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リシャール

 え……ええと――これは……。


 視線の圧力が怖くて、思わず俯いた。嫌な汗がダラダラと噴き出す。

 小屋の内外は、木の扉、たった1枚で隔てられただけ。絶対、私の声は聞こえた筈だ。悪いことはしていないけれど、これは気まずい。気まず過ぎる。


「……ベアトリス」


 温度を感じない低い声。


「ハッ……は、はいっ」


 身体がビクッと跳ねた。


「――?!」


 彼の腕が伸びてきて、その影に身を引きかけたが、すぐ後ろの小屋の扉に背中が当たる。


「……藁が」


 私の髪に触れた彼の長い指先には、藁屑が摘ままれている。


「あ……、ありがとう……」


「やだなぁ。何で、そんなに怯えるんだい。僕が――怒っているとでも?」


 藁を捨てた指先が、顎から頬の辺りに柔らかく触れた。


「え……だって、あの」


 恐る恐る瞳を上げると、楽しそうにニヤニヤしているリシャール・ポリニャック伯爵の瞳と重なった。ドキリと息を飲む。オーク色の瞳は、木漏れ日を受けたように甘く、思いがけず穏やかだ。


「紹介してくれるかい? 貴女のリシャールくんを」


「は、はい……」


 リシャール――人間のリシャールは、頬から肩に掌を滑らせ、私を促す。緊張からか、ぎこちないカラクリ人形のように回れ右をして、小屋の扉を開けた。


「リシャール!」


「ブ……ブフゥ? ブヒブヒ」


 柵の向こう側には、リシャールの他にも6匹の仔豚がいる。それぞれ自分の縄張りの藁の中に埋もれて寛いでいる。その中の1匹が、耳をピクリと動かして振り向いた。


「やぁ、君がリシャールくんか」


 人間のリシャールは、ツカツカと柵の前に進むと、近付いてきた仔豚の背に触れた。

 この人は、豚を蔑んだりしないんだ……。


 仔豚のリシャールは、初対面のリシャールに、大人しく撫でられている。日頃から私にベタベタ触られているとはいえ、すんなり懐いていることにも感動した。


「あ、あのっ、お嬢様っ! 今、お屋敷にポリニャック伯爵様が! ――あ」


 扉を乱暴に開け放って飛び込んで来たマリーは、小屋の中の和やかな光景に固まった。


「大変失礼いたしました」


 客人用の最高級のティーセットで入れた紅茶をリシャールの前に置き、マリーは一礼した。

 客間のソファーで寛ぐ彼は、カラカラ笑う。


「気にしなくていいよ。急に押しかけた僕もいけないんだ」


 薔薇が描かれた白磁のカップに鼻を寄せて香りを味わってから、口を付けると旨そうに瞳を細めた。


「それにしても――」


 カップを置いた彼は、隣のソファーに座る私をジッと見詰めてくる。


「……えっ?」


「『チェスタトン公爵令嬢は笑わない』――巷の噂など、当てにならないものだね」


 手元のカップが小さく動揺を漏らす。私は咄嗟に俯いた。


「あんなに楽しそうに笑うんじゃないか」


「あっ、あれは、笑っていたんじゃなくて……あの、リシャ……」


「リシャ?」


「いえ、仔豚の鳴きマネを」


 彼は、ゆっくりとカップを傾けてから「ふーん」と呟いた。気まずい沈黙が流れ、私も紅茶を含んだ。


「ベアトリス」


 スッ、と滑らかな動きで立ち上がった彼は、瞬く間に私の手からカップを取って、テーブルに置いた。


「え、えっ? ヒャッ?!」


 そのまま彼は、私の前に立ちはだかり――


「何を――キャッ! ブブゥッ? ブビィビビィッ!」


「お、お嬢様っ!」


 突然、小脇をくすぐられた。身を捩って逃れようとするが、彼の手は右へ左へと素早く動き、堪らなく笑い声を上げてしまった。


「ブブゥッ! ――はぁあ……」


 彼のくすぐりが止むと、私は両手で顔を覆った。

 あぁ……もうダメだ。バレた。笑わないように、慎重に……気を付けていたのに。


「ベアトリス……」


 呆けたように虚ろなリシャールの呟き。

 隠した掌の中で涙が滲む。笑い涙に、別の――情けなくて溢れた涙が混じる。


「ベアトリス、顔を見せて」


 優し気なリシャールの囁き。

 私は大きく首を振る。


「も……もう、分かったでしょ。私の、笑い声は豚の鳴き声(・・・・・)なのよ。馬鹿にしたければ、好きにすればいいわ」



 婚約中、マクガイア公爵と温室デートをした時のことだ。私達は、薔薇の温室をそぞろ歩いていた。


『うわあっ! ハチっ! ハチだあっ!』


 通路の前方で喚き散らす大声が聞こえた。よく見ると、確かに黒い物が、中年男の回りを飛んでいる。


『来るなあっ! 助けてくれぇっ!』


 何を思ったのか、男は私達の方に走って来た。黒い物も後から追いかけて来る。通路の端へ避けた私達の前を、男は必死の形相で駆け抜けて行った。通り過ぎた時、男の背中に黒い物が止まっていて――。


『あれ、ハエ(・・)だよ』


 マクガイア公は、呆れたようにケラケラ笑った。私も笑いたかったのだけれど、扇子で口元を隠して全力で堪えた。


 それから少しして、彼は執事に呼ばれ、私を残して温室を出た。辺りに人の気配がないのを確認した私は、抑えていた笑いを開放した。クスクス笑いのつもりだったが、扇子の隙間から「ブヒブヒ」と小さな笑い声が溢れた。

 いつの間にか、背後にマクガイア公が戻って来ていたことにも気づかないで――。



「ねぇ、聞いて、ベアトリス」


 あの時の血の引く想い、冷や水を頭から被ったような、居たたまれない気持ちは、もう沢山だ……!


「いやっ」


 私は更に首を振る。耳も塞ぎたかったけれど、顔を見られる方が嫌だった。


「お願いだ、ベアトリス」


「いや。もう、帰ってください……っ!」


「あっ、あの、ポリニャック伯爵様っ?!」


 酷く慌てたマリーの声。


「君は、口出ししないでくれないか!」


 続いて、ピシャリとリシャールの強い声が飛ぶ。


「ベアトリス、僕を見て」


 一転して、さざ波のように穏やかに、彼は私に言葉を捧げてくる……。


 覆った指の間から、ほんの少しだけ目の前の様子を覗き見て、私も慌てて息を飲んだ。

 私の正面で、リシャールが跪いている。


「リ、リシャール様っ?! ダメです、立ち上がってくださいっ!」


 高貴な彼に、こんなことをさせてはいけない。思わず、彼の腕を掴んで立たせようと身を乗り出して――


「やっと見てくれたね、ベアトリス」


 逆に、両腕をガッシリと掴まれてしまった。


「奇蹟だ。貴女の笑い声――こんなにゾクゾクしたことはないよ!」


「――――は?」


「頼むよ! こんなにセクシーな声は、初めてだ! もう一度、僕のために笑ってくれないか?!」


 大真面目に、やや潤んだ瞳で私を見詰める。サァーッと冷静になっていく私と対照的に、彼は頬を染め、すっかり感じ入っているらしい。


 リシャールは、世にも稀にみる「豚のような笑い声」に性的興奮を覚える……変人だった。


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