舞踏会にて
豪華なシャンデリア、高級なシルクのクロス、色ガラスや金糸のリボンできらびやかに飾り付けられた室内。ワルツを奏でる楽団は、近頃巷で人気のルーベンス・カルテット。
「グレン伯爵にしては、頑張ったわね」
「また……お嬢様、口を慎んでくださいな」
侍女のマリーが小声でたしなめてくる。
「あら。褒めたつもりなんだけど」
彼女が持って来たロゼワインを傾けて、私は青い羽根付き扇子で口元を隠す。
グレン伯爵主催の舞踏会。伯爵と親交のある、主だった貴族達が招待されている。
全く乗り気ではないのに、渋々足を運んだのは、お父様の命令だ。
『いいか。婚約破棄されて間もない今だからこそ、出席しなさい』
『何でよぅ。いい見せ物じゃない』
『こそこそしていると、妙な噂が立つ。お前に非はないんだから、堂々とした姿を、ちゃんと世間に見せておきなさい』
「……はああ」
「また。溜め息つかない!」
マリーがピシャリと注意する。姉妹のように育った彼女は、私の世話係兼お目付け役だ。
「もぉ、うるさいわねぇ」
羽根付き扇子をパタパタあおぐ。お気に入りのフレグランスがフワリと香り、ちょっと気分が治まる。
私は――3日前、婚約破棄された。
お父様も周囲も、私は悪くない、私には非はないと慰めてくれるが、破棄されたからには当然理由がある。
同い年の婚約相手、マクガイア公爵の嫡男は、キザな眼鏡の奥の陰鬱な黒い瞳に、侮蔑の色を浮かべて言った――『貴女には、失望した』と。
そもそも婚約を申し出たのは、あちらだった。勝手に私を見初めて、勝手に理想化して妄想を膨らませ、勝手に落胆したのだ。特に想い人もいない私は、家柄と親達の勧めで婚約を承諾しただけ。あんなヤツ、好みだった訳では断じてない!
グラスのロゼワインをクイッと空ける。このワインは、センスがいい。適当に飲んだら、帰ろうかしら。
「あの……ベアトリス様、1曲お相手いただけませんか」
不意に長身の青年が視界を塞ぎ、壁の華(私)に手を差し出してきた。コイツは、確かモロー侯爵の次男……だったかな。
ちょうど音楽が変わる。あ、これは私の好きな『ブルームーンの湖畔で』だ。ま、舞踏会に来て1曲も踊らない訳にもいくまい。マリーにグラスを渡すと、純白の手袋を嵌めた右手を差し出した。
「光栄です」
頬にソバカスの痕が残る青年は、はにかんだ微笑みを浮かべた。
「……どうも」
あくまで社交辞令を返しながら、1、2、3、軽やかに足を運ぶ。相手は誰でも構わない。私は自慢のステップで曲を楽しみたいのだ。
「見て――ベアトリス様の踊り、流石ねぇ」
「優雅で羽根のようだわ」
観衆の中から、そんな賛辞が耳に届く。
「あれで愛想があれば、婚約も引く手あまたでしょうにね」
ああ、嫌だ。余計な雑音まで聞こえてしまった。それでも、私は表情を固定したまま、ステップに専念する。
――ビリリッ
「いやあっ!」
突然の異音に続き、女の甲高い悲鳴。
「わわわっ! す、すみません!」
音楽とダンスが止まる。
見ると――フロアのほぼ真ん中で、黄色いドレスが膝の辺りから裂けたコラール伯爵令嬢が赤面している。ダンスの相手、バイロン男爵がドレスの裾を踏んでしまったらしい。
「無礼者っ!」
彼女は泣きながら、男爵を突き飛ばした。小柄な中男は、小太りのコラール嬢の馬鹿力によろめいて――。
ビリッビリーッ!
「きゃあああっ!?」
すぐ隣にいたノイマン伯爵夫人を掴んで倒れた。夫人はパートナーの伯爵に確りと支えられていて倒れなかったものの、彼女の黒いドレスは両肩から無惨に破れ、あろうことか真っ赤な下着が露になった。40代のふくよかな彼女の体型に、赤い紐が食い込んで、まるで胸の周りを縛っているみたい。明らかにサイズが小さ過ぎる。多分、ドレスもピチピチだったから、あんなに簡単に破れたんじゃないかしら。
「いやああああっ!」
「なんてことを! コイツを摘まみ出せ!」
伯爵が激昂した。その傍らで、夫人はしゃがみこみ、半狂乱で泣きわめいている。
「す、すみません、すみません!」
慌てて謝罪しながら、バイロン男爵は逃げるように人波をかき分け――。
――ガッシャーン!
赤ワインを運んでいた給事係の少年に激突すると、彼は頭からワインを被った。
「あ……あははははっ!」
「わははははは!」
誰からともなく嘲笑が上がると、笑い声は波が広がるように、フロア全体を包んだ。顔面蒼白を赤く染めた男爵は、主催者のグレン伯爵の従者に襟首を捕まれ、尻餅を付いた姿勢のまま、ドアの外に引きずり出された。
「ごめんなさい、失礼します」
目の前で大笑いしているダンスパートナーに一礼して、私は壁際に急ぐ。マリーを伴うと、フロアを離れ、廊下を駆けた。
「お嬢様、そんなに走られると転びますっ」
「もう! 黙って、マリー!」
グレン伯爵邸は何度も来ているから、間取りは分かっている。酔いざましのベランダが、中央階段の中2階にある筈――。
「ブ……グブビブブブブッ! あー、可笑しいっ! ブビィッ! ビブブッ!」
ベランダに誰もいないことを確認してから、思い切り解放する。堪えていた分、笑いが止まらない。
「ビビィ、ブビィッ! ビブブッ!」
「もぅ……はしたないですよぅ」
たしなめるマリーからも、クスクス笑いが溢れている。
「だって……だって、あの男爵の顔っ! ブグググッ! ブビィッ!」
涙が滲む。2人でしばらく笑い合った。何度も深呼吸して、気持ちを落ち着けてからフロアに戻ると、既に舞踏会はお開きになっていた。集まった人々は、次々に帰路に着いている。
馬車を回して、私もマリーと館へ戻る。堅苦しい都でのお勤めは、これで終わり。お父様の顔も立つでしょう。
私は晴れ晴れとした気分で、車窓の町明かりを眺めた。