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顔なしゴースト『ワガハイ』の、つれづれならない国境なき冒険  作者: 渋谷 恩弥斎
[第2章 第3節] パジーロ王国>グシカ森林>オトジャの村_01
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016. 無表情な彼女の胸の内(2)

「…………」

「…………」


 それから、奇妙な沈黙の時間――まぁ、当たり前だけど。


 仕方ない。


 吾輩から、話を振らせてもらう。


「モルコゴさんや、ターボフさんが言っていましたよ――あなたがユッカちゃんを強く想っているから、それが伝わってきたから、あなたに協力する気になったのだと」

「そう、ですか……」


 噛みしめるようにつぶやいたマルチェさん。


 そしてゆっくりと、彼女は口を開く。


「私の故郷は、実に貧しい集落でした」


 遠くを見つめ、思いをはせるように。


「その日暮らしのミノタウロスが大半を占める、忘れ去られたような地域……当時、故郷のほとんどの大人たちがそうだったように、私の父もまた、それなりに悪名を流す野盗でした」


 野盗。


 つまり、暴力で金品などを奪う追い剥ぎか。


「母の記憶は、正直ほとんどありません。物心がついた時、もう彼女は、私の前にはいませんでしたから」


 その血を受け継ぐマルチェさんがそうであるように、ミノタウロスは武人として、非常に優れた種族だ。


 自らが強き王となり、国や地域を統治している者もいれば、流浪の傭兵、気高き騎士など、他の種族同様、世界各地で、それぞれに与えられた才能や能力を活かしている。


 しかし、国家や種族間の争いに巻き込まれたミノタウロスが、貧困や飢えを直接の理由として、その身を落としてしまうという話も聞いている。


 悲しいことだけれど、戦士として優秀な種族であるがゆえに、追いつめられた環境下での選択肢が、ほぼ一つになってしまうのかもしれない。


「私はハーフミノタウロスですから、母が人間の女性であることは確かです――とはいえ、自分の父のひととなりを思うと……真っ当な心を持つ年頃の女性が、野蛮な野盗の暴漢であるあの男に魅力を感じるとは、どうしても思えません」


 明らかな嫌悪感。


 マルチェさんは、自分の父親をよく思ってはいないらしい。


「想像するに私は、あの男が人間の女性に乱暴した結果生まれた、望まれない娘――だったのでしょう」

「……マルチェさん」

「母はきっと、幼い私を捨て、父から解放されるために逃げたのです――いえ、それならまだいい。もしかしたら母は、私を産んですぐに、父の手によって殺されたのかもしれません……私の父は、そういうミノタウロスなのですから」


 冷静に、けれど、父親への敵意や憎しみのようなものを隠すことなく語るマルチェさん。


 そんな彼女を前に、取り繕ったような言葉など無意味だ。


 吾輩は、ただ耳を傾けるのみ。


「恥ずかしながら私も幼い頃、生きるために盗みや強盗を働いたことがあります。子供とはいえ、私はハーフミノタウロス。たとえ相手が大人でも、腕に覚えのない者であれば、びた刃物程度で十分に事足りました。もちろん誰一人として、その命を奪うことはしませんでしたが……私も結局、あの父と同じでなのです」

「昔の話でしょう、マルチェさん? 当時を思えば、それも仕方のないことですよ」


 年端としはもいかないハーフミノタウロスの少女に、空腹に耐えながら清貧せいひんを貫けなど、いったい誰が言えよう。


 幼いマルチェさんは、ただ、生きるための行動を選んだ――それだけのことだ。


「はい……ですが、やはり私はあの男の娘なのだと、幼心なりに、そう感じてしまった瞬間があったのです」


 風が吹いて、


「無防備で気弱そうな旅人を脅し、それで奪った食べかけのパン、干し肉、名前もわからない果実――それを獣のようにむさぼっていると、不思議と涙がこぼれました」


 彼女の髪をわずかに揺らす。


「襲った旅人は、私に『バケモノ』と叫びながら逃げていきました。濁った水たまりに映っていた私は、確かに、飢えを満たすだけの化け物でした――別に、悲しかったわけではありません。罵声ばせいを浴びるなど、日常茶飯事。何より、振る舞いや身だしなみを気にしていては、明日を迎えることなどできませんから。それでも……今日の飢えをしのげるだけの収穫を手にできたのに、私は、なぜか泣いていたのです」


 もしかしたら、マルチェさんが無表情で、さらに口調が平坦で独特なのは、その当時、自分の感情を抑え込んで生きていたからなのかもしれない。


 アウトローな父親のもと、荒れた環境下で日々を過ごしていくには、湧き出てくるさまざまな想いを受け流す必要があった。

 そうしなければきっと、彼女の幼い心は壊れてしまっていただろうから。


「それから、すべてが嫌になりました。消えたいと、そう思いました――死にたい、ではありません。消えたい、と、ただ……」


 小さな女の子であっても、概念としての『死』は、それなりに理解できていたことだろう。


 そんな当時において、マルチェさんは『死にたい』ではなく『消えたい』と感じた。


 それは、純粋な願いだったのかもしれない。


 ここからは吾輩の勝手な想像だけれど、彼女は、自分の父親の血が流れている自らの体を、この世界から抹消したかったんじゃないだろうか。


 自分の魂が離れた『体』が、ただの肉塊として、腐敗していくだけの遺体として残り続けることが、マルチェさんには耐えられなかったんじゃないだろうか。


 だから、消えたい。


 死にたい――ではなく、消えたい。


 もちろん、当時の彼女が、そこまで正確に思考していたかどうかは怪しいけれど。


 さらに付け加えるなら、もしかしたらマルチェさんが自分の体の女性的な魅力に対して無自覚だったのも、彼女の生まれや幼少期に、その原因があるのかもしれない。

 明日を迎えられるかどうかさえあいまいな日々において、自分の『女性らしさ』を自分で肯定する機会など、彼女にはなかったであろうから。


「その日の夜、私は一人、故郷を離れました。父とは、もう十年以上会ってはいません」

「……そうでしたか」


 幼いマルチェさんは、何を思って旅立ったのだろう。


 考えても仕方のないことを、吾輩は考えてしまう。


 そんなの、当時の彼女にしかわからないというのに。


「故郷を出た私は、数日間、あてもなくさまよいました――しかしこれは、あくまで主観的なもので、実際のところは、季節の一つや二つ、とうに過ぎていたのかもしれませんが……今となっては、とにかく必死だったという記憶しか残っていません」


 時間感覚が不確かになるほどの日々か、無理もない。


「夜の森で、野犬に襲われることもありました。下劣な輩に見つかり、追いかけてくる彼らから、命からがら逃げたこともありました」


 今のマルチェさんにしてみれば、森の野犬も、追い剥ぎや暴漢も、とるに足らない相手だろう。


 しかし当時の彼女にしてみれば、それは間違いなく恐ろしい経験だったに違いない。

 敵は、無防備で気弱な旅人ではないのだから。


「草の根をかじり、雨水で乾きを癒しながら、私はひたすらに歩きました。目的などないのに……振り返ってみると、本当に不思議なものです。私は、何かに導かれるように、ただただ歩き続けたのです」


 故郷から、父親から、獣のように生きていた自分から――マルチェさんは、少しでも離れたかったんじゃないだろうか。


 化け物に思えてしまった自分自身を捨て、自分ではない自分になるために、幼い彼女はただ、ただただ歩き続けたんじゃないだろうか。


「ある日私は、とある集落にたどり着きました。のどかな小さい町でしたが、私の故郷とは異なり、そこに住まう方々は、慎ましやかにそれぞれの生活を営んでいました。ごく普通の日常というのでしょうか? 私はその時初めて、そういった光景を目の当たりにしたのです」


 きっと、幼いマルチェさんは安堵あんどしたことだろう。


 旅をしていても感じるんだ。


 森や草原を越えて、穏やかな人々が暮らす町や村を訪れると、やっぱり、肩の力が抜ける自分がいる。


 それなりの地域を経験してきた、今の吾輩だってそうなんだ。

 幼い女の子なら、なおさらだろう。


「ホッとしたんじゃないですか、その時は? 危ない目にも遭いながら、やっとたどり着いたわけですからね」

「確かに、ここでは身の危険を感じることはないと、そう思いました。少なくとも、空腹の野犬を気にせずに眠れますから」

「ええ」


「けれど同時に、この町は私にとって異質な場所なのだと、強く認識したのも事実です」

「異質な、場所……」

「真っ当な商人、誠実な憲兵、何より、幸せそうな町の家族たち――そういう方々が生きているこの場所に、私のような存在がいていいはずがないと……」


 世間の『当たり前』を突きつけられたことで、自分の置かれていた環境の異常さを知ってしまったということか。


 悲しい話だな、実に。


「誰かから何かを奪うことは、もうしないと、幼心に決めていました。それでも、お腹は減ります。とりあえず空腹を満たしたら町を出ていこうと、私は通りの食堂のゴミをあさり、食べられるものはとにかく口に入れました。残飯とはいえ、当時の私にはぜいたくなメニューですから……無我夢中だったと思います、きっと」


 平和な町の、人気ひとけのない路地裏。

 土汚れた幼い少女が一人、無言のまま、家畜に与えられるような残り物を、黙々とほおばっている光景――。


 想像すると、胸が苦しくなる。


「その時、声をかけられたのです――『お腹が空いているの? それなら、ウチにいらっしゃい』と」


 マルチェさんは、天をあおいだ。


 まるで、当時の彼女がそうしていたかように。


 声をかけてくれた相手を、緊張しながら見上げているかのように。

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