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初めて義実家挨拶に行ったら彼氏の母親に残飯を押し付けられたので、速攻で彼氏の口に突っ込んでやった

作者: 熾星
掲載日:2026/07/26



 初めて、三年付き合った彼の実家へ挨拶に行くことになった。


 私は出発前、拓海に何度も念を押した。長ねぎや生姜、にんにくは、体質的にどうしても受けつけない。少しでも口にすると、すぐに吐いてしまう。避けるのが難しいなら、自分だけ外で食事を済ませても構わない、と。


「玲奈のことなら、ちゃんと分かってる。母さんにも伝えておくから安心して」


 食卓に並んだ鶏肉の煮物や魚の揚げ物、野菜の和え物には、ねぎも生姜も見当たらなかった。


 私は、彼が本当に伝えてくれたのだと思った。


 ところが美代子は、にんにくも生姜も細かく刻んで煮込んであるのだと、笑いながら明かした。そんなものはただの好き嫌いで、親に甘やかされて育っただけだとまで言われた直後、胃が激しく波打ち、私は洗面所の入口で吐いた。


 口をすすいで戻ると、彼女は台所から酸っぱい臭いのする残り物を二皿持ってきて、私の前へ押し出した。


「女もスーパーの惣菜も同じよ。選んでもらえるうちが花なの。年を取ってからあれこれ条件をつけていたら、最後は売れ残るだけでしょう?」


 三年付き合った恋人を見ると、拓海はスマートフォンを眺めたまま、顔も上げなかった。


 私はポテトサラダを大きくすくい、そのまま彼の口へ押し込んだ。


「自分で食べさせられて、やっと分かった? こんなもの、人に出していい料理じゃないって」


 あの日、私はようやく理解した。


 彼らが欲しかったのは家族ではない。食卓で黙って頭を下げ、この家の生活まで支え、何をされても逆らわない女だったのだ。


 けれど、選ぶ相手を間違えたのは、彼らのほうだった。


 ……



1



 黒川拓海とは、職場で知り合った。


 三年前、私は水城都市開発の完全子会社である青海企画に、一般の企画職として入社した。正確には、将来グループ会社の経営に携わるための現場研修だったが、家のことは誰にも知らせていなかった。


 同じ部署にいた拓海は身なりがよく、人当たりも柔らかかった。交際を始めたころは、私の好きな飲み物や苦手な食べ物まで覚えていて、驚くほど気が利く人に見えた。


 三年間、私たちは大きな喧嘩をほとんどしなかった。


 今思えば、相性がよかったわけではない。意見が食い違うたび、私が先回りして彼の事情をくみ取り、自分を納得させていただけだった。


 ゴールデンウィークを前に、拓海が母親に会ってほしいと言い出した。


「玲奈、母さん、今日のためにずっと準備してるんだ。今度の休み、一緒に来てくれない?」


 私はまだ結婚の話を具体的に進めるつもりはなかった。それでも、断られるのを恐れるように手を握る彼を見ているうちに、結局うなずいてしまった。


 拓海は子どものように喜び、私を抱き上げて二度も回った。


「よかった。母さん、本当に楽しみにしてるから」


 その言葉で、最後に残っていた不安も消えた。


 訪問当日、私は百貨店で高級スキンケアのセットとカシミヤのストールを選んだ。拓海は道中ずっと私の気遣いを褒め、月白町に着いてからも、緊張しなくていいと手を握っていた。


 母親が住んでいたのは、古い木造二階建てアパートの一室だった。間取りは狭い2DKで、外壁は色あせ、共用階段は踏むたびに乾いた音を立てた。汐見市の旧住宅街では、珍しい建物ではない。


 足が止まったのは、玄関の扉が開いた瞬間だった。


 分別されていないごみ袋が靴箱の横にいくつも積まれ、棚には薄く埃が積もっている。居間には服や空き缶が散乱し、下着までソファの肘掛けに引っかけられていた。煙草と生ごみが混じったような、重たい臭いが鼻についた。


 拓海は顔色ひとつ変えなかった。昔から見慣れているのだろう。


「どうしたの? 入らないの?」


 私の視線を追い、彼はごみ袋を見てわずかに間を置いた。


「母さん、最近腰が痛いらしくてさ。一人暮らしだし、掃除まで手が回らないんだ。あまり気にしないで」


 初対面で生活ぶりを責めるような人間にはなりたくなかった。私は何も言わず、靴を脱いで中へ入った。


 すぐに奥の引き戸が開き、巻き髪に光沢のある部屋着をまとった女性が現れた。唇は鮮やかな赤で、手首には金のブレスレットがいくつも重なっている。


「母さん、ただいま」


 私は思わず目を見張った。


 拓海はこれまで、母親が女手ひとつで自分を育て、年齢のせいで体も弱っていると繰り返していた。いつの間にか私は、地味で疲れきった年配女性を想像していたのだ。


 美代子は息子を見るなり満面の笑みを浮かべた。しかし私に目を移した途端、その笑みが薄くなる。


「あら。本当に連れてきたの?」


 私が挨拶するより先に、彼女は拓海の手から紙袋を取り上げた。


「まあ、これ、前から欲しかったスキンケアセットじゃない。ストールまであるの? 拓海もやっと親孝行ができるようになったのね」


 拓海は得意そうに笑うだけで、誰が選び、誰が支払ったのか説明しなかった。


 私は彼の手から自分の指を抜き、玄関へ向き直った。そこでようやく、拓海が慌てて腕をつかんだ。


「母さん、彼女の玲奈。プレゼントも玲奈が選んでくれたんだ」


 美代子は私を上から下まで眺めた。


「そう。じゃあ、座って」


 礼のひと言もなく、紙袋を抱えて奥へ入っていく。


 私はソファに腰を下ろさなかった。


「本当に会う準備ができていなかったなら、最初から呼ばないでほしかった」


 拓海は声を落とし、なだめるように肩を抱こうとした。


「深く考えすぎだよ。母さん、人付き合いが得意じゃないだけで、本当は玲奈のことを気に入ってる。普段は台所にも立たない人が、今日は料理までしてるんだ」


 閉ざされた台所の扉を見つめたまま、私はそれ以上言い返さなかった。


 来る前に、長ねぎ、生姜、にんにくのことは何度も伝えてある。単なる好き嫌いではなく、口にすれば数分で気分が悪くなり、吐いてしまう体質だ。


 そのとき拓海は、胸を張って答えた。


「玲奈のことなら、ちゃんと分かってる。母さんにも伝えておくから安心して」


 私は、その言葉を信じた。



2



 美代子は一時間近く台所にこもっていた。


 食卓には鶏肉の煮物、魚の揚げ物、野菜の和え物、それに温め直した惣菜が二皿並んだ。見た目には長ねぎも生姜も入っていない。拓海がきちんと伝えてくれたのだと、私は胸をなで下ろした。


 美代子が、鶏肉を何切れか私の器へ入れた。


「何が好きか分からなかったから、適当に作ったの。遠慮しないで食べて」


 数口食べると、味は悪くなかった。私は礼儀として素直に感想を伝えた。


 すると彼女は椅子にもたれ、含みのある笑いを漏らした。


「やっぱり煮物は、生姜とにんにくを入れないとおいしくならないわね。細かく刻んで煮込めば、見た目じゃ分からないでしょう?」


 箸が止まった。


「拓海から聞いていませんか。私は口にすると吐いてしまうんです」


「そんな大げさな話、あるわけないじゃない。親に甘やかされて、好き嫌いを直さずに大人になっただけでしょう?」


 美代子は湯のみを持ち上げ、わざとゆっくり茶を飲んだ。


「ほら。今だって普通に食べてるじゃない」


 胃の奥が突然持ち上がった。


 私は口を押さえて洗面所へ駆け込んだが、間に合わず入口で吐いた。拓海は二歩ほど追ってきたものの、私の背中に手を添えるより先に、汚れた床を振り返った。


 口をすすいで戻ると、美代子は酸っぱい臭いのする二皿を、私の席へ押しつけるように置いた。


「作ったものが食べられないなら、こっちにしなさい。昨日買いすぎたの。捨てたらもったいないでしょう?」


 揚げ物は油を吸ってふやけ、ポテトサラダの表面は乾いてひび割れている。美代子は箸の先で、皿の縁を軽くたたいた。


「女もスーパーの惣菜も同じよ。選んでもらえるうちが花なの。年を取ってからあれこれ条件をつけていたら、最後は売れ残るだけでしょう?」


 私は拓海を見た。


 彼はスマートフォンをいじったまま、顔を上げない。まるで目の前で侮辱されているのが、恋人ではなく赤の他人であるかのようだった。


 息子が止めないと分かると、美代子の口調はいっそう露骨になった。


「でも、うちはしつけに厳しいから。売れ残りでも、悪いところを直す気があるなら、嫁として迎えてあげないこともないわ」


 私はポテトサラダの皿を手前へ引いた。


 美代子の口元が満足そうに緩む。ようやく私が立場を理解したと思ったのだろう。


 私はスプーンで大きくすくい、その口元へ運んだ。彼女が反射的にのけぞると、顎に手を添え、酸っぱいサラダをそのまま押し込んだ。


「そんなに残り物を大切にしているなら、どうぞたくさん召し上がってください」


 美代子は目を見開き、喉を詰まらせて激しく咳き込んだ。


 拓海が椅子を蹴るように立ち上がった。


「玲奈、何してるんだよ!」


 私はもう一杯すくい、今度は彼の口へ押し込んだ。


「お母さんにだけ食べさせて、自分は関係ない顔をするつもりだった?」


 拓海は中身を吐き出し、紙ナプキンをつかんで母親の口元を拭いた。


「これ、昨日の残り物だぞ! 母さんに何を食わせてるんだ!」


 私は思わず笑った。


「自分で食べさせられて、やっと分かった? こんなもの、人に出していい料理じゃないって」


「料理の問題じゃないだろ! いい大人が、親を大事にする気持ちもないのか?」


「私はこの人の娘じゃない。それに、あなたたちの家へただ働きの家政婦として入るつもりもない」


 美代子は息子の胸元へ寄りかかり、わざとらしく胸を押さえた。


「結婚前からこれじゃ、嫁に来たら何をされるか分からないわ。拓海、こんな女はやめておきなさい!」


 私はもう一皿の揚げ物を持ち上げ、二人の前のテーブルへ皿ごと伏せた。油が拓海のシャツと美代子の部屋着に飛び散った。


「ちょうどよかった」


 拓海は染みを見下ろし、こめかみを引きつらせた。


「俺と結婚する気はないってことか?」


「ない」


 私はバッグを肩に掛けた。


「拓海、別れましょう」


 彼は数秒間固まり、手を伸ばしてきた。ところが美代子が息子の腕へしがみつき、私を玄関へ追い払うように叫んだ。


「行かせなさい! この年であなたと別れて、ほかに誰がもらってくれるっていうのよ!」


 玄関でドアノブに手を掛けたところで、私は引き返した。


 拓海の顔が明るくなり、美代子も「やっぱり」とでも言いたげに口角を上げる。


「反省したなら、母さんに金のブレスレットを買って、きちんと謝れ。それで今日のことは水に流してやる」


 私は棚の横に置かれていたスキンケアセットとストールを回収した。


「本当に、都合のいい夢を見るのが上手ね」


 扉を閉めた直後、美代子の悲鳴が廊下まで響いた。油まみれにされたときより、プレゼントを失ったときのほうが、ずっと大きな声だった。



3



 拓海とは、前年から同棲していた。


 桜丘一丁目にある分譲マンションは、結婚前に私が購入したもので、名義も住宅ローンも私一人のものだ。彼はローンを負担せず、管理費、水道光熱費、駐車場代の一部だけを払う約束だった。


 だが、その支払いも十か月滞っていた。


 帰宅するとすぐ、管理会社へ連絡して拓海の入館登録を解除し、鍵も交換した。衣類、ベルト、腕時計、私物は一点ずつリストにまとめ、宅配便の着払いで月白町へ送った。


 高価な服の多くは、私が贈ったものだ。一度渡したプレゼントは彼の所有物になる。勝手に売ったり処分したりせず、部屋に残されたものをそのまま返した。


 清掃業者が作業を終えても、室内に嫌な空気が残っている気がした。その夜は実家へ戻ることにした。


 両親は、私が拓海の母親に会う日だと知っていた。玄関へ入るなり二人に囲まれ、事情を話し終えると、父は食卓を強くたたいた。


「あいつは信用できないと、最初から言っただろう」


 私は隣へ座り、黙って父の湯のみへ茶を注いだ。


 交際を始めたばかりのころ、父は一度、青海企画で拓海の働きぶりを見ていた。能力は平均的なのに、問題が起きると責任を周囲へ押しつける癖がある。それが父の評価だった。


 当時の私は、父が彼の家庭環境を見下しているのだと思い込み、しばらく口も利かなかった。


 母が果物を切り、私の前へ置いた。


「もう別れたのなら、自分を責めなくていいでしょう。結婚する前に分かっただけでもよかったじゃない」


 夜になると、拓海から何通もメッセージが届いた。


「どうして俺の荷物を全部送り返したんだ?」


「鍵まで替えたのか?」


「母さんは今日のことをもう責めないって言ってる。いつまで意地を張るつもりだよ」


 返信せずにいると、すぐ電話がかかってきた。


「玲奈、子どもみたいに拗ねるなよ。鍵を元に戻して、今までどおり暮らそう」


「親子そろって、どこまで厚かましいの?」


 向こうが二秒ほど黙った。


「もうすぐ三十だろ。俺と別れて、玲奈に何の得があるんだよ」


 私は新しく塗った爪を眺めた。


「図々しいだけじゃなくて、聞く力までないみたいね」


「私たちは、もう別れたの」


 拓海の声から、柔らかい仮面が消えた。


「水城玲奈、後悔するなよ! そんな性格のお前を受け入れる男なんて、俺以外にいるわけないだろ!」


 一方的に電話が切れた。


 五分後、今度は一枚の表計算ファイルが届いた。そこには、三年間に彼が私のために支払ったという金額が、一件ずつ記録されていた。


 コンビニで買った百二十円のアイス、ドラッグストアの四百八十円の生理用品、二人で使ったティッシュ一箱については、私の負担分として五円まで請求されている。


 合計は三十七万八千五百六十円。呆れるほど細かい。


 続けて、短いメッセージが表示された。


「三日以内に払え。払わないなら簡易裁判所へ訴える」


 画面を見つめながら、私は初めて真剣に考えた。


 三年間の私は、いったい何を見ていたのだろう。



4



 翌日、真帆がすぐに駆けつけた。


 拓海の作った精算表を読んだ途端、彼女はソファへ倒れ込み、しばらく笑い続けた。


「どうするの? 五円まで裁判で取り返す気らしいけど」


「もちろん、きちんと精算する。思い出させてくれたことには感謝しないと」


 私は銀行の入出金履歴、メッセージ、電子領収書を開き、三年間の支払いを洗い直した。


 普通のデート代や誕生日プレゼントは、すべて自分の意思で使った金だ。返還請求の対象から外した。


 残したのは、拓海が返すと明言していた借金、代わりに支払ったクレジットカード代、資格講座の受講料、それに未払いの管理費、水道光熱費、駐車場代だけだった。


 合計は二百二十一万九千三百円。


 彼の精算表にある三十七万八千五百六十円を差し引いても、拓海には百八十四万七百四十円の支払い義務が残る。


 真帆は表を見つめ、笑うのをやめた。


「玲奈、付き合ってたんじゃなくて、生活困窮者を支援してたの?」


 私は両手で顔を覆った。


 拓海は定期的に、今月は金が足りない、ボーナスまで待ってほしい、母親の通院費が必要だと口にしていた。金に困った経験のなかった私は、深く考えずに立て替えていたのだ。


 返済の約束が確認できる分だけをまとめ、本人へ送った。


 五分もしないうちに電話が鳴った。


「何だよ、これ」


「精算したいんでしょう? なら、裁判所でも確認できる債務だけで計算しましょう」


「俺がいつ、そんなに使ったんだよ」


「送金記録は全部残ってる。返すと書いたメッセージも、代理人に保存してもらった」


 拓海はしばらく黙ったあと、鼻で笑った。


「俺の三十七万円を払いたくないなら、母さんに謝りに来いよ。それで全部なかったことにしてやる」


 隣にいた真帆は、珍しい生き物を見るような目でスマートフォンを見ていた。


「期限を記載した内容証明郵便を送るから、届いたら確認して」


 拓海は何も言わず電話を切った。


 その日のうちに、代理人弁護士が内容証明郵便を発送した。期限を過ぎても支払いがなかったため、私は汐見簡易裁判所へ支払督促を申し立てた。


 拓海の態度は、復縁を求める言葉から脅しへ変わり、最後には沈黙した。


 一週間ほど実家で過ごし、管理会社が入館情報をすべて更新したことを確認してから、桜丘のマンションへ戻った。


 エントランスへ入った瞬間、住民たちの視線が妙にまとわりつくのを感じた。


 近くにいた若い女性へ声をかける。


「すみません。私、何かおかしいでしょうか」


 彼女は言いにくそうに目を伏せ、声を落とした。


「掲示板を見たほうがいいと思います」


 エレベーター脇の掲示板は、印刷された紙で埋め尽くされていた。


 最上部には太い文字で、こう書かれている。


 『三年尽くした恋人を捨てた、恩知らずな金目当て女』


 その下には、私の鮮明な写真、氏名、勤務先、住んでいる階まで載せられ、別れの経緯は都合よく書き換えられていた。



5



 ビラの中で、私は恋人の母親を見下し、長年の贈り物を奪い、交際中から密かに金額を記録していた計算高い女にされていた。


 拓海は三年間ひたすら尽くし、何の落ち度もないまま捨てられた被害者として描かれている。借金も、傷んだ残り物も、食材を隠されたことも、一行たりとも触れられていなかった。


 私は一枚を剥がし、証拠として撮影してから管理会社へ連絡した。


 自宅の前まで行くと、拓海が廊下の壁にもたれていた。


「やっと帰ってきたか」


 顎を上げ、得意そうにこちらを見る。


「別れの記念品、気に入った?」


 私はスマートフォンを取り出した。


「住所も勤務先も顔写真も無断で公開して、共用部に虚偽の内容を貼ったのね。管理会社の防犯カメラに、全部残っているとは考えなかった?」


 拓海の笑みがわずかに固まった。


 管理会社の担当者と警備員がすぐに上がってきた。私は、入館登録を削除したはずの人間が、なぜ建物内にいるのか確認を求めた。


 記録を調べると、拓海は住民がオートロックを開けた隙に後ろから入り、エントランスとエレベーター前へビラを貼っていた。


「大変申し訳ございません。印刷物はただちに撤去し、防犯映像と入館記録は警察へ提供いたします」


 警備員が拓海の前に立った。


「建物の外へ移動してください」


 拓海は、その腕を乱暴に振り払った。


「玲奈、まだ自分の間違いを認めないのか?」


 私はすでに110番していた。


「続きは、警察で話して」


 警察官が到着すると、拓海は桜丘警察署で事情を聴かれることになった。その場で長時間拘束されたわけではないが、尾行するように侵入したこと、ビラを貼ったこと、自宅前で待ち伏せしたことは記録され、今後近づかないよう厳重に注意された。


 部屋へ戻り、胃に優しいうどんを注文した。


 食べ終えた直後、廊下から甲高い怒鳴り声が聞こえた。


 美代子が管理会社の職員に止められながら、こちらをにらみつけている。


「あんた、警察に拓海を連れていかせたんですって? どこまで冷たい女なの!」


 手が私の顔へ伸びたが、警備員が間一髪で手首を押さえた。


「今すぐ警察署へ来て、話を取り消しなさい!」


「拓海は事情を聴かれているだけです。私に連れ出す権限はありません」


「とぼけないで!」


 美代子は再びつかみかかろうとした。


 私は彼女の目の前で、もう一度110番した。


「マンションの住居階へ侵入し、住民を殴ろうとしている人がいます。警備員が制止していますので、来てください」


 美代子の顔から血の気が引いた。


「拓海に会いたいんでしょう?」


 私はまっすぐ見返した。


「警察署なら、同じ建物にいられるかもしれませんよ」


 二人が警察官に引き渡されたあと、私はすべての資料を代理人へ渡した。ビラ、防犯映像、管理会社の報告書、脅迫的なメッセージも含めて整理した。


 私も虚偽の噂を流して対抗するつもりはなかった。弁護士の確認を受けたうえで、債務の記録、贈り物の購入履歴、ビラの写真を事実関係説明書にまとめ、影響を受けた共通の知人と会社のコンプライアンス窓口へ送った。


 拓海が作ろうとした世論は、すぐ本人へ跳ね返った。



6



 拓海は支払督促に異議を申し立てた。


 請求額が百四十万円を超えていたため、事件は汐見地方裁判所の通常訴訟へ移行した。代理人が送金履歴、返済を約束したメッセージ、費用明細を提出すると、拓海は第一回期日前に和解を申し入れた。


 二週間以内に百八十四万七百四十円を一括で支払い、弁護士費用の一部も負担する。それが和解条件だった。


 入金された日、短いメッセージが届いた。


「今に見てろ。いつまでも俺を見下していられると思うなよ」


 画面を閉じ、私は深く息を吐いた。


 数日後、父から拓海が青海企画へ退職届を出したと聞いた。


 彼は最後まで、自分の勤務先が水城都市開発の完全子会社であることを知らなかった。私は将来グループ会社の経営を担う前に、現場の企画、原価管理、事業運営を学ぶため、素性を伏せて働いていた。


 交際後も、家の立場が関係に影響するのが嫌で、普通の社員として過ごし続けた。


 拓海の仕事ぶりは決して優秀ではない。高く評価された企画書の多くは、私が構成から書き直したものだった。


 彼の退職から一週間後、私は現場研修を終えた。株主総会で取締役に選任され、取締役会の決議を経て、青海企画の代表取締役社長へ就任した。


 前任者から人事資料の引き継ぎを受けたとき、拓海の退職届も正式に確認した。自分から辞めてくれたおかげで、会社側が能力改善の指導や配置転換を検討する必要はなくなった。


 就任後、私は汐見湾倉庫街の再開発事業を担当した。


 土地所有会社が主催する民間の事業提案コンペで、水城都市開発と複数の不動産会社が、商業施設と文化拠点を組み合わせた計画を競う。


 半月近く休みなく働いたあと、真帆が一次プレゼンの前祝いをしようと言い張った。


 星蘭百貨店の地下駐車場へ車を止め、入口へ向かったところで、彼女が突然私の腕をつかんだ。


「玲奈、あれ見て」


 拓海が最新型のスポーツカーから降りてきた。仕立てのよいスーツも、以前の彼には手の届かなかったものだ。


「いつから、あんなにお金持ちになったの?」


「新しい金づるでも見つけたんじゃない?」


 視界に入るだけで気分が悪くなり、私は真帆を連れて上階のブランドショップへ向かった。


 彼女がまだ推理を続けるので、棚からバッグをひとつ取り、腕に押しつけた。


「これで少しは静かにできる?」


 真帆はバッグを抱きしめ、即座にうなずいた。


 店員が取り置きの手続きを始めたところで、背後から不快な声がした。


「待って。そのバッグ、俺が買う」


 拓海は店員の手元から商品を取った。


「申し訳ございません。こちらは水城様が先にご希望されています」


「まだ会計してないなら、先に払ったほうのものだろ?」


 クレジットカードを出し、わざと私へ視線を向ける。


「玲奈、買えないなら俺に頼めよ。気分がよければ、ひとつくらい買ってやってもいい」


 今にも怒鳴りそうな真帆を押さえ、私は別の棚へ移った。


「では、こちらにします」


「それも買う」


 私は三点続けて選び、拓海はすべて自分のカードで決済した。


 その日は、外商顧客向けの紹介キャンペーン期間だった。私の外商担当は、拓海を私の紹介客として登録している。彼の買い物実績は私の外商口座へ反映され、次のシーズンの商品を優先予約できる仕組みだった。


 店員に登録方法を確認してから、私は拓海へ向き直った。


「私が選んだものなら、全部買えるの?」


 彼は得意げに顎を上げ、三点すべてを持って店を出ていった。東郷側から受け取った契約金と、手持ちのクレジット枠をかなり使ったはずだ。


 姿が見えなくなると、真帆が悔しそうに足を踏み鳴らした。


「どう見ても嫌がらせじゃない。どうしてわざわざ買わせたの?」


 外商担当が、キャンペーンの確認書を持ってきた。


「水城様、ご紹介実績が反映されました。次回入荷分の優先ご案内も承ります」


 真帆は記載された数字と私の顔を見比べた。


「やっぱり、玲奈のほうが一枚上ね」



7



 その夜、真帆は拓海の金の出どころを調べると息巻いていた。


 翌日は汐見湾再開発事業の一次プレゼンだった。私は彼の近況に構っている余裕がなく、違法なことだけはしないよう釘を刺して、スマートフォンを置いた。


 ところが会場へ行くと、再び拓海の姿があった。


 開始前、彼は化粧室へ続く廊下で私を待ち伏せした。


「俺を追いかけて、ここまで来たのか?」


「自分を高く見積もりすぎ」


 拓海は私の腕をつかんだ。


「まだ忘れられないんだろ。だから俺のいる場所まで追ってきた」


 手を振りほどき、少し近づくよう指で示すと、彼は本当に顔を寄せてきた。


 私はその横の床へ、軽く唾を吐いた。


「そこまで都合のいい妄想ができるなら、一度診てもらったほうがいいんじゃない?」


 拓海の顔色が変わった。


 それでも彼は、私が強がっていると信じていたらしい。司会者から参加企業と責任者が紹介され、私が青海企画の代表取締役社長であり、水城都市開発側の事業責任者だと知るまでは。


 一方、拓海は東郷ホールディングスの席に座っていた。


 離職後に「再開発プロジェクトの外部アドバイザー」として契約し、企画チームへ加わったという。正式な管理権限はないものの、過去の優秀な企画はすべて自分が作ったと説明し、対外プレゼンにも参加していた。


 一次審査の結果、水城都市開発と東郷ホールディングスの二社が最終プレゼンへ進んだ。


 会場は二日後、海沿いの凪浜コンベンションセンター。隣接するホテルに、双方のプロジェクトチームが宿泊することになった。


 真帆は公開情報とSNSを調べ、拓海が東郷家へ入り込んだ経緯を教えてくれた。


 彼は青海企画を辞めて間もなく、街中で東郷社長の一人娘、沙耶を「偶然」助けていた。


 沙耶は経営を引き継ぐ重圧から、定期的にカウンセリングを受けている。その日もカウンセリングルームへ向かう途中、数人の男に囲まれた。拓海はそこへ現れ、彼女をかばって腕に軽いけがを負ったという。


 東郷隆臣は深く感謝し、娘が信頼していることもあって、拓海をプロジェクトへ迎え入れた。


「沙耶さんは、今もカウンセリングに通ってるんだよね?」


「経営を背負う重圧への対処として通っているだけ。判断力がないわけじゃない。でも、助けてもらった相手を信じたのは確かでしょうね」


 そのとき、部屋の扉がノックされた。


 開けると、拓海が廊下に立っていた。私たちがまだ恋人同士であるかのような、穏やかな表情を浮かべている。


「玲奈、会いたかった」


 私はドア枠に手を置いた。


「別人にでもなったの? それとも、自分が何をしたか忘れた?」


 彼の表情が一瞬だけ固まった。


「全部、売り言葉に買い言葉だった。本当に好きなのは、今でも玲奈だよ」


「それで?」


「青海企画がお前の家の会社だとは知らなかった。お互いに立場があるなら、これ以上争う必要はないだろ」


 一歩、室内へ近づく。


「今回のコンペを辞退して、やり直そう。俺が東郷から得る人脈だって、結婚すれば玲奈のものになる」


 私は平手で左頬を打った。


 拓海が呆然と頬を押さえる。


 反対側も、同じように打った。


 この二発は、別れた日からずっと返したかったものだった。



8



 拓海の表情から、取り繕った優しさが消えた。


 彼は私を強く突き飛ばした。腰が玄関脇のテーブル角へ当たり、鈍い痛みが走る。


 隣室にいた秘書の佐伯理沙が、物音を聞いて飛び出してきた。人が現れると、拓海は握った拳を下ろして廊下へ退いた。


 立ち去る直前、その視線が私の後ろを越え、室内のパソコンバッグへ向いた。


 理沙はすぐに警察へ相談しようと言った。私は同意し、ホテルの廊下にある防犯映像の保存を依頼し、翌朝には整形外科で診断書も取った。


 腰の痛みは強かったが、私は廊下でわざと声を大きくした。


「佐伯さん、病院に付き添って。午前中は部屋を空けることになるわ」


 向かいの部屋から、拓海が顔を出した。


 本物の提案資料は、すでに会社の暗号化サーバーへ保存してある。


 ホテル内のプロジェクト準備室に残したパソコンには、「最終版」と名づけた確認用ファイルだけを置いた。内容は実際の市場調査、設計方針、事業収支の枠組みを含むが、プロジェクト名、最終価格、いくつかの数値を意図的に変更してある。


 ファイルには「社外秘」と表示し、会社アカウントを持つプロジェクトメンバーだけが開ける設定にした。ページごとに識別用の電子透かしも入っている。


 準備室の入室カードは登録者限定だった。退出前、私はパソコンと机の間に一本の髪を挟み、アクセスログと外部記憶媒体の接続記録を有効にした。


 病院から戻ると、部屋の見た目は変わっていなかった。しかし髪はなくなり、返却済みであるはずの臨時カードが使用された記録が残っていた。


 ホテルの防犯カメラには、帽子をかぶった拓海が準備室へ入る姿も映っている。パソコンには、USBメモリへファイルをコピーした履歴が残っていた。


 私は、すぐには彼を問い詰めなかった。


 最終プレゼン当日、予定より早くホテルを出た。駐車場へ着くと、社用車のタイヤ二本が鋭利なもので切られていた。


「今から修理を呼んでも間に合いません」


「タクシーで行きましょう」


 ホテル前には空車が一台止まっていた。


 乗って十分ほど経つと、理沙が私の袖を軽く引いた。スマートフォンの地図では、凪浜コンベンションセンターから大きく離れている。


「運転手さん、道を間違えていませんか?」


 運転手はバックミラー越しに私たちを見た。


「前が混んでるから、近道してるんです」


 車は市街地へ向かわず、港の外れにある旧工業道路へ入った。


 理沙が止めるよう求めると、運転手はドアロックを掛けた。


「少し待ってください。着いたら降ろしますから」


 私はBluetoothイヤホンを装着し、気づかれないよう110番した。


 状況を聞いた通信指令員は、通話を切らず、運転手を刺激しないよう指示した。私は理沙へ目配せする。


 彼女はわざと運転手へ話しかけ、窓の外に見えるガソリンスタンド、倉庫番号、高架道路の出口を順に口にした。


 最終プレゼン開始まで残り二十分となったところで、前後から警察車両がタクシーを挟み込んだ。


 ドアが開けられると、運転手はすぐに事情を話し始めた。ある男から送金を受け、私たちを旧港地区へ連れていき、プレゼンが終わるまで車から降ろすなと指示されていたという。


 警察は私たちから簡単に事情を聞き、主催者へ連絡したうえで、会場まで車を手配してくれた。


 開始直前、私は会議室へ入った。


 拓海の自信に満ちた笑みが、目に見えて崩れた。


「どうして来られたんだ?」


 私は彼の近くの席へ腰を下ろした。


「自分の会社の最終プレゼンに出るのが、そんなに不思議?」


「それとも、私は来られないはずだった?」


 拓海は無意識にパソコンバッグへ触れた。


「遅れてるから、心配しただけだよ」


「そういう言葉、もう聞くだけで気持ちが悪い」


 彼は私をにらみ、声を落とした。


「最後のチャンスをやる。今日が終わったら、今度はお前が俺に泣きつくことになるからな」


 私は椅子の背へ体を預けた。


「楽しみにしてる」



9



 最終プレゼンは、東郷ホールディングスが先だった。


 本来の発表担当はプロジェクト部長だったが、拓海は直前になって「競合を圧倒できる独自案がある」と主張し、自分がメインで説明すると押し切ったらしい。


 彼は提出済みの社内確認資料ではなく、自分のパソコンから別のファイルを開いた。


 前半の市場分析、都市更新方針、収支構造は、十分に本物らしく見える。拓海はページを進めるほど自信を増していった。


 画面がプロジェクト名へ切り替わるまでは。


 『かもめ児童公園・雨よけ屋根改修工事』


 会場が静まり返った。


 次のページでは、重要な原価数字が十倍になっている。下部には、水城側の内部確認番号と識別用透かしが小さく表示されていた。


 東郷側のプロジェクト部長が、勢いよく拓海へ振り向いた。


「これは何の資料だ?」


 拓海の顔から血の気が引いた。慌てて画面を閉じる。


「違います。これは俺の資料じゃない!」


 主催者はいったん発表を中断した。


 東郷ホールディングスは、競合企業の管理資料が使われている疑いが生じた時点で、コンペからの辞退を表明した。社内で承認されていないファイルへ、拓海が独断で差し替えたことも、その場で確認された。


 続いて水城都市開発の番となった。


 私は会社のサーバーから本物の資料を開き、土地利用計画、文化施設の保存、既存住民とテナントへの移転補償、生活再建支援、長期的な運営収支を説明した。


 審査の結果、水城都市開発は優先交渉権者に選ばれた。


 拓海が東郷側の責任者へ必死に弁解している間に、会場の外へ朝凪県警の捜査員が到着した。


「黒川拓海さんですね」


 呼ばれて振り返る。


「タクシー車内で女性二人の行動を制限した件、車両損壊の件、それから競合企業の準備室へ無断で入り、管理資料を取得した疑いについて、お話を伺いたい。警察署まで同行をお願いします」


 運転手の供述、送金履歴、ホテルの入退室記録、防犯映像はすでに確認が進んでいた。水城都市開発も被害届と告訴状を提出し、アクセスログとコピー履歴を提供している。


 拓海は連れていかれる直前、私の手首をつかんだ。


「お前だろ! 最初から俺を罠にはめたんだ!」


 捜査員がすぐに手を離させた。


 私はうなずいた。


「確認用のファイルを用意したのは私よ」


 拓海の目が輝いた。助かる材料を見つけたと思ったのだろう。


「聞きましたよね? こいつ、自分で認めた!」


「私は、自社のパソコンに、自社の資料を置いただけ」


 まっすぐ彼を見る。


「無断で部屋に入り、コピーして、自分の成果として使ったのはあなたでしょう?」


 扉が閉まるまで、拓海は何度も私の名前を叫んでいた。



10



 私は被害者として、桜丘警察署で追加の事情聴取を受けた。


 タクシー運転手は、拓海から送られた音声メッセージと入金履歴を提出した。単に遠回りを頼まれたのではない。ドアをロックし、最終プレゼンが始まるまで私たちを降ろすなと、はっきり指示されていた。


 駐車場の防犯映像には、深夜に社用車へ近づく拓海も映っていた。


 ホテルの入室記録、準備室の映像、USB接続履歴も一致している。


 事情聴取後、警察は監禁、器物損壊、建造物侵入、不正競争防止法違反の疑いで拓海を逮捕した。


 それでも本人は認めなかった。


「傷つけるつもりなんてなかった! プレゼンに遅れさせたかっただけだ!」


「企画書だって、玲奈がわざと見せるように置いたんだ!」


 取調官が私へ視線を向けた。


「私は青海企画の準備室へ彼を招いていません。ファイルをコピーする許可も与えていません」


 拓海が立ち上がり、すぐ座るよう命じられた。


「病院へ行くって、わざと大声で言っただろ! 俺を入らせるためだったんだ!」


「あなたの足を動かして、権限のない部屋へ入れたのも私?」


 口が開いたまま、言葉だけが出てこなかった。


 私の聴取が終わるころ、拓海は留置手続きへ移された。


 廊下ですれ違ったとき、彼は突然、妙な自信を取り戻した顔をした。東郷家が助けに来ると、まだ信じているのだろう。


「拓海」


 彼が振り返った。


「誰も助けには来ないよ」


 帰りの車で、理沙はまだ緊張した顔をしていた。


「水城社長は、どうして黒川さんが資料を盗むと分かったんですか?」


「本物の企画書を、彼には書けないから」


 確信していたわけではない。


 ただ、部屋を出る前に彼がパソコンバッグを見た目は、空腹の獣が餌を見つけたときのようだった。だから髪、入退室記録、アクセスログ、確認用ファイルを用意した。


 まさかタイヤまで傷つけ、運転手を雇って私たちを閉じ込めようとするとは思わなかった。


 自宅へ戻ると、真帆が一冊のファイルを抱えて待っていた。


 彼女はまず私のけがを確認し、それから印刷した写真をテーブルへ広げた。


「頼まれていたこと、少し分かった」


 沙耶を囲んだ男たちのうち、一人が過去に何度も拓海のSNS写真へ写り込んでいた。公開アカウント同士でも交流があり、偶然居合わせた他人とは思えない。


 私はその情報を警察へ渡した。


 数日後、男は事情聴取を受け、金を受け取って沙耶へ絡んだことを認めた。さらに、自分の弁護士を通じて東郷側と私の代理人へ連絡し、供述書、拓海からの送金記録、当時のメッセージを提出した。


 写真に写る顔を見た瞬間、私は三年前の記憶を思い出した。


 拓海に口説かれていたころ、仕事帰りに数人の酔った男から絡まれたことがある。彼は絶妙なタイミングで現れ、男たちを追い払い、腕にけがまで負った。


 その一件をきっかけに、私は彼を本気で信じるようになった。


 沙耶を囲んだ男の一人は、あの夜にもいた。


 救出劇は、最初からすべて自作自演だったのだ。


 私は代理人とともに東郷家を訪ねた。


 東郷社長と沙耶、グループの顧問弁護士が同席していた。


 送金記録と供述書を読み終えた東郷社長は、険しい顔で書類を机へ置いた。


「警察署から、私に助けてほしいと電話までしてきた。よくも沙耶を利用してくれたものだ」


 沙耶はしばらく何も言わなかった。すべての写真を確認し、静かにファイルを閉じる。


「玲奈さん。三年前のことも、詳しく聞かせていただけますか」


 私はうなずいた。


 東郷社長が顧問弁護士へ向き直る。


「外部アドバイザー契約を解除し、会社としての支援はすべて打ち切る。資料は警察へ提出し、コンペ辞退に伴う調査費用と信用損害についても、民事で請求してください」


 私は供述書を机の中央へ押し出した。


「東郷家の後ろ盾を失うだけでは、まだ足りません」


 沙耶が顔を上げた。


「私も、同じ考えです」



11



 拓海は逮捕後に勾留され、検察に起訴された。


 起訴後も身柄拘束が続いたが、二か月近く経ったころ、裁判所は保釈を認めた。私や沙耶、事件関係者へ直接連絡しないことが条件に含まれている。


 保釈された日、私は真帆と道路の向かいに止めた車の中から、拘置所の出入口を見ていた。


 拓海はかなり痩せ、スーツは皺だらけだった。以前は時間をかけて整えていた髪も、すっかり艶を失っている。


 真帆は胸のつかえが下りたように息を吐いた。


「これで外に出られるなんて、まだ甘くない?」


「本人にとっては、外に出てからが本番よ」


 刑事裁判は、問題の一部にすぎなかった。


 東郷ホールディングスは外部アドバイザー契約を解除し、虚偽の経歴と不正な資料使用によって支払った報酬の返還、コンペ辞退後の内部調査費用を請求した。


 水城都市開発も、営業秘密の不正取得、車両損壊、事業妨害について損害賠償を求めている。


 沙耶が実名で被害を申告すると、別の二人の女性も、拓海が同じような救出劇を仕組んで接近していたと申し出た。送金記録、脅迫的なメッセージ、同じ男たちが映った画像が、それぞれの代理人を通して警察へ提出された。


 誰も、未確認の噂をネットへばらまかなかった。証拠はすべて、警察と裁判所へ渡した。


 拓海が拘置所から出ると、東郷ホールディングスの代理人弁護士が近づいた。保釈条件に抵触しないよう、沙耶本人はその場にいない。


「黒川さん。契約解除、報酬返還、損害賠償請求に関する書類です。ご自身の弁護士を通して回答してください」


 拓海は受け取りを拒もうとしたが、書類の送達手続きはすでに進んでいた。これまで自分を守ってくれると信じていた東郷家が、今では最も厳しく責任を追及する側に回っている。


 代理人の車が走り去るのを見ながら、真帆が私へ向き直った。


「外に出てからが本番って、こういう意味だったのね」


「嘘で手に入れたものは、法律の手続きで一つずつ失っていく」


 車の流れが拓海の姿を隠した。


 私は、それ以上見なかった。



12



 その後しばらく、拓海の姿を見ることはなかった。


 真帆は冗談半分に、東郷家に秘密裏に消されたのではないかと言ったが、私はそのたびに否定した。ひとりの詐欺師のために、大企業が自分たちの将来を危険にさらす理由などない。


 拓海は消えたのではない。


 嘘によって手に入れた仕事、車、人脈、体面を失っただけだった。


 刑事裁判では有罪判決が下り、執行猶予と保護観察が付いた。被害者への接触禁止も継続された。


 複数の民事訴訟でも支払い義務が認められ、銀行口座や給与の一部は差し押さえられた。高級時計や車は手放し、返済へ充てたらしい。


 美代子は弁護士から事情を聞かれると、自分は何も知らなかったと言い張り、息子との金銭的な関係を切った。


 数か月後、私は真帆と休暇を取り、汐見空港から旅行へ出ることになった。


 送迎車が空港貨物地区の近くを通ったとき、作業服姿の男が荷台から段ボールを下ろしているのが見えた。サイズの合わない制服を着て、右手の小指には作業中のけがらしい固定具が巻かれている。


 一目で、拓海だと分かった。


 彼は期間契約の搬入作業員として働いていた。ちょうどその日、債権回収に関する新しい書類を受け取ったところらしく、休憩所の前で封筒を握りつぶしている。


 車が信号で止まり、拓海がこちらを見た。


 目が合った瞬間、彼は荷物を放り出して走り寄ろうとした。


「玲奈、待ってくれ! 助けてくれ!」


 空港の警備員がすぐに間へ入り、車へ近づくのを止めた。


 かつての自信は、彼の目から完全に消えていた。


 私は運転手へ告げた。


「そのままお願いします。飛行機に遅れたくないので」


 信号が変わり、車はゆっくり走り出した。


 サイドミラーの中で、拓海は警備員に止められたまま、こちらを見ていた。


 数か月前まで彼は、自分と別れた私を受け入れる男などいないと信じていた。


 けれど、最後にすべての人から見放されたのは、彼のほうだった。


 私はミラーから視線を外し、窓の外へ広がる滑走路を見た。


 三年間の恋愛は、私を「売れ残りの女」になどしなかった。


 傷んだものを差し出されたとき、無理に飲み込まなくていいと教えてくれただけだ。


 捨てられるべきだったのは、最初から私ではなかった。



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