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顔なしゴースト『ワガハイ』の、つれづれならない国境なき冒険  作者: 渋谷 恩弥斎
[第1章 第3節] ガレッツ公国>ガレッツ城下町
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028. 公女の部屋で、為政者は語る(3)

 壁一面に張られていたのは、大きな地図だった。


 それを囲むように置かれた本棚には、古今東西のあらゆる書物が、高貴な姫君の寝室とは思えないくらい乱雑に、びっしりと詰まっている。


 地図を見上げられる位置にある机には、開かれた本――だけでは飽きたらず、さらに数冊積み上げられていた。


「私は権力を欲したことはありませんし、サンドロに暗殺まがいのことを命じたこともありません――ただ、一つだけ、誰にも打ち明けたことのない秘めた想いを、今日まで常に持ち続けておりました」


 大きな地図を背に、イオレーヌさまが宣言する。


「私には、二人のお兄さまより何倍も、優れた君主としての才能が与えられていると、純粋に――うぬぼれではなく、ただ純粋に確信していたのです」


 彼女の奥に広がるのは、ガレッツ公国の地図――ではない。


 もっと広域なもの、おそらくは大陸。


 そのいたるところには、彼女が書き込んだであろう文字が。


 それぞれの地域の気候、文化、政治体制から歴史まで――あくまでメモ程度ではあったが、そこには確かに、縮小された『世界』の一部が存在していた。


 これを、サンドロさんは見たのか。


 ガレッツの政治には一切関与していないという公国の姫君の部屋の壁を埋め尽くす、彼女が分析した『世界』を表す地図を――。


「……あなたにとって、これは、いったいどのような意味を持つのですか?」

「趣味、でしょうか」

「……趣味?」

「正確には『趣味だった』――となりますけれど、今となっては」


 イオレーヌさまは、吾輩をからかっているのではなさそうだ。

 冷静で、慎重。

 無表情というわけではないが、顔をゆるませるようなこともない。


「私にとってこれは、単純な思考遊技なのです――けれど、最高に興味深い、唯一無二のゲームでもあります」


 思考遊技、唯一無二のゲーム――とはいえ貴族の遊びにしては、何とも緻密で、妙にリアリティーのある娯楽だ。


「この世界は、私たちの想像を超えるくらいに広いのですよ、ワガハイさん――なんて、旅人のあなたに、世間知らずの私がこんなことを話すだなんて、笑ってしまいますよね」


 振り返ったイオレーヌさまが、地図を見上げる。


「こういう身分に生まれた私は、残念ながら、あなたのような旅人にはなれません。もちろん、公爵家の娘として異国の地を訪れたことはありましたが、それはただ、両親やガウターお兄さまに連れられて、このガレッツ城から、別の国の城に移動したというだけのこと……景色の変わらない社交界の宴に参加することを、旅や冒険だなんて言わないでしょう?」


 ゆっくりと、イオレーヌさまは地図に触れた。


「けれど……いいえ、だからこそ、私の興味は『外』に向かいました。きっと自分では足を踏み入れることのない地域の自然、出会うことのない種族、未知の信仰や文化、歩んできた歴史、受け継がれてきた魔法技術――そういったものに飢え、その乾きを癒すかのように、私はさまざまな書物から、ここで『世界』を学んだのです」


 彼女の指先が、大陸の輪郭をなぞる。

 その姿は、どこか官能的ですらあった。


「その過程を通じて、私は理解しました――この世界を動かす理論である『政治』というものを」


 そう言ったイオレーヌさまの手は、大陸内部の国の位置に置かれていた。


 もちろんそこは、地図上のガレッツ公国。


「それから私は、両親や、後を継いだガウターお兄さまの『やり方』に、今までは感じたことのない気持ちを抱くようになりました――『ああ……私なら、もっと上手くやれるのに。私なら、このガレッツ公国を、もっと偉大な国家にできるのに』と」


 イオレーヌさまは、吾輩の前で初めて、権力に対する欲望らしきものを口にした。

 しかしそれは純粋な感想であるらしく、彼女はそれを、明確な志向だとは認識していないようだった。


「とはいえ私は公爵家の三人目であり、しかも女性です。少なくとも我が国では、政治の場において、女性は男性に比べて劣位。私が国を率いることなどないとわかっていましたし、そうなりたいと真剣に思ったこともありませんでした……けれど、自分が優れた為政者であることは自覚していましたから、恥ずかしながら試してみたのです――私の部屋の、この『世界』の上で、私なりの政治というものを」


 それが思考遊技、か。


 彼女にとっての趣味にして、唯一無二のゲームだと。


「満足でした、それだけで……私は、このガレッツ城の一室から、人知れず国を動かし、異国を訪れ、そこに住まう権力者たちと交渉し、時には駆け引きをして――自らの考えるガレッツ公国の未来を、誰にも伝えることなく想像していたのです」

「……けれどサンドロさんに、これを見られてしまったと?」


 というより、見抜かれてしまったんだろう。


 公爵家の三人目に甘んじている、優しくも穏やかな世間知らず――と思われていた姫君に、驚愕して立ちすくんでしまうほどの『才能』が眠っていたことを。


「ええ」


 再び吾輩の方に振り返り、イオレーヌさまがうなずいた。


 確かに、忠義を尽くす騎士であり、またきっと、誠実な紳士であったであろうサンドロさんが、君主の妹である女性の部屋に、思わず無断で立ち入ってしまったことにも納得だ。

 あのガウター公の『政治』を近くで見ていたはずの彼ならば、なおさらに。


「私の中の『何か』に気づいたようなサンドロでしたが、公爵家の女性の部屋に許可なく入室してしまったという負い目からか、彼は特に何も言ってはきませんでした。また、私を権力の座に担ぐような素振りも、まったく……仮にもサンドロは、私の護衛であり、最も親しい騎士です。私が君主の地位をことさら望んでいないことを、しっかりとわかっていたのでしょう」


 もちろんそれもあるだろう。


 しかし彼は、必要と判断すれば、上官の騎士はおろか、仕えた君主にまで手をかける武人だ。

 無理やりにとまではいかなくとも、ガレッツの政治に関わるようにと、イオレーヌさまを説得するくらいのことはするはず。

 ただ、護衛を担当する姫君の慎ましやかな日常を守るため――というだけの理由で、あの忠義に生きた騎士が折れるとは思えない。


 サンドロさんは確信したはずだ。


 イオレーヌさまが公国の君主となれば、間違いなくガレッツは黄金時代を迎えると。


 けれど、ガウター公はあの性格。


 加えてコンラートさまも、身勝手な兄のやり方に不満を抱いていた。


 そんな状況でイオレーヌさまが権力への欲を見せる――少なくとも、そう受け取られるような形になれば、城内が混沌とするのは必至。


 現にガウター公はコンラートさまを粛正したし、それはコンラートさまがガウター公の首を狙っていたからだ。


 仮に三つ巴の事態となっていたら、イオレーヌさまの暗殺が実行される可能性だって十分にあり得ただろう。


 ガウター公派だったワーザスさんが理解していたように、イオレーヌさまに絶対的な忠誠を誓っていたサンドロさんもわかっていたんだ――強引に動けば、その反動があることを。

 騎士として守り抜くべき姫君が、器の小さな兄たちに暗殺されてしまうかもしれない可能性を。

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