029. 闇に融け込む冷たい気配(後編)
とっさに駆け入った、南ベンデノフ城の敷地内。
その裏庭。
素早く周囲を見渡す。
飛び込んできたのは、近くに設置されている納屋だ。
「ワガハイ」
「ワガハイさん」
アスティニとミロートさんが、緊張感を持った視線で呼びかけてきた。
庭を整備する道具などが収納されているだろう場所から、ドンドンという、中から壁を叩くような音が聞こえてくる。
まるで誰かが、周囲に助けを求めているかのごとく。
すぐに駆け寄るが、外からは開かない。
鍵がかけられている。
「僕がやります」
言うやいなや、剣を抜いたミロートさん。
素早く走った刃が、納屋の壁に、閉まらない扉を作り出した。
すぐにアスティニが飛び込み、吾輩とミロートさんが続く。
園芸用具が保管されている中、床に横たわる人影。
「大丈夫か?」
アスティニが、近づいて声をかける。
「あぐぁ……うぐぅ、んぐぁ」
倒れていた人物は、頭に、縫い目の粗い袋を被せられていた。
両手首と両足首の部分を、それぞれ縄で縛られている。
服装は、非常に簡易なシャツスタイルの町着。
男性だ。
苦しそうではあるが、とりあえず生きてはいる様子。
よかった。
倒れていた彼の頭から、アスティニが袋をはぎ取る。
ごていねいに、口には布まで巻き付けられていた。
「あ、ありがとう、ごさいます……た、助かりました」
解放された男性から、感謝の言葉が。
薄明かりで判別しづらかったが、声を聞いて理解する。
ミロートさんも、拘束されていた相手が誰なのか、ここでわかったみたいだ。
「エルマーさん?」
そう。
自由を奪われていた人物は、城の侍従官であるエルマーさんだった。
「どうしたんですか、いったい?」
今度はミロートさんが駆け寄り、手足の拘束を解く。
「知り合いか?」
アスティニが聞いてきた。
「吾輩たちに対応してくれた、城の侍従官だよ。これを預けてくれたのも彼なんだ」
トゥエンティン大公の金貨を示しながら、彼女に伝えた。
「なるほど、侍従官の一人か」
つぶやいて、アスティニが立ち上がる。
「ワガハイ、私は敷地内を見てくる。何か事が起きていれば、面倒な話になりかねない」
「うん、頼んだ」
納屋を後にしたアスティニ。
入れ替わるように、クーリアとキューイがやってきた。
「もう、どうしたの? みんなで急に」
「キュイ、キューイ?」
「それに今、アスティニさんが怖い顔して――って、え、ええ、エルマーさん!?」
「キュイ!?」
現在のエルマーさんは、ほこりと土で汚れた外見。
拘束は解かれたものの、あの整えられた黒のセットアップ姿からはほど遠い。
クーリアとキューイが驚くのも無理はなかった。
「ワガハイくん、どういうことなの?」
「いや、吾輩にもまだ」
相棒に対して、今は頭を振ることしかできない。
「けがはないですか?」
「問題ありません」
ミロートさんからの問いかけにも、エルマーさんの答えは明瞭。
心配はなさそうだ。
「状況が状況です。ゆっくりお休みいただきたいですが、確認しておかないわけにはいきません」
断りを入れつつ、吾輩はエルマーさんに尋ねる。
「覚えている限りで構いません。どうしてこうなったのか、教えてください」
「は、はい……」
戸惑いながらも、エルマーさんが口を開く。
「今朝のことです。いつものように、私は庭の見回りを」
侍従官として、敷地内の点検。
どうやら、それが彼のモーニングルーティーンらしい。
しかし、聞きたいのはそこじゃない。
吾輩たちを町へ送り出してからのことだ。
記憶が混濁しているのだろうか?
「それで、庭師の方とあいさつをして……あれ?」
目を閉じ、しばらく考えたような時間の後、
「申し訳ありません。そこからのことは、なぜか……まったく覚えていないんです」
エルマーさんは、不安そうな声で、そう言った。
ミロートさんが、吾輩に視線を向けてくる。
それだけで、言わんとすることが伝わってきた。
「ど、どうしたんですか、エルマーさん? 今朝の出来事から、ここまで全部忘れちゃってるなんて……」
クーリアが、心配そうに続ける。
「だって、ほんの数時間前に、私たちと――」
「あの」
エルマーさんが、彼女の言葉をさえぎる。
「皆さんは、国境なき騎士団の方ですか?」
「えっ……」
クーリアは、エルマーさんの質問に絶句した。
「大公閣下から、お話はうかがっています。もう、お会いになったのでしょうか?」
首筋の辺りに、冷たい気配を感じた。
「でもどうして、皆さんは私の名前を?」
まるで『初めて顔を合わせた城への来客』に対するような目で、エルマーさんはこちらを見ていた。
すべてを悟ったであろうミロートさんが、重く口にする。
「……これは、かなりまずいですよ、ワガハイさん」
「ええ、そうみたいですね」
彷徨える大罪人、怪盗ジフォン。
この町の夜が生み出す、生活の呼吸を含んだ静かな闇。
そのすべてに、件の大盗賊が融け込んでいるのかもしれないと、そんな気にさせられる。
今、この瞬間、吾輩の背後にさえ――。
 




