
私はサツマイモの甘露煮が気に入って、何度もおかわりする。
「桜さん、興味ない話だとすぐ顔に出るよね」
「そう?」
「うん。子供の頃からそうだったの?」
砂糖くんは楽しそうに笑う。
ええ、そうですよ。子供の頃からずっとそうですよ。だから友達も満足に出来ず、こんなふうになっちゃったんだよ。私はぶつぶつと思う。
「そんな怖い顔しないで。桜さんって面白いよね」
「全然、面白くないよ」
「面白いと思うし、魅力的だと思うよ」
何だ、この男は。
残酷なほどに幸福な夢を見る。
自分がみんなの人気者で、たくさんの人に囲まれ、楽しく生きている。現実ではあり得ないことだ。もはやそれは自分ではない。自分が自分ではなく、楽しく素敵な人間になっている。こんな自分になれたらいいなとみんなが憧れるような人間だ。こんなふうになれば、こんなに幸せになれるのか。私は笑い、みんなも笑う。なんて幸福な夢だろう。幸福で残酷だ。頭の片隅では分かっている。これは自分ではないし、こんなことはあり得ない。それなのにずっと見続けていたいと思う。夢なら醒めなければいいのにと思う。私の本当の望みとは何だろう。淋しいのだろうか。誰かに分かってほしいのだろうか。誰かに救ってほしいのだろうか。夢は幸福で延々と続く。私が私でなくなり、何者でもなくなる。自我も何もかも、溶けて消えてなくなって、みんな一つになる。みんな一緒。境界線などない。
なんて幸福な夢だ。
睛が醒めると、残っているのは何かぼんやりとした感覚だけで、あとは何もない。でも、その感覚によって、悪夢なのかどうなのかは分かる。どうやら見ていたのは悪い夢ではなかったらしく、何となく気分がいい。
カーテンを開け、窓の外を見ると雨が降っている。夢見とは正反対だ。でも、雨も嫌いじゃない。
「こうして見ると、本当に海の中にいるみたいだな」
雨はしっとりと降っている。止む気配はまるでない。
このまま何処かへ行ってしまおうか。フッとそんな考えが過ぎる。
逃げて逃げて、何処までも行く。ここへ来て、まだ一週間くらいしか経たない。もう飽きちゃったの? ううん、そういうわけでもない。ただ何となく。何となく思っただけだ。
この雨の中を走っていったら、きっと気持ちいいだろう。海の中を泳いでいるように、感じるだろう。
「砂糖くんともお別れか」
さよならを云うべき? いや、いいだろう。友達というわけでもない。何度か一緒にご飯を食べて、ただ一度、一緒に城跡を見に行っただけだ。黙って行っても問題ない。朝食を食べに行くのはやめよう。砂糖くんに見つかってしまう。このまま荷物をまとめて、ホテルを出よう。
何故なのだろう。どうしていつもこうなのだろう。
逃げる。
人と関わり始めると、途端に逃げたくなる。
それまでただの顔見知り程度で深く考えずに喋っていた人と、ほんの少し一歩踏み込んだだけで、急に怖くなる。見知らぬ人がそうではなくなる時が怖い。いつの間にか友達になり、どんどん深く付き合っていくと、変な見栄や嘘から始まり、やがてプライドや嫉妬、虚栄心、羞恥心が現れる。すると、次第に息苦しくなり、疲れてくる。黒くて醜い感情に飲み込まれる。
だから、逃げる。
もう逃げることに後ろめたさを感じることはない。だって、もうここまで来てしまったのだから。こうなったら、全力で逃げよう。少しでも苦しくなったら、何処までも何処までも逃げる。もがいてもがいて、海面から顔を出すまで。
私は身支度を整えると、リュックを背負った。荷物は少ない。全部ひとつにまとめて、財布だけはショルダーポーチに入れた。
扉を開けて、素早く階段を降りる。後ろは振り返らず、フロントを目指す。
お金を支払い、玄関を出る。絶対、後ろは見ない。視線を感じるような気もする。いや、気のせいだ。自意識過剰。誰も私のことなど気にしていない。
私は足早に歩く。
雨が顔に当たる。
「傘がない」
私は今更ながら気づいて、ふっと立ち尽くす。
ホテルの売店で売っていただろうか。いや、でも戻るのは嫌だ。後ろは振り向きたくない。コンビニだ。コンビニで買おう。それとも、このまま濡れていこうか。幸い大した雨ではない。細かい霧のような雨だ。でも、駅に着く頃にはかなり濡れてしまうだろう。しっとりと、少しずつ重たくなってゆく。
私は再び歩き出した。
濡れて行こう。
海の中を泳いでゆく。
顔に当たる雨粒が頬を伝ってゆく。
「まるで泣いているようだな」
私は呟く。
海の中をくるくる泳いでゆく。泣いていても誰も分からない。涙は海水に溶けて、昇ってゆく。光りながら、くるくると、泡と一緒に昇ってゆく。
空のずっと遠くで光の射しているのが見える。かなり遠い。あそこへ行こう。電車に乗って、きっと、あそこには本当の海がある。キラキラ光った海が。
私には分かる。
「何処へ行くの」
急に雨が止んだと思ったら、声がした。
振り返ると、砂糖くんが私の頭上に傘を差し出して、立っていた。
「しまった。見つかった」
「ふふ、黙って行こうとしたんでしょう。残念でした」
「どうして分かったの」
「そそくさとフロントでチェックアウトしてるのが見えたから」
「挨拶に来てくれたの」
「違うよ、僕も行くんだよ」
云われてみると、砂糖くんはかなりの大荷物だ。スーツケースに、おそらく画材道具が入っている木箱、布で包まれたキャンバスらしき物、そして折りたたまれたキャンバス立て。木箱は肩から掛けられるようになっていて、その他はスーツケースに上手く括り付けられている。片手には傘を持ち、木箱を肩に掛け、スーツケースを引く姿は民族大移動のように見えた。
「何処へ行くの」
「桜さんと同じ処」
「嘘でしょ」
「ほんと、ほんと」
「何でよ」
「せっかくだから」
「何がせっかくよ」
「別に僕のことは気にしなくていいよ。後ろをくっついていくだけだから。部屋も別々でいいし」
「当たり前でしょう」
「それで、何処行くの」
「電車に乗って適当に」
「いいね。僕、あったかい処に行きたいなあ。南の島とか」
「行けばいいじゃない。飛行機で」
「冷たいなあ」
「南の島へは行かないけど、海の見える処に行こうと思って」
「海か。海の絵でも描こうかな」
砂糖くんは笑って、私に合わせて歩き出す。
「荷物すごいね」
「うん、一応ね。画家だから」
「本当についてくる気?」
「うん」
「うーん、まいったな」
「どうして? ダメ?」
「まあ、別に構わないけど。私は私で勝手に行くし、きみはきみで勝手に行くんでしょう。きみが何処へ行こうと私に止める権利はない」
「そう。勝手について行く。嫌なら無視してくれて構わないから」
「云われなくてもそうする。私は私のやりたいようにする」
「でも、たまには一緒に何処かに行こう。城跡を見に行ったみたいに」
「たまにならね」
私たちは並んで歩くというよりも、砂糖くんが後ろをついてくる感じだ。ほんのすぐ後ろにいて、傘を私の方に差し出している。
「傘、もういいよ。止んできたし」
「いいよ、差すよ。泣いているように見えるから」
「泣いてなんかないよ。砂糖くんこそ泣いているように見えるよ」
「ははは、そう?」
砂糖くんが笑うと、本当に泣いているように見えた。
「何だか元気がないように見える」
気がつくと、声に出していた。
「雨が降っているからかな」
「雨嫌いなの?」
「ううん、嫌いじゃないけど、雨が降ってると空が暗くなるでしょう。だから、顔色が悪く見えるだけなんだよ」
「私は割と雨って好きだな」
「僕も」
「思う存分、その暗さに浸っていられるから」
「浸りたい時って、あるよね」
「うん」
私たちは黙って歩き、駅に着く頃には雨もすっかり止んでいた。
適当に切符を買って、空いている車両に乗り込んだ。ボックス席に向かい合わせに座り、隣に荷物を置く。
窓玻璃は流れた雨粒ですっかり濡れている。外の景色は泣いているように見えた。
「雨、止んじゃったね」
「うん。でも、世界は濡れていて、まるで海の底みたいだ」
私は砂糖くんを見た。
砂糖くんはじっと窓の外の景色を見つめている。
「………」
私も窓の外に睛をやり、空を見上げた。
空は薄く白い雲をまとい、処々(ところどころ)から碧い色が覗いた。瑞々しいのは空が濡れているからなのか、玻璃が濡れているからなのか判断がつかない。
電車は走り出す。空も次第に晴れてきて、光が射してくる。雨粒が窓玻璃を転がってゆく。
世界は海底を走ってゆく。水の泡がころころ流れてゆく。瑞々しい碧が見える。光の筋が何本も降りてくる。海面はあそこだ。もうすぐ深い海底を抜ける。
電車は走る。
海に沈んだ街が次第に明るくなってゆく。空は碧い。窓を開ける。風と水の粒が顔に当たる。
「抜けたね」
砂糖くんが笑って云う。
砂糖くんの笑顔を見て、私は不思議な気持ちになる。
何でまた私はこんな若い男とふたりで旅などしているんだ? 夢から醒めたように急に現実的になり、私は思わず頭をブルブルと振った。
「どうしたの」
「いや、何か、夢でも見てるのかなって」
「いい夢、悪い夢?」
「何とも摩訶不思議な夢」
「へえ、じゃあ、いいんじゃない?」
「いや、良くないよ。急に醒めて、寒くなったよ」
「寒い?」
「うん。凍りそうだよ」
「ふふ、じゃあ、あったかいものでも食べる?」
「そういう意味じゃなくて。何で私ここにいるんだろう?」
「電車に乗ったからでしょ?」
「どうしてきみはここにいるの?」
「そう云われると、僕もよく分からない。しいて云うなら、何か睛に見えない力に連れられて?」
「はあ……」
私は溜め息をつく。
「私、朝方、夢を見てたんだけど、いい夢だと思ったんだけど、哀しかったのかなあ……」
「ふうん……?」
「いまやっと夢から抜けて息をし始めたみたい」
「泳いでいたの?」
私は砂糖くんを見る。
「きみはとぼけた顔してなかなか鋭いよね」
「よく云われる」
「よく云われるんだ」
「でも、時々、一緒にいると哀しくなるって云われるよ」
「へえ……? どういう意味だろう」
「桜さんはどう?」
「よく分からないな……哀しいって気持ちと幸せって、何だか似てる時があるよねえ」
「詩人だ」
そう云われ、急に恥ずかしくなる。
「暑いね」
「さっき、凍りそうって云った」
「状況は変わるんだよ」
「汐の匂いがする」
「え、嘘。海、近い?」
「僕は鼻がよく利くんだ」
「そう云われると、犬っぽいね」
「桜さんは猫かな」
「そうかな。猫は好きだな」
風が吹く。
微かに汐の匂いがする。
海が近い。
「おでこ全開だ」
「変?」
「いや、可愛いよ」
「さらっと云うねえ」
私は笑って、答えた。
「さらっとかわすねえ」
砂糖くんも笑う。
「海、好きなの?」
砂糖くんが訊く。
「どうだろう。好きなのかなあ」
「急に思い立って、海に行くとか、なかなかないよね」
「うん。薔薇を探そうかなって……」
「バラ?」
「うん。貝殻で出来た薔薇。透き徹って、触れたら毀れそうな玻璃細工みたいな薔薇」
「それは何? 貝殻なの、ガラスなの?」
「貝殻だよ。薄くて透明な貝殻がいくつも重なって、薔薇みたいになったもの。儚くて透明で、綺麗だよ」
「ふうん……そんなのがあるんだ」
「自動人形の心臓でもある」
「え?」
「ふふふ、面白いでしょ」
「あ、冗談?」
「そういう小説があるんだよ。心臓をなくした自動人形が砂浜に探しに行くって……やっと見つけたそれは、綺麗な透き徹った貝殻で、薔薇の形をしていたんだよ」
「へえ……何だか切ない話だね」
「うん。そう。これだけで切ないって分かる?」
「分かるよ。心臓をなくしたロボットが砂浜を彷徨う姿なんて、想像しただけで哀しくなるよ」
そう云って、砂糖くんは黙って窓の外を見る。
私も黙って景色を眺める。
空の向こうがキラキラと輝いている。きっとそこに海があるんだろう。陽の光を受けて光った海が静かに波を返す。白い砂浜は何処までも続き、何度も何度も波に洗われる。その中を自動人形が歩いてゆく。自分のなくした心臓を探して。
彼はどんな気持ちで彷徨っていた? 心臓をなくして、どんな想いで。
彼の心は何処にあるんだろう。玻璃細工の心臓に? それを戻せば、彼は感情を取り戻せるのだろうか。でも、果たして、それが幸せなの?
「ロボットに感情はあるのかな」
砂糖くんが呟く。
「分からない」
「その小説の中ではどうだった?」
「読んでも、分からなかったよ」
「そうなのか……でも、結局、そうなのかもしれない」
砂糖くんはそう云って、また黙り込んだ。
電車は走ってゆく。ガタンゴトンと静かに音を立て、ゆるゆると進んでゆく。
海が見えてくる。
キラキラと輝いて、眩しい。空が碧い。海も空を映して、碧く煌めいている。宝石を散らばしたような光の瞬きを、私は睛を細めて見つめている。
風が抜けてゆく。
フッと不思議な気持ちになる。何だか前にもこんなことがあったような、この景色を見たことがあるような……
「また既視感だ」
「何?」
「この光景を前にもこうして眺めていたような気がする」
「ああ、すごくよく分かる。僕もそんな気がするよ」
「本当に?」
「うん。きっと遠い昔に僕と桜さんはふたりでこうしていたのかもしれないね」
「そうかなあ」
「きっとそうだよ」
「昔っていつ?」
「さあ、いつだろう。生まれる前とか」
電車が停まり、私たちはそこで降りた。
海に向かって歩いてゆく。
「民族大移動みたいだね」
「まあね。桜さんは身軽でいいねえ」
「何か持とうか?」
「まさか。女の人に荷物を持たせるなんて出来ないよ」
「紳士だね」
「ふふ、照れるなあ」
「冗談なのに」
「分かってる。いい天気だね」
「雨はすっかり止んだというか、最初からここは降ってないのかな」
「そうかも。じめじめしないし、空気が爽やかだから」
しばらく行くと、海岸沿いの道に出た。白い道だ。光を反射して睛に眩しい。
陽は次第に高くなり、じりじりと降り注いだ。
「何だか砂漠を歩いているみたいだ」
「うん。さすがに汗をかいてきた。風は涼しいんだけど」
「道の向こうで何か光ってる」
「本当だ。何か落ちてるんだね」
それは白い道の先でキラリと光を放っていた。何だろう。金属? 螺子とか鍵とか誰か落としたのかな。
歩いてゆく先をずっとチカチカと瞬いている。
「何だと思う?」
「じゃあ、当てっこしようか」
「うーん。私は鍵かなあ」
「僕はそうだなあ、コップかな」
「コップ? 何でコップ?」
「銀色に光っているからさあ。誰か落としたんだよ」
「誰かが落とすなら鍵とかでしょ。何でコップを落とすの? あんな道の真ん中で、コップで何か飲んでたの? 飲むなら缶とかペットボトルでしょ」
「まあ、いいじゃない。もうすぐ何だか分かるよ」
それは光を放ったままずっとそこにあった。私たちは少しずつ近づいてゆく。
「当てた方が何かおごってもらえることにしよう」
「私、アイスが食べたい」
「ああ、暑いからね」
「たぶん、コップではないよ。もっと小さいものだよ」
「うーん、そうかも。桜さんの当たりかなあ」
車が通り過ぎてゆく。危うく轢かれそうになる。
「危なかったね」
「自分が?」
「違う。あの光ってるやつが」
「ギリギリだったね」
睛がチカチカする。
「あ」
「外れた」
私と砂糖くんはそれを覗き込む。道端で光っているそれは銀色のスプーンだ。
「何でスプーン?」
「ほんとだ、いったい誰がこんな処に落としたんだろ」
「カレーでも食べてた?」
いったいどういう経緯でスプーンがこんな道の途中に落ちているのか不思議に思いながら、私たちはしばらく立ち止まっていた。
「このスプーンも自分がこんな処に転がるなんて夢にも思っていなかっただろうに……」
私がそう云うと、砂糖くんは笑った。
「そうだよねえ。ほんと、人生って何が起こるか分からないよね」
「スプーンの人生か」
「ふふ。可笑しいね。僕も桜さんとこうして出会えるなんて夢にも思ってなかったよ」
「私だって思ってなかったわよ」
「僕と出会えるって?」
「ううん。こうしてこんな処にいるなんて、ほんの欠片も想像してなかった。スプーンと一緒よ」
「そうだよねえ……僕だってそうだよ。今頃は南の島にいると思っていたよ」
「そんなに行きたいなら行けばいいんじゃない」
「ふふ。そうだね。いつかね」
私はじっとスプーンを見つめ続ける。
「拾っていく?」
「ううん。いい」
私は少し名残惜しい気持ちを残して、歩き出す。
「僕の方が近かったね。この賭けは僕の勝ちかな」
「そうかな。私の方が近いんじゃない。コップとスプーンじゃ全然違うよ」
「鍵だって全然違うよ」
「でも、コップよりは似てるよ」
「譲らないなあ。じゃあ、いいよ。今回は僕の負けで」
「じゃあ、アイスね」
「うん」
「暑いね」
「そうだね。もう、ここから、海に入ろう」
砂糖くんは砂浜に降りる階段のある処まで待たずに、途中から道を逸れた。
コンクリートの斜面を降りてゆく。
「そんなに荷物を持って危なくない?」
「大丈夫だよ。たとえ転んでも、転がり落ちるだけだよ」
「私は身軽だからいいけど」
そう云って、私も斜面を降り始めた。
「ひょいひょい来るね。運動神経いいの?」
「別に普通だよ」
「そう? ほんとにすごい身軽だけど」
「飛んだり跳ねたりは得意なの」
「じゃあ何が苦手なの?」
「球技とか」
「ああ、そんな感じ」
「そんな感じってどんな感じ」
私はちょっとムッとして云う。
砂糖くんは砂浜に辿り着き、木陰を探して荷物を置いた。
「桜さんもここに荷物を置いて、海に入ろう」
「水着持って来てない」
「はは。僕だってないよ。足だけでも入ろうよ」
「いいね」
キラキラと光る波打ち際へ足を伸ばす。
水が冷たい。気持ちいい。水色の泡がくるくると私の足首をさらってゆく。
「誰もいないねえ……」
まるで世界にふたりきり取り残されたみたいだ。遥か遠い未来か、遠い昔か、私たちは成す術もなく、ただ佇んで海を眺めている。
太古から悠久に続く海をぼんやりと、時間が止まったかのように眺めている。
とても静かだ。世界に取り残された、たったふたり。それはまるで幸せで残酷な夢みたいだ。
海から風が吹いてくる。涼しい。汗がすうっと引いてゆく。
「どうして誰もいないんだろう」
「まだシーズンじゃないし、平日だからね」
「そうか、こんな時にここにいる私たちがおかしいのか」
砂糖くんは微笑む。少し哀しげな顔でじっと遠く、海を見つめている。
「どうかしたの」
私は砂糖くんが消えてしまいそうに思えて、思わず声を掛けた。
「ううん、何でもない。ただ何だか不思議だなあって思って」
「何が」
「僕たちは遠い昔、微生物で、海を漂っていたんだよなあ、って」
私は少し驚いて、砂糖くんを見る。砂糖くんは首を傾げて私を見返す。
「僕、何か変なこと云った?」
「ううん。私もそういうことよく考えるよ」
「ふうん?」
私は海をじっと見る。光の粒がキラキラと綺麗だ。
「よく考えるよ……私たちの躰は色々なもので出来ているけど、それらは昔から何らかの形で存在していて、たまたま今それらが集まって私の形になっていて、その元は、昔は海の中を漂っていたんだって……記憶はないけれど、きっとそうなんだよ。粒子とか原子とか小さい小さい欠片が集まって、くっついたり離れたり、色々な形でずっと昔から存在していて、きっと死んで躰が朽ち果ててしまっても、何処かには私の一部があって、風に飛んで、或いは海に還って、また昔のように……」
私は一気に喋ると、溜め息をついた。
「感情も何かで出来ているのかな。原子とか分子とか。それらは何処へゆくんだろう」
砂糖くんは海をぼんやりと見たまま、呟くように云う。
「もしかして、やっぱり元気ない?」
思わず訊いてしまった。いつもならこんな余計なことは云わない。考えるよりも先に言葉が出てしまった。自分の口じゃないみたいだ。
「ふふ、桜さんはすごいね」
「何が」
「人の心が分かる。絶対見落とさない。僕のカチカチの仮面なんてあっさり剥ぎ取っちゃうんだ」
「ごめん」
「ううん。違うんだよ。桜さんは人の痛みや哀しみが分かる優しい人なんだってことだよ」
「優しくなんかないよ」
「優しいよ。上辺のことじゃなくて、きっと内面が、こう、なんて云うんだろ、純粋で、根っからもう何だか温かいんだ」
「会って間もないのに私の中身なんて分かるの」
「ふふ、分かるはずないでしょって云いたいの」
「砂糖くんこそ人のことを読むじゃない」
「桜さんは顔に出るからね」
「私はよくクールだとか無表情とか云われるけど」
「そんなことないよ。正直で真っ直ぐだから顔に出るんだよ。きっと裏も表も一緒で、クールに見えるとしても、実はすごいあったかいんだよ」
「……そんなこと云われたの初めてだわ」
「云わないだけでみんな分かってると思うよ」
「そうかな……私は喋ることが苦手だから人からは理解されてないと思うけど。いつも思うよ。他人は私のことをどれだけ分かってくれているのかなって……」
「もちろん話してくれなければ分からないことの方が多いよ。でも、その人となりとか、人柄とか……そういう根っこの部分って見てるだけで分かることもあると思うんだ。あ、なんかこの人、あったかいなって……」
「第一印象がいい人ほど当てにならないって私は経験で思うけど」
「はは、それは云える。でも、そういうのとは違うんだよ」
「ふうん……」
「ちなみに僕の第一印象は?」
「うーん、どうかな」
「すごい不審者を見るような睛で僕を見てたよね」
「はは。まあ、そうかな」
砂糖くんは笑う。
「正直」
「そうでもないけどね。嘘をつくことなんていっぱいあるよ」
「そういうこと云っちゃうのも正直だと思うけど」
「でも、云ってないことの方が多いよ」
「それはそうだよ。全部話す必要なんてないんだし」
「まあ、そうだよね」
私は海を見つめ、ぼんやりと遠くを想った。風が吹き抜けてゆき、パラパラと前髪を揺らした。
キラキラと海が碧い。眩しくて、綺麗だ。風も気持ちいい。
結局はぐらかされてしまったな。
そう思って、私は砂糖くんをチラリと見る。砂糖くんはもう私を見ず、遥か遠くを見つめている。
人懐こく見えて、砂糖くんには壁がある。それも透明な壁だ。一見、分からない。近づいてよく見ると分かる。それ以上は近寄れない。
私にもある。私の壁は頑丈で大きな壁だ。ちょっとやそっとじゃ毀れない。遠くから見て分かるから、最初から誰も近寄らない。
でも、砂糖くんは違ったんだよ。何でだろう。私の壁に気づかなかったのか、気づいていて近寄ってきたのか。
きっと分かったのだろう。自分にも壁があるから、私の気持ちが少しでも分かったのかもしれない。
私の隠された本当の気持ち、或いはぼんやりとした想いを。私が自分でも気づかない、心の奥の何かを。
その夜はなかなか睡れなかった。
睡りに落ちたと思っても夢見が悪くてすぐ睛が醒める。深い海底を泳ぐ夢だ。もがいてもがいて必死で海面を目指そうとする。なかなか辿り着けない。遠く上の方にぼんやりと円い光が見えるだけだ。仕舞に私は泳ぐのをやめ、諦めたようにその光を眺める。羨ましいなと思いながらただ遠くから眺めている。うつらうつらと、そして、夢はそのままスライドする。私はいつの間にか教室にいる。楽しくお喋りするクラスメイトの環を遠くから眺めている。
あっちは明るい。私がいる処とは違う。私は机に向かって、じっと座っている。誰も私に気づかない。静かだ。教室内は賑やかなはずなのに音がない。まるで無声映画を見ているようだ。私の耳がおかしいのか? クラスメイトは笑う。はしゃぐ。でも、その声が聞こえない。
ああ、私だけが海の底に沈んでいるんだ。静かな静かな海の底。私の耳は貝殻だ。波の音のように周りの音を吸収する。そして、ひとり暗い海の底に転がっている。
静かだ。
とても。
睛を醒ますと泣いている。まだ真夜中で辺りは暗い。波の音が聞こえる。窓の外に海があるのが分かる。障子を通して、うっすらと明るい。月を映した海面が揺れるからだろうか。夜の闇の中でチラチラと波が光る。
このまま浅い睡りに落ちてしまったら、また悪い夢を見てしまう。
私は起き上がり、カーテンを開ける。暗い海がそこにある。
「行ってみようか」
夜の海に。
私は音を立てないようにそっと部屋を出る。隣の部屋は砂糖くんだ。泊まっているのは海に程近い民宿のような処で、小ぢんまりとした木造の建物は夜の闇の中でしんと静まり返っている。
外に出る。月が明るい。まんまるの月だ。キラキラと綺麗。
波の音がする。周りが静かだからか、結構大きく聞こえる。
私はスニーカーを脱ぎ、裸足で砂浜を歩く。砂がひんやりとして気持ちいい。
夜の海が睛の前に広がっている。汐騒が耳の中で木霊する。くるくる、くるくると廻る。螺旋の階段を昇るように音が躰の内部に入り込む。私の耳は貝殻だ。きっとこの波の音をずっと記憶するだろう。
海は暗く、広大だ。月燈でチラチラと波が白く煌めく。
ああ、このままこの海へ入ってゆけたら、どんな感じがするだろう。水は冷たく躰にまとわりつくだろう。躰の周りを縁取るように泡がくるくると舞うだろう。そして、いつしか躰も泡もゆっくりと溶けていって、海との境界がなくなって消えてゆくのだ。きっとそれは、かつて微生物だったころに戻ってゆくことなのではないだろうか。或いは塵となって其処彼処に漂ってゆくのだ。
そうなれたらどんなにいいだろう。
私は何かに導かれるように静かに歩き出す。波がくるくると足首を転がってゆく。くすぐったい。私は微笑む。
月を見上げる。黒くたゆたう広大な海。
「綺麗だなあ……」
寄せては返す波が何度も何度も私を残して駈け抜けてゆく。静かに歩を進める。水は随分と冷たい。
「桜さん」
時間が流れ出す。波の音が急に大きく聴こえる。貝殻から溢れてゆくように。
私はゆっくりと振り返る。
「砂糖くん」
月燈だけの薄闇の中に彼が佇んでいる。
「何してるの?」
「それ、僕が訊こうと思ってた」
「私は睡れないから海を見に来ただけ」
「そう。夜の海って気持ちいいよね」
「砂糖くんは何しに来たの?」
「僕は絵を描こうと思って」
「絵を?」
「うん」
そう云って、砂糖くんは海に睛を向ける。彼の瞳にはゆらゆら光る黒い海が映っている。月の燈がチラチラと瞬く。
「……月が出ているとはいえ、こんなに暗くちゃ絵なんて描けないでしょう」
「そうだね」
砂糖くんは笑う。
「何だかつらそうだね」
「僕が?」
「うん」
「そう見える?」
「うん。何となく」
砂糖くんは海を見つめたままだ。
「海を見てると落ち着くよねえ」
「話、そらした?」
「うん」
砂糖くんが今度は私の方を見て、笑う。
「戻っておいで」
砂糖くんが云う。
「え?」
「そんな処にいつまでもいたら、波にさらわれちゃうよ」
私は自分の足元を見つめる。
「うん、そうだね」
私は戻って、砂糖くんの隣に佇む。
「何処まで行こうとしてたの?」
「すぐ戻ってくるつもりだったよ」
「それならいいけど。夜の海って危険なんだよ」
「うん、分かってるよ。水が冷たくて気持ち良かったから」
「気持ちいいよね」
「入ったことある?」
「夜の海に?」
「うん」
「あるよ」
私は砂糖くんのそばに置いてあるキャンバスを見る。月燈に照らされたそれは真っ白で、絵の具の汚れひとつない。砂浜の上には何色かの絵の具と筆が、少し砂に埋もれて転がっている。
「……どんな絵を描こうとしてるの?」
「そうだなあ……」
「海を描くの? 風景画? それとも何かをイメージして描いたりするの?」
砂糖くんは曖昧に微笑むだけだ。
転がっている絵の具は青と黄色と白。やはり海を描くんだろう。でも、夜では海の碧さも空の色も分からないのではないだろうか。
「……いつからここにいたの?」
「どうして」
「もしかして、明るいうちからずっといたのかなあって……」
砂糖くんは穏やかに笑う。
やはり、そうなのだ。砂糖くんは私と別れてからひとりで海辺へ降り、絵を描きに来たのだ。それから何時間もずっとこうしていたのだろうか。陽が沈んで暗くなってゆく間、ずっとひとりで佇んでいたのだろうか。
静かだ。聴こえてくるのは波の音だけ。それは耳の奥でそっと木霊する。ゆっくり、ゆっくりと沈んでゆく。
私は空を見る。月が大きい。手を伸ばせば届きそうだ。月の模様がはっきりと見えて、立体感があって、迫力がある。
「衛星って感じだなあ……」
私がぽつりと呟くと、砂糖くんはプッと吹き出して笑った。
「何よ?」
「急に面白いこと云うなあと思って」
「何が面白いの?」
「うん、いや、確かに本格的な月だよね」
「そうでしょ? 今日はやけに大きくて、円いんだなあって感じ。檸檬色って云うより、銀色だよね。銀色の光がキラキラしてる」
「うん。宇宙ステーションから見てるみたいだ」
「宇宙ステーションに行ったことあるの」
私はふざけて云う。
「うん」
砂糖くんもふざけて答える。
「いいね、私も行ってみたい」
「へえ?」
「月とか宇宙とか。火星にも行ってみたいな」
「どうして?」
「宇宙から地球を見てみたい。きっと人生観が変わるだろうな」
「僕も人生観を変えたいな」
私と砂糖くんは夜空を見上げ続ける。
惑星がゆっくりと廻ってゆく姿を想像する。恒星の周りを、自身も回転しながら、廻ってゆく。さらに惑星の周りを衛星が廻り、それは何処までも続いてゆく。果てしない宇宙の闇の中で幾つも幾つもの惑星たち、衛星たちが廻ってゆく。そして恒星も、すべてを含んだ銀河でさえも廻っている。なんて、広大で、壮大な光景。
「僕なんてちっぽけなんだよなあ……」
砂糖くんがそう云い、私は驚いて彼を見る。
自分が呟いたのかと思った。同じことを考えてる。
「広大な宇宙を想うと、自分はちっぽけだなって感じるけど、宇宙を想えば想うほど、自分はちっぽけだと思えば思うほど、反対に心は大きくなっていくよね」
「うん、分かる。宇宙が何処までも広がっていくみたいに、心も大きくなっていくんだよね」
波の音を聴きながら宇宙を眺めているのは何だか不思議な感じがした。さざ波と月と星屑と砂糖くんと私。瞼を閉じているわけでもないのに、フッと自分が何処にいるのか分からなくなる。暗闇の中を漂い、何処かへ流れてゆくような気がした。空気になり、溶けて、何もかも分からなくなり、いつしかこの想いも宇宙の一部になってゆく。
ああ、何て不思議なんだろう。
胸の奥がぎゅっと痛い。
「僕ね、絵が描けないんだ」
砂糖くんがぽつりと云う。
最初、空耳かと思った。風に吹かれて、一瞬のうちに何処かへ消えてゆく。でも、かすかなその声は、私の耳にしっかりと入り込み、木霊となって中に残った。
「ふうん……そうなんだ」
どういう意味だろう。描きたくても描けない? おそらく、そういうことだろう。スランプなのか、それとも、もっと深い何かなのか、思うように描けないでいるのだ。だから、苦しんでいる。
絵を描かない私には何と答えたらいいのか分からない。私は今まで何ひとつ一生懸命にやってこなかった。何ひとつ。だから、私にはそのつらさが想像できない。
「もうずっと描いていない」
「……どのくらい」
「そうだな……もう二年になるかな。大学を卒業してからずっとだから」
「……ふうん」
それまでずっと描いてきた絵が二年間も描けなくなるって、どんな気持ちなのだろう。自信を持ってしてきたことが、急に揺らぎ、足元から崩れてゆく。そんな想いを私はしたことがあるだろうか。
私はいつも逃げてきた。つらいことから、哀しいことから、悔しい思いをすることから、いつも全力で逃げてきた。負けるのが嫌だから、最初から戦おうとしなかった。出来ないのが嫌だから、最初から諦めて、何かに挑戦することなどなかった。
友達とかけっこをしていても負けそうになるとわざとゆっくりと走った。テストで負けると、次からは勉強することをやめた。一生懸命に頑張ったのに負けるのが嫌だったからだ。友達や兄妹が頑張っているのを横目で見て、冷めたふりしてやり過ごした。戦う舞台から私はいち早く降りたのだ。悔しい思いをするのが嫌だから。哀しい思いをするのが嫌だから。ダメだった時の言い訳のために、本気を出さずに来たのだ。何もしない。何も頑張らない。すべては自尊心を守るためだ。情けない。
何もしてこなかった私には、後悔したり、挫折を味わったり、苦しんだりする権利さえない。そんな私が砂糖くんの気持ちをどうやったら分かってあげられるのだろう。
涙が零れる。
空っぽだ。私は。何もない。
「……どうして泣いているの?」
「私は砂糖くんが羨ましい」
砂糖くんの睛は月を映してキラリと潤んでいる。
「そう……それで泣いているんだ」
砂糖くんは微笑んだ。
「うん」
私も笑う。
「私には何もないから」
砂糖くんは微笑んだまま、首を横に振る。
「そんなことないと思うよ」
「何を根拠にそんなこと云うの」
「だって分かるから。桜さんには何かがあるよ。人にはない何か。きっとそれはいずれ花開くよ」
「ふうん……?」
私に何があるって云うんだろう。きっと慰めてくれてるんだ。小説家だとか嘘ついちゃったから、それを勘違いしているのかな。
私は適当に返事をして、また空を見上げる。
「僕がいい加減なことを云ってると思ってるでしょう」
「うん」
「やっぱり。でもね、本当なんだよ。最初、見た時から、この人には何かあるなって思ったんだよ」
「何か訳ありだなって?」
「違う、違う。何か光るものがあるなってことだよ」
「何かって何?」
「何だろう。言葉には出来ないな。でも、あるんだよ。確かに。きっと僕にはないもの。だから僕は描けない。僕は桜さんが羨ましいよ」
「私は絵なんて描けないよ」
「そういうことじゃないんだよ」
そう云って、砂糖くんはまた笑う。
「羨ましいかあ……私には人から羨ましがられるものなんて何もないのに」
「僕だってそうだよ」
「気づいてないだけだよ」
「桜さんこそね」
月がカチカチと音を立て、ゆっくりと傾いてゆく。なんて哀しい響きだろう。それは、涙の流れる音に似ている。
私たちはしばらく夜空を眺め、夜が明けてしまう前にそれぞれの部屋へ戻った。
砂糖くんはちゃんと睡れているだろうか。
私は布団に入りながら考える。
何かもっと気の利いたことを云ってあげるべきだっただろうか。でも、私に何が云えただろう。
涙が溢れそうになる。
私はもっと何かが出来たのではないか。いつでも私には何かをするという選択肢があった。それから逃げていたのは私が弱いからだ。私は何だって出来た。能力があるとか、そういうことじゃない。やる気の問題だ。やろうと思えばどんなことだってすることが出来たし、どんな人間にだってなることが出来たのだ。たとえ、それがどんなに困難な道でも挑戦し続けることは出来たに違いないのだ。
あえて大変な道に進み、悩み、挑戦を続けて、もがいている砂糖くんを私は尊敬する。苦しんでいる姿さえ、あんなに美しい。
「………」
私にも何かが出来るだろうか。いまからでも遅くはないだろうか。
月が傾く。
カチカチ…カチカチ……と。
涙が溢れて止まらない。
止まらない。
こんな夜は誰かにそばにいてほしい。




