043. 広く大きな展示室にて(7)
一応、この場にあるステレッサの粘土板に対する疑念は払拭された。
それを狙っている怪盗によって――というのは、なかなかの皮肉だけどね。
吾輩は、アスティニに問う。
「君は、あれが偽物だとは思っていなかったんだね?」
「あくまで個人の感想として、クーリアの意見に同意しただけだ。私に、等級六つ星のようなレアアイテムの目利きは難しい。ジフォンの予告状が存在している以上、そこは受け入れるしかない。しょーもない内容だというのは、私の本心だがな」
理性的な彼女らしい判断だ。
「あなたこそ、疑っていたのだろう? 予告状が、本当にジフォンからのものかどうかを。だから、私に確認を求めた」
「もちろん、その可能性もゼロではないと思っていたよ。だけど、君が予告状に目を通していたことを、事前にオリップさんから聞いていたんだ。偽物なら、すでに君が見抜いているはず。加えて、先ほどのエルマーさんの件だ。恥ずかしながら、別人が成り代わっていたなんて、まったく気づかなかったよ」
「私も本音では、すでに城へ入り込んでいると、露ほども想像していなかった」
「変装を得意とする盗賊は、きっと他にもいるだろう。でも、あそこまで自然に周囲に溶け込める者が、そう何人もいるとは考えたくない。十中八九、あの怪盗だ。だから、ジフォンの名前を語る偽者という線は、吾輩の中で、ほぼ消えていたよ」
「ならば、どうして?」
「今回、ジフォンの名前が出てきたときから、ずっと気になっていたことがあるんだ」
「気になっていたこと?」
「ジフォンが悪名を響かせるようになってから、ざっと十年だよね?」
「ああ。騎士団本部の資料で、やつの名前が最初に出てくるのが、まさにその時期だ」
大ファン(?)である閣下も、そう口にしていた。
アスティニも言うのだから、吾輩の認識は間違いないだろう。
「怪盗として十年。その歳月は、決して短い時間じゃない。国境なき騎士団は、ジフォンを彷徨える大罪人だと指定しながら、捕まえることはおろか、その正体すらつかんでいないんだ。現在も、なお――だよね?」
「……銀の騎士としては、かなり耳の痛い話だな」
昨日今日出てきた小悪党とは格が違う。
世界中で犯行を繰り返すその実力は、敵ながら認めざるを得ない。
「君は、ジフォンの正体を想像してみたかい?」
「大盗賊の正体か……」
予告状をながめつつ、アスティニが思案する。
「種族も性別も、何もかもがわからないからな。まさに正体不明。確かな資料に基づく事実から推測できるのは、おそらくゴーストではない――ということだけだ」
そう。
ジフォンは過去に、刃により深手を負ったという記録がある。
いや。
むしろ吾輩たちには、記録というより記憶と表現した方が適切かもしれない。
「三年前のことだけど、覚えているよね?」
「もちろん」
アスティ二が答える。
「見習い時代だ。血まみれのジフォンが目撃されたという情報は、半人前の私たちのところにも聞こえてきたからな」
二人とも、まだ鉛の騎士だった頃の話。
国境なき騎士団が所有する、特別な施設にて。
修行中の吾輩たちに、先輩だったか指導教官だったか、とにかく、慌てた様子で語ってくれたんだ。
彷徨える大罪人の一人、怪盗ジフォンを、ついに捕らえることができるかもしれない――と。
「本部から多くの騎士を派遣して捜索したらしいが、結局、やつには逃げられてしまったみたいだな。まぁ、あの一件があって、少なくともジフォンは、あなたと同じゴーストではない――ということが判明したわけだ」
つまり彼、あるいは彼女の種族は、物理攻撃を受け付けないゴースト以外だと考えられる。
この情報を踏まえて、大公は喜んだ。
ゴーストである吾輩は、ジフォン本人、あるいは、ジフォンが変装した者ではないからだ。
「君の言うように、みんなそこを出発点にして、怪盗ジフォンを理解しようとする。だって他に、手がかりとなるものがないんだからね」
「その口振り……ジフォンが剣を受けて血を流したことを、あなたは真実ではないと?」
「そうじゃない。むしろ吾輩は、その出来事があるから、少し考えてしまうんだよ。怪盗ジフォンという、一人の盗賊の正体……ううん、本質のようなものを」
「ジフォンの、本質?」
「君は銀の騎士として今も本部にいるから、今回の件についての印象が、吾輩とは違うのかもしれないね」
「私にもわかるように説明してほしい」
「当時、あの大盗賊の負傷は、とてもインパクトのあるものだった。鉛の騎士だった吾輩たちの記憶にも、強く残っているほどに」
「ああ。瀕死レベルだった、とも言われている」
「それ以後、ジフォンの活動は?」
「あれから二年、その犯行だと思われるものは確認されなかった。言うまでもなく、件の負傷が理由だろう。やつが再び姿を現したのは、今から、およそ一年前になるな」
「やっぱり、そうなんだね」
「どういうことだ?」
納得する吾輩に、アスティニはぴんと来ていない様子。
「吾輩は、銅の騎士の称号を得て、騎士団本部を離れた。そして旅人になって、だいたい一年。君と『顔』を合わせていない期間、吾輩は今日まで、ジフォンの名前を耳にしたことがないんだ」
「なるほど。あなたは、ジフォンが活動を再開した事実を知らなかったんだな」
そう。
だから吾輩は、閣下からジフォンの名前が出てきたことに、小さな驚きを感じた。
あの怪盗に関する情報は、見習い時代のままで止まっていたんだ。
アスティニが口にしたように、当時、あの大盗賊が負った傷は、とにかくひどいものだったらしい。
詳細な経緯までは判明しなかったみたいだけど、正直、もう生きていない可能性すらあると、個人的には思っていた。
たとえ一命を取り留めたとしても、怪盗としての活動は難しいと考えるのが自然。
再び、その名を聞くだなんて、想像もしていなかった。
「銀の騎士である君と違って、吾輩が見聞きできる事実は限られているからね」
国境なき騎士団本部には、あらゆる地域から、さまざまな情報が集まる。
単なる旅人では知り得ないものも、当然のように。
「私も、一年前にジフォンの復活を知ったときは、少し衝撃だった。あなたにしてみれば、怪盗ジフォンは、ある意味で過去の存在になっていたわけだ。しかし、そのことが、どうして気になるんだ?」
「ジフォンの正体」
「ああ、その話だったな」
「ゴーストではないということ以外、あの大盗賊について、吾輩たちは何も知らない。どこの誰だかわからないからこそ、その正体を、世界中が探ろうとする。もちろん、相手は彷徨える大罪人。捕まえるためにも必要なことだからね」
「種族、性別、年齢……考えればキリがないが、現状は想像の域を出ない。確かな事実が少なすぎるからな。何か、やつを特定できる糸口でも見つかれば、事態は一気に進むことだろう」
アスティニの意見は理解できる。
銀の騎士としては、ジフォンを牢獄に入れることが最優先。
それにつながる情報こそ、彼女が一番欲しているもののはずだ。
だけど――。
「おや? 納得していない『顔』だな、ワガハイ」
「吾輩は、顔なしのゴーストだよ」
「わかるさ……あ、あなたのことなら、何だって」
急に、アスティニが視線をそらす。
今まで淡々と語っていたのに、言葉もどこかぎこちない。
すると、吾輩とアスティニをさえぎるように、クーリアがスッと入ってきた。
「……何だ?」
「まじめな話みたいだったから、とりあえず見守っていたんですが」
「そ、そうだ。ワガハイとは、ジフォンに関する意見交換を――」
「アスティニさんが顔を赤らめたので、これはワガハイくんの身に危険が迫っていると思いまして」
「ど、どうして私が顔を赤らめたら、ワガハイの身に危険が迫るんだっ!?」
「どうぞ気にせず、お話を続けてください」
「話の腰を折ったのは、あなただろうが……」
アスティニが、不満そうにつぶやいた。




