甘い約束を
人の送る人生には、大まかに分けて二通りのタイプがある。
一つは、自分とは違う他人と接するのを好み、日向に出て太陽のように明るく生きる者。
もう一つは、自分とは違う他人と接するのを嫌い、日陰に潜み影のように暗く生きる者。
偏見に満ちた人間の割り振り方だが、実際の程度はどうあれ、大まかに分けた二つのタイプは、それぞれ違った人生の歩み方がある。
趣味や主張、遊びの楽しみ方一つとってもそうだが、例えば好き嫌いの行動が明確に現れる恋愛に関して言えば、それに順ずる行動にしろ思考にしろ、この二つのタイプは、実に相対するものであるという事をクッキリと現す。それは、絶対に交わることのない平行線のようなものではないだろうか。
だが、そんな相対するべき二人が、もし離れられないほどの関係に陥ったらどうなるか。
ふと、誰かが施したカラクリから、定められた二つの運命の線は緩やかな弧を描き始め、意識と常識の世界を越えて、絶対に交わらないはずの平行線を奇妙に交わらせる。
――――――――
「静ぅかにぃ!おまぇらぁ、静ぅかにぃしろ!」
横開きの扉をわざと音の出るようにけたたましく鳴らし、訛り混じりの教師の怒声が響くと、室内を元気一杯に遊びまわっていた少年少女が笑顔と足を止める。
僕は連れられるように、教師の後ろにヒタヒタとついていくと、教壇までゆっくりと歩いていく教師は、バタバタと慌しく自分の席に戻る子ども達をチラチラ見ながら出席簿を上下させて、続けて言った。
「おまぇらぁ!もぉう朝礼の時間さ終わっとるぞ!席につかんかぁ!」
ひどく訛った教師の言葉は、どこか都会育ちの僕には滑稽に思えた。
両親の都合で僕が越してきたのは一ヶ月前だったが、ベタベタとまとわりつくような田舎の空気は、正直言って僕の肌にあわなかった。
ここに来るまでの道のりもそうだ。
駐在警官が一人しかいない交番のついた寂れた駅で数十分待ち、2時間に一本しか出ないバスに乗り、無人の野菜直売所が目印のバス亭を降りて、道路補整が満足に行き届かない窪みの酷いあぜ道を一直線に進むと、大道の横に小川が流れているのが見える。すっかり土と砂に塗れた新品の革靴を進ませ、小川に架けられた石造りの橋を渡ると、辺りのビニールハウス畑から放出される独特の土臭さを鼻に感じながら、日差しで少しぬるくなった風の先に木造の建物がぽつんと建つ。風になびく針葉樹を目印に進むと、そこは目的地。僕の通う予定の小学校だった。
「今日から転入す(し)てきた新入生ぃを、皆ぁに紹介するぞぉ。それぇ、皆ぁに自己紹介すてみろぉ」
酷い訛り教師が、鞄を持った僕の背中をポンと押す。
子ども達が一斉に僕を見る。同い年くらいの少年少女から、ジリジリと照り付ける太陽にも似た視線を当てられて、小学三年生にもなった僕は『上がって』しまった。ただでさえ他人が余り好きではないのに、顔も知らない大勢の前で喋れと言われては、赤面に赤面を重ね、まごまごと口で「ぉ…ぁ…ぁ…」と音にならない小さな声をあげることしか出来なかった。
僕は恥ずかしくて死にそうだった。
「皆ぁ今からお前の仲間だっつのに、す(し)かたねえなぁ都会っ子は。おらが変わりに言ってやる。この子の名前は直也。近藤直也君だぁ。都会の小学校から来た子だがぁ、皆ぁ仲良くすてくれよぉ」
都会都会と、まるで差別するような教師の声が憎かった。
視線を送る誰も彼も、自己紹介も出来ない僕の声に、まるで見世物小屋の珍獣を見るような笑いを含んだ表情だった。僕は、今すぐにでもここから逃げ出したかった。
「次にぃ席だがぁ。誰ぇか隣ぃ空いとるとこないかぁね」
酷い訛りの教師が教室を見回す。
すると子どもたちのせせら笑いが聞こえてきそうな教室の前の席から、一人の子が手をあげる。
「先生ぇ!おらの隣が良いと思いますぅ!」
窓側の席から聞こえる元気一杯な声。
三つ編みに結わいた黒髪から小麦色の肌が眩しい少女の姿。窓から吹き込む、土臭さのない爽やかな風を受けて立つ少女の姿に一瞬、僕は心を奪われた。グンと手を真っ直ぐに伸ばし、太陽の欠片が零れ落ちるようなハニカミ顔で、キラキラと光が差し込む黒い瞳は、恥ずかしさに暮れる僕の目に深く焼きついた。
「おぉ、学級ぅ委員長ぉの宮沢の隣ぃかぁ。そりゃぁいい。近藤は眼鏡をかけるくらい視力も悪ぃからぁ。前の席のほうがいいじゃろ。宮沢の隣ぃの佐藤は、隣の山田の席へ行ってくれぇ。じゃあ宮沢ぁ。近藤のことぉ、よろすく頼むぞぉ」
教師に言われるがまま、僕は宮沢と呼ばれた少女の隣の席に吸い込まれるように座った。
「おら、学級委員長の宮沢。宮沢朱美。近藤君とか言うたね?何か困ったことあったら、おらに言ってくれ。これから仲良くしてくんろ」
「…」
眩しい笑顔で迎えられて、僕は動転する脳内にある恥ずかしさの余り、彼女のそれに対して「はい」とも「いいえ」とも答えられなかった。
―――――――
しばらくして授業が始まった。
都会の進学塾に通っていた僕にとって、授業の内容は簡単だった。はっきり言って僕は勉強が出来るほうだ。学校が使っている教材に書いてある殆どの項目は、すでに一年前にやったことで、やる気など無かった。授業中にざわめく同級生や、訛りの酷い教師の教え方と相まって、僕は授業を受ける気が無かった。
「なあなあ近藤!都会ってどんなとこよぉ」
「近藤ん家の都会の畑と、おらんちの畑とどっちがでかい?」
「おら聞いたことがあるぞ!毎日、レストランつーとこいってパスタってのを食うらしいぞぉ!」
「なんねパスタって。洋食家のケン坊のお父ちゃん家で食うカレーライスと違うんか?」
「馬鹿やどぉ!カレーライスなんて田舎の食いもんじゃ!都会は皆パスタじゃ」
「ところでパスタって何?」
「し、知らん!」
「なんね、お前知らんのに言っとったんか」
「知らんけど美味いもんじゃ!しかも、たぶん高い!」
「どれくらいじゃ」
「うーん。そうじゃなぁ。婆っちゃの作る豆が一度の出荷で一万円くらいじゃから…」
「ふむふむ、おらんとこも、それくれえだ」
「三千円ぐらいじゃ!な?そうじゃろ近藤!」
「へぇ三千円!?そりゃすげぇなー!」
休み時間は、都会から来たということで質問攻めだった。
その質問の質の良し悪しよりも、近寄ってくる山猿のような同級生たちに、僕は苛立ちを覚えざるをえなかった。僕は、厚かましい他人との接触が、なにより嫌いだった。図々しく自分の領域に入ってくるような人間の、その無神経さが嫌いだった。
僕は、都会の小学校で酷いイジメにあってから、ずっと交友関係という物を持たなかった。
小学校に上がってすぐの頃、僕は両親から「友達を多く作れ」と言われて、余り得意でない口を精一杯震わせて、拙いながらも交友関係を築こうと思った。興味の無い趣味を理解しようとした、勉強が出来ない子が居れば助けた、誰もが嫌がる面倒は進んでやった。
だが、ふと気付けば僕は、いつの間にかクラスの中で人差し指を指される存在になっていた。
どんな事をやっても嫌がられ、クラス中からケタケタと笑われる、一人ぼっちになっていた。交友関係を築こうと必死になった努力の結果、僕は助けようとした誰からも裏切られた。踏みにじられた。先生を含める皆、表では口当たりの良い言葉を吐くが、裏では他人のために必死になる僕を、せせら笑っていたのだ。僕は、この時から嘘をつくのも、つかれるのも嫌いになった。
それから僕の孤独な生き方が始まった。
決して、人間関係に傷つくのが怖いわけじゃない。僕は元々、独りで居る事が好きだった。
そういう意味ではむしろ、孤独になってからのほうが、僕の心は清々としたくらいだ。嘘をつく他人と関わって、自分の心に偽りをもって生きずにすむ。生きているということに嘘をつきたくなかった。僕は幼かったが、孤独をこよなく愛するようになった。
「なあなあ近藤!聞いておるんか?」
「この服、都会のかぁ?高かったんじゃろー!」
だから、こういう類の連中が嫌いなのだ。孤独の時間を害す連中。
映画の西部劇でよくある、幌馬車を囲むインディアンのような同級生の言葉攻めを無視し、僕は不貞寝を決め込んだ。
「なんね都会の子はすぐ寝てしまうんか?根性がなかねー」
「こらー!皆ぁ!近藤君が困っとるでしょうが!」
「いかんうるさいのが来たぁ!学級委員長の宮沢じゃ。みな散れ散れっ!」
「近藤君に悪さすっと、おらが許さんよー!」
さっきから何処かへ行っていた学級委員長、宮沢朱美の声がすると、群れていたインディアンたちは蜘蛛の子を散らすように教室の端に消えていった。
「おらが先生からプリントもらってくる間に、あいつら油断も隙もねえだ。ごめんねえ近藤君」
「…」
「おらが近藤君を任されたんだ、守ってあげるからね」
「…う」
「そんだら赤くなってどうしただ?熱でもあるのけ近藤君?」
「…うるさいっ!熱なんかない!馴れ馴れしくするな!僕から離れろ!」
僕は女の子に守られて恥ずかしいと思った気持ちが前に出て、宮沢に対して酷く突き放した言い方をして机に突っ伏すと不貞寝を続けた。守ってもらって、初めて放った言葉が『離れろ』なんて、普通の子なら怒るにしろ何にしろ突っかかってきそうなものだが、宮沢はフフッと笑うだけで、何も言い返してこなかった。
その内に次の授業が始まった。
―――――――――
日が少し傾き始めた午後2時ごろ。
一日の授業が終わると、クラスの男子女子は一斉に教室を飛び出して、古びた校舎を駆け抜けて野遊びや川遊びに出かけていった。
「ふう…」
僕は休み時間の度に顔を突き合せなければならない同級生達から解放されると思うと、少し気が楽になった。一人、鞄を持って教室を出ようとした時、後ろから声がする。
「待って!待ってよぅ近藤君!」
知り合ったばかりだというのに、耳慣れもするこの声の持ち主。宮沢だ。
聞かなかった事にしよう。空耳ということにしよう。僕は、そそくさと黙って教室を出ようとした。
「待ってって言ってるでしょが!聞こえんとね近藤君!?」
「えっ!」
教室を出ようとした瞬間、体が止まった。
それもそのはず。宮沢は赤いランドセルを片手に持つと、ダッと驚くべき速さで僕に近づき、進行方向に振る僕の腕をガッシと掴んで離さなかったのだ。
「近藤君、捕まえた!なあ、休み時間はずっと教室にいたでしょ?校舎も見れなかったと思うし、今からおらと見にいこうよ。ね、ね?」
「や、やめろよ!僕は帰りたいんだ!」
「そんだらこといって後で迷っても知らんからね。おらは、ここら辺詳しいだ。ぐるっと紹介がてらに一緒に帰るべ」
「ちょ、ちょっ、ちょっと!」
引っ張られるように半ば強引に宮沢に連れられて、僕は学校の校舎の隅々を見学した。
おそらく彼女は、学級委員長を務めるほどだから面倒見の良い姉御肌なのだろうが、今の僕にとっては苦痛以外の何ものでもなかった。何度も振り払おうとしたが、流石田舎に揉まれて育った宮沢の腕力は強く、都会の非力な僕の体では反抗することも適わなかった。
僕は諦めて、宮沢のペースに乗ることにした。
その中で幸運だったことは、僕を強引に連れてゆく宮沢が同じ帰り道で、同じ門限だったことだろう。さっきも言ったように、こういう田舎ではバスが2時間に一回しか来ない時がザラにある。帰る時期を逃せば、同時に電車も使えず帰れない。つまり帰りに乗るバスや、電車の時刻が同じであれば、家に帰れないといったことは無いのである。
僕に、元気一杯で話しかける宮沢の穢れを知らない屈託の無い笑みは、帰り道を歩く間中ずっと続けられた。
「ここの針葉樹は、もう20年もたっとるらしいよ。でも木の世界の中じゃ、おら達くらいらしいよ、木って凄いねえ」
「…」
丘地の学校から続いた針葉樹を過ぎ、
「この川は、夏になると良うく魚が釣れるだよ。父ちゃんが前に一杯ヤマメとってきて、あん時は嬉しかっただぁ!今度、近藤君もやってみよ?」
「…」
小川に架けられた橋を渡り、
「あれは悟郎さん家のトマト畑。あっちはマー坊のお父さんがやっとるニンジン畑!」
「…」
ビニールハウスの見えるあぜ道を通り、
「なあなあ。都会も良いけど田舎もどうね?近藤君は嫌いそうだけど、おらは田舎も好きだけどなぁ。ちょっと止まって息すってみ?スゥーっと、ハーっと!土の匂いがして、気持ちいいべ!」
「…」
すっかり夕方になった頃、同じバスに乗って、
「いやーこっから見える夕焼けはやっぱ綺麗ねー。おらはこの駅から見える夕焼けが一番好きだなぁ。近藤君はどうね?都会にこんな夕日の見えるとこある?」
「…」
駅までの同じ帰り道。
「ごめんねぇ今日は。なんかおら、都会の子と話すと思うと舞上がっちまって。近藤君が疲れとるよっても知らないで、おらばかり話ししてしまっただ。明日は、もっとお喋りしよね近藤君。絶対よー!じゃあまた明日ねー!」
「…」
すっかり暮れなずんだ向かいのホームから手を振って、宮沢は二両編成の上りの電車に乗った。帰り道が同じだと思っていた僕は、チラチラと笑顔を振りまく彼女を見ながら下りの電車に乗った。そう、同じ帰り道を行く彼女と僕の家は、ちょうど反対方向だった。
帰り道、ただ連れて行かれるだけで、何も言えなかった僕は、やっと宮沢から解放されてため息をついた。客がまばらしかいない電車の中で、このようなことが明日も続くのかと思うと、僕は気が重かった。
だが僕は、次の日も、またその次の日も、天真爛漫な彼女のペースにすっかり乗せられてしまっていた。次第に慣れていく僕の孤独を愛する心は、いつしか彼女との接触によって緩和されていった。
――――――――
ただ引っ張られて、不自由を強いられる宮沢との毎日は、孤独を愛する僕の生活の一部となった。常に目障りで、邪魔な存在だった。
小学校も何年か立つと、次第に都会の子だからといって質問してくる好奇心のみなぎるインディアン達は、僕のまわりから居なくなっていた。そして、皆まるで教室に居る僕の事を空気のように感じ始めた。
僕にとってそれは、願ってもない状態だった。
誰からも見られず、誰からも聞かれず、誰からも知られず、誰からも覚えず。自分には誰も構わない、どこか無機質にビルの立ち並ぶ都会にも似た、その孤独の空気が非常に好きだった。
「近藤君ー!今度隣町にボーリング場が出来るだよー!ね?行ってみよ!」
だが、孤独な静寂は一声に破られる。
大きな声で寄ってきて、僕の机をバンと叩く宮沢は、クラスで空気でありたいと思う僕に、こんな孤独を愛する僕に付きまとってきたのだ。
宮沢は根が明るく包容力があり、皆を纏め上げるような統率力もある。いわゆるクラスの人気者の素質を持つ日向のような女の子だった。孤独と静寂を愛す日陰のような僕は、何度か彼女に「嫌だ」「もうやめてくれ」とせがんだ。だが、日向の宮沢はあっ気らかんとした態度で笑って、次の日も同じように僕に付きまとった。
うんざりだった。宮沢の声が聞こえるたびに、僕の心は消沈した。
宮沢が、いくら面倒見のいい子だからといって、僕にとってそれは、お節介以外の何物でもなかった。
だが、宮沢の押しの強さは強烈で、僕は強く反抗できなかった。
反抗したいと思っても、いつの間にか彼女の力強い雰囲気に流されて、従うしかなかった。
そんなこんなで小学校を卒業して、近くの中学校に上がった頃。
僕は放課後。いつものように校舎の二階の踊り場で、喧騒に近い思春期の少年少女らの声を避けるため、嘶きが終わって帰るまでの孤独な放課後を満喫していた。
「…さぁぃ!」
踊り場についた窓の下から微かに声が聞こえる。
男の声だ。声変わり間もない男の声は、何かを訴えかけるように必死に震えていた。僕は、孤独の時間を邪魔された悔しさもあり、好奇心に誘われて窓を開けて、その声の先を見た。
「…沢ぁっ!俺ぇは本気ぃなんだ!付き合ってぇくれえ!」
僕は、窓の外から男の姿を見た。
整髪料を塗りたくり、何もわからずにツンツンとあらゆる方向に逆立った髪の毛、大人ぶるような少し大きめの丸いサングラスをかけ、無意味に首や手に銀色の装飾品をぶら下げた学生服姿の男。背の高さからして、上級生のようだ。
「くく…」
僕は、思わず笑いを堪えた。
田舎者が都会者を真似て、背伸びをするような姿は、都会者の僕からすれば実に滑稽だった。裾を延ばした学生服姿で頭を下げた男の先を見ると、そこには女の子が立っていた。
「安達先輩。本当にごめんなぁさい。おら、先輩のその気持ちには応えられねぇです」
耳にタコが出来るほど、聞きなれた声。
そこに立っていたのは、宮沢朱美だった。安達と呼ばれた学生服の男は、告白を断られたことに落胆したが、すぐに宮沢に食い下がる。
「なしてだ!なして宮沢は、俺の気持ちには応えらんねんだ!」
「おら。別に先輩が嫌いじゃないんですけども…」
「宮沢!俺は自惚れるわけじゃねえが、格好は良い方だ!」
「安達先輩は格好いいですよ。おらのクラスでも評判になるくらいだ」
「じゃあ何でだ!俺ん家は田舎とはいえ金持ちだ!山もある!大きな畑もある!宮沢と遊ぶ金だったら不自由はさせねえ!指輪だって何だって買ってやる!俺は今の彼女とも別れたんだぁ!宮沢と付き合うためになぁ!」
「せ、先輩!あんなに仲良かったじゃないですか!なにしてっだよ!」
「俺は、そのくらいぃの覚悟をもって宮沢に告白したんだ!頼むぅ!付き合ってくれ!」
「そんなこといっても、おらは駄目だぁ。絶対に。絶対に、駄目なんですぅ」
「何が駄目ね!理由を聞かせてくんろ!」
校庭裏の土煙を上げながら一歩、また一歩と安達が迫る。
言葉数を増やす安達に、宮沢は持っていた教科書を遮るように前に突き出して、安達に向けて深くお辞儀をすると、小さく呟いた。
「おら…今、好きな人がいるだ」
いつもは快活な笑顔を浮かべて笑う宮沢の声が一変する。
言葉の意味を理解し、ショックを受けてヘナヘナとその場にへたり込む安達を尻目に、遮った教科書をスッと戻して、顔を上げた宮沢の頬は薄桃色に染められていた。
「だから、おらは駄目なんだぁ!本当にごめんなさぁい。でも、わかってください先輩」
「うわあぁぁぁん!」
頬を染めて、目を逸らし、どこか恥ずかしげで真実味のある宮沢の表情に、安達は隠しきれないショックを伴って、涙を浮かべて、その場から逃げ出した。
「安達先輩、傷つけてしまったかなぁ。おらにも好きな人くれぇは居ると思ってくれると良いんだが…」
踊り場の窓から一部始終を見ていた僕は、宮沢の放つ「好きな人」という部分に、なんとなく不思議な気持ちを覚えた。彼女の友人でも恋人でもない僕が、なぜか「好きな人」という言葉に揺れる。窓から見下ろしたセーラー服姿の宮沢を見ながら、僕は自分の心を納得させようと物思いに耽った。
良く考えれば僕にとっては最上の出来事じゃないか。
いつも付きまとってくる宮沢が、自分以外の誰かの相手をするというならば、僕にも自由の時間が増えるじゃないか。孤独の生活に戻れる、好転のチャンスじゃないか。
「好きな人」という言葉に揺れた心だって、一時の戸惑いさ。
夏に木々にへばりつきながら五月蝿く鳴くセミたちと同じこと。
夏の終わりに聞こえなくなって、静けさに感傷的になって寂しくなるのと同じだ。
秋が訪れれば誰もが忘れてしまうよ。
「好きな人がいる」。別におかしな事じゃない。
彼女の立場になって考えてみれば、中学を上がった女子が、誰かに恋愛感情を覚えるなんて普通のことだ。恋愛感においては男性よりも発達していると言われる年頃の女の子が、恋の一つもするのは当たり前のことなんだ。
「あっ!そこに居るのは誰ね!」
窓枠で物思いに耽る僕を宮沢が指差す。
しまった!と僕は思わず窓下に身を隠した。別に隠れる必要は無いと後で思ったが、知らないとはいえ覗いてしまったという罪悪感から、僕は踊り場に潜んだ。
ガンガンガンガンッ!
階段が強く叩かれるような音、僕の居る踊り場目掛けて誰かが上ってくる。
奴だ…宮沢だっ…!宮沢が来る…!
上履きを削るような、この音からして、おそらく今の宮沢は全速力!
上るであろう階段は、全て三段抜かしが必定だ…ッ!
僕が長らくしてきた体験と計算によってはじき出された宮沢の速力は、およそ立ち漕ぎの自転車並時速30km!アスリート顔負けの運動神経を持つ彼女なら、転ぶ事も考えずに全速力で階段の三段抜かし位のことはやってのけれるはず…!校舎の裏手から回ったとして、だとしても、この踊り場到達時間までは15秒もかからない…ッ!
「…!」
僕は冴えて冴える頭での思考を一旦止め、とっさに上階段から逃げようとした。
だが、すでに下階段には宮沢の姿が見えていた。
「誰ね!おらの話しを盗み聞きしてたのは!」
僕は踊り場の上階段に三歩目の足をつけたくらいで、宮沢に学生服の襟を捕まれていた。
そのまま下の踊り場に引きずられて、投げられるように壁に押し付けられると、呼吸の荒い宮沢に怯むように僕は腕と足を竦ませて、思わず顔を隠した。
「こんのぉ!人の話を盗み聞きするなんて悪い奴だぁ!」
グイッと伸びる宮沢の手。
僕の顔を覆っていた腕を掴み、力一杯に宮沢が取り払うと、僕の目に肩で呼吸する宮沢の姿が見えた。僕は思わず言った。
「ごめん!聞く気は無かったんだ!許してくれ宮沢!」
「えっ…?こ、近藤君?おらの話、盗み聞きしてたのは近藤君だったのけ!?」
僕の腕を掴む宮沢の手が力をなくしたように垂れる。
どうしてだ?と僕は思ったが、宮沢は顔を真っ赤にして僕に言った。
「こ、近藤君!まさか、お、おらの…おらの声聞こえたか?話、聞こえたか?聞こえなかったよなぁ?なあ近藤君!おら、聞いてるだよ!」
顔を真っ赤にして、どもり気味に話す宮沢。僕に口止めをしているつもりだろうか。
そうか。おそらく彼女の言っていた「好きな人」とやらが身近に居て、その人に「好きだ」という情報が伝わるのを恐れているのか。
「な、なあ!おらの言葉わかるけ?聞こえなかったよな近藤君!」
同じ質問を繰り返す宮沢。ここまで来ると、なんとも愛らしいというか、愚かというか。
そこまで頑なに気持ちを抑えて守り抜くというのも、おかしな話だ。いや、逆に考えれば、「好きな人」に対して、それほど真剣だと言うことか。僕は、そんなことを考えながら、心の中でまた『何か』が揺れる感じがした。
「聞こえなかった」と、言うのは簡単だ。
彼女に嘘をつけばいい。優しい嘘だ。そのほうが彼女も、余計な心配をせずに安心するだろう。だが、ここで僕は、苛立ちにも似た、とある感情が沸いた。
それは今まで、孤独の時間を妨害され、良い様にやりくるめられていた宮沢への反抗心だ。
ドンッ!
「きゃっ!こ、近藤君、なにすっだよ!」
僕は、自分の内なる悪魔の囁きに身を任せて決心すると、赤面している目の前の宮沢を、ためらいなく自分の手で突き飛ばした。そして、初めての攻勢に気負い負けしまいと、背を正し、目の前に倒れた宮沢を見下ろすように、少し嗜虐的に語り始めた。
「偶然だったけど、聞こえてたよ。宮沢さん。一部始終、全部ね」
「!」
「意外だったよ。宮沢さんに好きな人がいるなんて。いつも僕の邪魔をしている宮沢さんに好きな人がね。へぇー本当に意外だ」
「…す、好きな人が居るくらい。ふ、普通のことでねーか!」
「そうだよね。普通だよね。で、宮沢さんの好きな人は誰なんだい?上級生?年下?年上?もしかして大人?僕の知っている人?あの安達先輩をフッたんだから、随分良い人なんだろうね」
「…近藤君」
「僕は元々、そんなに口は軽いほうじゃないんだが。君には付きまとわれた恨みがある。その気になれば、この事、誰にでも言ってしまうかもしれないよ、宮沢さん」
「たしかに付きまとったのは、おらだけど…恨むだなんて…おらは近藤君が…そ、その…心配で…」
「他人の親切、大きなお節介!勘違いしないでくれよ!僕は君に邪魔されて、うんざりしてるんだ!僕は都会からここに来て数年!嗅ぎたくもない土の匂いを嗅がされて!見たくもない田舎の夕焼けを見せられて!聞きたくもない宮沢さんの声を聞かされたんだぞ!」
「そんなぁ…おらは、おらは…田舎の良い所、近藤君にみせたくて…ヒック…ひどいよぉ、近藤君」
悪魔の尻馬に乗った僕の口は、いつもの十倍は饒舌なものだった。
強く放たれる僕の嗜虐的な言葉に、倒れた宮沢の目には薄らと涙が浮かんでいた。だが僕は、その弱々しく倒れる兎のような彼女を見て、再び悪魔に心を委ねた。
「宮沢さんには、好きな人がいるんだろ!僕に付きまとわなくても、その好きな人に付きまとえばいいじゃないか!そうだ、その方がいい!僕だって孤独に生きることが出来るしね!」
「…そんな!」
「宮沢さんに好きな人が出来たように、僕だっていつまでも子どもじゃない。いつかは好きな人も出来るんだ。その時に宮沢さんが居たら迷惑なんだよ!わかるだろ!もう君には居て欲しくないんだよ!」
「こ、近藤君…そんだらこと言わないでけろ。おら…誰に嫌われても良いけど、近藤君に嫌われるのは悲しいだぁ…」
「へえ、そう。僕は嬉しいけどな。君に嫌われるなら、僕は何でもするよ」
「…おらのこと許して…許してよ…ふええ〜ん」
「泣いたってダメさ。僕はもう君の秘密を握ってしまった。そのことだけは変わりようのない事実なんだから。それに泣くようなことじゃないだろ?好きな人が出来たくらいのこと。バレてもなんの弊害もないじゃないか」
いつの間にか、僕は心の扉が開いたように、冷徹で残酷な悪魔の傀儡になっていた。
宮沢は、紅潮した顔からあふれ出る涙を腕で拭いながら、泣き出した。
いつも強気な彼女が泣き出した。彼女の前ではやられっぱなしだった僕が、宮沢を泣かせた!それを見て僕の嗜虐心は膨らみに膨らみ、ついにその思考は、悪魔の傀儡から悪魔そのものに成り果てた。
「そうだ、宮沢さん。泣いているところ悪いけど聞きたかったことが一つあるんだ。聞いてもいい?これに答えてくれれば、安達先輩に告白されたことも、好きな人の事も黙っておいてあげるよ。僕にしてきたことも許してあげる」
「…えっ、こ、近藤君。許してくれるのけ?」
「うん。ただし嘘はつかないでくれよ。僕は嘘をつかれるのが大嫌いなんだ」
「…おら嘘なんてつかねえ!近藤君、言ってけろ。こ、答えるべ!」
僕は、宮沢に悪魔の言葉を投げかけた。
「ねえ、宮沢さんの好きな人って誰?」
目の前で泣いていた宮沢が僕の言葉を聞くと、その紅潮した顔は肌色が隠れるほどさらに赤くなっていった。
「…お、おら言えねえだ!そんだら恥ずかしいこと言えねえだ!」
「やれやれ、物分りが悪いね宮沢さんも。君には『言えない』なんて決定権なんてないんだよ」
「…嫌だ!言いたくねえ!おらは、おらは…言いたくねえ!」
「あーあ。そういうの本当にズルいよね。孤独が好きな僕をあれだけ傷つけて、不自由にしたのに。おかしいじゃないか。自分だけ自由でさ!そんなにその人の事が好きなのかい!」
「好きだ!好きだから…言えねえだ!」
僕は、宮沢の拒否する態度を見ながら苛立ちが最高潮になるのを感じた。
ここまで頑なに宮沢が守る男とは、どんな奴だ。日向のように快活で、あんなに笑顔の似合う宮沢。クラスの誰もが僕の存在に気付かず嘲け笑っても、たとえ見捨てる事のなかった宮沢。僕の宮沢を…
!?
いつの間にか、僕はただの他人であったはずの宮沢に執着している自分の心に気付いた。
おかしい、別にこんな事を言うつもりなんて無かった。ただ明るく振舞う宮沢を見返したかった。
それだけのはずだった…
「言えよ!言えるだろ!言うんだ!僕が宮沢さんを本当に嫌いにならないうちに言うんだ!」
ああ、意味不明な修飾語なんてつけて、何を考えているんだ僕は。
僕の中にせっかく芽生えた悪魔が消えていくじゃないか。言いたいのはこんな事じゃない。素直に宮沢に向かって「嫌いだ!」と傷つく言葉を放てばいい。簡単じゃないか。ふとした拍子、一度の追い風、そんな、ちょっと誰かに背中を押してもらうだけで、言えそうな小さな言葉だというのに、なんでこうまで躊躇するんだ。
僕が思考の中で葛藤を繰り返す間に、赤面していた宮沢の口が開いた。
「す、好きな人言うだ。だ、だから。お、おらのこと嫌いにならないでけろ。」
勝った!
悪魔に掌握された僕の言葉が、彼女の秘密を漏らさせた!全身をまとうように噴出している汗が、勝利の余韻を歓迎する。心の鼓動が、声になって僕の体をすり抜けていく。
さあ言え宮沢!誰が好きなんだ!
さあ言え宮沢!君は誰のものなんだ!
歪んだ独占欲に塗りつぶされていく僕の心の声。
だが、次の瞬間、宮沢が放った言葉は、僕の心の意表をつく意外なものだった。
「お、おら、近藤君が好きだぁ…」
悪魔の囁きに澱んだ僕の心に、涼やかな風が過ぎ去っていった。
「…えっ?どういう」
「おらが好きなのは近藤君なんだ!」
「それって…」
「でも近藤君は、おらの事嫌いなんでしょ…。ご、ごめんな。おら、田舎もんで。馬鹿だから。自分のことばっかで、無神経だったから。いつまでも近藤君を傷つけていたなんて知らなかったからぁっ!」
「ま、待ってよ!宮沢さん!!」
動揺する僕の言葉など聞かず、宮沢は泣きながら校舎を出て行った。
その日、僕は田舎に来て初めて独りで帰った。
喜ぶべき孤独が訪れているのにも関わらず、僕は嬉しくなかった。
蝉が泣き止むような物だと思っていた僕の心は、なぜか寂しかった。
―――――――
僕は、家に帰ると帰宅の遅い両親が作ってくれた夕飯もそのままに、自室のベッドに倒れた。眠ろう。一晩眠ればすぐに、普段の僕に戻る。孤独を愛する僕に戻るさ。わかっているさ。人を傷つけて得た罪悪感も、好きだと言われた不思議な気持ちも、一時的なもの。人間にとっては一瞬の気まぐれなのだと。
ふっくらとした羊毛布団に包まれながら、僕は眠ろうと瞳をとじた。
だが、寝ようという意識に反して僕の頭は冴え、思考を止めることが出来ないまま、静寂に包まれた夜の時間が過ぎていく。
眠れない。
宮沢の涙が、僕の心に焼きついている。
僕自身驚いている。
あれほど孤独でありたいと思って、小さな心を肥大化させて、悪魔にも成り果せた僕が、こんなに優柔不断な男とは思わなかった。宮沢が涙を流して逃げ出した瞬間から、僕は罪悪感に苛まれ、葛藤の連続だった。
「宮沢にあやまろう」「素直にあやまるべきだ」と、頭の中で考えれば考えるほど、
「当然の結果だろ」「お前は悪い事をしていない」と、心の中の悪魔が否定する。
いつしか他人だと思っていた宮沢が、僕の中で特別な人になっていたのか?
彼女を独り占めしたいという独占欲?いいや、違う。そんなんじゃない。
第一、僕は彼女の何者でもない。
友達でもなければ、恋人でもない。ただの他人。ただの他人なんだ。
それに、天真爛漫で笑顔の似合う彼女を悲しませた僕が、独占したいなんて感情を抱くのが、そもそもおかしいだろ。そうだ。僕は孤独が好きなんだ。自分の心に嘘をついてまで友人を作ろうとした日々を思い出せ。きっと宮沢も裏では、僕をあざ笑っているはずさ。好きだって言った事だって嘘だ。きっと僕への当てつけ。本当の好きな人…その事を隠すための嘘なんだ。だから僕は、たとえ悪魔になったとしても、孤独のためなら誰かが傷ついても構わない。そうさ。
僕は、誰かのために生きることは辞めたんだ。
カーテンの隙間から漏れる朝の光。
白み始めた外の世界が見える頃。僕は思考に疲れ果てて眠りに落ちた。
――――――
他愛も無い日常が始まり、僕の肩をすり抜けてゆく。
二時間程の睡眠しかしていない僕は、眠気の覚めやらない体に鞭をうって、冷水で顔を洗って眼を覚ますと、まだ帰ってこない両親にメモを残し、いつもより遅い時間に家を出た。
遅めに出たのには理由がある。学校に遅刻しないギリギリの時間に出る電車に乗って行くためだ。いつもと同じ時間に出れば、おそらく駅で宮沢に遇ってしまう。
とにかく今は、彼女を避けたい。
僕は、いつもより30分遅い電車に飛び乗ると、いつもと違う、見慣れない客層をボーッと見つめながら、脳裏の裏に鮮明に焼きついた宮沢の姿を思い浮かべては消して、長い駅のプラットフォームに降りた。
「ふう…」
駅を降りた僕は、腕時計で時間を確認した。
早歩き気味に走っていけば、バスに間に合う時間帯。僕は定期を見せて改札を出ると、早歩きでバス停に向かった。
鞄を揺らして走る僕の目に飛び込んでくる田舎の町並み。
いつもと同じ道。いつもと同じ風景。時間は遅いけど変わらない。同じだ。
なんだ、やはり何も変わらない。変わらないじゃないか。
驚くことじゃない。変わるはずがないんだ。
昨日起こったことも、今日起きることも、全て何も変わらない日常だ。
変わったと思ってしまった、僕の一時の気のせいなんだから。
「え」
だが、僕は変わっていた。
バス亭でバスを待ちながら俯く彼女の姿を見て。
「あ…、こ、近藤君…。おはよぅ」
宮沢は走ってきた僕に気付くと、深くお辞儀をした。
僕は、宮沢の姿を見て条件反射的に「おはよう」と言ったが、心の中はすでにパニック状態だった。何故ここで宮沢と?僕がせっかく時間を遅らせて来たというのに、これじゃあ、まるで意味が無い。まさか、昨日の仕返しのために待ち伏せか。
「な、なあ、近藤君。昨日のことだけんど」
あらぬ事を考えている間に、宮沢のほうが話しかけてきた。
怒るか?喚くか?泣くか?殴りかかってくるか?どっちにしろ、僕には逃げ場がない。せめて他の誰かが一緒に乗るバスが来てくれれば助かると僕は思ったが、鳥の鳴く声だけが聞こえる辺りを見るに、その可能性は絶望的だった。
「近藤君、黙って聞いてけろ!」
「なんだよ!」
ジリジリと僕に近づく宮沢。
大声で僕を呼ぶ宮沢に思わず怒りに似た声が出た。
ギュゥゥゥ…
急激に宮沢の拳の隙間が圧縮されていく摩擦音。
僕は、とっさに宮沢の顔を見た。昨日泣きはらしたであろう宮沢の真剣な眼差しを見るに、僕は悟った。ああ、おそらく一発ぶん殴られる、と。
「近藤君!」
「うわあっ!!」
勢いも良くビュンと伸びる彼女の腕。
およそ、ヤワな普通の女の子とは違う、恐るべきスピードを兼ねた拳の切っ先は、いわゆるアッパーに近い軌道で僕目掛けて飛んでくる。恐怖に怯えた僕は、思わず目を瞑って下を向き、手に持っていた鞄で彼女の迫り来る拳を避けようとした。
ビュンッ!!
当たる!!!と僕が思った瞬間だった。
「近藤君!今週の日曜日!おらと、映画見に行こう!」
拳の軌道にふわりと揺れる薄紙が二枚。
宮沢が差し出したのは、近くの映画館で上映される映画の前売りチケットだった。
「…え?」
「お、おら!今まで近藤君に迷惑かけたから…!せめてもの償いだぁ」
「…でもさ」
「お、おらと行くのが嫌なら!誰か違う人を誘って行ってけろ!な、なんも心配はいらねえだ。おらは田舎もんだから、近藤君が誰と行こうと別に気にしねえだ。そ、それにおらの知り合いの映画館だから!誰も文句はいわねえし、おらも安心だ!」
「いやでもさ」
「頼む近藤君!行ってもらわないと、おらの気がすまねえ!な?なぁ?」
「まさか宮沢さん、そのためにここに待ってたの…?」
「えっ…な、何を言って…ははは!今来たばかりだよ」
嘘だ。
学校の風紀に厳しい宮沢に限って、そんなことはありえない。
靴と鞄の汚れ、それに彼女が座っていたベンチの跡を良く見てみろ。他の部分に比べて、そこだけ異常に綺麗になってるじゃないか。長い間、座り続けたからそうなってるんだ。
僕は宮沢に強く言った。
「誰よりも遅刻にうるさい宮沢さんに限って、それはないだろ。いつもなら、とっくに学校についてる頃だ。嘘をつくなよ」
「ご、ごめん!お、おら近藤君に謝りたかっただ。あんな風に…その…みっともねえとこを…」
「やめろよ!」
「おらが悪かった。悪かったよ。でも、おらは近藤君のことが…」
「やめろ!いくら装っても、僕にはわかるんだぞ!」
「そんなぁ、ひどいよぉ。本当の事を言うのは、おらだって恥ずかしいだよ…」
「やっぱり嘘だったのか!」
「嘘じゃねえだ…信じてけろ…。どこかで近藤君の心を傷つけたかもしれねえが、おらは近藤君と仲良くなりたかっただけなんだ。他はどうでもいいだが、それだけは信じてけろ…なぁ…なぁ…」
僕は、頬を紅潮させながら眼を逸らす宮沢を見て、昨日焼きついた罪悪感を思い出した。
昨日あれほど悪魔に汚染されたはずの良心が、こびりついた矮小な気持ちを晴らし、僕の心の器は、宮沢への謝罪の気持ちへ満ち満ちて、やがて溢れていく。
「ふん、わかったよ!行ってやるよ!今度の日曜日な!」
「本当け…?」
「でも、他に誘う誰かなんていないから、宮沢さんと行くよ!」
「あ、ありがと」
「だから、いつも通り笑っててよ!めそめそしてる宮沢さんなんて気持ち悪いよ!」
「ん。んだなぁ。おら、馬鹿だけど元気だけが取り得だ。ありがとな近藤君」
「勘違いするなよ!僕は今までのこと、許したわけじゃないからな」
「ははは、お、おら。近藤君と一緒に居れれば、それでいいんだ…」
なんだ。なんとも不思議な感覚だ。
どこか胸の奥が、すっきりとするような。どんよりとした曇り空が晴れたような。
何物にも変えがたい、気持ちの良い、そよ風が僕の心を駆け抜けてゆく。
「あ、バスが来ただ。急がないと遅刻するべ!近藤君!」
「あ、ま、待ってよ」
僕らはバスに飛び乗った。
宮沢は、僕の隣に座りながら、停留所に降りるまで終始笑顔だった。
何故だか僕も、彼女の笑顔を見て安心感を覚えた。なんだかんだで僕も、罪悪感への埋め合わせが出来た事が嬉しかったのかもしれない。
その日、僕らは初めて学校に遅刻した。
―――――――――
日曜日の朝。
僕は待ち遠しかったような、もっと先であって欲しかったような複雑な気持ちで目覚めて、乱れた寝巻き姿の体の腱と言う腱をグンと伸ばしながら、うっすらと結露のついた窓の外を覗く。
土臭そうな田舎道の上には、まばらに白い雲が広がっていた。
およそ晴れてはいたが、念のため僕は、天気予報で今日の天気を確認した。
降水確率30%。
降るんだか、降らないんだか。まるで今日の僕の気持ちのように優柔不断な数字に苛立ちを覚えた僕は、珍しく朝食の時間に出くわした両親に外出の言伝をして、そそくさと自室で準備をして家を出た。出かける時に驚いたのは、いつも忙しそうにしている母が「あら友達?行ってらっしゃい」と微笑みながら玄関まで送ってくれた事が印象的だった。
日が昇り、すっかり暖かくなった土臭い田舎道を歩く僕の手の中には、一枚の映画チケットが握られていた。宮沢から貰った薄っぺらな前売りチケットには、今日見る映画のタイトルが書いてある。
『甘い約束を』
題名からいって恋愛映画?いわゆる少女趣味の延長線か…?
僕は駅に進む足を一瞬止めて立ち止まった。
宮沢は知り合いから貰ったと言っていたが、実のところ、これは彼女の趣味なのではないだろうか?実際、宮沢は小学校高学年の頃から、周りを囲む女子連中に吹き込まれてやたらとこういう物に触れていた。恋だの愛だのと一人で騒ぐのは結構な事だったが、その事に関して僕にやたらと絡んできた。僕はその度に、心の中の気恥ずかしさを隠しながら冷たくあしらっていた。それでもしつこく迫る宮沢の鈍感さにも呆れたが、僕は負けなかった。
物心ついた頃から、人を愛するという事が一番苦手だったからだ。
チリンチリン…!!
その時、田舎のあぜ道を通った自転車の呼び鈴が僕の背中を貫くように鳴り響いた。
狭い道の真ん中で立ち止まった僕が邪魔だったのだろうか。だか、そのおかげで止まっていた足は、意志とは無関係に動き始めた。帰ろうとも思っていた僕の意思は、流されるまま駅に向かっていく。
何でもいい。これで宮沢に謝れると思えば。
はっきり言って、この時の僕は相当ヤケッパチだった。
都会に居た頃、映画なんて興味が無かった僕が、誰かと映画を見に行くなんて前代未聞だ。見ろと言われて流行りの映画を何本か見たが、見ることに嫌悪感を抱いていた僕が感情移入し、感動に足りえる物など無く、どれも会話と教養のための惰性で見ていた。娯楽に疎い僕が、まさか、わざわざ映画館に行くなんて…。ああ、もう、どうにでもなれ。
差し迫る憂いの時間を想像しながら、僕は電車に乗った。
―――――――――
車内での時間は、あっという間に過ぎ、僕は隣町の駅を降りた。
七つ並んだ改札口に乗客が人を押しのけて歩いてゆく。隣町の駅は、普段僕らが通う閑散とした駅と比べれば随分開発が進んでいた。ここは、田舎の中でも都会のほう。いわゆる、田舎の中でも数少ない娯楽の集う繁華街だった。定期を使った乗り継ぎの清算を済ませると、僕は人の波を潜って、出来たばかりの映画館まで直行した。
気付けば、いつの間にか、僕の進む足は、速かった。
曇り空が浮かぶ町並みを抜けて、映画館に着く頃。
僕は、手につけた銀色の腕時計をサッと見ると、時計の針は午前9時4分を指していた。
速すぎた。どう考えても速すぎた。宮沢と決めた集合時間は、映画館の近くにある、ドアに鈴のついた古びた喫茶店の前の街路樹の下で10時。映画が始まるのは10時30分。時間を潰す術も知らない僕が、こんな時ばかり張り切って速く来てしまう。
張り切る?いや、張り切ったわけじゃない。
たとえ相手が宮沢だとしても、遅れてはいけないと思っただけだ。
思いつくだけの言い訳を考えながら、僕は次第に思考する事を諦めて、映画館に集まり始めた人ごみから逃げるように、横断歩道を渡り、集合場所の目印である喫茶店の方へ向かった。
「はぁ…」
どんよりと沈み出した曇り空。
一雨来るのか…僕は、喫茶店の蝋細工の食品が並ぶ、ガラスで出来たサンプルショーケースの前で、思わずため息をついた。時間にうるさい宮沢のことだから、きっと遅れることは無いと思うが、それも集合時間の5分ないし10分前程度だろう。それまでの間、僕は街行く人の目に晒されなければならないのか。これじゃまるでサーカスのピエロだよ。…まあ、サーカスに行った事はないけど。
「こ、近藤君!?」
その場に立ち尽くしていた僕の右側から、驚く声が聞こえる。
なんだ?知り合いか?僕は声に気付かなかった風に左を向き、チラリと喫茶店のサンプルショーケースを覗く。
「近藤君!」
コンクリートを蹴ってどんどん近づいてくる声。僕は無視を続けた。
やめろ、そのまま過ぎ去ってくれ、僕は近藤じゃない。今だけ近藤に似た誰かだ。馴れ馴れしく、近寄るんじゃない。
「おーい!近藤君!おらだよ!宮沢だよ!」
「えっ」
宮沢。という言葉に、ショーケースを覗いていた僕は反射的に右へ振り向いた。
遠くから一生懸命に手を降る、少し背の高い年頃の中学生。僕は、なんとなく懐かしさを感じた。私服姿の宮沢を見るのなんて小学校以来、久々かもしれない。走りながら帽子を片手で押さえて、僕の立つ位置に速力最大で近づく宮沢。編みこみの入った白い靴がコツンと音を立て、肩から提げられた小さな赤色のポシェットが跳ねる。
「近藤くーん!あっ」
ドタッ!
手を降る宮沢が道路の隙間につっかかって転んだ。
その拍子に、帽子を押さえていた手は外され、吹く風にふわりと浮かんだ麦わら帽子を目にした僕は、思わず走り出して地に付く前に赤いリボンのついた麦わら帽子を捕まえた。
「い、痛たた…」
「はい、これ」
「ご、ごめんねえ近藤君。帽子…拾ってくれてぇ、ありがとう。てへへ、おら、ドジだなぁ。近藤君の姿見て慌てちまって」
「大丈夫宮沢さん?立てる?」
「へへっ、おら丈夫だから。このとおり!だ、大丈夫だぁ」
「膝、すりむいてるじゃないか!」
「こ、こんなもん。唾つけときゃ、そのうち直るっぺー」
「ダメだよ!もしバイキンが入ったらどうするんだ!」
「きょ、今日の近藤君。なんだか、優しいだなぁ」
あれ?何でだ。宮沢にそういわれて見れば、確かにおかしい。
なんで僕は、こんな優しい台詞をすらすら言えるんだ。宮沢を傷つけたという罪悪感の延長?…そんなんじゃない!そんなんじゃ!
僕は、目の前で微笑む宮沢を背けるように、辺りを見回した。
街行く人たちは、僕らに視線を向け始めていた。この聴衆たちの視線。僕は、なんとも気恥ずかしい気持ちに陥った。
「宮沢さん、早く立ってよ。…皆が見てるじゃないか!」
「え、あ。ああ。ごめんねぇ近藤君」
「もう!何やってるんだ!行くよ!」
「え、こ、近藤君!」
倒れた拍子に集まってきた田舎者の野次馬達の視線を感じ始めた僕は、渡した麦わら帽子をグイッと宮沢に被らせると、宮沢の手を掴んで引っ張り、そのまま喫茶店のほうに逃げるように駆け込んだ。
雨が、ポツポツと振り出した。
――――――――
カランカランカラン
古びた喫茶店のドアについた鈴が、数度鳴る。
恥ずかしさの余り、思わず中に入ってしまった僕と宮沢だったが、この喫茶店は外観からは想像できないほど硬派な店だった。流れるジャズ、立てかけられたイラストは黒く滲み、苦みばしった香りが店内中に広がる。いわゆるコーヒー通が通うような、専門店だった。
「いらっしゃい。おや珍しい、随分と若いのが来たね」
茶色のパイプをふかしながら、本を読んでいた初老のマスターの声が僕らを驚かせる。
すすぼけた店内時計が示す時刻は9時14分。外の人たちの喧騒が消えるまで、とりあえず落ち着くために席につこう。なあに上映時間までは、まだたっぷりある。慌てる事は無い。僕は、無意識の内に宮沢の手を握って奥の席に向かった。
「こ、近藤君。そ、その。お、おら。おらの…」
「?」
奥の席に向かう僕の背中側から、宮沢が恥ずかしそうにどもり声をあげる。
なんだ?と思った僕は、振り返って宮沢を見た。青のワンピースに白いカーディガン姿の宮沢は、僕を見ながら赤面していた。よほど、さっきのが恥ずかしかったのか?それは僕も同じだ。だから入った事もない喫茶店に飛び込んだんだ。
しかし、宮沢が赤面していた理由は他にあった。
「お、おらの…てっ!お、おらの手。その、近藤くん…手がっ…!」
「えっ?…うわあ!」
なんということだろう。
僕は無意識の内に、宮沢の手をギュッと握って離さなかった。いつの間にか、接触していたことさえ忘れていたのだろう。僕は、動転する脳の指令に従って、まるで払いのけるように宮沢の手を離した。
「し、しかたないだろ!慌ててたんだ!」
「べ、別におら、気にしてねえだ!むしろ…ちょっと嬉しいぐらいだ」
「気持ち悪い奴!さっさと席につけよ!」
僕らは喫茶店の一番奥の席についた。
席につくまでは良かったが、それから双方とも気恥ずかしさが残ったのか、互いに顔を背けて5分程度の沈黙が続いた。僕は、チラチラと宮沢を見ていた。服装からして、いつもの宮沢の雰囲気とは違う。見たことも無い青のワンピースと白いカーディガンは、まだ値札がついてそうな新しさが見えた。赤いポシェットも、靴もそうだ。どれも昨日買ったばかりの新品と見間違えるほど綺麗だった。いつも学校で会うセーラー服とはまるで違う。
似合うとか似合わないとかそういうのではなく、僕は宮沢に異質な感じを覚えた。
俯いた薄桃色の顔をうかがいながら、僕は宮沢の、どこか大人になれない子どもの背伸びの仕方が愛らしく、可愛く思えた。
…可愛く?待て、可愛くってなんだ!おかしい!
僕は孤独が好きだろ!孤独と自分以外は愛せるはずがないじゃないか!
僕は、いつの間にか、彼女を意識していた。
まだ続く静寂。ポツポツ降っていた外の雨は、次第にザーザーと本降り手前の様子を見せていた。俯きながらもチラチラ周りを見回す宮沢。僕も負けじと辺りを見回す。実に無駄な時間だが、二人の距離感は、静寂というそのバランスを崩さずにいた。
そんな二人の静寂を打ち崩したのは、茶色のトレイに水の入ったコップを運んできたマスターの声だった。
「ここいらの学生さんかい?本来なら学生はお断りなんだが、傘も持っていないようだし、雨宿りなら仕方が無い。若いの、何にするかね。この店はちと高いが、本格的だぞー」
僕は置かれるコップの水を一口飲むと、マスターの声に従ってメニューを開いた。
だがそこに待っていたのは、世界史の地図帳のような名前の数々だった。
「な、なんだこれ…?」
「ん…?近藤君、そんなに難しい顔して…なんだべ。おらにも見せてけろ」
僕は宮沢にメニューを渡した。
わかるはずがない。勉強の出来る僕だってわからないんだ。成績で劣る宮沢にわかりっこない。コーヒーだけで何十種類も項目があるんだ。どう考えても、宮沢にわかるはずがない。
「はっはっ、どうするかね。若いの」
マスターが、僕の不安を見抜いたように、間髪居れずに催促する。
ありえない。このタイミングで、それを言ったら。頼まざるを得なくなる。くそっ!こうなったら知っている単語を言おう!メニューをじっと見つめる宮沢には悪いが、僕はコーヒーと言えばこれ!という単語を教わっていた。
「ぶ、ブルーマウンテン。ホット。砂糖なしで」
「おっ、若いのに知ってるね〜」
どうだマスター。決まっただろう。
おくびにも出さないが、僕だってコーヒーの種類ぐらい言えるんだぞ。ふう。しかし、これで楽しみも増えた。目の前の宮沢が何を頼むか。どれほど滑稽な言葉を吐くか、嗜虐的な思考をフル回転させると、僕は何となく背筋がゾクゾクした。
「あのう…」
「ん?どうしたね、お嬢さん」
さあ言え!恥ずかしさの余り、顔から火が出るようなメニューの名前を!
宮沢!言え!どんなに大人ぶっていても、僕より劣るという、その証拠を言うんだ!
「こんのお店。カフェオレ、無いんですかぁ?」
ずわああああああああっ!ば、馬鹿な!宮沢の奴、なんて無難な選択なんだ!
硬派な本格コーヒーを売りにするマスターの店で、ミルク入りのカフェオレなんて、裏技に近い選択肢じゃないか!く、くそー。そんな選択肢があるなら、僕もそれにしておけばよかった…。
「ははは。背伸びする坊ちゃんはブルマンで、可愛いお嬢さんはカフェオレね。すぐには出来ないから、ちょっと待っててくれよ」
マスター、余計な事を言うな。僕だってカフェオレがあるなら、カフェオレにしてたさ!まったく宮沢にしてやられた。田舎者の素直さに、都会の見栄が負けた。圧倒的敗北感の中で、僕は香り高く、値段も高く、苦さも高級な、ブルマンコーヒーが来るのを待った。
そして、トレイに乗せられてきた二つの飲み物が僕らの前に置かれると、僕らは良い香りの中で、次第に凍っていたはずの静寂を溶かしていった。
「ごめんねぇ近藤君。おら、母ちゃんに、こういう所さ連れてきてもらう時は、いつもカフェオレなんだよぉ」
「ふ。田舎者め」
「近藤君は大人だなぁ。おら、コーヒーって一度しか飲んだ事ねえだが、そんな苦いの砂糖なしじゃ、飲めねえだ」
「ま、まあな。僕は都会でいつも飲んでたよ」
「やっぱすごいねえ近藤君は。何にしても様になるだよ」
「うぐぐ…」
襲い掛かる苦味に悶絶しながら、会話する僕。
なんとか表情を悟られまいと、ちびちびとコーヒーを飲んでいた僕に対し、カフェオレを悠々とすする宮沢は、実に疎ましい存在に思えた。宮沢はカフェオレのおかげか、赤面していた顔からは随分と赤みが消え、普段の彼女の顔に戻っていた。
「あ、映画まであと30分はあるだ。終わったらどうするか、今の内に決めようねぇ」
「終わったら?どういうこと?」
「なに言ってるだよ。せっかく町まで来たんだ。普段はこんな都会…と言っても近藤君からすれば、ここも田舎か。まあ、羽を伸ばすのも、おら達の役目だってことだ」
「…僕は嫌だよ」
「そ、そうだよなぁ。おらも近藤君に映画見てもらうつもりで来たんだったのすっかり忘れてただ。お、おらばかり浮かれてばかりで、ほんと、ご、ごめんなぁ近藤君」
「宮沢さん。その、いちいち謝る癖。気になるから止めてくれないか?あの時、君を傷つけたのは僕なんだし。何度も謝られると、意味合いが薄くなるよ」
「ご、ごめんな…あっ!」
「…」
「そ、そうだ!近藤君!お、おら映画のパンフレットさ、もらってきただよ!一緒に見るべ!」
「…他にやることもないし、仕方ないなぁ」
僕らは喫茶店の中で、少しずつ打ち解けながら、時間が過ぎるのを待った。
近い。手を伸ばせば簡単に肩の触れる距離。赤の他人に、これほど顔を接近させることは今まで無かった。だが、僕が本当に怖かったのは、孤独を愛しているはずの僕が、他人との接触を意識して、卒なく会話をこなしていることだった。
その内に、雨が上がった。
僕らは会計を済ませると、来たときと同じ鈴を鳴らして喫茶店を出た。
日差しの見え始めた空の下、濡れたコンクリートの匂い鼻で感じて僕らは、大人びた口調と態度で、ちょっと背伸びをしながら映画館に入っていった。
中学生の僕らが、姿容を背伸びすることは、何も悪くない。
悪かったとすれば、口の中に残るコーヒーの味が苦かったことくらいだ。
―――――――――――
駅からの通り沿いにある新しく出来た映画館は、誰の目から見ても繁盛していた。
今やってるのは、流行りのSF映画、アクション映画、恋愛映画など、洋画邦画関わらず、様々に放映されていた。
意気揚々と喫茶店を出て、麦わら帽子を片手にした宮沢に半ば強制的にぐいぐい引っ張られて映画館に入った僕は、静かに沸き返る客席を見ながら右側中央席につくと、ドスッと音を立てて座り、ソワソワする宮沢が隣に座ると、数度ため息をついた。
不安が的中したからだ。
朝、あぜ道を歩きながら僕が考えていた事が現実に起こってしまったのだ。
そう、つまり、僕らが見る予定の外国映画。
本題を『Promiss You』、邦題『甘い約束を』は、全てではないが、喫茶店でパンフレットをぱらぱらと見た限り、やはり、紅茶のない砂糖菓子のように気だるく甘ったるそうな、少女趣味の延長線に出来た映画のようであった。
「じょ、上映時間までぇ、あっと十分だけどぉ、近藤君何か買っとくもんあるけ?」
「いや。さっきコーヒー飲んだばかりだし。いざとなれば抜け出して売店に行くよ」
「で、でも映画の途中で抜け出すなんて」
「あ、いいよいいよ宮沢さん。僕のことは気にしなくていいから、君は映画を見てくれよ」
「そ、そうかぁ…」
場内のオレンジ色のライトの光に照らされて、隣の席に座った宮沢は、口元は笑っていたが、目は、どこか寂しげに僕を見つめる。僕は宮沢の結わいた黒髪に薄らと漂う整髪料の匂いを鼻で感じながら、強い言葉で言い返す。
「映画、始まっちゃうよ。好きなんでしょ?こういうの」
「え…ははっ。お、おらはチケットもらっただけで…そういうのはあんまり…」
「宮沢さん」
ピシャリと、宮沢の心を突き刺すような僕の視線と口調。
宮沢は、バツが悪そうに笑いながら、目線を何処かへ泳がせる。
「は、はははっ、な、なんだべ近藤君。そ、そんな目して、おらを見たらダメだよー」
宮沢の、この態度、この様子。
やはり、嘘か。
人の心を見透かしたりするのは、余り良くない事だと教わっていたが、宮沢のつく嘘のモーションは、どこか未熟で、どこか見え見えとも思えるぐらい、わかりやすかった。
嘘のつけない性格。実際、そこが彼女の良いところなのかもしれないが、なぜだか僕の心はこの時、恋愛映画を見るという苛立ちから、宮沢の小さな嘘を許せなかった。
大人の気持ちを持ってすれば、黙認することも出来たであろう小さな嘘。それが他の人ならば許せたのかもしれないが、僕は宮沢が『僕に対して』嘘をついたという事実が許せなかった。
あ、あれ?ゆ、許せない?傷付けて謝罪すべき僕が、何故?
おかしいな。なぜ宮沢だけに、こうも固執するんだ?
視線と顔をそのままに、再び頭の中で始まる僕の葛藤。
幼少、早い段階で自分で植えつけた歪んだアイデンティティーと、より感情的な反応に動揺する素直な自分との静かなる戦いの時間を止めたのは、宮沢の声だった。
「ご、ごめんなさい近藤君。本当は、お、おらが買っただ」
「やっぱりね」
「そう怒らねえでけろ…。おら、どうしても近藤君と映画さ見たくて」
「別に怒ってないよ」
「いんや、近藤君は怒ってるだ。やっぱ、おら…一人で映画さ見…」
「誰も見ないなんて言ってないだろ宮沢さん」
「そ、そうかぁ。ははは、おら、また近藤君に嫌われたかと思っただ」
「いつ僕が宮沢さんを嫌いなんて言った?」
「…あの時」
宮沢の目線が下を向く。
その時、僕はハッとした。
そうだ。たしかに言った。心を悪魔に変えた僕が、あの日確実に言っていた。
何をやってるんだ。何をしたいんだ僕は。今日は宮沢へ謝ろうと思って映画館にきたんだろ。
あんなに傷付けた宮沢の心に、僕はまた鞭を打とうとしていたのか。この外道め!
ごめん宮沢!本当は君に謝りたいんだ!
僕は何度も心の中で、大きくそう叫んだ。
だが、言えない。唇が震える。ごめんなさい、と言う、たった一言が重い。
そして、僕が実際放つ言葉は、謝ろうとする人の態度では無かった。
「き、記憶力は、割といいんだね。流石、風紀委員」
「そんな…。おらは別に、そういうつもりじゃ」
「まっ、まあいいさ。せっかく誘われたんだ。ここは宮沢さんの顔を立てて見てあげるよ」
「ありがとうなぁ、近藤君。やっぱり近藤君は優しいだ」
「でも嘘はダメだから。僕に嘘は」
「し!しねえよぉ!おら、これから近藤君には絶対嘘はつかねえだ!」
「ふん、どうだか」
ブスッとした態度で宮沢を見下す僕。
本当は、そんなことをしたいんじゃない。長い孤独の中で、僕が忘れ失ってきた返答の仕方。誰かの心を泣かせたら、心で謝るという単純な回路の復帰が何故出来ないんだ!
誰か、この捻くれ者の心の声を宮沢に開かせてくれ!
素直な気持ちを表せずに、葛藤の坩堝に落ち込む僕。
だが宮沢は、そんな僕の心を察するように、条件をつけてきた。
「じゃ、じゃあ、約束しよ!もし、おらがこれから嘘をついたら、今後二度と近藤君の前には出ねえだ!」
「えっ…」
宮沢の意外な発言に、僕は驚きを隠せなかった。
「何もそこまで」と思ったが、案外、孤独をアイデンティティーにしている僕にとっては「都合のいい約束なのではないだろうか?」とも思えてしまう。
「どうだ近藤君?」
「…」
「悪い条件じゃなかろ?お、おら、近藤君の心を察して言ってるだ」
「うーん…」
僕は俯きながら悩んだ。
ここにきて、未熟だと思っていた宮沢の心のモーションが読めない。嘘をつくような子じゃないから、おそらく真面目に言っているとは思うが、余りにも約束の幅が広すぎる。かといって、引き下がるようなおしとやかな少女でもない。
悩む内、オレンジ色のライトが暗くなり始め、上映の時間が迫る。
いつまでも悩む僕と、暗くなり始めたライトに焦ったのか、宮沢はいつになく強気で、挑発気味に言った。
「こ、近藤君!君は優柔不断だなぁ!いつもは大人の真似事してるみたいに、孤独だなんだって、カッコつけてるけんど、おらみたいな女の子の前で約束一つ出来んのけ?」
「なんだって!君が約束を守れるかどうか心配だったのさ!」
「おら、馬鹿だけど約束は守れる子だ!」
「わかってるよ!宮沢さんが誰かと約束を破ったことなんて、今まで一度も無いじゃないか」
「じゃあ早く約束するだ!」
「むうう…」
「さあ早く!そろそろ映画が始まっちまうだよ!」
僕は焦った。宮沢の元気な声は、映画館に響く。
上映時間が迫っているというのに、この調子では、上映中も吼えているかもしれない。実際にもう同じ映画を見る、場内のお客のどよめきが、僕の耳に聞こえ始めた。
そして僕は、周囲の注目を浴びる気恥ずかしさと、目の前の宮沢が起こす面倒事を解決するため、よくよく思考した自分の結論も出さないまま、宮沢に強く言った。
「わかったよ!約束だろうがなんだろうが、してやるよ!だから静かにしろ!」
「よーし!指きりだ!」
「これで終わりだな?」
「んだ。けども、おらだけじゃ不公平だ。近藤君も、おらの言う約束を守るだよ!」
「約束?ああいいさ、どうせ宮沢さんの考える事だ。たいしたことないだろ。いいよ、それで!もう映画が始まる!静かにしないか!」
「約束だかんなー!」
互いに鼻息を荒げながら、僕らがドカッと音を立てて椅子に座ると同時に、映写機が回る音と供にスクリーンに巨大な映画会社のテロップが浮かび上がり、スピーカーから音が放たれる。美男美女が交差し、青春の内に躍動する恋愛映画が始まった。
僕は苛立ちによる興奮の余り、1時間45分もの長い上映時間、一回も席を立つことなく、ただ広がるスクリーンのラブロマンスの数々を淡々と凝視した。
―――――――――――
終わった。実に長い上映時間だった。
この映画、隣に座った宮沢は、恥も外聞もなく、手製のハンカチをビショビショにするほど、その場でボロボロ泣いていた。それに比べて僕は、泣くどころか暗がりにペンを走らせ、メモ帳に英語を書いていた。
僕にとって、この映画は、つまらないとかつまるとか、そういう次元ではない。
いわば、1時間45分の長時間に及ぶ英語の授業だった。メモ帳に走らせた字。アルファベットの羅列の意味は、映画の内容というより、日本語の字幕を英語に当てはめたものだった。わからない単語があれば、スピーカーから流れる演者たちの発音を元に、クエッションマーク付きで即興で書いた。英語と速記術には自信があったが、流石に休憩もなく1時間45分も続けると、頭が痛くなった。
最終的に映画の内容は良くわからなかったが、最後に見た場面は、海へ消えてゆく男女を乗せた白いボートが大空に向かって黒くフェードアウトし、ハッピーエンドを迎えたのだろう。THE・ENDと書かれたテロップが終わると、主演女優らしき女性が歌う曲と供に、次第に下から上へスタッフクレジットが流れはじめ、観客達は席を立ち、誰もが話し声をあげながら、がやがやと非常口の明かりのついた扉を潜って映画館の外へ出てゆく。
エンディングが終わると、あたりをオレンジ色のライトが再び照らす。
隣で声を殺してボロボロ泣く宮沢の姿を見て、僕は思わずメモ帳をしまって宮沢に声をかけた。
「宮沢さん。終わったよ。映画」
「わ…わかってるだ。でも…でも…うううう」
呆れた。
女の子というのは、こんなに感受性の高い生き物なのか。
他の女性の観客たちもそうだったが、涙を流す宮沢のそれは、僕には到底理解できなかった。
「良い映画だぁよぉ…ズズッ…なあ近藤君おら、感動しちまっただよぉぉぉ」
「…?」
なんなんだ。女の子が鼻をすする音を出すほど、そんなに感動する内容だったか?
たかが、見知らぬ男と女が恋に落ち、様々な悶着の末、本当の愛に目覚める。
イコールを境目にして両端が同じになるように仕組まれた方程式のようなもの。出来上がったチャートを軸にすれば、大よそ誰でも…そうだ、定石を踏み外さなければ、中学生の僕にでも書けそうなシナリオじゃないか。これの何処に感動があるのだろうか。不思議でならない。
「うぇぇぇ〜ん!こぉんどぉぐぅぅぅぅん…」
「ったく…ほら、ハンカチ」
だが、目の前の、ただ泣き濡れる中学生に上がったばかりの少女は、席を立つ事も出来ないほど、この恋愛映画に感動を得ていた。僕には到底、信じられない光景だった。
余りにも人の目につく彼女の嗚咽を聞いて、僕はそっとポケットから白色のハンカチを差し出し、あふれ出る涙と声を拭わせた。
優しく差し出す僕の手の動きは自然だった。
まるでシナリオ通りに動く、映画の中の男女のように自然に手が出た。
「えぐっ…えぐっ…ありがとよぉ」
「人が見てるのにみっともない。おい、そんなに泣くなよ」
「だって、だってぇ…」
「泣いた宮沢さんより、笑ってるほうが僕はいいな」
僕がそう言うと、宮沢の涙に濡れた頬は一瞬にして薄桃色に変わってゆく。
わかりやすい心のドギマギが、態度や行動に出る宮沢を見て、僕はハッとした。
無意識に、素直な言葉が出ている…?
「な、何言ってるべ!からかうもんじゃねえだよ!で、でも。そ、それってどういう意味だ?」
「別に。特に意味はないよ。ただ笑顔のほうが似合ってるって思っただけ」
「…じゃ、じゃあ、おら笑うだ!へへっ…へへへへへっ」
「気持ち悪い。涙まみれの笑顔なんて見てらんないよ」
劇場のオレンジライトの明るい輝きが、僕の前で霞む。
涙目ながらも、僕の言葉に煌いている彼女の瞳が、僕の心の影を照らしだす。
恥ずかしくない。
考えた言葉が、すらすら出る。意識せず、僕の口から。
「それにしても結構泣き虫なんだなぁ、宮沢さんって」
「おらだって女の子だぁ。涙流すくらいセンチメンタルになるときもあるだよ」
「へぇ、意外。宮沢さんでも、センチメンタルなんて言葉知ってたんだ」
「ひ、ひどい言い草だなぁ。近藤君」
「そうかな?本当のことを言っただけなんだけど」
「むぅぅぅ…」
「宮沢さん。安心していいよ」
「えっ?」
「僕は約束しなくても、宮沢さんに嘘はつかないから」
「あ、え、ええ?」
「いつも馬鹿正直で、自分勝手で、おっちょこちょいで、お節介で、目障りで、僕の邪魔者で…ああ、それとお決まりの恋愛映画を見るくらいで泣いちゃうような泣き虫の宮沢さんには…」
「も、もう、やめてけろ。おら自信なくしそうだよ」
言葉はどうあれ、僕はいつの間にか、宮沢に対して素直な気持ちで喋っていた。
僕との会話に苦笑いをする間に涙が晴れた宮沢は、僕のハンカチを丁寧に四つ折にして返して、ため息混じりに俯いて、ボソッと呟いた。
「はぁぁ。おらは何で、この人の事、好いてしまったんだろなぁ…」
好いてしまった。僕の耳には、その言葉がはっきりと聞こえていた。
だが、僕はあえて聞こえないふりをした。
「え?何?」
「な、なんでもねえだよ!おらの、ひ、独り言だ!」
「ふ、ふ〜ん」
少なからず僕も動揺はしていた。
だが、その時は、変に意識しないことで格好つけようと思ったのかもしれない。
「じゃ、じゃあ、とりあえず出るべか近藤君」
「え、あ。う、うん。そ、そうだね宮沢さん」
「それじゃあ行くべ!」
「え、ちょっと、それ僕の鞄!」
赤面に近い色を帯び始めた宮沢は、気が動転したのか、僕の鞄と、自分の赤いポシェットをヒョイと腕へかけると非常灯のついた劇場のドアに向けて走り出した。ドアを開けて入ってくる風を、深く被った麦わら帽子の背中から感じていた僕は、その風に引き寄せられるように、映画館の外へと出た。
――――――――――
「近藤君。わりいなぁ、こんな時間まで」
「まったくだよ。店を出るたびに、僕の鞄を持っていくんだから」
時が経った。
僕と宮沢は、すっかり人の居なくなった夜の駅の近くを歩いていた。
映画館を出た僕は、すぐさま駅に足を進めようと思ったが、宮沢は僕の鞄を持ちながら、寂しげな顔で僕に訴えかけた。「行ってはダメ」といわんばかりの宮沢の顔に、今の僕は「NO」と言えるほど強い拒否感がなかった。おかげで、散々嫌だったはずの『街遊び』のプランに、僕は、すっかり乗せられてしまっていた。
それほど拘りもないのに、遅い昼食にと二人でオムライスを頼んだ洋食屋。
たいして上手くもないのに、人形目当てでUFOキャッチャーをしたゲームセンター。
ろくに買物もしないのに、キャッキャッと各フロアを好奇心で練り歩いたショッピングモール。
神様なんて居ないと思っているのに、やる事がなくなってお参りした神社。
隣に宮沢の笑顔があるだけなのに、どれも春先に吹きぬける風のように鮮烈で、早い。
およそ時計の針が進むのを早めたと思うほど、時間が経つのが早い。信じられないほど。
いつもは毛嫌いする宮沢…いや、他人という存在と過ごす時間が、これほど短く、楽しく感じたのは、僕自身、意外なことだった。
たしかに、その中には、傷付けてしまった罪悪感にかられた謝罪の気持ちもあっただろう。
だが、純粋な宮沢と会話を重ねるうちに、僕は重く閉ざされた心の扉が次第に開きつつあるのを確かに感じていた。ここ数年間、両親以外、誰にも開かなかった僕の心の扉の錠は、宮沢の持っている鍵にぴったりだったようだ。
「近藤君。もう駅だよ」
「あ、ああ」
ふと僕は、腕時計と電車の出る時刻表を確認した。
まだ列車の出発までは20分以上時間がある。別れ難いとも思えてきた僕だったが、その瞬間は必ず訪れることを知っていた。手を振って、別れの挨拶をすれば、それで全てが成立する。今日という謝罪の日の終わりだ。
「なあ近藤君、まだ時間もあるし。ちょっとそこまで行くべ…」
「あ、ああ」
宮沢の言葉に、僕の心が少し浮き上がった。
僕は宮沢に連れられて、近くの公園のベンチに座った。
「ど、どうだった?」
「え?」
ベンチについた途端、急に宮沢が質問する。
どうだった?今日という日が、か?と思った僕は、とりあえずいつもの調子で返答をする。
「休日にしては疲れたよ」
「そうかぁ…」
「まんまと宮沢さんに、そそのかされたよ」
「お、おら、なんだかんだ言って自分勝手に近藤君のこと連れまわしちまったもんなぁ」
「まったく。もうやめてくれよな。こういうの」
「ははは…ごめんなぁ…」
乾いた笑いを浮かべる宮沢は、何となくバツが悪そうだ。
僕はそれを察することはできたが、まだ心の底に残る小さな悪魔という取っ掛かりが邪魔して、彼女に優しい言葉を言えないでいた。
「なあ、近藤君」
「え?」
しばしの沈黙を置き、宮沢が僕の名前を呼ぶ。
「あの映画。そんなに面白くなかったけ?」
「ああ。宮沢さんには悪いけど、面白くなかった」
「でも、近藤君、最後まで真面目に見てただ」
「字幕を目で、英語を耳で聞き取ってたのさ」
「ははは、そ、そうだったのけ。おら、てっきり気に入ってるもんだと思って…」
「映画に興味はないよ。だって、誰かが作った台本通りに人が喋るだけじゃないか」
「つ、冷てぇだなぁ。近藤君は」
「だから孤独なのさ。宮沢さんも知ってるだろ?」
自嘲気味に、今までの生き様に酔う僕。
それを見て宮沢は、何か言いたそうだった。だが一向に言う気配はない。
何か重大なことでも隠しているのか?僕は宮沢に質問してみた。
「宮沢さん。言いたい事があるなら、遠慮せず言いなよ」
「えっ…?」
「わかりやすいからね、宮沢さんは」
「ああ…うん…」
「早く言いなよ。黙っていられるより、いい気持ちだからね」
「…絶対、怒らないでけろ?」
「怒らない」
「…絶対、おらのこと嫌いにならないでけろ?」
「わかったから、早くいいなよ」
「じゃあ、言うだ!」
宮沢さんはベンチからバンと手をついて立って、僕のほうに向かって大声で言い放った。
「近藤君!おら、今日確信しただ!あんたは都会の子だが、田舎の子にも負けねえくらい、とっても優しくて良い子だ!」
「えっ?」
「始めて越して来た頃から、おらは知ってる!近藤君の本当の優しさ!傷ついて、歪んでるけども、心は誰よりも繊細で、綺麗だってこと!誰かを傷付けるのが怖くて、誰かを悲しませるのが怖くて、結局誰とも接せられねえんだ!」
「な、何を言い出すんだ。宮沢さん」
「近藤君!嫌がらずに、誰か友達を作ってけろ!おら、近藤君が、す、好きだから。誰かに陰口言われて、指差されながら生きてゆく近藤君を見るのが嫌だ!それを孤独だなんだって、認めてしまう近藤君が嫌だ!」
「別にいいじゃないか。僕の勝手だ」
「そうやって誰かのために一人になって、自分の優しい気持ちを傷付けて、素直な気持ちだせねえのは悲しいよ。孤独なんて、ただ寂しいだけで、何も生みやしねえだ!」
「君は僕の孤独を否定するのか!」
なぜこんなに宮沢が、熱くなるのかわからなかった。
怒りにも悲しみにも似た、宮沢の声に対して、僕は僕なりの理論を冷静にぶつける。
「近藤君の気持ち、おらわかるんだ」
「嘘をつくな!人気者の君に、僕の気持ちなんて、わかりっこないさ!」
「嘘じゃねえ!近藤君は優しくて!人が好きだ!」
「嘘だ!」
「おら最初から気付いてた!小学校に来たあの頃から!おらと近藤君は似てるんだ!」
「宮沢さんと僕が似てる!?どこが!?全然似てないじゃないか!」
「おらも昔はイジメられてたからわかる!近藤君もそうだべ!?」
「そ、そんなこと…宮沢さんと僕のはレベルが違う!」
日向のような宮沢に、日陰の僕の孤独のアイデンティティーなど理解できない。
誰かに言われて孤独になったわけじゃない。いつの間にか、孤独を愛してたんだ。嘘つき、インディアン、上辺人間、良い子を演じる、そんないらない物を消去していって残ったのが、僕一人。孤独そのものだったということだ。何が悪い。何が…!
「喫茶店でも、映画館でも、嫌いだって言ったおらに優しかったじゃねえか!」
「それは宮沢さんを傷付けてしまったと思ったからやったんだ!別に優しさじゃない!」
白熱の議論展開は、互いを興奮させた。
顔色は赤みを増し、呼吸は乱れ、額には汗が浮かんだ。だが、二人ともそこを逃げようとはしなかった。主張する、その思いを譲れなかったのだ。
さっきまでの静かで楽しい雰囲気から一変した、どこか喧嘩腰の二人。
孤独を愛する者と、孤独を嫌がる者。そんな平行線をたどる口論は、すでに10分もの長丁場に及んでいた。
そして、ついに宮沢は疲れたのか、麦わら帽子が置かれたベンチに座った。
呼吸を整えるように数度スーハーと深呼吸を繰り返し、僕の横で何か考えるそぶりをしながら、最後に大きな深呼吸をして、こう言い放った。
「ぷふぁああああああ!やった!おら、やっと!近藤君に、言いたいこと言えたーー!」
「うぇえあぁ!?」
宮沢の雄たけびに近い声は、僕を仰天させた。
そして宮沢は、いつも通りの笑顔を僕に投げかけた。
「ははは、本当は小学校の頃に言いたかったんだけんどね。おらも、そこまで近藤君のこと知らなかったし、傷付けるのが怖かった。でも、これで嘘はねえ。スッキリしただ」
「宮沢さん…?」
「ごめんなぁ近藤君。映画館で約束したろ?おら、嘘はつけねえ。だから、こんときに言っとこうと思ってぇ。腹の中で考えている事、全部言っておくだ」
「じゃあ、今までのことは全部…」
「ははは、本当だ。おら、近藤君が来る前は、皆に嫌われてて独りぼっちだっただ。友達も愛想でしか付き合えない人ばかりだった。近藤君もそうなんだろ?」
「うん…都会の学校でね…」
「近藤君を見て思ったんだ。おらと同じだって。でもおら、最後まで孤独が良いもんだとは、思えなかった。誰かと話したり、誰かといがみあったりして、結局他人と接しなきゃ生きれない、心の弱い人間なんだよ」
「そ、そんな。宮沢さんは強いよ。孤独しか愛せない僕よりは、ずっと!」
「いいんだ。だからこそ、おらは『孤独だけど、本当は優しい近藤君』を好きになったんだ。つーより、こりゃ格好をつけられるってことの憧れかなぁ?ははは、なんか全部言ったら笑いがこみ上げてきただよ」
「宮沢さんって…結構大胆に物を言うね」
「え?あはは、大胆だなんてそんなことねーべよ。でも、言いたい事を言えるって、大事なことだと思うんだぁ」
僕は、笑顔を浮かべる宮沢を前に自分が恥ずかしくなった。
小さな悪魔にそそのかされて傷付けてしまったはずの彼女が、こんなにも自分を理解し、守っていてくれたこと。自分の過去をサラッ言える大胆さと、嘘をつけない素直な彼女。その気持ちに気付いた瞬間、重く閉ざされていた僕の心の扉が、完全に開いた。
「宮沢さん、じゃあ僕も。本当に言いたい事言うよ」
「ん?」
僕は決心した。
僕も宮沢に対して、嘘はやめようと。
「今日は宮沢さんと居て、本当に楽しかったよ」
「こ、近藤君」
「僕は、君みたいな友達がずっと欲しかったのかもしれない。誰からも好かれて、誰からも愛されて。僕も君みたいになりたかった。でもなれなかった」
「い、今から頑張れば、近藤君だって、なれるべよ」
「いいや、僕には無理さ。君には素質がある。人から愛される素質がね。それが証拠に、君が安達先輩に告白された時、僕は嫉妬の感情が沸いたんだ。孤独を愛していたはずの僕がね。それほど君は魅力的なんだ」
「そ、そんだら近藤君に褒めてもらって、な、なんかおら、ムズ痒いよっ」
「だから僕は、言わなくちゃならない。君に一言を」
「なんだべ?」
「今まで僕を守ってくれてありがとう。そして、あの時は、ごめんなさい」
たった一言。
詰まっていて、二度と通らないと思っていた、言えなかった感謝と謝罪の言葉が言えた。清々しさに目覚めた心の息吹、その躍動が、爽やかな風となって僕の体を走る。
「い、いいだよ!お、おら。馬鹿だからすぐ忘れちまうだ。べ、別に気にしてねえから!」
手を麦わら帽子のツバにつけ、グイッと深く下げて赤面を隠す宮沢。
小さな街灯に照らされながら、もじもじと鼻と唇を震わせて恥ずかしがる宮沢を見て、僕はふいに映画館での一コマを思い出した。
「そういえば、君が映画館で言ってた約束って何?」
宮沢は、僕の言葉をきくなり、再びもじもじと体を震わせ始めた。
嘘をつけなくなった僕らの関係でも、そんなに恥ずかしい事なのだろうか?僕は意地悪く聞いてみた。
「ねえ。気になるから。言ってよ宮沢さん。嘘はないんだから。恥ずかしがらずにさ」
だが、それでも宮沢は答えなかった。
答えられないようなことなのか?とりあえず時間が気になったので時計を見る。
やばい、そろそろ電車が来る時間だ。僕は、恥ずかしがる宮沢を連れて、駅まで猛然とダッシュした。
―――――――――
ホームに電車が来る。
改札を通って、僕らは電車に飛び乗った。
相変わらず宮沢は、僕の質問に答える気がないようだが、とりあえずはいいだろう。これからいつだって話は聞ける。僕ら二人は、赤の他人から、共有する二人に生まれ変わったのだから。
いつの間にか僕は、孤独の時間が消えるのが怖くなくなっていた。
自分を良く理解している人物が、こんなに近くに居ると思うと、なぜかそれまで無かった勇気が沸き、実に頼もしく思えた。
ガタンゴトン…
そろそろ宮沢の降りる駅が見えてくる。
僕の駅は二駅先。ここで宮沢にお別れになるだろう。また会えるその時が、僕にとって待ち遠しくも感じられた。
プシュー…
列車のドアが開く。
停車時間は2分弱。都会の駅から乗ってきた多くの客が降り始め、人もまばらになった車両で僕は宮沢に声をかけた。
「宮沢さん。駅だよ。降りなきゃ」
「…」
「どうしたの?駅だよ」
「…約束」
「えっ?」
「降りてけろ!」
「う、うわあ!」
まるで引きずられるように、袖の中央を思いっきり引っ張られ、ドアから飛び出した宮沢と僕。
電車の先頭でホームを覗く車掌から、その光景は見えていたが、車掌は無碍にも停笛を吹き、電車を発進させた。
ゴトンゴトン…
暗がりの田舎道に続く線路に消えてゆく電車の影を目で追いながら、僕は次の電車の時刻を調べていた。その内に駅のホームは客が消え、小さなライトだけがホームを照らし、実に閑散としていた。僕は次の列車が来るのが30分後だとわかると、ポツンとホームに立つ宮沢を見た。
赤いポシェットに麦わら帽子を被った女の子がたたずむ。
今思えば、夏でもないのに何故麦わら帽子なのか?だが、思うよりも先に、日向のような笑顔を持つ彼女には、その姿が実に似合っていた。
「なあ宮沢さん。もういいだろ?人も居ないし、聞かせてよ。僕が守らなきゃいけない約束」
僕は宮沢に問いかけると、宮沢はコクッと頷く。僕はなんとなく宮沢の顔が見たくて、思わず深く被った麦わら帽子に手をポンと置くと、ツバに手をかけ、今まで見えなかった彼女の顔を、ゆっくりと薄暗いホームのライトに照らし出した。
「お、おらとの約束。ほ、本当に守ってくれるだな?」
まだ震えている宮沢の顔には、麦わらの跡が見える。
僕は、とりあえずコクリと頷く。
そして宮沢は震える声に力を振り絞り、言った。
「近藤君。お、おら…の…こ……こ、恋…と…友達になってほしいだ!」
宮沢は、また嘘をついた。
さっき自分の心に嘘はつかないと誓ったのに。優しさが前に出てしまった。
彼女も傷つくのが怖いんだ。
「宮沢さん。僕との約束を破るの?嘘はやめなよ」
「えっ…?」
心なしか、声にも落ち着きと張りが出ていた。
宮沢には悪いけど。僕は、もう決心している。そう、僕が宮沢にもらった大きな勇気を、今度は返す番だ。
言おう、僕の素直な気持ちを。
「宮沢さん。君がどう思おうと関係ない。僕は今日、気付いたんだ。どうやら君が、僕の一番の理解者であり、親友なんだと」
「ははは…親友…近藤君なら…や、やっぱ、そうだよねぇ」
「だけど、違うんだ。僕の心は。もう違うんだ。もう、自分自身に嘘をつくのはやめたんだ。言うよ」
「え?」
言おう、僕の素直な気持ちを。
「僕、宮沢さんが好きなんだ。僕みたいな恋人でも、いいかな?」
コクンと頷く宮沢は、僕の言葉にはっきりと「はい」と答えた。
僕らは、その日、互いに一つの約束をした。
友人であり、親友であり、理解者であり、恋人の宮沢と見に行った映画のタイトルを思い出しながら、僕は、いつまでもホームから手を降る麦わら帽子の宮沢に送られ、帰りの電車に乗った。
『甘い約束を』
交わる事の無いはずの平行線は、徐々に放物線を描き始めた。
【終】