006. 野犬の襲撃
昼と夜で、森というのは大きく姿を変える。
このイダの森も、やはり例外ではないらしい。
明るいうちは感じなかった野生の気配が、どことなく周囲を漂っている。
「ごめんね、二人とも。こんなことに付き合わせちゃって……」
恐縮しながら、道案内役のヒズリさんが言う。
吾輩たちが向かっているのは、彼女が魔効巻作りに使う魔法水が湧き出ているという場所。
空の瓶がいくつか入っている革袋を担いでいる吾輩は、ふと空を見上げる。
すると、闇夜でもはっきりと、確かに月が輝いていた。
きっと、上質な魔力を帯びた魔法水が手に入ることだろう。
「今晩お世話になるんですから、どうか気にしないでください。旅する私たちにとって、森の野犬なんて、どうってことないんですから」
洋灯片手に前を行くヒズリさんへ、クーリアが頼もしく答えていた。
何だかんだ言って、クーリアも、誰かが困っているのなら、手を差し伸べたくなるタイプなんだ。
そうじゃなければ、オーヌの町で、あんなことになったりしていない。
吾輩たちも、出会うことなんてなかっただろうな。
「ありがとね、クーリアちゃん……だけど、こんな状況が続くなら、私、ちょっと困っちゃうな」
ヒズリさんは、ため息混じりだ。
「これからも、魔法水は必要になる。けれど、採水のたびに野犬に襲われるリスクがあると思うと、すごく気分が重くなるわ……はぁ」
最近になって、この地域に野犬が出現するようになったと、ヒズリさんは言っていた。
人気の少ない森に、野獣やモンスターのたぐいが住んでいるのは当然のことだ。
特に野犬ともなれば、どこに現れても不思議じゃない。
けれどヒズリさんは、このイダの森は比較的安全な地域なんだと吾輩たちに教えてくれた。
本来なら、もっと北の山脈近くを住処にしていたはずの野犬の姿が目立つようになったのは、どうも突然のことらしい。
彼らが縄張りを変えたことには、何か原因があるのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていくと、周囲を漂うだけだった野生の気配が明確に濃くなり、荒々しく吾輩を射抜いてきた。
……これは、来るな。
素早く吾輩は、列の後方から前へ。
女性二人を背に、先頭へ足を進めた。
「どうしたの、ワガハイくん? いきなり、そんな――あっ」
尋ねてきたクーリアも、すぐに状況を理解したみたいだ。
「グルルッ」
「ウゥゥゥゥゥッ……」
うなりながら現れたのは、威圧的な野犬二匹。
さすがに吾輩を食べようだなんて思ってはいないだろうけど、もしかしたらクーリアやヒズリさんのことは、彼らにはおいしく見えているのかもしれない。
「あ、で、出た、や、野犬っ!?」
洋灯の炎が揺れる。
動揺したヒズリさんの手が震えているからだ。
「クーリア、ヒズリさんを頼んだよ」
「わかった、任せて」
旅の相棒に伝えた吾輩は、腰に装備している剣の柄に手をかけた。
「グワルッ」
直後、一方の野犬が、吾輩に向かって飛びかかってくる。
もちろんかわせるけれど、あくまで今はヒズリさんの護衛。
下手に動いて、彼女を危ない目に遭わせるわけにはいかない。
抜刀せず、鞘に入ったままの剣を薙いだ吾輩は、流れのままに野犬の腹部へ打ち込んだ。
「キャ、キャウ!?」
痛みに驚いたような鳴き声――そのまま野犬は、闇の中へ姿を消す。
するとすぐに、もう一方の野犬が、吾輩に牙をむく。
「グルァッ」
今度は、鼻先を払うように剣を走らせた吾輩。
カウンター気味の攻撃だ。
軽くかすめただけでも、
「ウキャウ!?」
彼らをひるませることはできる。
さて、これで終わってくれれば楽なものなんだけど、どうやら興奮している野犬たちは、吾輩を見逃す気がないらしい。
四方八方から、野生の殺気が強くなっていく。
「グルルルル……」
「ウゥゥゥッ」
「オゥ、オゥオゥ」
どうやら、最初に剣を叩き込んだ野犬が、近くにいた群れの仲間を呼んだらしい。
手加減しすぎたかな、少し。
周囲には、怪しく光る獣の目。
一匹ずつ相手にするのは面倒だな。
だったら――。
ちらりと、背後の二人を確認。
おびえているヒズリさんを、クーリアが支えている。
どうせなら、吾輩たちが怖い存在だと、この野犬たちに教え込んでやろう。
そうすればきっと、もう今夜は、彼らに襲われることもないはず。
「〈火の飛礫〉」
呪文を唱えた吾輩は、好戦的な野犬たち――ではなく、木々から抜ける闇夜へ向かって、手から火球を放った。
魔力量は、気持ち上乗せ。
威圧のためには、これくらいがいい。
野生動物は、基本的に炎を嫌う。
彼らにしてみれば、いきなり、ちょっとした太陽が空へ昇るがごとく飛び出した――ように見えただろう。
本能的に魔力も感じているだろうから、これで、おとなしく散ってくれるはずだ。
「グルゥ……」
「ウゥゥァ……」
「オゥ、ウルゥ……」
荒々しかった野犬たちの気配が、今度は警戒心に変わる。
吾輩を注視しながら、徐々に後ずさっていくと、距離ができたところで、彼らは一斉に森の中へと消えていった。
「は、はぁ……」
緊張が解けたのか、ヒズリさんが息を吐いた。
無理もない。
慣れていないと、どうしても恐怖で体が固まるだろうから。
リラックスさせようと、吾輩は彼女に声をかける。
「もう大丈夫ですよ、ヒズリさん」
「う、うん……ありがとね、ワガハイさん」
わずかに笑って、ヒズリさんが返してくれた。
「それと、クーリアちゃんも」
「いえいえ、どういたしまして」
体を支えながらのクーリアが、ヒズリさんに答えていた。
「それにしても、さすがだね、ワガハイくん。さっきの『火の飛礫』は基本魔法の一つだけど、あんなに魔力を込められるなんてさ。まるで、もう別の魔法みたいだったよ」
「それはどうも――何だか、クーリアに普通にほめられると、どう返したらいいのかわからなくなるね」
「素直に照れてくれればいいんだよ、ワガハイくん」
「はいはい」
クーリアへ、肩をすくめる吾輩。
さて、無事に警護役は果たせているけど……何だか妙な違和感が。
野犬の敵意や殺気は完全に薄くなったが、代わりに――というか、何か別の気配が次第に濃くなっていくような雰囲気。
元々、それはあったものかもしれないけれど、野犬が吾輩を恐れて逃げたことによって、その別の気配が相対的に強くなったのかもしれない。
「歩けますか、ヒズリさん?」
「うん、平気だよ、クーリアちゃん――さぁ、先へ進みましょう。私の採水場所は、もう近づいてきているからね」
再びヒズリさんが、洋灯片手に先頭へ立つ。
すぐにクーリアが、その後へ続いた。
それとなく周囲を見渡した吾輩は、
「ほら、行くよ、ワガハイくん」
「ああ、うん」
急かすクーリアにうながされながら、夜の森の、さらに奥へ向かう。




