025. 公国騎士の本懐(後編)
「……あなたが心に決めた主君は、イオレーヌさまだったと?」
「はい」
躊躇なく、サンドロさんはうなずいた。
「しかし、どうか確認させてください、ワガハイさん――あなたは今、その『あなたが心に決めた主君』という言葉に、いったいどのような意味を込められましたか?」
彼は、視線を乱さない。
「私とイオレーヌさまが年頃の男女であり、少なくとも人並み以上に親密に見えていたことを踏まえた上で、あなたは私の一連の行動の理由に納得しようとはしていませんか、ワガハイさん?」
ただ真っ直ぐにサンドロさんは、吾輩をとらえていた。
「あなたのお仲間であるクーリアさんには、どうやらそのように映っていたみたいですね……まぁ、彼女くらいの年代の女の子ならば、それも仕方のないことですが」
「……それは、違うと?」
「その様子では、あなたにも私は、姫さまに密かな恋心を抱く青年騎士にでも見えていましたか? だとしたら申し訳ない。ワガハイさんも意外とピュアな――あ、いえ、ばかにしているわけではありませんが」
「…………」
「しかし不思議なものです。年頃の男性が年頃の女性に、あるいは、その逆でも構いませんが、何か広い意味での『好意』を抱いた場合、どういうわけか周囲の者たちは、それを色恋の次元で考えるようで……私としては、ここ数年、実に納まりの悪い日々を過ごしていましたよ」
サンドロさんは、どこか懐かしんでいるようだった。
ふと、憲兵たちがサンドロさんとイオレーヌさまに穏やかな視線を送っていたことを思い出す。
なるほど。
それが『納まりの悪い』――か。
「とはいえ、別にイオレーヌさまが、女性として魅力がないと言っているのではありませんよ。ただもはや、私のあの方に対する想いは、そのような低俗な感情でないというだけのこと」
色恋を、端的に『低俗な感情』と表現したサンドロさん。
そちらの方面にはすこぶる疎く、しかもまったく縁のない吾輩だけど、さすがにそこまでだとは思っていない。
なのに、彼は断言した。
「私のすべては、あの方のものですから」
覚悟、決意、信念――そのすべてを含んだような力強い言葉だった。
「私は、イオレーヌさまの忠実なる騎士――それ以上でも、それ以下でもありません」
「……あなたはそうでも、イオレーヌさまは違っていたかもしれませんよ」
そう伝えると、
「ふっ、やはりあなたは純情な方のようだ」
サンドロさんは鼻を鳴らす。
「あの方が、私に――いや、相手が誰であれ、そのような感情を抱くはずがない……違うのですよ、次元が」
心酔している目だった。
もはや、神を崇めるがごとくの。
「……まさか、イオレーヌさまの命で、あなたはここまでのことを?」
あの穏やかで優しき姫君が、裏ですべてを仕組んでいた――とは思いたくないが、サンドロさんの行動と、ここまでに語ってきた主張から考えるなら、それが論理的な解答だ。
もしも彼女が『公爵家の三人目』という立場に不満を持っていたのなら、もしも彼女が権力の座を強く欲していたのなら――サンドロさんが剣を抜くに十分な理由となる。
だが、
「いいえ、ワガハイさん――あの方は私に、何一つ命じてはおりません。今宵のことは、私自らが考え、私が単独で行動したまでのこと」
サンドロさんは、それすら否定する。
「別に、イオレーヌさまを守るために、私が泥を被っているのではありませんよ――ワガハイさんも聞きましたよね、夕食でのワーザスさんの言葉を?」
権力闘争において強引に仕掛ければ、必ず反動を受ける――という、過去の歴史からも導かれる事実を前提に、経験豊富な騎士であったワーザスさんが、ガウター公に警備の提案をした時のことを言っているのだろう。
「主君のために剣を抜くだけでは、騎士として不十分。同時に、盾にもならなくてはいけません。もちろん、高貴なるお方に刃を向ける野蛮な輩も数多くいるとは思いますが、政敵の多くは理性的な野心家でしょう。恨まれる理由を最小限に抑えれば、無用な危険は避けられる――それには、主君を一切関与させなければいい……少なくとも、表にはできないような汚い事柄には、ぜったいに」
公爵家が治める国、ガレッツ公国。
兄への不満からクーデターを実行したコンラートさまは粛正され、見事に出し抜いたと思われたガウター公も心臓を突き刺された。
残る公爵家一族の人間は、イオレーヌさま、ただ一人――公国の君主としての地位が誰のものになるのかなど、もはや考えるまでもない。
すべては、そのために?
『騎士として忠誠を尽くすべきは誰なのか、私は十分にわかっておりますから』
イオレーヌさまをガレッツの長にするために、ただ、それだけのためにこの人は――。
「わかっていただけましたか、ワガハイさん?」
「……あなたの主張は、一応理解しました」
一人の自由気ままなゴーストとしては、とうてい納得できないけれど。
「しかし、イオレーヌさまにすら伝えていないようなあなたの真実と、その忠誠心を、どうして吾輩に?」
「確かに、秘めておくべきことなのかもしれませんが……それは私が未熟だからでしょう。誰かに聞いてもらいたかったのかもしれません」
「吾輩はこれでも、国境なき騎士団の末席ですよ?」
「国境なき騎士団に咎められるようなことを、イオレーヌさまは何一つ犯してはいません」
「……この期に及んでも、あなたはイオレーヌさまの心配をするのですね」
たいした人間だ、本当に。
けれど、そこまで思っているのなら、吾輩はどうしても問いたい。
「イオレーヌさまが何も知らないとしたら、彼女はこれを――自らが公国を率いていくことになるという現実を、正しく受け入れられるでしょうか?」
二人の兄が亡くなり、国を支え続けた騎士団長も斬殺され、常に自分を守ってくれていた騎士の青年が手を汚した――しかも、どうやら自分のために。
明日の朝、ガレッツの君主という地位と共に、そのすべてと直面することになる姫君にとって、いつものように日が昇るということは、果たして幸せなことなのだろうか?
「…………」
吾輩の言葉に、少し固まったようなサンドロさん。
顔を伏せ、しばらく無言のままにたたずむ。
吾輩にはサンドロさんが、過剰な忠誠心に飲まれてしまっているようにも思えた。
そんな彼の心に、吾輩の投げかけた素朴な疑問が、大きく波紋を広げたのかもしれない――などと一瞬でも考えてしまった吾輩は、どうやら相当に脳天気らしい。
「……だから、違うのです、ワガハイさん」
サンドロさんが、ゆっくりと腕を上げる。
「言ったはずですよ――私は『国に仕える騎士』だと」
彼の手にしている壊れた剣の刃元が、その首へと向けられた。
「あの方ならば、必ずガレッツ公国を偉大な国家にできると確信しているから、だから私は迷うことなく、自分のなすべきことをなせたのです」
「……落ち着いてください、サンドロさん」
武器としては役に立たない壊れた剣も、自傷するには十分なもの。
覚悟ある者が握れば、命を絶つことだって――。
「これ以上のことは、どうかご本人の口からうかがってください、ワガハイさん。あの方のことです。こんな深夜にあなたが部屋を訪ねれば、我が主君はあらゆることを即座に悟り、きっとすべてを話してくださるでしょう」
「あなたまでいなくなって、誰がイオレーヌさまを支えるのです? もしも彼女の――」
「あなた自身で、どうか確かめてみてください――『イオレーヌ』という美しい女性が、いったいどういう人間なのかを」
ダメだ。
サンドロさんは、もはや吾輩の言葉に耳を貸さない。
「イオレーヌさま……あなたが導くガレッツ公国に、永遠の栄光を」
「サンドロさん、待っ――」
壁の絵画を、美女の石像を、無造作に置かれた宝石たちを――赤い鮮血が大胆に染めた。
彼の頭が落ち、ひざが崩れる。
粘りけのある、嫌な音がした。
「……くっ」
ガレッツ公国の副騎士団長――サンドロさんは、吾輩の前で自ら首をはね、若くしてその生涯を終えた。




