第二話 火花
また、夏の夢を見ていた。
夢だとわかっていて、見る夢。
でも、こんなにもはっきりと見ることができたのは、きっと、あんな映像を見てしまったからに違いなかった。
蒼葉との思い出は、夏の景色が多い。ひとつ離れた歳の差や、通う学校が違うことが、最も気にならなくなるのが、きっと夏休みの1ヶ月だったからなのだと思う――。
夢の中。今日の私は、泣いていた。
これは、小学1年生の、地域の夏祭りの日。
私は、もうこんな身体、燃え尽きてしまえばいいのにと思って、泣いた。
神社の境内の、お社の裏。私は、声を殺して泣き続けていた。泣き声を聞いて駆けつけてくれた人の優しさを、私という化け物の火で焼き焦がしてしまうのが、怖かったからだと思う。
泣いて、泣いて、たくさん泣いて。気づけば私は、眠っていた。
どれくらい、眠っていたのだろう。私は、ドンという大きな音に、目を覚まし、パラパラと夜空に散る花火の音に、身体を起こした。
ふと、横に誰かがいるのに気づいた私は、明らかに戸惑った表情を見せて、そのまま固まってしまった。
でも、ここで逃げ出したり、騒いだりしなかったことが、私にとって大切な時間を紡ぐきっかけになった。だって、このとき、私ははじめて君に……、蒼葉に出会ったのだから!
『おきた?花火、まてなくてねちゃうよな。わかる。』
『……だれ?』
『おれは、あおば。きみは?』
私は、あかり――。
思えば、どうして君は、不審がらなかったのだろう。
どうして君は、蔑まなかったのだろう。
他の人は、みんなそうするのに。
「普通じゃない」こと。それは、仲間じゃないこと。友達じゃないこと。私はそう、気づいていた。
褒められたとき、嬉しいとき、楽しいとき、笑えたとき。私には、小さな小さな、青い火が宿った。指先から伸びる小さな火柱と、それを取り囲む淡い火花。
しかし、その火は、断じて喜劇を生まなかった。学校という環境は、人に「人の除き方」を、ものすごい早さで、学ばせていく。その標的には、まず、「異物」が選ばれることになる。
「化け物」――、それが、私を指す言葉になるまでに、多くの日数は要しなかった。
『どうしたの、とか、きかないんだね。』
私は、袖の焦げた浴衣を見せて、蒼葉に聞いた。
『そんな小せぇことよりもさ、きれいだぜ。』
空を見上げると、次から次へと、赤や黄色の花火が上がっている。
『きれいだな。あかりも、そう思うだろ?』
きれい。きれいだから、悔しい。悲しい。なんで、空に上がる火はきれいで、私のは「化け物」の「呪い」になるんだろう。
君には、花火を眺めながら、腫れた目をさらに擦って腫らす私のことが、どんなふうに見えていたんだろう。
『つらいことあったらさ、楽しいことしたらいいんだぜ。そうだ、こんど、うちで花火するか?線香花火バトルとか!』
きっと、君も、私の火を知れば、私のことを嫌いになる。そう思う気持ちはあったのに、君の次の行動に、私の心は確かに、強く、揺れた。
何を思ったのか、君がいきなり私の左手を握ったせいで、私の右手から、小さな青い火花が溢れ出てしまった。
ああ、きっと、また、嫌われる――。
『すげえ。こっちの方が、もっときれいじゃん。』
君は、空の花火に背を向けて、屈み込んで私の火を見てくれた。
『もっと、もっと見せてよ!』
結局、私たちはその日、花火が終わって何時間もの時間が経ったあとも、一緒に「火花」を眺めていた。
『あのあと俺、めっちゃ怒られたんだぜ。でも、灯里の浴衣、俺のせいにするってアイデアは天才的だったな。』
『すぐにバレて怒られたって、何回この話するの?』
これは、私が2年生、蒼葉が3年生のときの、夏。あれから、困ってる私を助けるための作戦、いっぱい考えてくれたんだっけ。ほとんど空回りばっかりだったけど、君の優しさが、なによりも嬉しかった。
『でさ、今度また灯里のお母さんのおみそ汁、飲みに行っていい?あれうまいんだよな、うちのと全然違う。』
『蒼葉もしかして、うちのお母さんのこと好きなの?』
『そんなわけねぇだろ。だいたいな、俺は……』
これは、その次の年の夏。母は、表向きは「友達ができたのね」って、喜んでくれていた。でもきっと、それは母が「普通」を演じている姿なのだと、私は気づいていた。そんな私のモヤモヤに、多分気づいていた君は、わざと変なワガママを言ったりして、私を色んなところに連れ出してくれたね。
『だから。気にすんなって……って言っても、気にするんだろ?だったら、勝負で決めよう!今度は絶対俺が勝つ!灯里が勝ったら、許してやる。俺が勝ったら、アイス買ってもらうからな!』
これは、また次の年の夏。さざ波の音が聞こえる。ふたりで、電車をいっぱい乗り継いで、初めて行った海。はしゃぎすぎて失くした私のリボンを、ずっと探し回って日が暮れて、結局見つからなくて。でも、そのあと君との「勝負」に勝って、許してもらえたんだっけ――。
ああ、ずっとずっと、夏が続けばいいのに。
夏が終わらなければ、私の幸せは終わらないのに。
夏の日長は、夕暮れまでが遠いはずなのに、気づけばいつも、空はオレンジに染まっている。
隣町の市民プール、塩素の香り。図書館での宿題、鉛筆の音。蒼葉のおばあちゃん家での夏野菜の収穫、水をやりすぎて棘だらけのきゅうりは、味は悪くないんだっけ?
鮮やかな揚羽蝶が、くるりと私の周りを舞って、蒼葉の網を飛び越える。川のせせらぎの音、揺れる木々。
麦茶の氷が、カランと溶ける。私の家のとは、違う味がする。扇風機が回る音、揺れる声。いっぱいに咲く向日葵、ちょっと怖い、軒の蜂の巣。
公園でただひたすらに走り回る時間も、お小遣いをぼったくりのアイスに費やす時間も、推理物の映画で爆睡してしまう幼さも、雨も、虹も、暑さと汗も、全部、全部がキラキラと輝いている。
蒼葉だけが、私を「普通」にしてくれる。
いつしか私は、厚着の季節を乗り越えて、少しずつ薄着が目立つ季節になるのを、心から待ち遠しく思う少女になっていた。
紅葉なんて早く枯れてしまえ、雪なんて早く溶けてしまえ、桜なんて早く散ってしまえ。じれったい梅雨が明けて、さあ、緑が息づく。蝉が鳴く。雲が高く伸びて、また君との季節が、始まる――!
私にとって蒼葉は、たったひとりの、大切な存在。私はそれが、「兄」という言葉で表されるものに、最も近いと信じ続けていた。
そして、その次の年。私が5年生、蒼葉が6年生になった、夏。
少しだけ、声が低くなったようにも思える蒼葉と過ごした、最後の、夏。
初めて出会ったあのお社の裏。夕暮れの中。
私たちの距離は、これまでとは違う、もっと特別な意味を持つようなものへと、変わろうとしているのだとわかった。
怖いとは、思わなかった。嬉しいとさえ、思っていた。でも、どうしてか、超えてはならないような、気がしていた。
君の左手が私の右頬に、私の左手が君の右頬に、優しく触れたその瞬間。
全ては炎に包まれて、君との日々は、終わりを告げた。
今だからこそ、言えるのだと思う。あのとき私はきっと、君に、蒼葉に――、恋をしていた――。
夢なのか、現実なのか分からない追憶の時間は、カエルの顔をしたうるさいだけが取り柄のアラーム時計によって、打ち止めになった。
頬が濡れていた。それを拭う私の手は、微かに燃えていた。不思議と、私の皮膚は焼けない。温かいなと感じるくらいだ。だからこそ、幼い頃は火の恐ろしさに気づきにくかったというのは、今更言っても遅いのかもしれない。
起き上がっても、まぶたの内側には涙の感覚だけが、まだ残っていた。
あの島に行けば、君にまた会えるのかな。いや、会ってどうするのだろう。
またきっと、傷つける。でも、会いたい。会えない、会ってはいけない。
この、意味も答えもない自問を、何度繰り返しただろう。
ああ、「普通」の人間が羨ましい。どうして、こんな力をもって、生まれてしまったのだろう。
ブレザーに袖を通して、スカートの腰のところをちょっとだけ巻いて履く。とりあえず髪を結んで、前髪だけ整える。いつも通りの朝を過ごす。両親とも、何気ない会話をした気がする。
「行ってきます。」
後から思えば、これだけは、ちゃんと言えてよかった。
いってらっしゃい――、これは別に、ちゃんと聞こえなくても、よかった――。
2025/05/17 後半部分の一部を除き、ほぼ全部追加。
2025/05/25 誤字訂正