[1]
三日間降り続いた雨が止むと、片平夕里は"街"へ出ることを決めた。いまや家族をはじめあらゆるものを喪った彼にとっては、中々大きな決断だった。窓に差し込む光は鋭く、冷えきった家全体を煮え立たせる程に熱かったので、ひょっとするとそれが彼の出発を急かしたのかもしれない。
荷物をまとめるのに大して時間はかからなかった。ベッドの下から黒いスーツケースを取り出し、表面の埃を払いつつ、最低限の食糧と生活必需品を詰めた。彼はもう長いことソファーで寝る生活を送っていたので(奇妙なことに、テレビを点けっ放しにしないと眠れない日が続いていた)、寝室を出る前にベッドで一旦横になろうかと思案した。しかし、スーツケースと同様若干埃を被ったシーツの端に濃い緑色の染みを見つけると、彼の表情は途端に曇った。そしてすぐに身体の向きを変え、ケースの取っ手を引きつつ玄関へと足を運んだ。
玄関扉の横には大きな鏡があった。主の居なくなった蜘蛛の巣が、枠の隅の方で力なく垂れ下がっている。夕里は暫くの間、鏡に映った自分自身をぼんやりと見つめていた――彼の心は無意識の内に、何らかの"安息"を見出だそうとしていたのだ。鏡像の彼は現実と同じように、にこりとも微笑まなかった。真っ黒な瞳、感情の浮かばない顔。肩まで伸びた髪と痩せ細った手足は、女と間違えられてもおかしくない様相を呈していた。
結局心を落ち着けることの出来なかった彼は、次に下駄箱の上に置かれていた木櫛を手に取った。が、自分の髪を梳かすためでは無かった。安っぽい装飾の彫られたその櫛は、彼の母親の持ち物だった。櫛歯には数本の白髪が絡み付いていた。"普段"なら気味悪がってすぐに元の場所へ戻すところだが、今の彼は違った。おもむろにスーツケースの蓋を開け、櫛を――白髪の絡んだ状態のまま――その中へ放り込んだ。そして、ほうっと長めの溜め息を一つつくと、今度こそ扉を開けて外へ出た。




