006. 南ベンデノフ風のサンドイッチ(後編)
「……血を、見たくないんです」
視線を外して、ミロートさんが口にする。
「僕も、それなりに流れて今日を迎えました。生きるため、旅を続けるために、斬り捨てた命も少なくはありません」
彼の力量は、自分の身を守れる旅人――というレベルを大きく超えていた。
あの虹色の怪物への一線は、他者を斬ることに迷いのない剣だった。
もちろん相手は獣。
いわゆる殺人とは別の話だ。
旅をする以上、命の取り合いを避けることはできない。
町を一歩出れば、そこは弱肉強食の世界だ。
獣はもちろん、野盗だっている。
遭遇したトラブルすべてに情けをかけていれば、世界は旅人の死体だらけになってしまう。
だから吾輩のような考えは、少し極端なんだろう。
自覚はしている。
それでも吾輩は、与えられた教えを素晴らしいと思った。
偏屈な『あのひと』は、その教えを、自ら示してみせるにあまりある強さを持っていた。
尊敬し、あこがれた。
ぜったい言葉にはしないけれど、素直にそう思えたんだ。
吾輩の剣は、そういう剣だ。
相手の命を絶たず、その戦意を砕く剣術。
対してミロートさんの剣からは、圧倒的な『経験』を感じた。
単純な戦闘実績を超える、命を奪うということについての場数を。
それに基づく迷わずの太刀。
わずかな躊躇もなく、一瞬で相手を仕留めるための動き。
戦いというのは、相手と作り上げていくものだ。
会話と同じで、一人では成り立たない。
だから敵の出方を見て、合わせて、流し、先を読み、自らの一手をぶつける。
それぞれの技を積み上げながら、決着の瞬間へと、互いに進んでいく過程に他ならない。
しかしミロートさんの戦術は、おそらく、その基本から外れている。
もちろん、あの一太刀だけで断言できるほど、吾輩の洞察力は高くない。
あくまで想像。
だけど彼は、きっと『会話』をしない。
その間を省き、相手の絶命という結末まで、瞬間的に駆け上がる――そんな印象を受けた。
ミロートさんが、はなかげに笑う。
「相手が誰であれ、命を奪うというのは、決して気持ちのいいものじゃない……苦手なんですよ、血に染まって、物言わなくなった屍が」
先ほど、町の人に気がかりなことを言われたから――ではないだろう。
「今では、自分を襲ってくる獣を斬るのさえ、心が揺れてしまうことがあるんです――あっ、でも、誰かを守るためなら平気なんですよ。だから、ワガハイさんたちを助けた剣は、まったく胸がざわつかなくて……おせっかいだったかもしれないけど、少し気分がよかったんです。久しぶりでした、あの感覚は」
ミロートさんは、いつからか抱くようになっていたんだ。
それなりの命を斬り捨ててきた自分に対する、無視できない違和感を。
「僕、北国の出身なんですけど、だからかな? 氷の魔法と相性がいいみたいで」
今度は、少しおどけたように笑った。
「剣に氷の魔力を込めると、斬った断面が凍るんですよ。冷たく固まるから、血は流れない。だから僕、ああやって剣を振るうんです」
赤く染まることなく息絶えた虹色の怪物。
その凍結した成れの果ては、吾輩の記憶にも新しい。
「バカみたいですよね……だけど、少しだけ心を軽くできるんです」
優しい方なんだなと思った。
その一線の鋭さに反して、武人でいるには優しすぎる。
「剣を置くことは考えないんですか?」
「これしか生き方を知りません」
そのまま、質問を返される。
「ワガハイさんは、剣を手放した自分を想像できますか?」
吾輩にとってそれは、旅をやめることを意味する。
旅人でない自分を、吾輩はイメージできない。
「……確かに、そうですね」
「だとすれば、わかってもらえると思います」
決意と、あきらめ。
ミロートさんの表情には、そんな色が浮かんでいた。
「この生き方で進むしかないんですよ――僕も、きっとワガハイさんも」
町の音が、心地よく流れている。
日常を過ごす人々、その生活のリズムだ。
「何だか、いろいろと話してしまいました。ワガハイさんとは、今日出会ったばかり。数時間前まで、見ず知らずの間柄だったというのに」
「出会ったばかりで、見ず知らずの相手だからこそ、話せることもありますよ」
「このパンを食べ終えたら、あなたとはお別れです。おそらく、もう二度と会うことはないでしょう」
「ええ、そうかもしれません」
旅の途中、世界のどこかで、わずかな時間を共に過ごし、再び顔を合わせることのない誰か――そういう相手だからこそ、心の内を吐き出せることがあるかもしれない。
ミロートさんが、残っていたサンドイッチを口に運ぶ。
吾輩も、彼に従うように完食した。
クーリアとキューイは、少し遠くの、工芸品の小物を扱っている露店をながめていた。
吾輩たちのことは、特に気にしていない様子だ。
「では、これで。パーティーのおふたりには、どうかよろしくお伝えください。特にクーリアさんには『ごちそうさまでした』と」
「うけたまわりました」
今度こそ、本当にお別れだ。
「お元気で、ワガハイさん」
「ミロートさんも」
軽く頭を下げた彼が、吾輩の前から立ち去ろうとした瞬間、
「あっ!! 見つけましたよ、ゴーストの旅人さん」
身なりの整った青年が、こちらに駆け寄ってきた。
「失礼いたします。突然の不躾な対応、どうかお許しください」
「……ええ、何か?」
やや興奮しているようだが、言葉遣いは、非常にていねいだった。
「単刀直入にうかがいますが」
「はい」
「あなたは、国境なき騎士団の方――ですよね?」
「そうですね、一応」
礼服と表現していいのだろうか?
光沢のある黒い衣装と、滑らかな生地感の白い手袋。
品のある顔立ちの男性は、その姿勢も洗練されている。
雑多な町の中では、少し浮くような印象すら受けた。
どうやら吾輩を探していたみたいだけど、いったいなぜ?
「それであなたは、ゴーストさんのパーティーの方――ですよね?」
男性は、ミロートさんにも詰め寄っていく。
「えっ……い、いや、僕は――」
「あと、女性の方と白いドラゴンがいるという……あっ! あちらの方たちですね――あの、そこのおふたり、少々お話が」
ミロートさんの話を聞かず、男性はクーリアたちのもとへ。
「ゴーストさんとお仲間さんは、どうか、そこを動かないように願いします」
「…………」
「…………」
振り返り、釘を刺してきた男性。
吾輩たちは、ただ無言で固まった。
「……あの、ワガハイさん」
「はい」
「どう、しましょうかね、これ?」
「…………」
ミロートさんに尋ねられた吾輩だけど、当然、どうすることもできなかった。




