陸
残された菖子は、隣に座る伊織の気配に神経を張り巡らせた。何を考えているのか、伊織は一言も喋らない。静寂が、拷問の如く彼女に圧し掛かる。
然し其れも直ぐに破られ、側からした僅かな衣擦れの音に彼女は耳を欹てた。
「……菖子……」
途端、ゾクリとする様な声が響く。
菖子は肩を一瞬震わせ、声の主へと体を向けた。其処には麗しい顔の伊織がいる。彼に抱き寄せられた菖子は、耳元で囁きを受けた。紛れも無く夜に聞く、「男」としての声だった。
「愛しているよ」
体を硬くさせた菖子の腰に伊織はしっかりと片手を寄せ、もう片方は頬に伸ばし、顔を上げさせた。
「菖子は私を愛しているだろう?」
伊織の眼差しは菖子だけを見つめている。睨まれている訳でも無いのに、菖子は何故か視線に居竦んだ。
「愛しているだろう?」
再び言われるや否や、菖子はもう何も応じられなかった。伊織が唇を塞いでいた。噛み付く様な口付けで息苦しさに襲われた菖子は、姿勢が崩れてソファに倒れ込まないよう必死に為る。自身から伊織を引き離そうとしたが、男の力には敵わず、為す術も無かった。小さな抵抗を繰り返していると、扉の開閉音がした。
部屋の出入り口に立っていたのは先程席を外した彼だった。菖子が目を見開くと、伊織の唇が離れた。
……見られた。彼女は愕然とした。
彼は開けた扉の前で立ち尽くしている。然し、ハッと息を呑んだのも束の間、其処から立ち去ろうと、彼の片足は半歩後ろに下がっていた。
菖子も菖子で、思わず見られた事への羞恥で顔を俯けると、凛とした声が部屋に響く。
「申し訳ない、**さん。……どうぞお戻り下さい」
菖子は一瞬耳を疑った。此の期に及んで入室を勧める伊織の言い方に、菖子は頬に赤みが差すに留まらず、耳まで燃える様に熱く為ったのを自覚した。
何とも言えない空気が漂う中、伊織の語気に中てられた彼は、部屋に気まずそうに入って来る。
元の位置に座った彼に、伊織は――どうかお気になさらず、と軽い口調で告げた。挙げ句、綽然とした態度で微笑み、未だ顔を上げられないでいる菖子の髪にそっと触れて優しく撫でる。
「愛しい彼女を前にすると、どうにも……。お恥ずかしい限りです」
其の言葉に羞恥の限界を来した菖子は退出しようと勢いよく無作法に立ち上がった。所作に構っていられない程、動転していた彼女は――失礼します、と焦りながらも辛うじて言い、逃げる様に部屋を去った。
夕下がり、自室のソファに深く身体を預けていた彼女の元に、伊織は訪れた。其れは客が帰った事の証だった。菖子は抗議の意味を交えて伊織を睨んだ。其れを気にした風でもない伊織は菖子に近付くと、彼女を抱えて寝室へと足を運ぶ。
「お願い、今日は止めて」
眉を顰めて声を震わす菖子の訴えに、伊織は耳を貸さなかった。冬場の早い日の入りに、部屋は茜色の余韻が僅かに残るだけで仄暗い。室内を包む濃い影に侵食されながら、伊織は菖子に折り重なる。
菖子の抵抗も、何時しか鋭い金切り声から細く短い嬌声に変わる。だが理性は肉感的な快楽に流されるのを良しとせず、彼女の内を、伊織に為された辱めが駆け巡り渦巻く。
夕に始まった伊織の陵辱に、菖子は耐えた。そしてぼんやりとする頭の中で考えを巡らしていた。
伊織の姦計を。彼に上手く踊らされたのだという事を。
そう思う訳は有る。菖子は心の内で自身を嘲笑った。
だって恐らくもう二度と、職員は此処へは来ない。二度と姿を見る事も無い。
恋心を残している彼女に気付いた伊織は、彼女を自分の物だと思わせる事で行き所の無い嫉妬を昇華させ、大きな作用を生み出した。
伊織と菖子の此れ見よがしな行為に二人が相思相愛だと思われれば、菖子が泣き出して玄関から飛び出た経緯もきっとこう解釈される。あれは偶然出くわした、只の痴話喧嘩、恋人同士の可愛い諍いだ、と。
目の前で繰り広げられた情交の一端に、或いは伊織と菖子の仲に疑いさえ持たなければ、伊織の仕向けた茶番は最高の出来だろう。菖子の様子に不審がり彼女に近付いて呉れなければ、助けを訴える事すら叶わない。菖子にとって、あの口付けの後に逃げ出したのもいけなかった。きっと伊織は穏やかな笑みを浮かべて彼に言った筈だ。恋人を愛しむ声音で――恥ずかしがっているのだ、と。
あの時、恥辱を無理強いされていると訴えれば、若しかしたら連れ出して呉れたかも知れないというのに。
菖子は笑みを浮かべた。何故こんな時に口元が上がるのか自分でも分からない。伊織に身体を縦にされながら、彼女は薄らと自虐的な笑みを浮かべた。
伊織は菖子に、女としての尊厳も矜持も、何一つとして残しはしなかった。いよいよ持って伊織は彼女への激しい執着の一面を見せ、夜は更けていくばかりである。