002. 盗人の少女
「あの、ちょっといいですか?」
さっきの食堂がある通りから、わきに一本入った路地。
吾輩はなるべく穏やかに、例の少女の背中に声をかけた。
「食事をしているお客さんから、いくつかくすねましたよね?」
そう。
吾輩が認識してまったのは、少女の窃盗行為。
食事に夢中な者をターゲットに、彼女が金目の物をこっそり奪っていく光景だった。
おそらく彼女、出来心でつい――というタイプなんかじゃない。
それなりに場数を踏んでいる、いわゆるプロの泥棒だろうな。
「気づかれないと思ったんでしょうけど、こう見えて吾輩、目が利くんですよ」
とはいえ、目はないんだけどね、吾輩。
「素直に返してもらえれば、騒ぎにはしませんよ。吾輩から、被害者の方に説明しておきます。あなたを、憲兵に突き出すようなこともしません」
「…………」
吾輩が伝えると、繊維の荒い布袋を担いだ彼女は、立ち止まって沈黙した。
そしてゆっくりと振り返り、警戒しながらこちらに視線を向ける。
白い肌に、女性としては短めな金色の髪。
特徴的な長い耳の形からして、種族はエルフ――だろうか?
服装は、革の胸当てにショートパンツ。
軽装だけど身なりは清潔にしているし、顔立ちもすごく整っている。
とても、誰かの物を盗むような相手には思えないけれど。
「……ほ、本当に、見逃してくれますか?」
「はい、もちろん」
どことなくおびえた表情の彼女に、吾輩は答えた。
「あ、あの私、こういうことをしないと……一人で生きていけなくて」
「まぁ、事情はいろいろとあるんでしょうけど、できればこれを機に、もう少しまともな手段でお金を稼いだ方がいいと思いますよ。欲をかかなければ、わずかな稼ぎでも、十分楽しく生きていけますから」
「は、はい……これからは、心を入れ替えます」
盗んだものを差し出そうとしたのか、悲しそうにうつむいた彼女が、布袋に手を入れようとした瞬間、
「――なんて言うわけないじゃん、ばーかっ!!」
腰に携えていた短剣を引き抜き、流れのままに吾輩へと投げてきたんだ。
正直、ちょっと油断していた。
想像以上の気迫と闘気。
あまりの素早さに、恥ずかしながら避けることができない。
だから短剣は、吾輩の頭を直撃――することなく通過し、被っていたフードを貫いて、路地の石壁に当たって転がった。
「……えっ、うそでしょ!?」
短剣を投げてきた本人のくせして、彼女はひどく驚いていた。
おそらく彼女の行動は、吾輩へのけん制のつもりだったんだろう。
とっさに逃げ出すと思って、それであえて首から上を狙ってきたんだ。
けれど吾輩は、彼女の想定外の存在。
逃げ出すことはおろか、短剣が突き刺さることすらない。
まるで、霧の中に刃を投げ込んだみたいに、ただただ空を切るだけなんだから。
……いや、違うね。
かっこよく表現しすぎた。
だって、吾輩の着ているコートのフード、後頭部を覆うところに穴が開いちゃっているはずだから。
後ろ手で確認してみると――ほら、やっぱり。
「縫わなきゃダメだなぁ、これ……」
裁縫道具、どこかで借りられればいいけど。
自分の『体』のことより、フード付きコートの方が心配な吾輩に、
「あなた……もしかしてアンデッド?」
明らかに身構えながら、彼女はそう尋ねてきた。
「ええ、まぁ……吾輩は、アンデッドの『ゴースト』なんです」
言いながら、吾輩はフードを脱ぐ。
直後、泥棒の彼女が、沈黙しながら半歩後退した。
無理もない。
人肌でもなければ、うろこや羽毛に覆われているわけでもない――わずかに青白く輝きを放つ、我ながら特異な『体』の『表面』。
何より、口と鼻筋はあるものの、いわゆるのっぺらぼうな吾輩の『顔』を見れば、身近にゴーストがいない他種族にしてみれば、ちょっとショックだろうし。
「ですから吾輩、さっきので一切ダメージを受けていませんので、どうぞご安心を」
いきなり刃物を投げてきた相手にそんなことを伝える必要はないが、まぁきっと、彼女も吾輩を殺そうとしたわけじゃないんだろうから、とりあえず。
生と死の狭間で存在する種族――アンデッド。
その中でもゴーストは、魂そのものが具現化した『命』だから、基本的に物理攻撃は効かない。
だから吾輩に、そんじょそこらの剣の刃なんて届かないんだ。
「……あなた、いったい何者?」
「ですから、吾輩はただのゴーストで、あなたが窃盗なんかするから、それで――」
「そんなことを聞いてるんじゃない!! あなた、剣を装備しているみたいだけど、まさか……この町の憲兵とか?」
吾輩の腰にある数少ない所有物を見やりながら、彼女が尋ねてきた。
「いやいや。吾輩は旅の者で、そんなたいそうな身分じゃないですって」
「この期に及んで、わざとらしくとぼけないでよっ!! 役人の犬ね、あなた。みすぼらしい格好で町に潜入して、何やかんや理由をつけて私たちを引っ張っていく覆面憲兵なんでしょ? 古ぼけたコートなんか着て、貧乏そうな気配を漂わせちゃってさ」
「……なぜか、短剣を投げられるより何倍も痛いんですが、その言葉」
これでも吾輩、できる限り清潔感だけは意識しているんだけどな。
まぁ、貧乏なのは仕方がないとして、それが目に見えて出ちゃっているとは。
「とにかく私は、奪ったものを素直に返すようなお人好しじゃないの。それに、役人の犬に捕まるような愚か者でもないんだから――〈風の矢〉」
地味に精神的ダメージを受けていた吾輩に、泥棒の彼女が呪文を唱えてきた。
鋭い空気の刃が、矢のように吾輩へ向かって飛んでくる。
物理攻撃は無効化できるゴーストも、魔法攻撃を喰らえば、もちろんただでは済まない。
吾輩はコートをなびかせながら、風の魔法を回避した。
路地の奥に注意を向けると、泥棒少女の背中がずいぶんと小さくなっていた。
穏便に終わらせたかったが、魔法まで使われてしまったからには、吾輩も黙って引くわけにはいかない。
自分の頭を貫通した例の短剣を拾い上げて、吾輩は走り出す。
役人の犬なんかじゃないけど、このまま彼女を逃がすわけにもいかないからね。