Prologue. 記憶に残らない会話
君は、自分が『自分』じゃないと、そう思ったことはなかったかい?
……え、そうだよ、君だ。
私は、君に尋ねているんだからね。
うーん……どうやら君は、ひどく混乱しているようだ――というより、思考が追いついていないらしい。
まぁ、当然だろうけど。
君にはいささか唐突な展開だろうが、どうか勘弁してくれ。
私と君では、存在情報に対する処理能力も、その限界容量も、大きく違うんだ。
別に優劣うんぬんではなく、単純にそういうものだからね。
気を悪くしないように。
そんなこんなで申し訳ないが、こちらから一方的に話を進めさせてもらうよ。
あ、そうそう。
どうやら私は早口らしいんだけど、その点はあまり気にしないように。
では、あらためて。
君は、自分が『自分』じゃないと、そう思ったことはなかったかい?
違和感というか、息苦しさというか、窮屈さというか、空回りというか――とにかく、何となくしっくりきていないような、要するに、そういう感覚だよ。
とりあえず伝えておくとだね、ありていに言えば君は、生まれる『世界』を間違えてしまった『魂』のようなんだ。
あ、でもね、これははっきり断っておくけど、それは私の責任でもないし、君が今まで『存在』していた『空間』――地球の日本っていう国、だったっけ?
まぁ、そこを管轄している同業者がミスしたわけでもないんだ。
君は、あらかじめ定められていた予定通りに生を受け、歴史に名を残す偉業を成し遂げることもなく、かといって誰かを傷つけることもなく、毒にもならなければ薬にもならない『命』として、慎ましやかに『人間』を営んでいた――んだと思う。
地球という星の知的生命体としては、君はずいぶんと若い年齢で肉体から解放されてしまったようだけど、そんなことは、今はもうまったく問題じゃない。
大事なのはね、地球という星での『君』は、本来の君とは大きくズレた『君』だったってことなんだ。
だからぜったい君は、自分や自分の周りの環境に対して、大なり小なり浮遊感を覚えていたはずなんだ。
いるべきではない場所に無理やり押し込んじゃったようなものだから、俗に言う、地に足が着いていない――みたいに。
これはあくまで個人的な見解なんだけど、君は地球の『人間』として生きるより、私が担当している『世界』でこそ輝ける魂だったと思うんだ。
そういう意味では、同業者を代表して、私から謝罪をさせてもらうよ。
誰が悪いわけでもないんだけど、結果論として、私たちは君の可能性を大いに狭めてしまっていたんだからさ。
ただね、自己弁護じゃないけど、こちらも、すべての魂の適格を正しく判断できるわけじゃないんだよ。
何でもかんでも一から十まで、あらゆることを完全に把握するなんてことは、やっぱり難しいのさ。
そこは、どうかわかっておくれ。
まぁとにかく君は、幸か不幸か『ここ』を訪れることになった。
だから私は、君に新しい可能性を提供したいと思う。
そう、まさに『可能性』だ。
別にこれは、私に課された仕事でもなければ、君への罪滅ぼしというわけでもない。
言うなれば、ただの好奇心。
遊びであり、娯楽のようなもの。
とはいえ、本来収めるべきところに君を収めるわけだから、私としては、正しい行いをした気分になって、ずいぶんと気持ちがいいんだけどね。
うん、いいんだ、いいんだ。
そういうのは、全部こっちの事情だから、君にはどうでもいい話だし。
いやぁ、それにしても最近、思考を言葉に落として誰かに伝えるなんていう必要に迫られなかったから、ついつい興奮してペラペラしゃべってしまったよ。
しかし君は、私がどれだけ話しても、すべてきれいさっぱり忘れてしまうんだけどね。
さてさて、名残惜しいけど、そろそろおしまいだ。
きっともう、君とこうやって会うことはないだろうが……いや、どうかな。
これは、どこだろうと変わらないと思うけど、私が担当する『世界』もね、ちょっと行き詰まってしまっているんだよ。
もちろん、これだって私のせいじゃないからね。
そこは、しっかり強調させておくれよ。
私の仕事は、ただ観測することだけなんだから。
そういうわけで、私は君に、特別な宿命を負わせもしなければ、ややこしい使命も与えないし、偉そうに命令だってしない。
それでもね、少し、ほんの少しだけ、君の存在が何かしらの影響をもたらしてくれるんじゃないかって、その程度の期待はしているんだ。
だからね、もしかしたら、何かのきっかけで、また言葉を交わす機会くらいあるかもしれない――って、今は私が一方的に語り続けているだけなんだけどね、はっはっは。
すべては、未知なる可能性。
私も、それは預かり知らぬこと。
君のこれからと、君がもたらすかもしれない何かの先で、私は『それ』を観測してみたいんだ――なんてね、はははははっ。
とはいえ、私から君にしてあげられることは、たぶん、もう何もないよ。
君たちには想像もできないようなところから、ただ静かに見守るだけさ。
だけど、難しい事情はとにかく、私は君の生き方に、大いに興味がある。
君が退屈しないだけのものは、私が観測する『世界』に――いや、今から君が生きていく世界に、すべてそろっているはずだから。
さぁ、思うままに進み、私を満足させておくれ。
文字通り、陰ながら応援しているからさ。
というわけで、どうか頑張って。
じゃあ、最後になるけど、何か聞きたいことはある?
「わ、吾輩は、その……いったい、つまり、どういう――」
吾輩?
はっはっは、ずいぶんな一人称だね、君は。
そうか、そうか。
本来の君は、君の魂は、自分のことを、そう呼称するんだね。
うんうん。
そんな感じじゃ、今までの『世界』にしっくりこなかったのも当たり前だよね。
いいよ、そうしよう。
連れてきたのは私だ。
この瞬間を含むすべての記憶を完全に失う君に、私から名前をプレゼントさせてもらうよ。
君は『ワガハイ』。
他の誰でもない、君の――君の魂に与えられた名前だ。
「吾輩は……ワガハイ?」
その通りだよ、ワガハイ。
じゃあね、ワガハイ。
その魂のおもむくまま、私が観測している『世界』を、どうか大いに楽しんでおくれ――。