018. 彼女を目覚めさせたもの(4)
「マル……チェ?」
直後、大地を覆うような黒いうごめきに――悪しき精霊の体に、白と緑の輝く光の線が走る。
突然の変化とほぼ同時に、吾輩は着地。
波打つような胴や尾は、その不気味な動きを止め、
『ナ、何ダ、コレハ!? ジ、自由ガキカナイ』
黒ムカデは、わずかに震えながらつぶやくだけだった。
もちろん、吾輩を捕らえようとからみついてくることもない。
残っていた岩肌の腕や分身の小型黒ムカデも、固まったように動かない。
これは、いったい?
「はい、ユッカさま。私です、マルチェです」
「マル、チェ……」
目はうつろ、表情も戻ってはいない。
けれど確かに、ユッカちゃんは反応を示している。
「ユッカさま――悪しき精霊などに、負けてはいけません。あなたは大地の女神の巫女、特別な存在なのです」
「マル、チェ」
「何より、私にとって大切な、かけがえのない『家族』……生きてください、ユッカさま。皆を幸せにするために。何より、あなた自身が、幸せになる、ために、どうか――」
そこでマルチェさんの腕がゆるみ、ユッカちゃんの体に寄りかかる。
すると、
「……こ、ここは?」
驚いたように、ユッカちゃんが周囲を見渡す。
「ワタシは確か、ソノーガ山脈の聖地を目指していたはずなのだが……あれ?」
その声、その動き――そのすべてが、吾輩の知っている彼女だった。
マルチェさんだ。
マルチェさんの想いが――愛が、ユッカちゃんを目覚めさせたんだ。
「……ん、マルチェ? おい、マルチェ、どうしたのだ? お主、ケガをして――マルチェ、しっかりするのだ、マルチェ!!」
ぐったりとしたマルチェさんに気づいたユッカちゃんが、必死で呼びかける。
「マルチェ、マルチェ!!」
「…………」
体はまだ捕らわれているため、手を伸ばそうにも、ユッカちゃんは伸ばせない。
『クッ、クソッ――ルキャ、ルキャァァァァァァァァッ』
邪悪な魔力を強めた黒ムカデは、強引に体を揺らし、頭部付近の光の筋を切断。
正気を取り戻したユッカちゃん目掛けて、高速で襲いかかる。
『マダ、大地ノ女神ノ巫女ハ、私ノ一部。コノ魔力、手放シテナルモノカ。逃ガサナイ、逃ガサナイ――オ前ハ永久ニ、私ノモノダッ』
そんなこと、許さない。
剣を片手に吾輩は、やつの攻撃を受け止めようと、ユッカちゃんへと駆け出した。
けれど、
「……そうか、お主だな」
黒ムカデは再び、その動きを止める。
『グッ、ナ、何ナンダ、コノ力ハ!?』
「お主が、マルチェにこんなことをしたのだなっ」
ユッカちゃんが鋭い視線で、迫る黒ムカデを見上げた。
『ガッ、グァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
悪しき怪物、悶絶。
切断された白と緑の光の筋が復活し、さらに太く鮮やかに輝きながら、その勢いを増す。
『コ、コノッ、オ前ハモウ、私ノ――グァァァァァァァァァァァッ!?』
「理解したぞ、悪しき精霊――未熟なワタシは、お主の策略に、まんまとはまってしまったのだ……だから、マルチェがこんなことに」
『オ、オ前ハ、私ノモノニ――グァァァァァァァァァァァァァァッ!?』
黒ムカデに向けたのとは対象的な優しい瞳で、ユッカちゃんは語る。
「すまないのだ、マルチェ。ワタシのせい、ワタシのせいなのだ。ワタシが弱い巫女だから、だからお主を傷つけてしまった……大好きなお主を、守ることができなかったのだ」
『ク、クソッ。コ、殺シテヤル。モウ、殺シテヤル。ソノハーフミノタウロスノ死ニ損ナイト二人、コノ場デ殺シ――グァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?』
「待っているのだ、マルチェ――すぐ、すぐに私が助けてやるのだ」
決意の言葉と共に、ユッカちゃんはまた、悶える怪物に凛とした視線を放つ。
「ワタシは大地の女神の巫女、ユッカ。お主のような存在に、ぜったい負けるわけにはいかないのだ――出ていくのだ、悪しき精霊っ!!」
ユッカちゃんの周囲で、白と緑の光が爆ぜる。
『ルキャウワァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
清らかな魔力が、ユッカちゃんを完全に解放した。
不気味なうごめきは、粘着質な液体として飛散し、蒸発するように消えていく――岩肌の腕も、分身の小型黒ムカデも、また同じように。
山路を覆うようだった怪物は、その体の三分の一ほどを失っていた。
ユッカちゃんから、黒ムカデが離れる。
叩くなら、今。
「ターボフさん」
「おう、わかってる」
回復できていないダメージに顔をしかめながらも、彼は吾輩に応じ、残っていた魔効巻を展開。
たなびく魔効巻自体が白い縄のようになって、黒ムカデの全身を縛り上げた。
『グッ、ク、クソッ、コンナモノニ』
大地の女神の巫女の魔力を失ったこの怪物に、もはやモルコゴさんの魔効巻は破れない。
「〈魔力充填・霊〉――さぁ、覚悟はいいですか?」
『イ、忌々シイ、ゴ、ゴーストメッ』
霊気を宿す刃を引いた吾輩は、悪態を吐く卑劣な相手を前に、渾身の力で振り抜く。
「〈霊剣の斬撃〉」
『グァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
青白い斬撃が黒い体を裂き、悪しき怪物は、漂っていた邪気と共に消えた。
吾輩を見下ろすようだった帯状の影は吹き飛び、そこに残ったのは、一匹の小さな――あの分身よりも小さな黒いムカデだった。
これが、あの怪物の正体。
こんな姿になってしまえば、もはや悪さなどできないだろう。
吾輩から逃げるように去っていったそれは、もう岩肌の大地で確認することすらできなかった。
「マルチェ!! しっかりするのだ、マルチェ!!」
そこに響く悲痛な声。
振り返ると、小さな体で必死にマルチェさんを抱きしめるユッカちゃんの姿があった。
「ダメなのだ。死んだら、死んだらダメなのだっ!!」
「…………」
剣を収めた吾輩は、二人へと駆け寄る。
マルチェさんはかすかに息をしているが、目を覚ます様子はない。
そもそも、命に関わる絶対安静の状態だった。
それをターボフさんが、回復系の魔効巻を使って、最低限の処置をしたんだ。
意識なんて、すでにもうろうとしていただろう。
立ち上がる――どころか、上半身を持ち上げることすら困難だったに違いない。
けれど、マルチェさんはここまで来た。
ユッカちゃんを救い出すために。
愛しい『家族』を、その腕で抱きしめるために――最後の力を振り絞って。
「わ、ワガハイ……」
ユッカちゃんの両手は、真っ赤に染まっていた――マルチェさんから流れ続ける、大量の血液によって。
「ま、マルチェが死んでしまうのだ……ワタシは、ワタシはどうすればいい? 教えてほしいのだ、ワガハイ」
涙を浮かべ、懇願するような彼女に、吾輩は何を伝えてあげればいいのだろう。
「未熟なワタシには、こんな状態のマルチェを助けてあげられるような回復魔法は使えないのだ。これから、もっともっと魔法を学ぶぞ。誰の、どんなケガでも治せるような聖職者になってみせるのだ。だから今だけ……今回だけ、マルチェを助けてくれ、ワガハイっ!!」
胸が張り裂けそうだ。
吾輩もまた、その命を終えようとしている誇り高き戦士に、何もしてあげられないのだから。
「……ユッカちゃん、ワガハイには――」
「あまり、こいつを困らせないであげてください、巫女」
吾輩をフォローするように、ターボフさんが現れる。
いくつか擦り傷や打ち身をしている箇所もあるが、大事には至っていないようだ。
「俺もワガハイも、戦うことしかできない武人。守りたい誰かのために剣を取ることはできますが、傷ついた者を癒してやることはできません――それを行うのは、あなたのような聖職者なんです」
「わ、ワタシにできないから、だからワタシは……」
ターボフさんの厳しい言葉に、ユッカちゃんは顔を伏せてしまう。
涙がぽろぽろと、腕の中のマルチェさんに落ちていた。
「ここで立ち止まってはいけませんよ、巫女。もしもあなたが折れてしまえば、いったい従者の嬢ちゃんは、何のために命を燃やしたのかわからなくなる……あなたは、彼女のためにも進まなければならない――大地の女神の巫女として、強く強く」
吾輩の代わりに、ある種の汚れ役を引き受けてくれたターボフさん。
突き放すような態度も、すべてはユッカちゃんのため。
信者として、オトジャの村の戦士として、人生の先輩として――ターボフさんは、逃げることなく想いを伝えていた。
そんな彼の気持ちが届いたのだろう。
「……わかったのだ」
もう一度、ぎゅっとマルチェさんを抱きしめたユッカちゃんが、涙でにじんだ顔を持ち上げる。
「けれどワタシは、最後まであきらめない。最後の最後まで、マルチェの命をあきらめたりしないのだっ」
「……ユッカちゃん」
こちらが仰け反るほどの気迫。
彼女の瞳は、決して負けを認めてなんかいない。
「あと少し、もう少しだけ頑張ってほしいのだ、マルチェ」
ゆっくりと腕を離したユッカちゃんが、目元を拭って宣言する。
「いくのだ――このソノーガ山脈の聖地へ、四人で」




