030. 公女の部屋で、為政者は語る(5)
そして、しばしの沈黙。
話題を変えるように、
「……ねぇ、ワガハイさん」
イオレーヌさまが呼びかけてきた。
「国家を支える力って、いったい何だと思いますか?」
「旅人の吾輩には、難しいことはわかりかねます……何なんですか?」
「それは、経済力と武力ですよ」
彼女はもう、すっかり為政者になっていた。
吾輩が部屋を訪れた瞬間から――いや、違うな。
きっと、もう何年も前から、彼女は為政者だったんだ。
「幸いなことに、我が公国は潤沢な資金を確保しています――地方集落の役人が、私利私欲を肥やしていても、まったく気にならないくらいには」
自虐的な理由を添えて、イオレーヌさまは語った。
「だからこそガウターお兄さまは、あのような立ち振る舞いができた……けれど、武力は足りておりません。もちろん、町の治安維持には問題のない騎士と憲兵がそろっておりますが、この場合の『武力』とは、もっと対外的で決定的なものを指しているのですから」
対外的で決定的な武力、だと?
「たとえば事が起こったときに、その存在によって流れが変わるはずの何か、その使用によって結果を逆転させてしまうような何か――昨夜のクーリアさんの言葉を借りるなら……『禁断の魔法書物』や『封印された伝説の武器』のたぐいの、人知を超えた領域のアイテムのことです」
イオレーヌさまは、この姫君は――。
「あなたは、まさか戦争でも起こすつもりですか?」
「……ふふっ」
意味深に微笑んだイオレーヌさま。
「ありきたりな表現で答えるなら『戦争は、目的ではなく手段』です。いったい誰が、戦争など望むでしょう?」
またイオレーヌさまは、地図を見やる。
「我が国は『公国』であり、私たち一族が治めてきた国家――しかし、私たちが持つ『公爵』という爵位は、とある王国の国王一族と血縁関係にあるという理由から、私の先祖が国土と共に与えられたものに過ぎないのです」
彼女は、
「……その王族の治めている国が、この『ベンデノフ王国』」
部屋の地図に描かれた、大陸の上部を指さした。
「ガレッツ公国が存在するこの大陸――『ルドマ大陸』最大の国家にして、大陸を事実上統べているベンデノフの影響を、ガレッツは無視することができない……現状では、どうしても」
この大陸を牛耳る王国のことは、吾輩も旅の中で見聞きしていた。
そうか、あれがベンデノフ王国。
大陸北部に広がる、文字通り、ルドマの王者――。
「私は公国を、一番の国家にしたいのです……それが、明日からの――いえ、この瞬間からの私に与えられた機能だと確信しています」
「……ベンデノフに挑むおつもりですか、あなたは?」
自分の先祖に爵位と領土を与えたという王国に、この姫君は。
「勘違いしていますよ、ワガハイさん」
「……どういうことですか?」
「私は、ガレッツを『世界で』一番の国家にするのですよ? だからベンデノフなど、あくまで通過点に過ぎません」
そう言ったイオレーヌさまは、腕を高く伸ばしていく。
ルドマの陸地を離れ、そこには描かれていない海の向こうへと。
「そのためには必要なのです、絶対的な『武力』が――ベンデノフはおろか、世界中が無視できなくなるような力が、明日からのガレッツには、どうしても」
「…………」
自害を試みる間際、サンドロさんは吾輩に告げていた。
『あなた自身で、どうか確かめてみてください――「イオレーヌ」という美しい女性が、いったいどういう人間なのかを』
恐ろしい人間だ。
ゴーストである吾輩が寒気を感じてしまうほどに、この女性は、ある種の狂気を宿している。
武人とはまた別の、けれど、武人すらひるませてしまうほどの、そういった魂を――。
「……あなたは、戦争は手段だと言いました。ならば、目的を達成する過程で、その手段が必要になったとき、イオレーヌさまは、迷わずそれを選ばれると?」
「ええ、迷わず」
「それによって、自国他国を問わず、無数の罪なき者たちを嘆き悲しませることになってもですか?」
「大義のためならば、彼らの悲しみと嘆きのすべてを、この私が受け止めます――その屍を礎に、ガレッツ公国をさらに発展させることを約束して」
「…………」
躊躇など、言葉にはみじんもなかった。
この女性は、命すら奪う力を、当然のごとく冷静に使う人間に他ならない。
「申し訳ないですが、イオレーヌさま――そうなれば吾輩はあなたと、国境なき騎士団員として対峙することになるかもしれません」
どんな相手が、どんな理由を抱いていても、吾輩に守れる命があるのなら、吾輩は最後まで守りたいと思うから。
「……そうですか、覚えておきましょう」
そこでイオレーヌさまは振り返り、吾輩のもとへ近づいてくる。
「日が昇れば、あなたは旅立ってしまうのですよね、ワガハイさん?」
「はい。これ以上、甘えるわけにはいきません」
「残念です……でもワガハイさんとは、またどこかで会えるような気がしますよ」
吾輩の正面――その椅子に、イオレーヌさまが座り直す。
「お気づきですか、ワガハイさん? あなたが、オーヌの町で汚職役人を粛正したことをきっかけに、コンラートお兄さまは、ガウターお兄さまの振る舞いを見過ごすことができなくなったのです。それによりパレードでの一件が起こり、さらにそれを受けて、サンドロが自らの思うところをなした――その結末が、私とあなたが向かい合っているこの現状なのです」
「……彼らが亡くなってしまった原因の発端が、吾輩にあると?」
「いいえ、めっそうもない。そんな理不尽な言いがかりには、少しの道理もありませんよ――ただ、先ほどの『考え方』に従えば、あなたもまた、表現することのできない『何か』に与えられた機能を、純粋に果たしているように、私には思えてしまうのです」
淡い灯りに照らされながら、イオレーヌさまが微笑んだ
「私なりの哲学とは、つまりそういうこと――あなたと私が、それぞれに信じた道を進み、お互いの機能を果たしていれば、そう遠くない未来に、必ず、私たちは再会できるはずです」
「……そうならないことを、吾輩は祈るばかりですよ、イオレーヌさま」
廊下が、やけに騒がしい。
憲兵たちの混乱しているような声が、足音と混ざって響いている。
けれど、この部屋は静かだ。
まるで、この空間だけ、外の『世界』から切り離されているみたいに――。




