第2話 彼女の声
彼女の声が聞きたかった。彼女の声が聞こえる間は、この音が止むから。
学校からの帰り道。今日もさわさわさわ、水の流れる音が聞こえる。私は耳をガリガリと掻く。引っ掻いて、彼女の声が聞こえた気がしてやめた。あんまり掻くと傷になる。別に傷になることが嫌なわけじゃないけれど、せっかく彼女が言ってくれたことだから、一応気にしておくことにする。
彼女に会いたいな。会えば楽になる。この音が聞こえなくなる。一人は嫌だ。一人は。
「嫌だ、な」
「そうなの?」
「わ」
背後から急に現れた彼女に驚く。
「ああ、びっくりした」
「なにが嫌なの?」
「え、」
「声に出してたわ。なにが嫌なの?」
「あ、いや。……一人が」
「うん」
「嫌だなって」
「一人なの?」
彼女は首をかしげる。長い髪がさらさら揺れる。
「私は、いつも一人、だから。一人だと、あの音が聞こえるから」
「そうなのね」
黒い瞳で見つめられる。
「私がいるから大丈夫よ」
「そうかな」
「そうよ」
白く細い腕が、私の腕に絡まる。この日差しの中でも、彼女の腕は冷たい。
「私がいるから大丈夫よ」
そう言ってそっと体を寄せてくる。涙が出そうだった。
けれど一人になればあの音が聞こえる。さわさわさわ。水の音。川の流れるような音が聞こえる。
お風呂に入るのはこわかったけれど、入らないわけにはいかない。恐る恐る入り、湯船のふちをしっかりつかむ。それでも五秒、十秒と、時間が経つごとに体の緊張がほぐれていった。そろそろ上がろうと、湯船から立ち上がる。あの手が掴みかかることはなかった。
風呂から上がり、髪を乾かしたあと冷蔵庫から牛乳を取り出す。まだ口の開いていないそれを開封し、グラスに注ぎ入れる。
「……え」
牛乳パックから出てきたのは、黒い、黒い髪の毛だった。牛乳にまみれながらも大量のそれが、ぞろりと溢れ出る。思わず手が滑り、グラスを取り落とす。床にぶつかったグラスはそのままガシャンと割れ、お母さんが慌ててそばにくる。
「どうしたの? 落としちゃったの?」
「お母さんっ!中に、髪の毛が……っ」
「えっ髪の毛?」
お母さんがしゃがみこみ、そっと割れたグラスを覗き込む。
「……何もないけれど?」
「え……」
慌てて私も覗き見れば、そこに広がるのがただ白い牛乳だけだとわかる。一番大きなグラスの欠片をどけてみても、髪の毛は一本も見当たらない。
「危ないわよ。あなた、疲れてるの?」
お母さんの声は、耳に入らなかった。
さわさわさわ。水の流れる音が聞こえる。
今日は休みだ。ぐったりと疲れた体を引きずって起き上がる。相変わらず、あの音が聞こえる。
「おはよう」
突然聞こえた声にぎょっとのけぞる。部屋には彼女がいた。テーブルに肘をつき、ちょっと身を乗り出すようにしている。
「なんでいるの?」
「何でもいいじゃない。あなたが心配だったし。私がいれば、音が聞こえないんでしょう?」
「そうだけど……」
「なにがあったの?」
「……昨日、牛乳の中に髪の毛が入ってたの。でも、次の瞬間には見えなくなってた」
「そう……」
「こんなのおかしい。こんな変なことが続くなんて、それとも私の頭がおかしくなったのかな……」
「あなたがおかしいところなんてどこにもないわ」
彼女はそう言って目を瞑り、開いた。
「そういえば、いなくなってたあなたのクラスメイト、彼まだ見つかってないんだって?」
「? ああ、そんなのがいたっけか」
クラスメイトのことなんて、ちっとも頭になかった。教室にいたところで私は一人だし顔と名前が一致する人なんてほとんどいない。私はあの水の音で精一杯だったし。
「それがどうかしたの?」
「どうもしないけど。その人、ひまわり畑でアルバイトするって言ってたから思い出したの。夏休みも近いのだし、今度行ってみない?」
なるほど、彼女もそのクラスメイトに興味があるわけではないらしい。ひまわり畑のことを知ってクラスメイトのことを思い出し、一応聞いてみただけなんだろう。
「そうだね。特に予定もないし、一緒に行ってみようか」
「夏休み中は一緒に過ごしましょうよ。一緒にいれば、あの音は聞こえない」
彼女は柔らかく目を細めて笑う。綺麗な彼女が笑えば、それは花のようだった。ひまわりよりかは、白百合のようだけれど。
「私がいれば、大丈夫なんだから」
彼女の声は、安心する。
日中はずっと私の家にいた彼女も、自分の家に帰らなければならない。そう頻繁に泊まるわけにはいかないし、それが寂しくもあるし、不安でもある。
彼女に頼り切ってばかりいてはいけないのだけれど、他にそんなことができる知り合いはいない。お母さんのことは彼女と同じくらい信頼しているけれど、それでもあの音は消えてくれない。
今日も緊張しながら湯船に浸かる。夕方から雨が降っているようで、窓を叩く雨音があの水の流れる音を遠ざけるように感じた。
その時、明かりがチカチカと瞬いた。
「ひっ」
一瞬で体が冷め上がっていく。なのにじっとりと嫌な汗ばかりかいて、目に汗が入る。
ガーンと音が鳴り響き、ぱっと電気が消えた。身が硬くなる。
「お母さん……」
呟けば遠くからお母さんの声が聞こえた。
「大丈夫? 雷でブレーカーが落ちちゃったみたい。いま上げるからね」
その声に少なからず安堵する。目を閉じて、雨音に集中する。
やがて明かりがついたのか、まぶたの裏が明るく染まる。安心して息をつき、目を開く。
ぶよぶよに膨れた青白い顔が目の前にあった。
触れれば今にも崩れそうなそれは腫れ上がった頬と瞼に挟まれた両の目を見開き、しっかりと私を見ていた。
さわさわさわ。水の流れる音が聞こえる。
そこで私の意識が途切れた。