第1話 水の音
水の音が聞こえるのはいつも■■のときだった。
さわさわさわ。水の流れる音が聞こえる。
私は唇を噛みしめ、ゆっくりと辺りを振り返る。近くに川はなく、蛇口の開いているような水道もない。ただ私と同じような下校中の学生たちが、友人たちと話をしながら歩いている。急に立ち止まった私のことを避けながら、それでも誰も気に止めない。
さわさわさわ。水の音が耳にこびりついて離れない。
私は耳をガリガリ引っ掻いてそのまま歩きだした。早く、早く家に帰りたい。足早に、人の間を潜り抜けていく。いつの間にか音は止んでいたけれど、それでも足は止まらなかった。
「ただいま」
家に帰る頃には気持ちは落ち着いて、いつも通りの私に戻っていた。靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて廊下をパタパタ歩く。
「おかえりなさい。スイカあるわよ」
「うん」
お母さんの言葉に返事をしながら冷蔵庫をあさる。綺麗な三角形に切り取られた赤いスイカを二切れ皿にとりわけ、部屋に向かう。ドアを開けると、エアコンの冷気と共に彼女が私を迎えた。長い黒髪を持つ頭をくったりとテーブルにつけていた彼女は、ゆっくりと視線を私に向ける。
「おかえりなさい。今日はスイカ?」
「そうだよ。塩かける?」
「そのままでいいわ」
彼女は透きとおるような白い指先をテーブルに置いたスイカに伸ばす。しゃく、しゃく、しゃく。柔らかな音をたてて瑞々しい果実を口に含む。私も座ってクッションに座るとスイカを食べ始める。じゅんとあまい雫が顎を伝う。
「甘いわ」
「そうだね」
彼女は私の友人で、よくこうして勝手に部屋に上がってくる。幼い頃からこうなので、お母さんも何も言わない。私も何も言わない。
するりと長い黒髪を指で遊ばせながら、彼女は私の方を見る。その黒曜石のような瞳に見つめられると、なんでも見透かされているような気になってくる。
「それで、今日も?」
「うん。水の音」
「聞こえるんだ」
「そう」
彼女には私の悩みを話している。誰にも言わないことでも、彼女相手なら何でも話せた。
「どんな時に」
彼女はゆっくりまばたきしながら私の目を見据える。
「聞こえてくるんだっけ」
「いつだって聞こえてくる。教室でも、授業中でも、登下校でも」
水の音が聞こえる。いつも聞こえる。時を選ばず、場所を選ばず。さわさわさわ。水の流れる音が聞こえる。思わずガリ、と耳を引っ掻く。いまは聞こえていないはずでも、なんだか不安になってくる。
「私といるときは?」
「聞こえない」
だからすごく安心する。
お風呂に入っているときも、水の音が聞こえる。シャワーの音に紛れて、さわさわさわ。水の流れる音。体を乱暴に洗い、水の音を振りはらうようにわざと大きな音をたてて湯船の中に入る。はあ、と温かい湯に包まれながら息をもらすと、水の音が遠くなってくれるんじゃないかと感じた。
ぱち、ぱち。電気が瞬くように明滅を繰り返す。
(電球切れたかな?)
そうこうしているうちにぱっと明かりが消えて、暗闇に包まれる。停電かと思ったけれど、換気扇の動く音が聞こえてくる。明かりだけが、消えている。
「お母さーん」
声を掛けてみるけれど返事が来ない。それにしてもおかしい。こんなに暗いものだろうか。脱衣所の向こうからも、明りが一切届かない。お風呂のふちに手をかけた。
瞬間、何かが私の腕を掴んだ。
「!?」
ぬるりとした手の感触。冷たくも温かくもないそれは私を掴んだまま、お風呂の中に私を引き摺り込んだ。
なにか、髪の毛のようなものが体に纏わりつく。肺から息が絞り出される。足が湯船を叩く。苦しい、苦しい、苦しい!
「! ごほっ!」
苦しさがピークに達したとき、体が解放された。何度もせき込むうちに、明りが元にもどっていることに気がついた。髪の先から水がぽたぽたと垂れる。温かな湯に浸かりながらも、体はぞっと冷え込み、震えが止まらなかった。止まらないまま、風呂場から飛び出した。
今日も水の音が聞こえる。さわさわさわ。学校の屋上で、アリの群れのように蠢く運動部の生徒をぼんやり眺めながら、私は昨日のことを考えていた。あの腕の感触。あれは何だったのか。水の音と関係があるのだろうか。考えても考えても、頭が追い付かない。ガリガリと耳を引っ掻く。ガリガリ、ガリガリ。引っ掻いている間は、水の音が気にならなかったから。
「そんなに掻くと傷になるわ」
いつの間にか隣に彼女がいた。白い手で顔に日影を作りながら、静かに微笑む。
「こんな暑いところにいて、どうしたの」
「……寒くて。昨日から寒くてしょうがないから」
「だからってこんなところにいたら日射病になってしまうわ。教室に行くか、家に帰るか……」
「家には帰りたくない」
「私は帰りたいわ」
じっと見つめてくる彼女の瞳。影の中でも黒々と輝くその目に見られると、重たい体も何とか動かせるような気になってきた。
「私の話、聞いてくれる?」
「聞かない時があったかしら」
「……ないね」
「でしょう。帰りましょう」
家路につく道すがら、昨日の風呂場であったことを彼女に話す。すぐ近くの木にへばりつくアブラゼミの声が頭の中をかき回すようで不快だったが、あの水の音がしないのはそれだけで心地よかった。
「恐怖体験ね。心当たりはあるの?」
「ない。なにも。……あったら悩んでないよ」
「そうよね」
彼女と別れる。今日は家に上がってこないようだった。寂しかった。寂しかったのもあるし、またあの音が聞こえてくるのが怖かった。
あの水の音が聞こえてくる。
水の音が聞こえるのはいつも一人のときだった。
一人を感じているときだった。