銀猫亭にて
それから、ポリニャック伯爵夫人は、お茶を運ばせた。すっきりとした味わいの花の香りが漂うお茶に、レーズンがしっかり入ったパウンドケーキ。
「美味しい!」
頬を押さえて笑顔になると、夫人もふんわりと微笑んだ。
「まぁ、良かった。やっぱり女の子が居ると、華やかで楽しいわ」
好きな食べ物や詩集、音楽についてのお喋りをしながら、いつの間にか2時間近く過ごし、私達はポリニャック伯爵邸を後にした。
「貴女さえよければ、また母の相手をしてくれないか」
ブナ林の小径を戻りながら、リシャールが振り返る。
「ええ、もちろん」
「良かった。母は身体が弱くてね。ほとんどこの屋敷から出られないんだ」
「分かっ――キャッ!」
突風が、梢を揺らしてザァ……ッと吹き抜ける。太陽が傾いたとはいえ、空は随分暗くなっていた。
「マズいな、ちょっと長居し過ぎたみたいだ」
まるでオークの森で出会った時のように、雨雲が迫っている。
「通り雨だろうから、すぐそこの宿屋で一休みして帰ろう」
リシャールに付いて『銀猫亭』という宿屋に入った頃には、小雨が落ちてきていた。
馬を店の者に預けて、1階の食堂に入る。幾つか並んだ木製のテーブルは、ほぼ満席だ。まだ昼間だというのに酒に顔を染めている者や、ガツガツと皿の料理を片っ端から平らげている者、ひっそりと仲間内で何事か語り合っている者――。
私達は、案内された壁際のテーブルで、宿屋の主が熱烈に勧めてきた、赤ワインを傾けた。塩をまぶした炒り豆と、青オリーブのオイル漬けの2品をつまみながら。
「このワイン……こんな田舎じゃ、入手はかなり難しい逸品なんだよ」
「私、あまりワインには詳しくないけれど、渋みが少なくて軽やかな香りね。美味しいわ」
「うん。僕も嫌いじゃない。ところで、産地は――分かるかい?」
先ほど『詳しくない』と言ったのに。聞いていなかったの? と、訝しんだその時、リシャールはニヤッと口の端をつり上げた。
「ミロン地方だ」
「えっ。グリンカ南部の?」
口を付けたグラスの中の液体を、まじまじと見詰める。東の隣国グリンカからの輸入自体、とても制約が多い。ましてや、ここは田舎町だ。果たして、どんな秘密のルートを通じて運ばれているのかしら?
「妙だと思うだろ」
私の疑問が聞こえたように、リシャールは眉をひそめた。
「ねぇ、ベアトリス。この国は、周辺国との同盟で成り立っているだろ」
「ええ」
「もし……どこか1ヶ所でも同盟に綻びが出たら、どうなると思う?」
ボヌールが各々の国家間の牽制を保つ機能を果たしている現状で、そのバランスが崩れたら――大国同士ぶつかり合うのは、目に見えている。
実際、ボヌールの北隣のロバックと東隣のグリンカは、かつて1世紀に渡る戦乱の時代があったと聞く。
そして、もちろん、その戦火はボヌールにも無関係で済む筈はない。
「まさか――ナタリア様のお輿入れに妨害の動きが」
「シッ!」
声を落としたものの、彼に唇を押さえられた。ドキリと鼓動が跳ねたが、それと共に嫌な胸騒ぎも感じる。
「ここに――通じている者が……我が国に?」
ワイングラスを少し掲げて、彼の瞳を覗く。
笑まずに、彼もグラスを手にカチンと小さく合わせた。
「もしかして、貴方がモンク公爵の屋敷に滞在していることって、関係がある?」
「やはり、貴女は察しがいい」
リシャールは、にっこり笑った。
「お客さん達、今夜は泊まって行きますかい?」
宿屋の主人が、お客さんの間を器用に縫って近付いてきた。
「いや、雨が上がったら出るが」
「ああ、そりゃ良かった。いえ、今ね、急に泊まりたいって旅人が来たもんですから……すみませんねぇ」
ハゲ頭のオヤジは、ニタニタと手揉みしながら「雨も、ちょうど上がった所ですし」と付け加えて去って行った。
要は、金になる客を確保したいので長居してくれるな、ということなんだろう。
「現金なもんだね」
苦笑いでグラスを開けたリシャールは、「出ようか」と立ち上がった。
彼の正体を知ったら――さっきの主人はどんな顔をするんだろう。そんなことを考えつつ、彼の後に続いて馬達の待つ小屋に行く。
雨は上がっていたが、すっかり陽は落ち、遠くの空に赤紫の残照が見えた。
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「待たせたね」
ラファルの首をポンポンと撫で、外していた鞍を再び乗せていると、小屋の外から話し声が聞こえてきた。
「いいか。帰ったら、この密書をラスケス卿に渡すんだ。いいな?」
『ベアトリス、こっちに来て!』
早口で囁くと、リシャールは私の腰をグイと引き、馬達の前に積まれた藁山の陰にしゃがみ込んだ。突然の行動に息を飲んだが、それ以上に彼の横顔が緊張していることに驚いた。
「ああ。ラクロワ公との話は、まとまったんだろうな」
「心配するな。峠の東に、傭兵を待機させる。ロバック軍の痕跡を残すから、足は付かねぇ」
男達は、低く笑った。
「前祝いに一杯やるか」
「悪くねぇな。ここには故郷の酒もあるからよ」
男達の足音が、私達が身を隠す藁山の方に近付いて来る。私に触れるリシャールの手がピクリと動じた。
「……へぇ、こんな田舎宿には珍しい、いい馬じゃねぇか」
ラファルの側で、男の1人が立ち止まったようだった。
「誰か貴族でも泊まってるってのか? こんな辺鄙な場所だぜ」
「――待てよ。この紋章、どこかで見たことが……」
隣で息を呑むのが、伝わる。鞍に刻まれた紋章に気付いたらしい。事情が掴めない私でも、この男達が危険な存在ということは分かる。
「おい、レザン! ガスケ! いつまで待たせやがる?」
入口から野太い男の声が怒鳴る。
「ああ、わりぃ。今、行く」
返事の後、足音が遠ざかる。ホッとしたその時――。
「ヒッ……!」
藁を食もうとしたのだろう。不意に、栗毛の馬の鼻面が目の前に迫り、思わず小さな声が漏れた。
「おい。今、何か聞こえたぞ」
口を押さえたが、遅かった。男達の足音が戻ってくる。身体から血の気が引いていく。
「誰か居るのか?!」
素早く交わしたリシャールの瞳が、覚悟を宿している。彼の手には、いつの間にか短剣が握られていた。
――どうしよう。私のせいだ。3人相手に……しかも、彼の正体がバレてはいけない状況の筈なのに。
「おい、さっきの話聞かれてたら」
「おう。生かしちゃおけねぇ」
――ゴクリ
リシャールの喉が上下する。奇襲をかけるため、ギリギリまで近付くのを待っているのだ。でも――ダメだ。
「……ブ、ブビィ」
リシャールがビクリと驚いている。
「……あ?」
「ブビィ! ブヒブヒ!」
私は、無理矢理笑った。
藁山をガサゴソと鳴らす。
「ビビィ……ブフゥ」
沈黙の中、私の声が響く。
「――ビビィ……? ブヒブヒ!」
小屋の奥の方から、別の豚の鳴き声が聞こえてきた。本当に飼い豚がいたのだろう。私の声を聞いて、縄張りを荒らされたと思ったらしい。
「ブビィ! ビビィ、ビビィッ!」
雄豚達が騒ぎ出した。怒気を孕んでいる。
「チッ。何だよ、脅かしやがって」
男達は白けた声で吐き捨てると、ドカドカ乱暴な足取りで去って行った。
「――は……はぁっ、助かった……」
冷や汗をびっしりかいている。怖かった……。
――ぎゅっ
「え……?」
安堵しかけた私は、キツく抱き締められた。
「ハァ……凄い……最高だよ、ベアトリス……ハアァ……」
「ちょっ……やだ、リシャール?」
興奮した彼は、私の唇を激しく塞いできた。やだ、彼との初めてのキスなのに――雰囲気も何もない!
藁まみれになった私は、彼を押し退け。
――パチン!
「馬鹿ぁっ! こんなことしてる場合じゃないでしょっ!」
涙目になりながら、気付いたら――彼の頬を平手打ちしていた……。