それぞれの秘密
ポスンと乾いた藁の山に身体を預ける。柔らかい香りに包み込まれ、私は大きく伸びをする。
「ブヒブヒ、ブフゥ」
「リシャールぅ」
寄ってきたピンクの肌にペタリと抱き付く。もっちりと温かい。彼は、いつものように、私よりリンゴに夢中だ。
「ああ、やっぱりここか。ベアトリス」
納屋の扉が開いて、白いジャケットを着たリシャールが現れた。彼はジャケットを脱いで壁の釘にかけると、柵を飛び越え、私の隣に腰を下ろした。
「リシャール」
仔豚のリシャールから離れ、挨拶の軽いキスを交わす。
それから、私達は藁山の上に並んで寄り添う。
「来月15日で、正式に決まったよ」
彼は、私の右手のエンゲージリングを撫でる。正式に婚約中の私達は、正式に夫婦になる。
「はぁ……ついに、王族の仲間入りかぁ」
「心配しないで。第5王子妃なんて、よほどの公的行事でもない限り、呼ばれやしないんだから」
彼の手が、指から髪に移る。
「それに――貴女は、堂々と胸を張っていいんだ」
「銀猫亭」で危機を逃れた私達は、月明かりの中、チェスタトン家に帰り着いた。それからのリシャールは、素早かった。
ラファルを駆ってモンク公爵家に取って返し、街道封鎖を命じた。
同時に、都のラスケス卿の屋敷に近衛部隊を遣わせて、身柄を確保。
翌朝、東へ向かう旅人が捉えられ、懐からグリンカ王国のラクロワ公爵に宛てた密書が見つかった。これが証拠となり、陰謀が白日の下にさらされたのである。
「ボヌールの中にも、他国におもねようと考える貴族は少なくないんだ」
資源に乏しいボヌールが、産業で他国と競争することは難しい。王家は、苦肉の策で貴重な来幻能力を有する皇女を輸出するという選択をした。そうして現在の四方竦みの構造を作り出したのだ。けれども、この状況を仮初めの平和と揶揄する輩がいる。他国と通じ、クーデターを謀ろうとする売国奴すら、残念ながら皆無ではない。対外的なボヌール王国軍の下部組織として、近衛部隊が編成されているのは、そのためだ。
「ロバックに送り届ける時を狙って、花嫁一行が襲撃されるかもしれない、という情報は掴んでいたんだ。ただ、黒幕が分からなかった」
「それで、モンク公爵家に滞在していたのね」
「ああ。国民に余り顔を知られていないから、あれこれ動き回るには、僕の存在は好都合だったのさ。第5王子なんて、そんなものだよ」
リシャールは、カラカラと笑い飛ばした。
何度か髪を優しく梳いていたが、その指先がスルリと頬に――それから耳に滑る。
「ヒャッ、ブフゥ……ブヒィ……ッ」
くすぐったがることを知って、わざと柔らかく触れてくる。
「やっ……ぁん……ブフゥ、ブビィブゥ」
身体中に甘い電流が走る。ゾクゾクと……堪らなくなり、彼の腕にすがる。
「ハァ……ベアトリス……」
彼の呼吸が熱くなる。私の腰を抱いて藁山の上に押し倒すと、彼の唇が重ねられ、貪るように激しく啄みを繰り返す。彼の興奮が唇から流れ込み――身体中が心地良く痺れていく。溶かされて、何も考えられ――……。
「ブヒブヒ、ブビィ」
生温かいものが呻きながら、ユサユサと頭を小突いている。
「ブビィ、ブブブゥ」
なおも、ユサユサ。溜め息混じりに、唇が離れる。
「……リシャール。邪魔しないでくれ」
「ブフゥ!」
重なったまま、顔を向けると、至近距離に仔豚の鼻先がある。
「……妬いてるんだわ」
片手を伸ばして、額の辺りを撫でてやる。仔豚は小さく鼻を鳴らす。
私の上のリシャールは、深く溜め息を吐いて、身体を離れた。
「ねぇ……前から聞きたかったんだけど」
仔豚が離れた後もなお、私達は藁山に寝転がっていた。リシャールは、私の右手の指を絡めたまま握っている。
「何?」
「貴方、どうして……私の笑い声に、その……」
「興奮するのか、って?」
半身を起こしたリシャールは、悪戯っ子のようにニヤニヤしながら、私の瞳を覗き込んでいる。戸惑いつつ、小さく頷く。
「うーん。妻になる人に、こんな話していいのかなぁ」
「――どういうこと?」
「3つ上の兄が……女好きでねぇ」
「……え?」
リシャールは「僕のこと、嫌いにならないでくれよ」と真顔で私の額に口づけると、静かに語り出した。
-*-*-*-
僕は、母が病弱だったから、腹違いの兄――フレデリックと一緒に、彼の母親の実家で育てられたんだ。何もない南部の田舎で、まぁ家庭教師に叱られながらも、のんびり暮らしていた。
フレデリックは、年に何度か都に出て……大人の世界に触れていたらしい。僕が13歳の春の夜、何かの用事で兄を探していた。家畜小屋の近くで……途切れ途切れに、呻き声が聞こえるんだよ。アンジェリカっていう、胸の大きな侍女の声に似ていた。
病気か怪我で苦しんでいるかと思ったんだ。それで、恐る恐る小屋のドアを開けて、中に入ったのさ。
分かるだろ? フレデリックが彼女に覆いかぶさっていた。何をしているのか理解した途端、足が動かなかったよ。図らずも覗き見してしまってね……そしたら、自分も収まらないんだ。だから、2人に見つからないように小屋の奥に隠れて、自分でね……したんだ。ああ、呆れないでよ。男の身体って、そういうものなんだ。初めての体験で、アンジェリカの声と、周りにいた豚の声が混じって――頭が真っ白になったんだ。
豚の鳴き声を聞くと、あの時のことを思い出すけど、別に興奮はしない。女性の嬌声もね、どうってことはない。だけど――
「貴女の笑い声を初めて聞いた時……雷に撃たれたんだ。奇跡だよ。堪らない」
火が出そうに火照る私の頬に、熱っぽい彼の唇が触れた。
「ねぇ、今度は貴女の話を聞かせてよ、ベアトリス」
「私の?」
「どうして、その魅力的な笑い声になったの?」
「魅力的……そう言ってくれるのは、貴方だけだわ」
穏やかな甘い眼差しに見詰められ、私は観念する。彼も秘密を話してくれた。私も――話せない理由はない。
-*-*-*-
「私の母は、私が5歳の時に病で亡くなったの」
流行病だったと聞く。領地内の農民達も、随分亡くなったらしい。
母にベッタリ甘えん坊だった私は、母の死を受け止めらなかった。泣いて泣いて――私は、笑わない子になった。
3年が過ぎた時、マリーが……彼女は、私と姉妹のように育ったのだけれど――事あるごとに私を笑わそうとした。それが幼い彼女の仕事なんだと――余計なことを囁く、心無い大人もいたわね。
私は彼女が大好きだから、笑いたかった。彼女の、マリーのお陰で笑えるようになったんだと、皆に知らしめたかったのよ。でも、一度忘れてしまった笑い方は、どうやっても戻らなくて。
そんな時、仔豚が産まれたの。
『お嬢様、仔豚を見にいきましょう!』
マリーに手を引かれて、豚小屋に行ったわ。ちょうど、母豚の腹の下に群がるようにして、仔豚達がお乳を飲んでいた。
家畜番のテオが、私とマリーに1匹ずつ仔豚を抱かせてくれたの。温かくて……小さく甘えて鳴らす鼻が、可愛くて……。
涙が出たの。止まらなかった。3年前に枯れた涙が、再び溢れて……わんわん泣いた。
『ブヒブヒ。ほら、お嬢様も!』
『ブ……ブヒ、ブヒ?』
『うふふ。ほら、この子達、笑ってるわ。ブヒブヒ』
『ホント……可愛い。ブヒブヒ……ブフゥ?』
『まぁ、お上手!』
『ブ、ブヒブヒ、ブフゥ、ブビィ』
鼻をピクピク擦り付けてくる仔豚に癒されて、嬉しくなったの。いつの間にか笑顔になって――笑っていた。それが、他の人と違うってことに気付くのは、もう少し後になってからだったけどね。
-*-*-*-
「マリーは、こんな笑い声になったのは自分のせいだ、って責任を感じているわ。でも私は、感謝してるの。何度も伝えているんだけど」
「ねぇ……ベアトリス」
再び半身を起こしたリシャールは、私の頬にフワリと触れて、真上から覗き込む。長い睫毛に胸がトクンと溜め息を吐く。
「貴女の笑い声は、確かにセクシーで、僕には魔法みたいだけど――」
彼はゆっくりと距離を縮めてくる。もう、互いの吐息を感じるくらいに。
「それ以上に、貴女の全てをかけがえのないのないものだって思っているんだ」
「リシャー……」
鼓動が走り出す。私、この男性に、心を掴まれている。ちゃんと向き合いたいと――震える程、思う。
「大好きだ、愛してる」
唇が甘い。触れている部分から、トロトロに溶けていく。私が感じる幸せを、彼にも感じて欲しくて……泣きそうになる。
「――笑って、ベアトリス」
「ブ……フゥ、ブヒブヒ……」
促されて、小さく笑う。彼の瞳が悦びに染まる。
「ブヒッ! ブビブビブフッ!」
足元から、グイグイと私達の間に生温かい塊が押し入ってきた。遂には私と彼の隙間をこじ開けると、その場にドカリと寝そべった。
「リ、リシャールッ……?!」
「はは……仕方ないなぁ。『リシャール』は、貴女を独り占めしたいんだ」
仔豚を挟んで、私達は一緒に笑い合った。
ベアトリス・チェスタトン公爵令嬢は、笑わない女? ――いいえ。
ちょっと変わった豚の鳴き声だけど、第5王子の腕の中だけで笑う女。
【了】