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仕合わせ  作者: おでき
6/10

 季節は冬が目前。二人は蜜月を過ごしていた。一層、菖子への思いが募る伊織と、其れに応える菖子はまるで相思相愛だ。だが菖子は従順な様子を見せつつ、彼を篭絡させるのに心を砕く日々を送っていた。

 其の様な或る日、彼女は思いも掛けない人物と再会する。

 突然の来訪を告げる始まりは昼下がり、伊織とお茶を飲んでいる時であった。老齢の執事がノック後に主人の了承を得て部屋に入って来る。伊織の側まで近寄った執事は、腰を屈めて何事かを耳打ちした。相槌を打つ伊織は、僅かに眉間に皺を寄せている。

 執事が背筋を正した時、伊織は立ち上がった。正面に座り、一連の出来事を静観していた菖子に彼は微笑むと、一言――失礼、と言って部屋を出て行ってしまう。

 首を傾げた菖子は、暫らくして何となく窓を見遣り、驚きの余り勢いよく椅子から立ち上がった。自分の見たものが信じられず、急ぎ窓に寄り確認する。窓の向こうの庭には、恋焦がれた人の姿が見えた。

 施設で過ごした頃、好意を寄せていた「彼」が屋敷を訪ねて来たのである。孤独だった菖子に、優しくして呉れた彼女の思い人。伊織より少し年嵩であろうかという位の、施設職員。

 其の姿を認めた菖子は窓から離れて走り出した。部屋を出て、静止を求める女中にも構わず息を乱し、階下に急ぐ。彼の姿を見た瞬間、今までの計画が吹き飛んだ。伊織を懐柔する事も、逃げ出す機会を作り出す事も、構っていられない。兎に角早く、という気持ちが駆ける足を前に押し出していた。菖子は絨毯の敷いた廊下を突っ切って館の中央にある大階段へと走る。内心は、歓喜と興奮に包まれていた。天の配剤かも知れない。良い機会だ、逃す手は無い。

 其の思いは玄関を視界に入れると、現実味が帯びてきた。彼女の急く足にも鼓動は難無く追い掛け、息の乱れすら心地よく感じる。

 ――助けて、と叫べばいい。其れだけで、きっと救われる。

 窓越しといえど久し振りに彼の姿を見た菖子の胸は逸り、心はときめいていた。

 幸運にも玄関まで何の障害も無しに辿り着く。屋敷の玄関を出ると、大きな門扉へ歩く彼を見つけた。菖子は一心不乱に叫んだ。

「**さん!」


「……何故? あの男は君の何だい?」

 菖子は伊織に因って直ぐに捕まった。叫んでから瞬く間に羽交い絞めにされた彼女に、踵を返した施設の職員が急ぎ足で戻って来る。が、近付いて来る意中の人を最後に見ながら、菖子は伊織の腕に崩れ落ちた。伊織が気絶させた。

 彼女が手放した意識を自力で手繰り寄せた時には、寝室で横に為っていた。其れから待っていたのは耐え難い事態だけで、伊織に詰問された末に抱かれた。だが不幸中の幸いとでも言うべきか、一番言いたい事を言う前に気絶している。助けて、なぞ言えば伊織に何をされたのか分からない。

 伊織は最中に何度も激高を振り翳し、あの男は何だ、と詰め寄った。彼とて、男が施設の人間だというのは承知している。だが菖子と気持ちが通じ合ったと思っていただけに、彼女が我が身を振り乱し庭へと駆けて行く様には愕然とした。まるで助けを乞う姿を見せられ、伊織は暫らく足が動かなかった。おまけに菖子はあの職員に対して一方ならぬ思いを抱いている風に見える。恋慕とでも言うべきか。

 だから彼女が自分の下で嗚咽交じりに只の施設の人だと再三に説明しても、伊織は到底納得しなかった。

 其の日を境に伊織の視線は狂気染みたものに変化していった。以前と変わらず愛情も滲み出てはいるが、嫉妬の見え隠れする眼差しも同時に向けられる。

 菖子は自身の短慮に因り機会を棒に振った事を悔やんだ。伊織の拘束は益々菖子の自由を侵食し、彼と行動を共にしないと出来なくなる事が増えた。今や庭への逍遥すら儘為らない状態である。

 然し丁度「あの事」が起きた日から翌々週の日の午後、菖子は又もや驚愕した。職員が再び来たのだ。しかも今度は伊織から、菖子の同席も伝えられた。どうやら伊織が彼を呼び寄せたらしく、真意の分からない菖子は何処か恐ろしさを感じた。

 広い応接室に、向かい合った猫脚のシルエットが上品なソファの片方では、伊織が余裕の笑みを浮かべる。

 菖子は隣に座る伊織の威圧感の所為で全く口を利けず、飾りの様に座っていた。

 二人の話は施設に関する寄付と、新たな慈善団体設立の為の基金の打ち合わせや、公共機関への仲介が主だった。こんな事を聞かせる為に、自分は呼ばれたのだろうか、と菖子は訝しむ。然し彼女が思っている内に、知らず状況は進んでいた。

 伊織は先程から菖子を何度も視界に入れようとする、正面の男性職員の視線を感じていた。普段なら其の不躾な視線に苛立ちもするが、今回は優越が勝っていた。

 菖子の禁欲的ともいえる露出の少ない服から覗く、伊織自身の跡だ。何かの拍子に彼女の袖が上がれば手首の付近に、髪が揺れれば首筋にと、其処彼処に伊織の付けた紅い鬱血が点在する。僅かしか見えないが、其れでも彼は気付いたらしく菖子に向ける視線が泳いでいた。恐らくは、衣服に包まれた中にも在る事を想像しているに違いない、と伊織は内心ほくそ笑む。何せ、彼女の跡は全て自分が付けたのだから。

 素晴らしい美貌を携えた彼女を支配する事は、万有掌握にも勝る感慨。伊織は目の前で其れを知らしめているのだ。

 菖子は自分のものである、と。

 たった一人の男に対して、其処まで気を揉んだ伊織だったが、(あなが)ち間違ってはいなかった。彼の予想した通り、男性職員は施設内の他の子を差し置き、菖子を特別視している雰囲気が多分に感じ取れた。案の定、菖子の肌に残る伊織の刻み付けた痕に微細ではあるが、相好を歪ませる。

 伊織は彼の様子にしれっとした顔で、ご気分でも悪いのですか、と尋ねてみせた。然しながら仕事柄か、途端に先程の表情の差異を隠し、職員は人好きのする笑みを浮かべて軽く首を振った。

「いいえ」

「そうですか? 何やら顔色が優れませんよ」

 含みを持った笑みを顔に貼り付けた伊織の言葉に、彼は居た堪れない表情で申し出た。

「申し訳ない、お手洗いを貸して頂けませんか」

 肯いた伊織は後ろに控えていた執事に目配せをする。彼を案内する為に、執事は部屋の扉を先んじて開けた。彼は失礼、と立ち上がり出て行ってしまった。

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