073. 赤ワインではなく、山ぶどうのジュースを
入店してから、一時間くらい過ぎただろうか。
適度に酔いが回っている男性たちの声が、今夜の宴の雰囲気を盛り上げている。
下戸な吾輩も、こういう席は嫌いじゃない。
「キューイ、このお肉、すごくおいしいよ――はい、あーん」
「キュイ(ぱくっ、もぐもぐ)」
濃いめのソースがからんだステーキ一切れを、キューイの口に運んだクーリア。
吾輩の仲間のふたりは、笑顔で料理を味わっていた。
「うむ。確かに『ぱふぱふあんあんぽわわんげへへ』は、すごくおいしくて楽しいのだ――なぁ、マルチェ?」
「はいユッカさま、おいしくて楽しいです」
妙な理解に落ち着いてしまったユッカちゃんだけど、マルチェさんと共に、とても満足そうにしている。
何よりだ。
吾輩もまた、葉野菜の炒め物や、バターが染み込んだポテトをいただく。
塩気の強いこの店のメニューは、ずいぶんとお酒――ではなく、お茶が進んだ。
「麦酒、もう一杯追加だ」
木彫りの大きなコップを空にして、ターボフさんが言う。
さて、いったい彼は、どれだけ呑むんだろう。
パジーロの他の武人や、同郷のトロールの方々を含めても、おそらく一番ペースが速い。
たらふく呑む――との宣言は、誇張などではないようだ。
しかし、いくら呑んでも酔いつぶれないのが、ターボフさんのすごいところ。
吾輩なら『目』を回して倒れてしまうような酒量を口にしても、周囲への気配りを、今夜の彼はおこたらない。
「おや殿下、飲みものが切れているじゃないですか。何か注文しますか? 先ほどは柑橘系のジュースでしたから、今度は山ぶどうなどいかがでしょう?」
お酒を楽しむ一方で、しっかりとハッシュ王子に対応しているターボフさん。
けれど、この宴の主催者である当の本人は、どこか上の空で。
「あ、うん……そう、だな」
ベテック陛下が不参加で沈んでいる――という感じではなさそうだ。
何かこう、すっきりしていないというか、引っかかっているというか、そういう心地悪さが、殿下の表情から伝わってくる。
ここまでに、何か特別な出来事は起きていないが、いったいどういうことなんだろう?
それとなく不思議に思っていると、
「あ、あの……ワガハイさん」
意を決したように、ハッシュ王子が呼びかけてきた。
「はい、何でしょう?」
「あなたには――いえ、あなたのパーティーのお仲間や、ウィヌモーラ大教のお二人には、心から感謝しています。今回、この町が被害を受けつつも、こうやって皆とテーブルを囲めているのは、あなた方あってのことだと理解しています」
そこで王子が、すくっと席から立ち上がる。
「まだまだ未熟な僕ですが、パジーロの王族の一人として、あらためてお礼を言わせてください――本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げたハッシュ殿下。
突然のことに、
「あ、そ、そんな……」
「キュイ?」
「うむ?」
「…………」
クーリア、キューイ、ユッカちゃん、マルチェさんは、それぞれに戸惑いを見せていた。
がやがやとしていた周囲の方々も、王子の様子に気づいたんだろう。
波が引いたように静かになり、誰も彼もが吾輩たちのテーブルに注目していた。
「……顔を上げてください、ハッシュ殿下」
パジーロの武人や役人のいる中で、高貴な彼をそのままにはしておけない。
吾輩は、体勢を戻すように願い出た。
「…………」
しかし王子は、その求めに応じてはくれない。
「吾輩は、自らの意思であの戦いに参加しました。クーリアとキューイ、ユッカちゃんとマルチェさんも、また同じでしょう。偉そうなことを言わせてもらえるのならば、吾輩たちは、ただ吾輩たちにできることをしたまで。ですからどうか、頭を上げてく――」
「だからこそです、ワガハイさん。自らの意思で、この国のために剣を取ってくれたからこそ、僕は、あなた方に頭を下げなければならない」
吾輩を制するように、ハッシュ王子が続ける。
「この国の恩人となったあなた方を、僕は当初、情けなくもうとましく思っていました。未熟な僕は、誠実な皆さんを、素直に受け入れることができなかった……騎士や聖職者としての矜持を胸に、城の門を叩いてくれたというのに」
そこで吾輩はやっと、殿下の心の内を理解することができた。
先ほどの、どこか悩んでいるような表情の理由も、また。
「騎士として至らない自分に、僕は気づいていました。でも、心の中で大きくなる焦りを、いったいどうしたらいいのかもわからず……だから手練れの国境なき騎士団員や、強大な魔力を宿すウィヌモーラ大教の巫女に、言いようのない劣等感を抱いてしまったのです。きっと僕は、あなた方に不快な思いをさせてしまったことでしょう」
パジーロ城下町に入った当初、ハッシュ王子は吾輩たちに冷たい態度を示していた。
しかもどうやら、しがない旅人ゴーストに対してだけではなく、大地の女神の巫女であるユッカちゃんにさえも。
以前ターボフさんとここで夕食をいただいた時、彼からそれとなく、ハッシュ王子の性格や生い立ちを教えてもらっていた。
そのため、この高貴なる少年が真っ直ぐな人間であることは、吾輩も把握していたつもりだし、現に間違ってはいなかった。
そうでなければ、王族である彼が、この場で吾輩に頭など下げられない。
先刻、過度な飲酒を控えるようターボフさんに意見していたのも、そのまじめさを示すものといえる。
家臣からの人望はあるが、剣の才能には欠けるというハッシュ王子。
ベテック陛下が、若き日は優秀な騎士であったことから、過剰なコンプレックスを抱く日もあったはず。
けれど、あの夜を乗り越えた経験が、この高貴なる少年の心境に変化を与えたようだ。
どこか肩肘を張っていたハッシュ王子は、もういない。
自分は、自分なりの騎士道と王族としての生き方を探していけばいい――そのように、ありのままの自己を受け入れられたんだ。
だから過去の言動を恥じ、こうして謝罪してくれたに違いない。
「僕は、王族として強く成長することを、ここに誓います。遅い歩みになるとは思いますが、いつか父のような立派な国王になることを、国の英雄である皆さんの前でお約束します」
堂々とした決意の後、
「けれどこの言葉は、王族としての僕ではなく、一人の人間としての言葉です――本当に、申し訳ありませんでした」
頭を下げ続けている王子を、ターボフさんは無言のまま見守っている。
いきなりのことだったから、彼もまた、吾輩たち同様に驚いたのかもしれない。
だがその表情は、どこか微笑んでいるように見えた。
言うなれば、未来の国王を――将来の偉大なるパジーロの君主を、誇らしく思っているような。
それは、ターボフさんだけではない。
周囲のテーブルで酒を酌み交わしている武人や役人たちもまた、同じ表情をしていた。
我らが次期国王は、自らを省み、立場など関係なく、その過ちを認められる素晴らしい人間だ――と言わんばかりに。
うん。
いい国だな、パジーロ王国は。
あらためて確信した吾輩は、未来の国王に向け、恥ずかしくも偉そうに返してみる。
「吾輩たちは、まったく気にしていません。しかしそう答えても、優しいあなたの気持ちは、きっと晴れないのでしょう。ですから、こう答えさせていただきます――すべて許しますよ、ハッシュ王子」
すると、
「うん、私も許します」
「キュイ、キューイ」
クーリアとキューイ、
「大人なワタシは、きれいさっぱり水に流すことができるのだ――なぁ、マルチェ?」
「はい、ユッカさま」
ユッカちゃんとマルチェさんが続いてくれた。
吾輩たちの反応に、やっとハッシュ王子も納得できたんだろう。
「……ありがとう、ございます」
はにかみながら、その顔を上げてくれた。
おそらく殿下は、あの夜から今日まで、このことをずっと気にしていたんだ。
肩の荷は下りただろうか?
そうであってくれたらいいな。
そこで、静かに見守っていたターボフさんが、明るく声を上げる。
「おーい、我らが殿下に、山ぶどうのジュースを頼む。間違えるな、赤ワインじゃないぞ」
「「「「「「「「「「あははははっ」」」」」」」」」」
冗談混じりで注文するターボフさんを、他のテーブルの騎士や憲兵たちが笑う。
すると一瞬にして、また店内が、騒がしくも楽しい雰囲気に。
うん。
まったく、本当にいい国だね、パジーロ王国は。




