005. 優しい心(前編)
グシカ森林を進んでいた時とは異なり、吾輩たち一行の歩みは慎重だった。
ここはソノーガ山脈。
言うまでもなく山岳地帯だ。
従って、大地の女神を信仰する聖職者たちが、過去にも通ったであろう岩肌の山路は、当然のごとく傾斜を帯びている。
だから、軽い足取りだったユッカちゃんも、今は少し息を上げていた。
「ふぅ、ふぅ……」
巫女であっても、体力は八歳の女の子。
彼女には、なかなか厳しい道のりかもしれない。
「大丈夫ですか、ユッカさま? もしもおつらいなら、私が背負って――」
「いや……平気、なのだ」
マルチェさんの気遣いを、ユッカちゃんは断る。
「ワタシは、ソノーガ山脈の、清き精霊に、会うのだ。お主に甘えて、いては、その精霊に、笑われて、しまう。これくらい、どうってことは、ないのだ」
呼吸は乱れているけれど、ユッカちゃんの言葉は力強い。
小さな体は休むことなく、一歩一歩、前に進み続けていた。
「……わかりました、ユッカさま」
ユッカちゃんの答えを受け入れたマルチェさん。
彼女は、巫女として成長している『妹』を誇らしく思ったのだろうか。
それとも、従者の助力を突き放すような態度に、一抹のさみしさでも感じているのだろうか。
すると、
『ジェグレ、ウゲ、オシュマヤ、エレテッカ、ジュモギジュエ……』
意味を理解できないささやきが、どこからともなく聞こえてきた。
『ジャンゲオ、オペッツェ、アネモグ』
『エルゼルボージョン、マンチャッパ』
『オギャ、オルゲ、オモジョ、ジョジョ』
一つや二つではない。
わけのわからない声が、四方八方から響いてくる。
これは、いったい?
「意識を向けたら負けだぞ、ワガハイ」
先頭を行くターボフさんが言う。
「これは、悪しき精霊によるもの。彼らの嘆きや、呪いの言葉――いわゆる呪詛だな」
「呪詛?」
「相手を混乱状態にする魔法の一種と考えればいい。力の弱い小物の悪しき精霊が、俺たちを操るためにやる手なんだ。怪しげな『声』で注意を引き、こちらの心を乱す――そうなってしまえば、憑依されたり、意思なき傀儡にされたりと、とにかく厄介なんだ」
なるほど。
邪悪な精霊たちの歓迎は、もう始まっているというわけだな。
「巫女はもちろん、俺や従者の嬢ちゃんも、こんなものには屈しない。偉大なる大地の女神への信仰心があれば、正しい自分を保つことができるからな」
大地を創ったとされるウィヌモーラは、最も偉大で神聖な神の一柱。
あらゆる邪悪な誘惑も、彼女を崇める信者にとっては無意味。
格が違う――ということだ。
「まぁお前は、間違いなく心の強い武人だ。まじめにとらえたりせず、適当に受け流せばいい。悪しき精霊とはいえ、相手は姿すら見せない臆病者だ。お前が凛としていれば、向こうは何もできやしない」
「勉強になります」
アドバイスをくれたターボフさんに、吾輩は答えた。
どうやら、ソノーガ山脈が魔境たるゆえんは、想像していたような荒々しいものだけではないようだ。
試されているんだな、吾輩たちは。
戦いにおける単純な強さだけではない、真の意味での強さを――魂の強さを。
「要するに、何か別のことに、気持ちを、集中させていれば、いいのだ」
相変わらず呼吸は荒いけれど、ユッカちゃんは元気だ。
悪しき精霊の呪詛なんて、みじんも受け入れていない。
「ワガハイは、えっち、だからな。マルチェの『ないすばでぃ』を、見たり、することを、勧めるのだ。そうすれば、悪しき精霊に、負けることなど、ない、はずなのだぞ」
「……それはどうも」
もうユッカちゃんの中で、吾輩が『えっち』なゴーストだということは決定しているらしい。
紳士な吾輩としては、何とも不名誉な話だ。
「お役に立てるなら、どうぞワガハイさん。穴が開くほどに、ご自由に隅々まで」
「……振り返ってまで訴えてこなくて大丈夫ですよ、マルチェさん」
しかし、冗談を言い合えるくらいの方がいいのだろう。
悪しき精霊は、吾輩たち――特に、ユッカちゃんの心を狙っているんだ。
彼女の意識を取り込み、ウィヌモーラの魔力を操ることができるという巫女の体を、自らが支配するために。
油断は禁物。
しかし、精神的なゆとりは必要だ。
吾輩としては、ユッカちゃんよりマルチェさんから、その点の弱さを感じていたけれど、どうやら心配なさそうだな。
「ふははっ――俺を殴り飛ばしたワガハイでも、巫女と従者の嬢ちゃんには敵わないみたいだな」
「ええ、その通り」
笑うターボフさんに、吾輩は肩をすくめて返した。
すると今度は、か細い泣き声が響く。
しくしくと、かなしげに涙を流しているような――。
周囲を確認すると、険しい道の奥に、顔を伏せた少女の姿があった。
ユッカちゃんと同世代くらいだろうか。
村娘のような格好で、岩に腰を下ろしながら、体を縮めてうずくまっていた。
呪詛には無関心を保っていたユッカちゃんも、さすがに反応を示す。
「こんな、ところで、どうしたのだ、お主? 連れの者と、はぐれて、迷子になって、しまった、のか?」
言いながらユッカちゃんは、列を離れて、泣いている少女のもとへ歩み寄ろうとする。
それに気づいたターボフさんが、慌てたように口を開く。
「待ってください、巫女。あれは――」




