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シュガー  作者: すもも
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     プロローグ


 私の中で何かがぷつんと切れた。

 深く、暗い静かな(ところ)でそれは起こった。


         ◇


 私は何もかもを捨てて自分の街を逃げ出した。何も考えていなかった。突然、私は駆け出した。光に向かう虫のように、傷つくことなど考えず、ただ本能のままに飛び込んだ。

 何故、そんなことをしたのか分からない。頭の中は真っ白で真っ暗だ。思考が消えている。これからのこととか、これまでのこととか何もかもが消えていた。

私は真夜中の電燈の光に飛び込んでゆく虫だ。虫? いや、違う。

蛾だ。その方がよく似合う。

私は醜い。とても醜い。

容姿のことを()っているのではない。中身のことだ。心のことだ。私は黒く醜い。醜く酷い感情で出来ている。

 何も考えず、光の射す方へ向かって、私は焦げてゆくのかもしれない。それもいい。きっと、いい。

 このまま行けるところまで行こう。



 私は財布ひとつだけ持って、走り続けた。財布の中には小銭と千円札と一万円札が三枚ずつ。それから、いままで無駄に貯めてきたお金が入ったキャッシュカード。

 これまで仕事だけして、その他は何もせず、生きてきた。遊びにも飲みにも行かない。お金はひとりでに貯まり続ける。大学を卒業してから十年間だ。ずいぶん貯まった。このお金が尽きるまで、何処(どこ)までも逃げ続けよう。

 行き先の分からない電車に乗る。ちょうどプラットフォームに停まっていた電車だ。席はガラガラで何処でも好きなところを選べる。ボックス席の窓際に座る。四人掛けだが、私以外は誰もいない。

 息が切れる。本当に走っていた。今は春。少し動くとうっすらと汗をかく。窓を開けた。風がスッと入り込む。涼しい。額の上で前髪がパラパラと揺れた。

 逃げるには春はいい季節だ。これからだんだん暖かくなるし、外にいても凍死することはない。と()っても、野宿するつもりでいるわけではないのだけれど。

 安いホテルを探そう。一泊五千円くらいの。一ヶ月で十五万円。食費は一日千円。一ヶ月で三万円。その他もろもろかかるとして……一ヶ月二十万円あれば生きていけるだろうか。一年で二百四十万円。

 無駄にたくさん貯めたつもりでいたけど、私の貯金では十年も生きていけないな。

 でも、それでもいいのかもしれない。そこで命が尽きるなら、それでも。

 風が吹く。気持ちがいい。窓から見える景色もだんだん変わってゆく。次第に見知らぬ場処(ばしょ)になってゆく。

 この景色に飽きたら、電車を降りよう。

 街が見える。四角い建物がパラパラとモザイクのように流れてゆく。空が碧い。街は空を反射して水色に光っている。

 まるで海の底だな。海に沈んだ街。もしこの街に降りたら、本当に私も沈んでいってしまうのかもしれない。

額が冷たい。

汗が引いてくると、次第に冷静になってくる。

本当に良かったのか。こんなふうに逃げ出して。これから何処へ行く? この街は駄目だ。絶対引きずられる。もっと遠くへ行こう。陽の当たる場処へ。でも、其処(そこ)で何をする? 何もしないでただホテルに泊まって、お金が尽きるまで生き続ける?

「節約するべきか贅沢するべきか」

 思わず声に出す。

 まわりには誰もいない。呟きは風に飛んで消えてゆく。

 少しでも長く生きられるようにギリギリの生活をするか、それとも思い切って豪華なホテルに泊まり豪遊三昧をして尽きるか。

 私の目的はいったい何だ? なるべく長く生きること?

楽しく遊ぶこと?

「はは……」

 いままで満足に遊ぶことも出来なかった人間がどうやってそれを実行すると云うのだろう。それが出来るなら、こんなふうに逃げてくることもなかっただろう。最初からもっと楽しく生きてこられただろう。

「じゃあ節約だ」

 出来るだけ長く生きよう。

 いつの間にか水色の街を抜け、光の射す場処を走ってゆく。ただ単に雲に隠れていた太陽の光が洩れて出てきただけだ。ここが特別光の射す街というわけではないだろう。でも、さっきの街よりは何だかいい。遥か彼方、雲の隙間から何本もの光の筋が地上へ向かっている。まるで神様が降りてくるみたいだ。

 祈りたくなる。

「何を?」

 独り言が多い。

 次第に太陽も顔を出す。眩しい。神様が降りてくる。

 私は目を凝らす。

 碧い空の真ん中に何であの雲はあんなに真っ白に居座っているのだろう。本当に神様が乗っているんじゃないか?

 眩しい。

 電車のスピードが次第にゆるくなってゆく。ガタンと音がして、駅舎の中で静かに停まった。

 ここで降りよう。

 思い立って速やかに席を立つ。

遠くの席に座っていた乗客がチラリと私に視線を向ける。財布一つで駈けてゆく私を変人だとでも思っているのかもしれない。それ以外にもおかしいところはある。

着ている服。思い立って家を出たから、普段着のままだ。普段着というか部屋着というか、パジャマよりはましだという程度。タオルみたいな生地の薄手のパーカーと柔らかい素材のデニムみたいな生地のスキニーパンツ。お洒落に疎い私にはうまく説明できない。パンツは脚にぴったりで少し短く、パーカーは男物みたいに大きくてお尻が隠れる。そしてポケットには財布一つ。

まあ、誰も私のことなど気にしないか。タオル生地だろうが、パンツがぱつぱつだろうが、バッグを持っていなかろうが、汗をかいて乱れた髪をしていようが。

駅の階段を降りたところにあるミラーを見て気づいた。髪が風に煽られておでこ全開でバラバラだ。

まあ、いい。電車は行ってしまい、二度とあの人に会うことはないだろう。見知らぬ人だ。

幸いこの駅舎の中には他に人が誰もいない。小さな駅だ。そんなに田舎でもないだろうに、駅員さえいない。

私しかいないパラレルワールド?

異世界に紛れ込んだ?

私は一瞬ドキッとして、それから、すぐ首を振った。

私はいつもこうだ。ファンタジーとかSFとか、不思議な話が大好きで空想好きなのだ。そんな夢みたいなこと現実にあるわけないのに。

切符を小さなボックスに入れ、無人駅を出る。駅前の通りにはすぐ人がいた。自転車に乗っている人、子供連れの母親、ゆっくり散歩する老夫婦。学生、仕事中のサラリーマン。若いカップル。

不意に恥ずかしくなる。

陽が当たりすぎる。やはり私の格好はあまりにもおかしい。銭湯帰りみたいだ。

一瞬、(うつむ)きかけるが、すぐに頭を上げる。

どうせ、誰も私を見ていない。ここは見知らぬ街だ。知り合いなど誰一人いない。

自分自身に云い聞かせ、あっという間に開き直る。

「ふふっ」

私は自分で自分がよく分からない。恥ずかしがり屋で、変なプライドがあるようでいて、大雑把なところもある。繊細なようでいて、度胸もあり、図太かったりもする。でも、きっと、だから、こんなところにいるのだろう。

一度吹っ切れるとどうでも良くなる。パジャマだろうが、髪が乱れていようが。()(ぐし)で少し髪を整え、気を取り直して歩き出す。

駅前の商店街を歩いてゆく。小さな駅の割にはそれなりに賑わっている。パン屋や花屋、お洒落なカフェなども並んでいる。私はコンビニを見つけ、必要なものを買いに行く。石鹸を一つと替えの下着だ。タオルや歯ブラシはホテルにあるだろう。たぶん。あとお腹が空いたので何か食べ物。サンドイッチとサラダでいい。何処か、公園のベンチにでも座って食べよう。腹ごしらえをしたら、泊まるところを探す。安いホテルだ。

 会計を済ませ、店を出る。

 出たところでパン屋の焼きたてパンの匂いに気づく。

 失敗した。パン屋で買えばよかった。ちょっとウィンドウから覗いてみる。美味しそうなサンドイッチが並んでいる。白くないパンだ。ライ麦? 何だろう。鶏肉とか卵とかサニーレタスとか、()洒落(じゃれ)た感じで挟んである。オニオン、トマト、ゆで卵。

「パン屋があることは見て知っていたのに、どうしてコンビニで買っちゃうのかな」

 思わず声に出す。

 また独り言だ。何だか多い。気のせい? ひとりでいるから? そんなことはない。今までだって、いつだってひとりだ。

 コンビニの袋をぶら下げ、パン屋のサンドイッチは諦め、歩き出す。百円で買える自動販売機を見つけ、緑茶を買い、商店街を抜ける。

 光が眩しい。今日はいい天気だな。

 公園を探そう。

 結構大きな街だ。大通りは車が激しく行き交う。この街の大きさに何であの駅だ。おかしくない?

 排気ガスは嫌いなので小さな通りに入る。緑は多い。大きいのはあの道路だけなのかもしれない。ちょっと脇道に逸れると、雰囲気ががらりと変わる。

 陽の当たるお洒落な街だ。煉瓦通りとか、モザイクタイルとか、外国風な街燈とか。うん。何だかヨーロッパにいるみたいだ。

「行ったことないから分からないけど」

 何だか少しウキウキする。

 緑の樹々でアーチのように覆われた小道を歩く。木漏れ日がキラキラと綺麗だ。あちらこちらに光の環が落ちている。ほんのりと暗くて、涼しい。光の粒子がくるくると舞っている。静かだ。海の底にいるみたい。先ほどの大通りが近くにあるなんて嘘のようだ。

「私は本当に沈んでしまったのかな」

 私はふわふわと歩き続け、いつしか公園に辿り着く。

 噴水がある。水しぶきが光を受けて、キラキラ光りながら零れ落ちている。空が碧くて、明るい。太陽が白い。私は海の底から海面に抜けたんだ。

 公園には人がいる。子連れの母親たちが多い。はしゃぐ声やお喋りが静かに木霊(こだま)する。緑の芝生が広がっていて、その中を散歩道がゆるゆると続いている。遊具はなく、子供たちはボールで遊んだり、追いかけっこをしたりして転げまわっている。母親たちはかたまってお喋りだ。

 私は端っこのベンチに腰掛け、噴水と光と緑の絨毯を眺める。キラキラと透明な粒が弾ける。あちらこちらに丸い虹が出来ている。

「お腹空いた」

 私は早速サンドイッチを開ける。卵とベーコンのサンドとツナと焼きオニオンのサンドだ。何故かパン生地にはレーズンが入っていて、ほんのり甘い。チーズの味もする。マヨネーズ?いやクリームチーズだ。バーター代わりに塗ってある。

「結構おいしいな」

 サンドイッチを片手に持ったまま、しばらくぼんやりとする。

 何だか現実ではないようだ。何故、私はここにいるんだろう。ここはいったい何処(どこ)なんだろう。こうしてここにいると、自分が自分ではないようで、今までの記憶も何もかも夢に見ていたことのようで、すべてが曖昧になる。()が醒めると、ここにこうして座っている。そして、それは別の自分で、長い夢を見ていたなあ、とぼんやり思うのだ。

 とても不思議だ。宙に浮いていきそうだ。空気になってゆく。すべてが溶けて、自分と他のものの境界線が曖昧になるのだ。きっと、死ぬってそういうことで、そうしてすべての一部になるんだろう。溶けて混ざって、自分が自分でなくなって、それと同時に誰にでも何にでもなれるんだ。

 私は今ここでこうして、座っている。それがとても不思議だ。

 すべてが夢のようだ。きっとこの瞬間さえも。

 私は何処で睛を醒ますんだろう。



 陽が暮れてゆく。

 少しうたた寝していたのだろうか。記憶がぼんやりする。ベンチに飲みかけの緑茶とカサカサに干乾びたサンドイッチがある。

 ここは何処だろう。

 世界はオレンジ色で、恐ろしいくらい幻想的だ。

 もしかして、異世界に飛ばされた?

 サンドイッチが地面に落ちる。

「ああ、もったいない」

 思い出した。私は逃げてきたんだ。

 今日泊まる場処を探さなければならない。

 緑茶を飲み干し、落ちてしまったサンドイッチとその他のゴミを近くのゴミ箱に捨てる。

 また身軽になった。財布ひとつと石鹸と下着。カサカサと袋が音を立てる。何かバッグが必要だろうか。そのうち着替えの服も買うだろうから、それらも持ち歩かなければならない。あまり大きくない、それでいてたくさん入って、持ち運びしやすいバッグを買おう。手は空けておいた方がいい。リュック? 登山するみたいだな。ショルダーバッグは片方の肩だけ凝りそう。ボストンバッグとか手に持つのは嫌だ。やっぱり、リュックタイプだな。両手が自由になる。

 何処で買おうか。

 私はプラプラと歩き出す。まだ何処か店はやっているだろうか。さっき商店街を通った時、探せば良かった。今もまだやってるかな? 大きな店ならやってるかも。でも、この格好でショッピングモールとか行くの嫌だな。スーパーの二階とかで買う? いや、とりあえず商店街に行ってみよう。

 来た道を戻り、先程の駅前通りに行く。

 パン屋はまだやってる。もちろんコンビニも。花屋は閉まっていて、ハンコ屋とか時計屋とかも閉まってる。早いな。もう誰もお客が来ないと思っているの? カフェとか飲食店は夜までも営業してそうだ。洋服屋がある。ブティック? いや、もっと庶民的な、普通の、私でも入れそうなお店だ。店員さんがガタガタと今にも店仕舞いを始めそうだ。

「すみません、もう終わりですか。何か服を買いたいんですが」

「え、ああ、まだ大丈夫ですよ。どうぞご覧ください」

 今日の初会話だ。たぶん、誰とも喋ってなかったはず。

「どうかしました?」

「いいえ、それじゃあ、中に入らせてもらいます」

 店員さんは軽くお辞儀して、再びガタガタし始める。

 店内は狭くて、人が十人も入ったら一杯になってしまいそうだ。でも、清潔で、綺麗にしてある。木目調のお洒落な造りだ。客は私以外誰もいない。

 売っている服は普通に可愛いと思う。よく分からないが、若い子たちが着て街を歩いてるような服だ。私が着てもおかしくない、無難で、それなりに流行に乗った感じの服。

 その中でもとりわけシンプルな物を選ぶ。長袖のカットソー二枚とデニムパンツ、それからソックス二枚。あと夜は少し寒いからもう少し厚手のジップアップパーカーを買おう。いま着てるものはパジャマにすればいい。

 あとはこれらを入れるバッグだ。スニーカーも欲しい。ここで全部は揃えられないかな?

「何かお探しです?」

 キョロキョロしていると店員さんが声をかけてくれた。

「何かたくさん入るコンパクトなバッグとコンバースのスニーカーありますか」

「コンバースじゃなきゃダメ?」

「はい、好きなので」

 いま履いているのもそうなのだが、もう古く、踵の部分が減ってきている。長く歩くにはつらい。

「色は? 期間限定のものとかはないけど、普通のならありますよ」

「黒で」

「二十三センチくらい?」

「はい」

「あとはコンパクトで大きいバッグね。バッグはこっちにあります。見てみてください。私はスニーカーを取ってきますから」

「お願いします」

 スニーカーは黒。パーカーはチャコールグレー、デニムはインディゴブルー。全体的に暗い。カットソーは白無地と、紺とライトグレーのボーダーだが、それでも暗い。

「リュックはピンクにしよう」

「ピンクですか?」

 いつの間にか店員さんが戻ってきていて、スニーカーを渡してくれた。

「こちらで大丈夫です? 履いてみますか」

「いえ、大丈夫です。サイズさえ合っていれば。いつも買っているので履き心地は分かります」

「そうですか。それでは、バッグをそのピンクで?」

「いえ、冗談です。ブルーにします。ブルーというか明るい、あの水色の」

「ああ、あれね、待ってね、いま取るから。これね、春の新色なんですよ」

 脚立に上って、高い場処に飾られていたリュックを取りながら、云う。

「綺麗な色でしょう、空みたいで」

「はい。綺麗です。空みたいで」

「そんなに大きくないけど、たくさん入るから。内ポケットもたくさんあるし、外側にもファスナー付きのポケットがあるよ」

「はい、可愛いです」

「それなら良かった。これで全部です?」

「はい。会計お願いします」

「ソックスはオマケしておくね」

「ありがとうございます。リュックはいま使うのでタグを外してください」

「OK」

 店員さんがレジを打っている間、私は窓の外を眺めた。随分と日が暮れている。早くホテルを探さないと。

「五万六千八百円です」

 高っ。

 値札を見てなかった。もっと安物でいいのに。でも、何から何まで買ったしな。こんなものか。

「ありがとうございました」

 店員さんはにこやかに笑い、私を見送った。

 私は新しいリュックを背負い、夕暮れの中を歩き出す。荷物は全部リュックに入れたから、両手が空いて身軽だ。

 これで準備万端だ。あとはホテルを探すだけ。

 その前に夜ご飯を買っていこう。ホテルの部屋で食べるために。

 また懲りずにコンビニで弁当を買い、近くの自動販売機で百円の緑茶を買う。ホテルも程なくして見つかった。安いけど、綺麗なホテルだ。五階建てしかなく、聞いたことのない名前。でも、まあ、いい。綺麗だから。

「パンツだけ買って、ブラジャー買うの忘れたな」

 気づいたのはホテルの部屋に着いてからだ。抜かりないと思ったのに。

「まあ、いいか。コンビニでブラジャーは売ってないだろうし。パンツも使い捨てにするような代物だ。今度、ちゃんとしたのを買おう。それまではブラジャーはしなくてもいいか」

 思ったことを声に出し過ぎる。今まで私はこんな感じだったろうか。いや、違う。明らかにひとりになってからだ。もともとひとりだったが意味合いが違うのかもしれない。

今は本当にひとりだ。知っている人など誰もいない。私が知っている人も、私を知っている人も。それは、何故だかとても安心する。こんな安堵感は今まで味わったことがない。

「だから、独り言も出るんだろう」

 旅の恥はかき捨てだ。

 私はリュックから荷物を出し、石鹸を取り出した。とりあえず、シャワーを浴びよう。石鹸がひとつあればすべて済む。私はシャンプーを使わない。洗顔フォームもボディソープも使わない。石鹸で髪も顔も躰も洗う。特に無添加石鹸がお気に入りだ。コンビニに売っていて良かった。いつも使っているのと同じだ。とても安い。一個百円くらい。メイクもこれで落とす。でも、ファンデーションを持って来ていないから、もうメイクも出来ないし、これからは石鹸さえ使う必要はないかも。

 化粧品も持って来ていない。と云うか、私はもともと顔に化粧水も乳液もつけない。美容液とかクリームも買ったことがない。乾燥した時はホワイトワセリンを少し塗る。顔にも手にも踵にも塗れるから便利だ。

 シャワーを浴びて、タオルで顔を拭き、鏡を見る。

「今日は乾燥していないからワセリンはいらないな。持って来なかったから、必要なら買わないと」

 先程買った白のカットソーと今日履いていた柔らかデニムを着て、パジャマ代わりとする。洗濯物は少ないから手洗いする。これも石鹸を使う。タオル掛けに干し、一息つく。

「パジャマの替えとか必要なものはまだまだあるな」

 買ってきた弁当を食べ、テレビを見る。見たことのない人が笑ってる。知らない人、知らない番組。

「時間がすごいあるな」

 あっという間に夜ご飯を終え、緑茶を飲む。これもすぐになくなってしまったので、自動販売機を探しに行こうかと考える。

 タオル地のパーカーを羽織って、部屋を出る。橙色の電燈がぼんやりと明るい。建物は広くないので、自動販売機はすぐに見つけられた。

「サイダー、コーラ、オレンジジュースに珈琲、紅茶。緑茶、緑茶はないのか。麦茶は嫌だな。緑茶がないなんて、なんて自動販売機だ」

「緑茶はこれですよ」

 私の独り言を聞いていたのか、背後から声がした。

 振り返ると、若い男がいる。学生? いや、もうちょっと上かな、二十二、三歳?

「ほら、これ。分かりにくいよね」

 見ると、緑茶なのにオレンジ色のペットボトルで、しかもRYOKUTYAとローマ字で書いてある。何でせめてGREEN TEAとしないんだ。

「ありがとう」

 私はペコリと頭を下げ、緑茶を買ってそそくさとその場を去る。

 ふと見ると、その若い男は私の隣の部屋へ入ってゆく。私に気づいて、ペコリとお辞儀をした。私も黙ってまた頭を下げ、部屋へ入る。

 いまの人も逃げてきたのだろうか。

「まさかね」

 仕事で出張とかには見えないけど。やっぱり学生で、気ままな一人旅かな。

 オレンジ色の緑茶の味はイマイチで、これはないな、と思った。

 明日はコンビニで買って、部屋の冷蔵庫に入れておこう。一週間くらいはここに泊まるだろう。飽きたら、また電車に乗って、何処かへ行って、ぶらぶらしよう。時間は有り余る。ゆっくり行こう。何もすることなどないのだから。



 朝、睛を醒ますと、一瞬ここが何処だか分からなかった。

 薄いカーテンから射し込む光がやけに眩しい。パリパリのシーツの肌触りの悪さで、ここが自分の家じゃないと気づき、すぐにホテルの部屋だと思い出した。

起き上がった先にミラーがあり、自分が映っている。寝癖がすごい。顔色は悪くない。近寄ってよく見てみる。クマもない。乾燥もない。脂ぎってもいない。

 気分はまあ上々だ。

 何も急がなくていい。二度寝することだって出来る。いつもなら仕事に行く準備をしている頃だ。もう二度と職場へ行くことはない。迷惑が掛からないようすべて処理はしてきた。まあ、多少の迷惑はあるかもしれないが、何も問題なく仕事が進むようにはしてきている。大丈夫だろう。私の代わりなどいくらでもいる。最初少し戸惑うだけで、一日も経てばみんな私を忘れるだろう。

 カーテンを開ける。晴天だ。碧い碧い。

 今日は何をしよう。何処へ行こう。とりあえず、この街を探検するか。昨日は公園でうたた寝して終わった。

 お腹が鳴る。

 どんな時でもちゃんとお腹は減る。哀しくても嬉しくても、つらくても苦しくても。

「朝ご飯食べよ」

 確かこのホテルには小さなカフェがあった。そこで朝食が取れたはずだ。

 顔を洗って着替えを済ませ、部屋を出る。昨日来た時は分からなかったが、朝の光の中で見るとこのホテルは明るくて思った以上に感じの良い雰囲気だった。清潔で綺麗だとは思っていたが、それに加えて何だかお洒落だ。お洒落と云うか、私の趣味に合っているだけかもしれないが、とても懐かしい感じがする。

 何処か昔っぽくて、でも、それが却って郷愁を感じさせて雰囲気が良いというか、不思議な気分にさせてくれるというか……

「前にここに来たっけかな…」

 これが既視感(デジャヴ)っていうものか。

 少しドキドキしながら、階段を降りる。玻璃(がらす)張りのロビーは光で溢れている。宿泊客は見当たらない。みんなまだ寝ているんだろうか。何部屋くらいあるんだろう。一階から五階まで吹き抜けになっていて、そんなに部屋数はなさそうだ。

 一階に降りると、すぐにカフェがある。カフェというか喫茶店みたいな感じ。ビュッフェスタイルで、小ぢんまりとした空間に食べ物が並んでいる。チケットを買って渡し、窓際の席に着く。

「お好きなものを取ってくださいね」

「あ、はい」

 卵とベーコンとレーズンパンをトレイに載せ、それから、オレンジジュースとパイナップルとヨーグルトも載せる。

「あとは何がいいかな」

 私の他はまだ誰も居らず、選び放題だ。海老のサラダと大根おろしも持って行こう。それらの皿を載せてトレイは一杯になる。肉団子とスコーンはまた後でにするか。

 私はほくほくと満足して席に戻る。

 おしぼりで手を拭き、いただきます、と手を合わせる。何から食べようかと迷っていると、ふっとテーブルに影が落ちた。

「向かいに座ってもいいですか?」

 昨日の若い男だ。顔を上げて見なくても分かる。

 私は一瞬固まり、それから顔を上げ、愛想笑いを浮かべる。

「……どうぞ」

「ふふ、良かった。断られるかと思った」

 少年のような笑顔だ。

「どうして」

「だって、すごい嫌そうな顔をしてる」

「そう?」

「うん。今もしてる。ホントは嫌なんでしょう、ここに座られるの」

「別にそういうわけではないよ。ただどうしてこんなに席がたくさんあるのに、よりによってここに座るのかなと思っていただけ」

「うーん」

 若い男はトレイを置いて椅子に座りながら考え込んだような顔をした。

「誰かと話をしたいなあと思って」

「何で」

「僕、ここにひとりで泊まっていて、ずっと誰とも喋っていなかったんだ」

「ずっとって」

「三ヶ月くらい」

「へえ」

 やっぱり、この人も逃げてきたのかしら。ひとりでこんな(ところ)に三ヶ月も泊まっているなんて。

「あなたもひとりで?」

 若い男は鮭を箸でほぐしながら、私に訊く。

 彼のトレイには鮭とごはんとわかめの味噌汁と大根おろしが載っている。それから、海苔と納豆と温泉玉子。和風だな。

「もちろん」

 私は答え、レーズンパンを齧る。パイナップルをヨーグルトに入れ、ハチミツをかけて食べる。

 若い男は不思議そうに私を見ている。

「何?」

 女のひとり旅が変だって云うわけ?

「どうして大根おろしがあるの」

「え?」

「それだけ浮いてない?」

 私は自分のトレイを見る。

「確かに」

「好きなの? 大根おろし」

「うん。きみの皿にもあるね」

「でも、馴染んでいるでしょう?」

「そうだね。若いくせに和風なんだね」

「今日はたまたま。あなたはいつもそんな感じ?」

「そうねえ……朝はそうかなあ。パンが好きなの」

「でも、大根おろしは欠かせないと」

「そう」

「それ、どうやって食べるの。醤油をかけて、ただそれだけで食べるの?」

「それ以外何があるの」

「僕は納豆に入れて、ご飯にかけて食べるんだよ」

「へえ。私はかけられるものが何もないし、このまま食べるのよ」

「卵にかければ」

「卵にはケチャップをかけるのよ」

「大根おろしと青じそドレッシングでもおいしそうだよ」

「じゃあ、自分がそうしたらいいんじゃない。卵はいくらでもあるんだから」

 若い男はじっと私を見る。感じ悪かったかしら。でも、まあ、いいか。

「うん、そうしようかな」

 若い男はそう云って、席を立つ。

 もう戻ってこないかと思っていたら、卵の皿だけ持ってすぐ席に戻ってきた。

 卵に大根おろしを載せ、ドレッシングをかけて、大きな口を開けて食べる。

「おいしい」

「そう、良かったね」

「あなたはしばらくここに泊まるの?」

「そのつもりだけど……」

「それじゃ、僕ももうちょっと泊まっていよう」

「………」

「何?」

「きみは何? 働いていないの? 学生? どうしてそんなに自由なの」

「学生じゃないよ。卒業して二年になる」

「じゃあ、社会人ね。まさか出張?」

「ううん。会社勤めはしてないよ。僕は画家なんだ」

「画家……?」

 本当かしら。こんなに若くて画家なんてことある? ダメ人間だと思われたくなくて適当なことを云ってるんじゃない?

「へえ、すごいのね」

 私は適当に答える。

「あなたは? 何をしている人なの?」

 ごはんをパクパクと食べながら、若い男が訊く。仕返しのつもり?

「私は小説家なの」

 適当にそう答える。

「へえ、すごいね。じゃあ、今は取材旅行とか?」

「まあ、そうだね。色々と刺激を受けようと思って、ぶらぶら旅してるの」

「じゃあ、同じだ。良かったら、今日この辺を一緒にぷらぷらしない? 面白い(ところ)を見つけたから教えるよ」

「……今日はちょっと行く処があるから遠慮する」

「そうかあ、残念。じゃあ、明日は」

「そうね、明日ね。明日なら大丈夫かな」

 適当に返事をし、黙々と食べる。

「それじゃあ、明日ね」

 ニコニコと笑い、彼も食べ続ける。

 結局、最後まで一緒に食べ、部屋に戻る時も一緒だった。

「それじゃ、また」

 若い男は部屋の扉を開け、中に入ってゆく。

 チラリと視線をやると、スケッチブックが何冊かと、絵の具?色鉛筆?とかよく分からないものが散らばっているのが見えた。

「本当に画家なの……?」

 私はぽつりと呟く。

 いや、まさか。

 でも、確かに画材道具はあった。

 私は慌てて自分の部屋へ戻る。

「………」

 まずいな、私は小説家なんて思い切り嘘をついてしまった。何か体裁を取り繕わないと。バレることはないにしても、一応ね。

 そうだ。パソコン。小さなノートパソコンを買おう。それで、そうだな、日記でもつけよう。それなら小説を書いているように見せられる。まあ、実際に何を書いているか見せるわけではないが。でも、何となく、それがいい。少なくとも後ろめたさがいくらか減る。

 安いものを買おう。手に乗るくらいの、持ち運びに簡単な小さなパソコン。早速、今日買いに行こう。

 私は鏡で顔をじっと見つめ、考える。

 ファンデーションを持って来ていないからすっぴんで行くしかないな。せめて日焼け止めは塗ろうかな。パウダータイプのものを使えば、少しはメイクしているように見えるかも。それも買いに行くか。

 パーカーを羽織り、財布を持つ。リュックは大きいから、置いていこう。こういう時に持つ小さなショルダーポーチとかあると便利だな。財布とハンカチとティッシュくらい入れられる。あ、ハンカチとポケットティッシュも買わないとなあ。

 扉を開けると、ちょうど隣人の若い男も部屋から出てきた。

「行ってらっしゃい」

 若い男はにこやかにそう云う。

 いったいどういうつもりなんだろう。私なんかに愛嬌を振りまいて、何の得があると云うのか。

 私は軽く頭を下げ、そそくさと階段を降りる。

 このホテルは安くていいが、あの人がいつまでもいるとなると問題がある。特定の人と長く関わると面倒くさいし、たまに挨拶する程度ならいいが、余計な会話をして、色々詮索されたくない。おかげでパソコンを買う羽目になった。

「まあ、気にしなければいいんだけど。どうせ、関わるといってもせいぜい一週間くらいでしょう」

 でも、パソコンを買うのは案外いいかもしれない。ネットが出来るし、日記を書くのもこれからの記録を残すのにいいかも。何処で何をして何を感じたか、この逃避行が終わった後で見てみるのも面白い。

何年先になるのか、いつまで逃げ続けられるか分からないけれど。

「私は何処へ行くつもりなんだろう……?」

 何処へ行って、何をする?

 ううん、考えるな。何も考えるな。とりあえず、今日を生きよう。

 まずはパソコンだ。それから、ドラッグストアに行って、何か必要なものを買おう。それから衣類をもう少し。昨日の店は高かった。今度はスーパーの二階とかそういう処で安物を買おう。

 昨日の商店街は行くのをやめ、違う道を散策する。不思議な街だ。いくつもある通りごとに雰囲気が違う。いま歩いている処は何だか怪しい感じだ。スラム街にも見えてくる。いたずら描きが壁にしてある。スプレーか何かで描いたんだろうか。なかなか上手い。ちょうど壁に朝の光が当たって、それが絵と調和して芸術的とさえ云える。

「……まさか、彼が」

 いや、いくら何でも。

「それはないだろう」

 私はぶつぶつと呟き、その通りを抜ける。

神社がある。恐る恐る階段を上ると、やはりある。廃神社だ。たぶん。うっそうと茂った樹々が揺れ、私はビクンとする。

お賽銭でもあげてみる? いやいや、怖い。やめておこう。

私はすぐに踵を返し、階段を降りる。

車の通る音がする。きっと大通りだ。私はそっちへ向かう。電器屋を探そう。大きな店の方がいい。安く買えるだろう。

朝ご飯をたくさん食べたからか、スタミナが余っている感じ。何処まででも歩いて行けそうだ。

 空は晴れてて、気持ちがいい。まだ風も涼しくて歩いても汗をかかない。どんどん行ける。これで今までの運動不足も解消だ。ストレスもない。空気もいい。これは健康になってしまうな。

 これからも朝はたくさん食べよう。ビュッフェだから、いくら食べてもお金は変わらないし、せっかく高い朝食代を出すのだから、お昼の分まで食べないと。ホテル代は安くついたが、その分あの朝ご飯代は結構取られた。一日の食費は千円だというのに、もう半分以上持っていかれた。まあ、ホテル代と合わせて五千円いかないから、十分予算内だが。

「お昼は軽く済ませよう。夜もコンビニ弁当だな。夜にあのカフェでは高過ぎる」

 大通りに出ると、すぐに電器屋を見つけた。結構大きい。五階建てくらい。中に入ると、家電製品の他にも色々売っている。フードコートもあるし、衣料品や雑貨も売っている。ここで全部済ませられそうだな。私はキョロキョロと辺りを見回してゆく。

 広過ぎてパソコン売り場を見つけるのに苦労した。最初、間違ってテレビの売り場に行ってしまい、やけに大きいな、と呟いて恥をかいてしまった。

 明らかに普段着でバッグも持たずプラプラしている私を、誰も接客してくれない。ただの冷やかしで、何も買わないと思われているのだろう。

「残念でした。買うんだよ」

 私はブツブツと云って、パソコンを見てゆく。

 白くて可愛いのがある。大きさも手頃だ。一〇・一インチと書いてある。同じもので赤いのもある。どちらも可愛い。ブラックは可愛くないな。

 値段を見て驚く。

 五万円しないんだ。これにしよう。他にもっと小さくてポケットに入りそうなものもあるが、文字を入力するとしたら、これくらいのものがいいだろう。何と云っても安い。びっくりした。十万円くらいするのかと思っていたのに。今は何でも安くなっているのかもしれない。さっき見たテレビも安かった。

「昔はもっと高かったのになあ……」

 すごく年寄りになったような気がする。そういわれると電器屋に入ったのも随分久しぶりだ。昔テレビや何かを買ったが、それから十年以上も同じものを使っていた。パソコンなどはそもそも持っていない。

「何かお探しですか」

 とうとう声を掛けられた。

「これください」

「こちらですと、メモリの方がかなり少なくて写真など保存したりするのでしたら、こちらの……」

「写真は保存しないです。ネットとワードを使うくらいです」

「ああ、そうですか。それなら大丈夫ですね。その他に何か御入り用のものはありますか」

「ないです」

「それでは在庫を確認してまいりますね」

 店員さんはにこやかな笑顔を絶やさず、その場を去る。

 ちょっとぶっきらぼうにし過ぎたかしら。私は少し反省する。

「余計なものを売られたら嫌だし、パソコンあまり詳しくないから下手に喋って恥をかきたくないし」

 それに見知らぬ人と必要以上に仲良く話をすることはない。愛想なんか良くしなくていい。別に好かれる必要はないのだから。一緒に仕事をするわけでもないし、何も困らない。

 私はこれまで仕事仲間にはそれなりに愛想を良くしてきた。それは好かれたいとか仲良くしたいとかそういうことではなく、仕事をする上である程度コミュニケーションを取れないと困るからだ。態度を悪くして嫌がらせをされたら仕事に支障を来すし、面倒くさい。それなら適当に笑って、適当に相槌を打って、当たり障りのないように接しておけば、特に問題もなく過ごせる。仕事帰りに飲みに行ったり、休日に一緒に遊んだりはしない。悪魔でも仕事をするのに差し支えない程度に仲良くするだけだ。

 こんな私だからこれから関わることのない見知らぬ人に愛想を良くするなんてあり得ない。だからと云ってわざと感じ悪くする必要もないが、嫌なことは嫌だとはっきり態度で伝える。

 人の目を気にするようでいて、そうでもないところが私の不思議なところだ。小心者なのか、その反対ないのか、自分でも分からない。

 きっと誰だってそうなのだろう。矛盾する色々な面を持っているのだ。

 私は逃げ出した。それは弱いからなのか、強いからなのか、分からない。自殺をする人間を人は弱いと云うけれど、自殺する度胸があるなら何だって出来るはずだと云う人もいる。

 そんな単純な問題だろうか。自殺する勇気と生きる勇気。

私にはどちらもないのかもしれない。



 パソコンを買って店を出る。パソコンの他にロングTシャツとパジャマ代わりになるパンツ、ブラジャー等も買いそろえた。それから、またしてもボーダーのカットソー。最近、ボーダーがお気に入りだ。今度は焦げ茶と濃いピンクのボーダーだ。なかなか可愛い。お洒落には疎いが、自分好みの可愛いものは好きだ。

ドラッグストアのような処でその他こまごまとしたものを買う。ホワイトワセリンと耳かき、爪切り、眉毛をカットする小さいハサミも買った。眉毛は描かないが、カットだけはする。毛は薄いので少しだけで形が整う。私にはムダ毛があまりない。腕も足も脇もほとんどない。処理しなくても全然構わないくらいだ。それでも時々剃刀を使ったりするのが面倒くさくてレーザー脱毛で綺麗にしてしまった。だから、もう何もする必要がない。

私の面倒くさがりさは誰にも負けない。出来れば何もしたくないのだ。

 ファンデーションを買うかどうかで迷って、結局買わず、パウダータイプの日焼け止めだけにした。これなら、石鹸を使わなくても落ちるし、簡単だ。メイクをすると洗顔に時間がかかるから嫌だ。

 それから、精油も買った。シトラスオレンジが私のお気に入りの香りで、それを耳の裏にちょこんとつける。それで、一日ずっといい香りだ。これが唯一のお洒落かしら。そう云って、私は笑う。

 昨日の公園に向かう。

 パン屋でサンドイッチを買い、自動販売機でまた緑茶を買い、昨日と同じベンチに座る。

「今日のサンドイッチはちょっとリッチだ。贅沢し過ぎかな」

 商店街のパン屋ではなく、電器屋の帰り道に見つけたパン屋で買ったサンドイッチだ。レーズンパンにクリームチーズと分厚いハム、たくさんのサニーレタスが挟んである。もう一つは黒糖パンに鶏肉と枝豆のサラダだ。鶏肉には特製のタレがかかっていておいしい。枝豆のサラダにはレーズンも混ざっている。

「レーズンづくしだな」

 レーズンは好きだ。

 噴水の光を見ながら、のんびりと食べる。

 今日は買い物だけで終わりだな。あとはショルダーポーチを買いに行こう。何も持って来ていないから次々と必要なものが出てくる。

 ふと見ると、黒猫がベンチのそばにいる。水色の睛をした、上品な猫。首輪は銀色だ。誰かの飼い猫なんだろう。脱走したんだろうか。それとも、ただの散歩かな。

「おいで」

 私は鶏肉とレタスを手に載せ、黒猫の口元へ持ってゆく。猫はくんくんと匂いを嗅ぎ、私の手を舐める。

「違う違う。鶏肉。食べていいよ」

 私の手をしきりに舐めた後、やっと鶏肉に口をつけた。歯で噛み切り、ガツガツと食べる。

「お腹空いていたの? それにしても人懐っこいね」

 食べ終えると、黒猫はベンチの上へ登り、私の膝の上に載った。

 頭を撫でてやる。ゴロゴロと音がする。

「重いなあ」

 そう云いながら私も満更ではない。

 黒猫は気持ちよさそうに睛を瞑り、いまにも睡ろうとしている。

「こらこら、ここで寝ちゃダメだよ。私はもう行かなきゃならないんだから」

 ベンチに置いた荷物をチラリと見て、しばらく考える。結構多い。こんなのを抱えて歩き回るのは嫌だなあ。

「昨日の洋服屋でポーチを買って、あとは帰ろうかな」

 黒猫の頭を撫で、そう呟く。

だから、しばらくこうしていよう。猫が寝てしまったし。

瞼を閉じる。光の渦が瞼の裏に現れる。

何だか幸せだなあ。こんな状況だと云うのに。もしかしたら、これは錯覚だろうか。そうかもしれない。猫の温もりと陽の暖かさで、自分が幸せだと勘違いしてしまっているのかもしれない。或いは自由になって本当に幸せを感じているのか。

何の(しがらみ)も足枷もなく、私は自由だ。煩わしさも面倒くささも、何もない。誰の睛も意識することなく、何にも気にすることなく、好きなように時間を過ごせる。ずっとダラダラしていてもいい。何かしたいことをしてもいい。散歩して、買い物をして、美味しいものを食べ、たまには映画とか見たりしてもいい。途轍(とてつ)もない自由。これが幸せっていうものなのかもしれない。それなら、今まで私はそんなに窮屈だったのか? 周りを気にしていたのか? そんなつもりはなくても、知らず知らずのうちに世間というものにがんじがらめになっていたのかもしれない。今はそれらから解放されている。

「自由だ」

 でも、果たしてこれが本当に幸せなんだろうか? 時間はたくさんある。逃げてきてからまだ二日も経っていない。随分経ったような気がするけど。これから何をする? 今は自由を満喫しているけど、いつか退屈でたまらなくなるんじゃないか?

「まあ、いい。とりあえず、ショルダーポーチだ」

 私は猫の頭をポンポンと叩いて起こし、立ち上がった。黒猫は地面に降り立ち、グーンと伸びをする。

「ごめんね」

 私は荷物を抱え、黒猫にバイバイと手を振る。猫はじっと私を見つめ、そのまま無言で立ち去った。

「不愛想だなあ」

 私はクスリと笑う。

 陽はまだ高い。今日は早く帰って、部屋でゆっくりしよう。買ったパソコンも使ってみたい。

 昨日の洋服屋でショルダーポーチを素早く選び、夜ご飯のためにコンビニで弁当を買う。

ショルダーポーチはなかなか良いものが見つかった。手頃な大きさで、カーキの迷彩柄だ。可愛い。財布とハンカチと小さめの小物入れが入る。何と小物入れはポーチとお揃いの柄で、おまけで付いてきたのだ。小物入れはジッパーも付いているので中身が零れずに便利だ。爪切りや耳かきや小さいハサミを入れよう。あとワセリンを小さめの容器に入れ替えて、それも小物入れに入れておこう。それをポーチに入れて持ち歩くかどうかは別として。

 夜ご飯はまたコンビニ弁当だ。朝も夜もホテルで食べるのではお金がかかり過ぎる。お昼も贅沢してしまった。今日の夜は質素にいこう。

 それに、カフェに行ってあの若い男にまた会ってしまうのは何か嫌だ。

 ホテルの玻璃(がらす)戸をくぐり、フロントから鍵を貰ってそそくさと部屋へ向かう。

 キラキラと明るいホテルは洋風なようでいて、ところどころ和風な感じのところもある。柱や梁は黒の木目調でドスンと太く、壁は玻璃張りが多い。近代的でいて、昔ながらの感じもする。これをデザインした人はどんな人なんだろう。すごい才能だ。

「それとも昔の屋敷を和洋折衷にうまくリフォームしただけなのかなあ」

 そう云われると、妙にアンバランスで継ぎはぎした感じがしないでもない。

 私の部屋は洋風だが、窓枠がやはり黒の木目調で、少し古臭い窓だ。枠はピカピカに磨き上げられているが、たぶんこれは本物の樹だ。天井と四隅の柱もこの黒い樹で、部屋の隅に畳の一角がある。窓際に当たる処だ。そこに小さな樹のテーブルがあり、座布団が置いてある。畳から降りるとあとは絨毯で、ベッドとテレビと鏡台がある。小さな冷蔵庫があって、あとはバスルーム。

「よく見ると、ここも和洋折衷だな」

 昨日はあまり気にしていなかった。旅先ということもあって、少し興奮していたのだろうか。それはそうだろう。逃げてきたのだから。少なからずドキドキしたり、思考が頭の中でグルグル廻ったりするはずだ。さすがの私でも。

 あの若い男の部屋にも畳があったような気がする。そこにスケッチブック等が散らばっていたのだ。遠目だったが、私は視力が無駄に良い。色とりどりの画材が私の睛を惹いた。

「畳に調和していたな」

 あの窓から外を眺めながら絵を描くのだろうか。と云っても、ここからでは大した眺めではないが。街並みと処々にブロッコリーのような樹々が見える。それと、少し遠くに小高い山が。街の真ん中にポツンとあるその山は街の発展を分断しているような感じだ。あの山がなければこの街はもっと発達したのではないだろうか。もう少し駅舎が大きくなるくらいには。

 ぼんやりと窓辺に佇み、日が暮れてゆくのを眺める。何にもしていないのに、時間があっという間に過ぎる。時間の流れは一定じゃないんじゃないかと時折思う。すごくゆっくり流れる時もあれば、気が付くと何時間も過ぎている時もある。

「誰かが時間を止めたり、早送りしたり、たまには巻き戻したりしてるんじゃないかな」

 ぼやけた太陽が沈んでゆく。空は(あか)というよりオレンジ色だ。太陽に吸い込まれるように雲が流れている。月も出ている。東の空はまだほんのり碧く、月は白い。檸檬(レモン)の形だ。

 私はしばらく佇み、見知らぬ街を眺めた。

「明日はあの山に行ってみようかな」

 急に思い立ち、私はパソコンの箱を開ける。

フロントで聞いたIDとパスワードを入力してネットに繋ぐと、この街について検索した。あの山について調べようと思ったのだ。

「たぶんコレかな」

 どうやら城跡があるらしい。春は花見などで賑わっているらしいが、ただの地元の山で、観光地とかではない。人があまりいないなら、行ってみてもいいな。

 私は明日の計画を立て、満足すると、次はワードを開く。今日の出来事について、何か書こうとして、考え込む。

 いざ書くとなると難しい。

「いや。難しく考えることはない。ただつらつらと書けばいい」

 そう云って、パタパタと打ち始める。

 誰に見られるわけでもない。あの男に対抗して何かしているふりをしてしまったが、自分の想いを吐き出すのはなかなかいい。

「独り言よりよっぽど」

 私は笑い、打ち続ける。ベッドに寝っ転がり、ダラダラと文章を綴る。飽きてくると、パソコンを閉じ、他の買ってきたものを開け始めた。

 ショルダーポーチに財布を入れ、買ってきたハンカチとティッシュを入れる。おまけのポーチには爪切りなどの雑貨を入れ、鏡台の抽斗に入れておく。日焼け止めのパウダーも一緒に入れる。

「あとは何か買い忘れたものはないかなあ」

 喉が渇いたので緑茶を飲む。何本か買って、冷蔵庫に入れてある。テレビをつける。コンビニ弁当を食べ終えると何もすることがないので、少し早いがシャワーを浴びる。無添加石鹸で全身を洗い、スッキリすると、また再び緑茶を飲む。ワセリンを踵と手の甲に塗る。あと、少し乾燥している頬っぺたにチョンと塗る。空調のせいかな。いつもより乾燥している。

「乾燥は肌の老化の原因だからなあ」

 ホテルの備品のコップに水を入れ、それに精油を少し垂らして、部屋に置く。こうすれば乾燥を防げるし、いい匂いで部屋が満たされる。

「あとは何をするかなあ」

 途端に時間が経つのが遅くなる。さっきまではあっという間だったのに。

「独り言も多いし」

 私はブツブツと呟く。日記を書こうか。

「いや、その前に洗濯に行こう」

 ホテルにはコインランドリーがある。今日はたくさん洗濯物があるので手洗いは無理だ。お金はかかるが、コインランドリーを利用しよう。

 コインランドリーは各階にあり、混雑することもなさそうで、便利でいい感じだ。広くて、待合室のように椅子も並んでいる。私が行った時は、誰も居らず、洗濯が終わったらしい洗濯機がひとつあるだけだった。その他は蓋が空いていて、使用可能だ。洗濯機は全部で十個程も並んでいる。乾燥機と一体型だ。スイッチを押したら、あとは部屋に帰って終わる頃にまた取りに来ればいい。実際、終わってしばらくほったらかしにされている洗濯機があるのだし、私もそうしようかと考えていたのだが、気が変わった。椅子のそばの棚に雑誌が何冊か置いてあるのに気付いて、それを読んで待つことにする。どうせ部屋に帰っても暇なのだし、何か雑誌を読み漁って、時間を潰そう。自動販売機もある。ジュースでも飲んでくつろごうかな。幸い誰もいないし。

 洗濯機がごとんごとんと動き出す。私はジュースを買って椅子に座り、雑誌を広げた。私には縁のないファッション誌だ。男受けする服装とか髪型とか書いてある。モデルは可愛い子ばかりだ。こんなに容姿が整っているなら、何を着ても、どんな髪型をしてもモテるだろう。これでは参考にならないのではないか? 服はピンクや水色など淡い色合いが多い。殆どがワンピースやスカートだ。髪型はふわふわの長い髪だったり、ふわふわのセミロングだったり。服も髪もふわふわでとても女の子らしい。

「まったくピンと来ないなあ」

「何が?」

 不意に上から声を掛けられ、驚いて顔を上げる。

 またこの男だ。ニコニコ笑いながら、私の前に立っている。

「いつの間に」

「ごめんごめん、驚いた? 随分と真剣に読んでいたから気づかなかったかな」

「何でここにいるの」

「洗濯に来たんだ」

「まあ、そうでしょうね」

「何を読んでいたの」

「これ」

 私は読みかけの雑誌の表紙を見せる。

「そういうの読むんだ。意外」

 どうせそうでしょうよ。

「あ、違うよ。変な意味じゃないよ。あなたはいつも自然で自分をちゃんと持っていて、そういうのに流されそうにないから」

 私の表情を読むのがうまいな。いけない、いけない。もっと感情を表に出さないようにしないと。

「今日は何処へ行ってきたの?」

 若い男は洗濯機のセットを終えると、私の隣に座って訊いた。

「色々と買い物に行っただけ」

「そう。何かいいもの買えた?」

「まあね」

「じゃあ、明日は大丈夫?」

「何が?」

「明日一緒に出掛けようって約束したじゃない」

 随分と馴れ馴れしいな。私にまで声を掛けてくるなんて、よっぽど暇なんだな。

「何処へ行くのよ」

「ふふ、近くに山があるの知ってる?」

「ああ、城跡がある山でしょう」

「知ってた? 玻璃(がらす)山。行ってみない」

「行って面白いの?」

 自分も行こうとしていたくせに難癖をつけるようにそう云う。

「うん。城跡がすごいよ。とても不思議な気持ちになる。歴史の流れに飲み込まれるような。記憶が戻ってくる感じ」

「記憶が戻ってくる?」

「うん。そこであった過去の色々な記憶が流れ込んでくるんだ」

「本当に?」

「うん。圧倒的だよ」

「へえ……」

 面白そうだなと思ったのが顔に出たのだろう。若い男は嬉しそうに笑う。

「じゃあ、行こうね」

「……まあ、いいけど。きみは名前なんて云うの?」

「砂糖」

「佐藤?」

「ううん、違うよ。シュガーだよ。シュガーの砂糖」

「最初からそう思ったわよ」

「嘘、佐藤って思ったでしょ」

「珍しいよね」

「うん。あなたの名前は?」

「桜」

 答えるのを一瞬、躊躇ったが、まあ、いいか、と思って教えてしまった。

「佐倉?」

「違う、チェリーブロッサムの桜だよ」

「最初からそう思ったよ」

 私は笑った。

「じゃあ、明日九時頃でいい?」

「早いね」

「涼しいうちの方がいいと思って。あ、僕と違って女の人は準備に時間がかかるか」

「私は大丈夫だよ。大して時間かかんない」

「そう? じゃ、九時にしよう。せっかくだから朝ご飯も一緒に食べようね」

「何でよ」

「だって、あそこで食べるでしょ?」

「あのカフェは高いから、コンビニのおにぎりを買ってきてあるの」

「嘘」

 私はチラリと砂糖くんを見る。

「まあ、嘘だけど」

「何でそんな嘘つくかな」

「勢いで」

「まあ、いいけど、一緒に食べるよね?」

「まあ、いいけど」

 砂糖くんは笑う。

「洗濯終わった。私、もう行くよ」

「うん。じゃあ、明日ね」

 私はほかほかに乾いた洗濯物を抱え、コインランドリー室を出てゆく。

「パンツ落とさないように」

 私は振り返り、ニヤリと笑う。砂糖くんは手を振り、笑い返す。

 部屋に戻りながら、洗濯物を入れるかごがあったら便利だなあと考える。でも、ずっとここにいるわけじゃないし、かごを抱えて旅をするわけにもいかない。

「せめて袋か何かに入れておくべきだったか」

 確かにこれでは靴下やらパンツやら落としそうだ。

 部屋へ入ると、洗濯物をたたみ、あとはベッドの上でごろんとする。ごはんも食べたし、歯も磨いたし、あとはこのまま睡ってしまおうかなあ。

 うとうとと微睡(まどろ)む瞬間、色々な記憶が脳を過ってゆく。今日の記憶だけじゃなく、昔の思い出も、何故いまこの瞬間に思い浮かんでくるのか、まったく不思議に感じながら、映画を見るようにぼんやりと眺める。

 きっと今日の出来事に関連して思い出しているのだろう。ネットワークが次々と繋がって、最後には途方もない記憶まで掘り起こされるのだ。そして、そのまま夢を見る。様々な記憶を織り交ぜ、別世界へ変貌を遂げながら、私の脳を駈けてゆく。

 何だかいい夢を見そうだなあ。うまく言葉に表せないけれど、何となく幸せで、でも、何処か胸が苦しくて、淋しいような哀しいような、でも、それが決して嫌ではないのだ。

 ゆらゆらと揺れながら、私は温かい処へ沈んでゆく。深い深い記憶の底だ。


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