ポリニャック伯爵
青年は鍵を開け、扉を開け放ったまま、中に入る。何やらゴソゴソ動く気配がして、程なく暖かな光が見えた。天井のランタンから灯りが広がり、テーブルやベッドなどの質素な家具が見えた。
入口で覗き込んでいると、青年は苦笑いしながら、更に扉を押し開けた。
「大丈夫、誰もいませんよ?」
背後の雷に追い立てられつつ、私達は意を決して室内に足を踏み入れた。
「今、火を入れます。このタオルを」
「ありがとうございます」
部屋の中央で抱き合っていた私達は、青年が差し出した乾いたタオルを2本受け取った。細やかな気遣いに、少しだけ緊張が和らいだ。
テーブルの上に置いた帽子の下から、見事なブロンドが現れた。濡れてもなお艶めいており、豊かな暮らし振りが窺える。
彼は慣れた様子で、テキパキと薪をくべ、火種を作る。
濡れた髪や衣服を拭き合う内に、レンガ造りの暖炉にオレンジの炎が点った。
「さぁ、お2人とも、こちらへ!」
振り向いた顔を、初めて確りと見た。10代後半か、20代前半だろうか。やや面長だが、彫りの深い顔立ち。意思の強さが窺える涼しげな眉。木漏れ日を受けた、柔らかな幹のような色の瞳が、一際印象的だ。
「ありがとうございます。私は、チェスタトン公爵家のベアトリスです。こちらは侍女のマリーですわ」
水を含んで重く、優雅とはいかなかったが、ドレスの裾を摘まんで一礼する。
「これは失礼しました。僕は、リシャール・ポリニャック伯です。親族の別荘に招かれて滞在していたんですが、退屈で抜け出したら、この雨で」
私とマリーは、一瞬顔を見合わせた。
「……あの、ではここは?」
うちの領地のご近所は把握している。ポリニャック伯爵という名前に聞き覚えはないので、親族といっても遠縁なのだろう。
「親族が所有する小屋です。粗末な所ですが、ご遠慮なくお寛ぎください。じきに迎えが参りますので、送らせましょう」
彼は気取らない笑顔で白い歯を見せ、私達を暖炉の前に座らせた。冷えた身体にジワリと熱が伝わる。
「ポリニャック様、重ね重ね感謝いたします」
彼は改めて笑顔で私を眺めてから、上着を脱いで椅子に座った。彼自分もワシワシと髪を拭き始める。
暖炉の薪が爆ぜる音が、部屋の中を満たす。気付けば、雨音も雷鳴も随分と遠くに退いているようだ。
髪を拭き終えた彼は、私達の手にあった湿ったタオルも受け取って、まとめて部屋の隅に片づけてきた。
「うーん……都じゃないんだから、堅苦しいのは、ここまでにしないか。貴女さえよければ、僕のことはリシャールでいいよ」
椅子に座って、長い足を組む。何気ない所作の中に、洗練された優雅さを感じる。良家の子息にはそぐわない、砕けた言葉遣いに内心驚いたが、気取らない態度には好感が持てた。
「では、私のこともベアトリスと 」
「うん、ベアトリス。それで貴女達は、こんな場所で何をしていたんだい?」
「え……ええと、その、詩……」
歯切れ悪く答える私を見て、隣のマリーが俯いた。クスクス笑いを堪えている。詩作のため、という大義名分が、ピクニックに行きたいが故の方便であることは、疾うにバレている。
「詩?」
「いえ、あの……詩の宿題があって」
渋々説明すると、彼は無遠慮にカラカラ笑った。
「いや、失敬! 家庭教師には、僕も搾られてるよ!」
リシャールは、頭を掻きながら「ダンスの先生には、いつも苦い顔をされるんだ」と付け加えた。
「まぁ、ダンス。それなら、私、得意だわ」
「じゃあ、今度どこかの舞踏会で会ったら、踊ってくれるかい?」
あ、何だか軽いわね。でも、いつ果たされるとも分からない約束だから、そう目くじらを立てることもないかしら。
「……ワルツで足を踏まないなら、いいわ」
見上げると、彼はまたカラカラと笑った。
「ところで、これ、何が入っているんだい?」
彼はテーブルの上のバスケットを面白そうに見ている。
「ビスケットとリンゴが少し。あ、でもビスケットは恐らく」
雨で湿気ったか、崩れているに違いない。
「リンゴかぁ。好物なんだ。1つ、もらっても?」
「ええ、もちろん」
微笑むと、自ら蓋を開けて真っ赤なリンゴを掴み出した。
「やぁ、これは旨そうだ」
シャツの袖でキュッと拭いて、彼はシャクシャクと囓りついた。私のリシャールも、リンゴが好きなのよね……。思い出すと可笑しさが込み上げたが、流石に失礼なので我慢した。
「あの……リシャール様?」
ドレスがかなり乾いてきたので、座る位置を少しずらした。彼にも炎の暖かさが届くだろうか。
「なんだい?」
「貴方がご親戚の所に滞在している間に、よかったら、私の屋敷にお越しいたただけないかしら? 今日のお礼がしたいわ」
「そうだなぁ……」
リンゴを食べ終わったリシャールは、ジッと私を眺めてから、ニッコリ笑んだ。
「予定を確認してから、返事させて欲しいな。いいかい?」
「ええ、もちろん」
彼は窓の外にチラと視線を向けた。薄暗いのは悪天候に加え、日没が近付いてきているからだろうか。
「ベアトリス。貴女は都には行かないのかい? 社交会が放っておかないだろ」
「実は……婚約破棄されて、帰って来たばかりなの」
隣のマリーが焦ったように私の手に触れた。
「いいのよ。本当のことだし。どうせすぐに耳に入ることだわ」
私はにっこり笑って見せた。全く気にしていないと言えば嘘になるが、破棄された理由は仕方のないことだ。それにこの件では、これ以上マリーに気を遣わせたくなかった。
「貴女を振るなんて、見る目のない男だな」
無神経な呟きを溢したリシャールを見上げる。彼が大真面目な顔つきだったので、私は意地悪を言ってみたくなった。
「ま。貴方に私が分かって? とんでもない性悪かもしれないわよ?」
傍らのマリーが再び慌てた声を上げた。
ところが、リシャールは表情を変えず――むしろ間違いを訂正するように、こちらに身を乗り出した。
「性悪なら、この小屋に、侍女の方を先に入れただろう。身の安全が補償されてから、入った筈だ」
驚いた。そんな所、見ていたんだ。指摘は的を射ており、大切なマリーを不安の盾にするなんて発想は、微塵もなかった。
「はは……そんな顔しないで。これでも僕は、人を見る目はあるんだ」
「ごめんなさい。でも、破棄の原因は私にあるの」
「そうだとしても、貴女という人ときちんと見ていなかったんだ。相手と真正面から向き合っていれば、一度結んだ婚約を取り止めるようなことにはならない筈だよ」
彼の言葉は至極当然で……耳が痛かった。それは、マクガイアだけに当てはまることではない。望まれたから、と安易に婚約を受諾してしまった私にも、当てはまるからだ。
「そうね。浅はかだったんだわ……お互い」
「ベアトリス、」
――トントン
「あ、失礼」
何か言いかけたものの、扉を強く叩く音が聞こえた途端、リシャールは素早く立ち上がった。細く扉を開けて訪問者を確認すると、彼はサッと外に出た。
それから間もなく、私とマリーは、リシャールを迎えに来た立派な馬車に乗せてもらって、屋敷に帰った。
執事のマルタンに、こっぴどく絞られたのは言うまでもない……。