肆
菖子は伊織から逃げる算段を整える為、徐々に抵抗を止めて機会を窺った。一方、彼女が大人しく抱かれる事に満足する伊織であったが、飽き足らないとも感じ始めていた。一向に求められないのは人形を抱く様で、実に複雑な心境である。
彼の戸惑いに感付いた菖子は、行動に出た。
季節は新緑の匂いが消え失せ、照り付ける日差しに涼風を恋しむ頃と為っていた。
二人きりの部屋で、菖子はいじらしく伊織の傍に寄り添い、抱き締めてと呟いた。偽りの愛情を示す為の蠱惑と甘言が舌先で踊る。狡猾な女の性を駆使して、彼女は自身に宿る蕾を花開かせた。数瞬の後、背中に回された伊織の腕を確認すると、彼女は涙を零し伊織を見上げ口にした。
曰く、貴方が好きだ、と。
「……最初は怖くて、貴方を見る度、逃げ出したかった。でも貴方はとても優しくして呉れて……余計に怖く為ったの、自分の気持ちの変化に。拒みたいのに、何時の間にかもっと触れて欲しいって思ってしまった。けれど初めての夜を思い出すと傍に居られない。貴方のした事が許せないから。なのにずっと一緒に居たいと願ってしまう。貴方を此れ以上好きに為る事の方が、今は怖い」
伊織は信じられない気持ちで、彼女の独白を聞いていた。
「……わたし、どうすればいい」
無音に包まれ暫らくの後に、菖子はそっと呟いた。伊織は我に返り、項垂れる。
「あの夜の事は済まなかった。どうしても君が欲しくて我慢ならなく為ってしまっていた……」
「伊織さん、わたし……」
「側に、ずっと側に居ればいい。一緒に居てお呉れ。私から離れてはいけないよ」
頷く菖子に伊織は喜んだ。とうとう心も手に入れ、愛しむ女が自分だけを見て呉れるという感慨が沸き起こった。
「愛しているよ」
何度も伝えて来た言葉は、今日は特別にしたく、今まで以上の思いを込める。其の間にも、全身に熱い鼓動が伝播した。
「愛している、菖子」
此れから彼女が齎して呉れるであろう、伊織の人生全ての彩り。其れを思うと、自身の一生分の幸せを如何にして菖子に伝えれば良いのか、伊織は歓喜に戸惑いながらも熱に浮かされた様に自然と湧き上がる言葉を口にしていた。
「愛している、本当に愛しているよ、菖子。誰よりも何よりも、愛している」
幾度も繰り返される彼の告白に、菖子は恥じらいの声音に微笑を乗せて頷いた。
「ええ、わたしも、伊織さん」
初めて自身が受け入れられた返答に、伊織は更に彼女を抱き締めた。
「好きよ、大好き」
幻聴かと疑いたくなる至福の言葉を耳にして、思いを通じ合わせた喜びに浸る伊織に、菖子は甘える様に体を寄せた。
伊織は菖子の背中に回した自身の腕に力を込め、此の瞬間を一片も逃すまいとしっかり抱き込む。そして今までの不足を補わんばかりに何度も彼女の耳元で愛の言葉を囁いた。だが菖子は耳を傾ける振りをし、頭では別の事を考えていた。
(まさか此処まで効果があるとは……)
どうやら考え抜いた文言は相当の逸品であったのだ、と菖子は誰も見た事の無い「女」の顔で笑む自身を、最早、相好を崩し切っている伊織の胸の中に隠した。