051. 広く大きな展示室にて(15)
「よし。では君たちに、あらためて、このステレッサの粘土板についての解説を――」
「いや、いいですよ、トゥエンティンさま。もう『らうめん』の話は」
「そう言わずに、せっかくですから聞いてみましょうよ、クーリアさん――『らうめん』の話を」
「キューイ、キュイキュイ」
「……ら、らうめんの話じゃないぞ、君たち」
あちらのにぎやかな声が、耳から遠くなっていく。
ただでさえ、ここは広い空間だ。
中央から離れれば、こちらの会話が届くことはないだろう。
「雰囲気から、パーティーの仲間ではないことは感じていたが、まさか、今日出会ったばかりの相手だとは、さすがに思っていなかった」
室内を観察する素振りを保ちつつ、アスティニが口を開く。
もちろん、ミロートさんのことだ。
「伝えていなかったことは謝るよ」
「責めているわけではない。ただ、この状況だ。驚いたのは確かだ」
「だよね」
「まずは、ここまでの経緯を、私に教えてほしい」
ベンデノフ王国に入るまでの道中、異様な獣の襲撃から、彼に助けられたこと。
この城下町を訪れた後、思いがけず、ジフォンの一件に関わる流れになったこと。
ミロートさんの腕を見込んで、吾輩から閣下に、警護要員として推薦したこと。
悩みながらも事情を理解し、閣下が受け入れてくれたこと。
アスティニの求めに応じて、今に至った過程を説明した。
「……なるほど」
状況を整理するように、彼女は押し黙った。
当たり前だが、いろいろな可能性が考えられる。
安易な判断を下しては、自分たちの首を絞めかねない。
慎重になるのが道理だ。
けれど吾輩には、確信に近いものがあった。
「大丈夫、ミロートさんはジフォンじゃないよ」
「……ずいぶん信頼しているんだな」
アスティニは、訝しい表情をしていた。
「腑に落ちない?」
「くり返しになるが、状況が状況だからな。疑わしさは拭えない」
「閣下にも話したけどね、もしも彼がジフォンなら、あまりにも行き当たりばったりなんだよ」
吾輩がここに来ることになったのは、偶然に偶然が重なった結果に過ぎない。
帰ったはずの猊下一行が、気まぐれで再び戻ってきたのと同じようなものだ。
仮に、それを計画に入れていたと主張するなら、事実上ジフォンは、まったく何も考えていないに等しいことになるだろう。
「吾輩は今日一日、ずっとミロートさんといっしょだった。彼は、偽者のエルマーさんとも対面しているし、その場に吾輩もいた。変装したジフォンが、すでに城内へ侵入していたということが、ミロートさんの信頼性を高めているんだよ」
「しかし、先ほどの魔法幻兵の件もある。万が一、あなたの見た『最初のエルマー』がジフォンの創り出したしもべなら、すべての前提が崩れる」
「もしもジフォンの魔法技術が、驚くほど高度な領域まで達しているのなら、君の言うことを、吾輩は否定できない」
「そうだ。現に私たちは、猊下に首を落とされた魔法幻兵を確認している。あれは本当に、国教会の聖職者だと見間違う容姿をしていたぞ」
「でも、それなら吾輩たち全員の信用性が、一気に揺らぐことになるよ? 初対面の相手ではあったけれど、エルマーさんは、実在している一個人。これについてはオリップさんが、しっかり証言してくれている」
「……その点について尋ねたのは、奇しくもミロートだったがな」
ジフォンの変装と、城内への侵入が明らかになった後、
『確認ですが「侍従官のエルマー」という男性は、確かに実在を?』
『ええ、間違いありません。私の部下で、優秀な若者です』
ミロートさんが、オリップさんから言質を引き出したんだ。
「気になる、アスティニ?」
「多少はな」
「『エルマー』という侍従官が、本当に存在しているのか――この点は、ぜったいに聞いておくべきことだよ。わかるよね?」
「ああ」
「彼はただ、押さえるべきを押さえたに過ぎない。君と同じように、彼もまた『わかっていた』というだけの話だよ」
「……続けてくれ」
やや含みのある間があったけど、これは、誰が質問したかで答えが変わるものじゃない。
彼女なら当然、そこは理解している。
ミロートさんを怪しんでいるとしても、ここはスルーするしかないといったところか。
「吾輩が出会った偽物のエルマーさんが、ジフォン本人ではなく、ジフォンの創り出した特別な魔法幻兵だったとしよう。この仮定に立つと、あの大盗賊は、実在する人物を、ほとんど不自然さを感じさせないレベルで、いわば操り人形として生み出してしまっているということになる。これが事実なら、ミロートさんだけじゃない。吾輩も君も、彼と同じように疑わしくなる――そうだよね?」
「…………」
「偽物のエルマーさんと、吾輩は会話を交わしている。あいさつ程度のものじゃない。向こうは、ゲストを迎える侍従官然とした誠実な態度で、吾輩に接してくれていたよ」
「それはジフォンが、呪言二重唱、あるいは他の手法によって、そうなるように魔法幻兵を――」
「もしも見た目を『整える』以上のことが、魔法幻兵を使ってできてしまうのなら、ジフォンの代名詞である変装すら、無用の長物になってしまうんじゃないかな?」
「…………」
反論は出てこない。
アスティニは口をつぐんだ。
吾輩の言葉を、自分なりに納得するための時間なのかもしれない。
「これから、ちょっとずるい言い方をするね」
断りを入れつつ、彼女に伝える。
「吾輩の説明不足はあったけれど、冷静な君は、最初からミロートさんに対して、合理的な警戒心を持ち続けていた」
これは、猊下に指摘された警備上の問題点を、ミロートさん本人が的確に論破した内容から明らかなことだ。
「だとすれば、もし彼がジフォンだとしても、吾輩たちで何とかできるってことだよね?」
ミロートさんを出入り口に配置する。
それ自体が、彼に対する吾輩たちからの牽制。
彼が不都合な相手だったとしても、それは、想定内のアクシデントに過ぎないんだ。
「そもそも彼がジフォンなら、猊下に対して、あそこまでの反論はしない」
「……あなたは、どうしてそこまで?」
「腕は保証するよ」
「それだけで?」
「ミロートさんは、きっと……何かを抱えている」
おそらく彼は語らないし、吾輩も聞くつもりはない。
力になりたいとか、助けたいとか言うのは、ちょっと違う。
おこがましい。
それでも――。
「今までに振るってきた剣とは別の剣を抜く機会が、今、あの人には必要なんじゃないかって、そう思うんだよ」
「……優しいな、あなたは」
険しかったアスティニの表情に、そこで、穏やかな笑みが浮かぶ。
「悪いが、彼のことを完全に信頼することはできない。だが、彼を信頼するあなたのことを、私は信頼することにするよ」
「ありがとう、アスティニ」
銀の騎士の立場からすれば、吾輩は本当に、仕事のやりにくい銅の騎士だろう。
それなのに彼女は、こうやって理解を示してくれる。
考えてみれば、鉛の騎士時代から、ずっと甘えっぱなしかもしれない。
「君はいつも、わがままな吾輩を、誰よりも強く信じてくれるよね。親しくなってから今日まで、少しも変わらずに」
「そ、そんなことは、あ、ああ、当たり前だ。こ、個人的な、その……お、おお、想いがあるからな」
「親友だからね、吾輩たち」
「うくっ……ま、まぁ今は、それでもいい」
「ん?」
「こ、こちらの話だっ」
慌てたような、不満なような、さらには困ったような雰囲気を漂わせつつ、アスティニが続ける。
「も、もちろん、あなたへの信頼は、私の個人的な感情も理由になっている。しかし、それだけではない」
彼女の顔が、また引き締まる。
包み込むような温厚さを残しつつも、鋭い凛々しさが、確かに見て取れた。
「あなたがいなければ、私は『あの時』に、おそらく……折れるか堕ちるかしていた」
同時に、深い悲しみも、わずかに。
「私は、騎士としてのワガハイを、心から尊敬しているんだ。あなたは、真の騎士道を体現しようとしている。時代も国境も関係ない。あなたの心には、この世界に生きる命として何よりも大切なものが、確かに宿っている」
「大げさだよ、アスティニ。吾輩は、そんな――」
「たとえすべてが間違っていたとしても、ワガハイだけは正しい道を進むだろうと、私には思えるんだ」
ここまで、周囲をチェックする素振りに、手を抜いてはいない。
しかし不意に、吾輩は歩みを止めてしまった。
あまりにも真っ直ぐな言葉。
うそじゃないことが伝わるからこそ、どう返したらいいのか、全然わからなくなる。
彼女からの評価に見合うようなゴーストなのか、はっきり言って自信はない。
だから正直、素直に受け入れることは難しい。
だけど今、疑問の余地なく、堂々と口にできることが一つだけある。
「君に出会えてよかったよ、アスティニ」
大切な親友への、偽りのない純粋な気持ちだ。
「私もだ、ワガハイ」
彼女もそうであることが、とてもうれしい。
心が、じんわり温かい。
互いに笑顔になっているこの時間が、何だかとても尊いものに感じられた。
ジフォンによる襲撃前夜、そんなことを思うのは、ちょっと不謹慎かもしれないけどね。
さて。
吾輩の落ち度が原因ながら、これで一応、ミロートさんの件は解決。
どちらからというわけでもない。
みんなのいる展示室の中央へ、ゆっくりと二人で歩いていく。
「しかし、警戒をおこたるなよ、ワガハイ」
アスティニが、声を潜めて告げてくる。
「彼は、警備における各自の配置だけで、私の意図を、すべて正確に把握していたことになる。ただの旅人とは、到底思えない」
「……わかっているよ」
それ以上、彼女は何も言ってこなかった。