009. 牙をむく山路(3)
「わ、ワガハイ……マルチェが、マルチェが」
「落ちついて、ユッカちゃん」
混乱している彼女を諭す。
どうやら、ケガはしていないようだ。
「何があったのか教えてほしい。大丈夫、大丈夫だから」
「……う、うむ」
不安の表情ながら、うなずいてくれたユッカちゃん。
ターボフさんは剣の柄に手を添えて、周囲を見渡しながら警戒していた。
「こ、ここから飛び出したワガハイたちを確認しながらも、マルチェはワタシを守っていてくれたのだ。そうしたら突然、地を這うような黒くて長い帯状の魔力が、ワタシに向かってきて……」
黒くて長い帯状の魔力?
悪しき精霊の仕業だろうか。
「それで、盾になってくれたマルチェにからみついたとたん、沼に引きずり込むみたいに……あいつを、この地面に飲み込んでしまったのだ」
ユッカちゃんが指し示したのは、硬い岩肌。
試しに剣を抜いてつついてみたものの、特に変わった点はない。
「今の話から、原因を推測できますか?」
刃を戻した吾輩は、警戒を続けているターボフさんに尋ねた。
わずかだが、確かに不快な魔力の残滓が感じられる。
悪しき精霊が関与しているのは間違いなさそうだ。
オトジャのトロールである彼なら、何かわかるかもしれない。
「残念だが、相手は有象無象の悪しき精霊たちだ。ウィヌモーラ大教の聖地を管理してきた一族の俺でも、さすがに無理な話だぜ」
「……そうですか」
特別な事情があるとはいえ、マルチェさんは、大地の女神の巫女であるユッカちゃんの従者に選ばれたハーフミノタウロスの戦士だ。
簡単にやられるとは思えない。
しかし、この広大なソノーガ山脈の中で消えてしまったとなると……厄介だな、これは。
「ワタシのせいなのだ。ワタシがのんきに休憩などしていたから、だからマルチェは……」
「そうじゃないよ、ユッカちゃん。自分を責める必要なんてない。気をしっかり持つんだ」
「……マルチェ」
罪悪感と喪失感――ユッカちゃんは、その動揺を隠せていない。
この道中で、間違いなく今が一番、彼女は精神的に乱れている。
ニサの町で迷子になっていた時とは、当然ながらまったく違っていた。
まずいな、何とかしないと。
「ワガハイ」
近づいてきたターボフさんが、小声でささやく。
「従者の嬢ちゃんをさらったっていう黒い魔力は、親父の作った魔効巻の結界を破って入ってきたわけだ。相手が悪しき精霊だとしたら、ここまでに呪詛でちょっかいをかけてきた小物とは、ちょっとレベルが違うぜ」
「……ええ、そうなりますね」
清き大地の精霊がいるというウィヌモーラ大教の聖地は、もう近い。
だから、邪な悪しき精霊も仕掛けてきたんだろう。
あと少し進むことができれば、おそらく、聖地の力が流れる領域。
悪しき存在は、その鳴りを潜めるしかなくなる。
ユッカちゃんに手を出すなら、このタイミングしかなかったということだ。
「マルチェ……どこなのだ、マルチェ」
ユッカちゃんの不安そうな態度を、ターボフさんも見過ごせない様子。
「とりあえず、俺が従者の嬢ちゃんを探してみる。ワガハイ――お前は巫女から離れず、とにかく彼女を守ってくれ」
この状況では、そうするしかないだろう。
吾輩はうなずいた。
「よし。じゃあ俺は、さっそく向こうを――」
「ユッカさま」
ターボフさんが動き出そうとした時、聞き覚えのある声が届く。
「ユッカさま」
「ま、マルチェ!?」
岩陰から飛び出したユッカちゃん。
吾輩は、慌てて彼女を追う。
そこにいたのは、やはりマルチェさん。
何事もなかったかのように、笑顔で手を振っていた。
ユッカちゃんの話では、飲まれるようにして岩肌の中へと消えたはず。
理屈はわからないが、彼女は自力で、悪しき魔力から抜け出た――ということなのか?
しかしマルチェさんが、笑いながら手を振るなんてことが……いや、おかしい。
基本的に無表情であるはずの彼女が、この状況で顔を緩ませるなんてこと――まさか。
「大丈夫か、マルチェ? 心配したのだぞ」
その時にはもう、彼女は駆け出していた。
この不慣れな魔境で、目の前から突然に大切な『家族』が消えてしまった――その動揺が、ユッカちゃんの判断力を弱めてしまったんだ。
「ダメだ、ユッカちゃん!! それは、マルチェさんじゃな――」
次の瞬間、マルチェさん――の姿をした『それ』は、大きく口をゆがませた。
そして同時に伸びる、地を這うような細くて不気味なうごめきが、ユッカちゃんの全身にからみつく。
「うわっ!?」
自分の体に走った黒い縄のような魔力に、彼女は戸惑いの声を上げた。
「ユッカちゃん!!」
マルチェさんの姿をした『何か』と、不気味な黒いうごめきはつながっている。
剣で斬り裂けば、ユッカちゃんを守れるはずだ。
抜刀した吾輩は、マルチェさんの姿をした『何か』に向かっていく。
「はっ」
正体不明の相手ではあるが、これがマルチェさんでないことは確信している。
吾輩は全力で、掲げた剣を斜めに走らせた。
しかし手応えはなく、まるで煙を薙いだみたいに、マルチェさんの姿をした『何か』は消えてしまった――くっ、幻影か。
直後、吾輩が振り返ると、
「あがっ、あ、おぐっ、ああ……」
苦悶するユッカちゃんを、背後から抱きしめるように立つマルチェさん――の姿をした『何か』が、邪悪な笑みを浮かべていた。
『巫女。コレガ、大地ノ女神ノ巫女……ワタシノ体、ワタシノ魔力――クルキャァァァッ!!』
叫び上げた『それ』はもう、マルチェさんの『形』すら留めていない。
大気に溶け込む湯気のように昇っていく不快な魔力は、ユッカちゃんにからみついたまま、その本当の姿をあらわにした。
「ワガハイ、大丈夫か――んなっ!?」
岩場から出てきたターボフさんが、驚きのあまり仰け反る。
無理もない。
これは間違いなく、醜悪な怪物だ。
『クルキャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
それは、黒くて巨大なムカデ。
側面から生えている無数の赤い足を、気味悪く波打ちながら動かしていた。
意識を失ったユッカちゃんの体にからみつきながら、まるで彼女が自分の一部であるかのように、吾輩を威嚇している。
もちろん、これは普通の昆虫型モンスターなんかじゃない。
不浄の魔力を宿した、悪しき精霊の化け物だった。




