参
純潔を喪失した日から、菖子は伊織と寝起きを共にしていた。同衾は、菖子にとっては苦痛を伴う変化であった。
彼は己が求める儘に菖子を貪り、浸り、溺れ堕ち、只管に耽っては全身全霊で菖子を愛する。
「……いいかい?」
了解を得る為の伊織の言葉は特に意味を持たない。菖子も同様であった。伊織からすれば彼女に尋ねた所で望む答えも返って来ず、菖子にしても返事の有無で状況が変わる訳も無いからである。
従って伊織は自身の思う様に事を進める。菖子のワンピースの包み釦を順に外し、レースのシュミーズを露わにさせてしまう。合わせて彼女の身体に掛かる伊織の吐息の位置も徐々に下がった。
此の時間が早急に過ぎ去る事だけを願い、菖子は瞳を閉じる。が、肌身に蔓延るじっとりとした諸々の体液の感触は嗅覚を刺激し、不快感を呼び覚ましていく。組み伏せられている間は我慢するだけだ。
伊織が彼女の左手に唇を這わせ、愛撫を繰り返す。指先を刺激するのは羞恥を誘わせるのでは無く、彼女に指輪を意識させる為であった。
菖子は打ち震える身を掻き抱きたくとも出来ず、目尻から行き所の無くした透明の涕涙を落とすばかりだ。
肌、汗、舌、指、声、におい、音、視線。
五感に与えられた全ての行為が、嫌悪や恐怖だけでなく、意にそぐわず身体に染み込んだ快楽をも菖子を駆り立てる。
気持ちの良い事が、気持ちの悪い事が、綯い交ぜになって際限無く降り積もっては彼女を戸惑わせた。
伊織は、菖子の涙の玉が蟀谷に流れ落ちるのに沿って、湿り気を含んだ舌で丹念に舐め取る。
今宵も二人の厚く重なる陰影は、壁に映し出されて濃密に溶け込んでいった。
「君が真間手児奈となる前に、何時までも手許で愛でていたいのだ」
伊織は呟き、うっとりする様な目で裸体に近い菖子の髪に手を差し込み、生え際から優しく梳いた。
手児奈とは、男性達の求婚に耐え切れず真間の入江に身を投じた伝説上の女性である。誰の心にも寄り添う事を拒否した手児奈は、自身を巡り争う男達に胸を痛め、其の身を以って終止符を打った。
「……一人きりで先に逝かせないよ」
伊織は手児奈の運命を菖子に準えた。
今の菖子には、言い寄る男から逃れる為の死も選べない。伊織が側に居なければ女中が付いて回り、庭でも一人に為れず、花を切ると言っても鋏すら与えて呉れない。伊織は極端な程、菖子に刃物を持たせる事を厭っていた。何もしなくてよい生活であると同時に、何もかもを監視されている生活は、雁字搦めだ。此の先、彼女には桎梏の終生しか待っていない。
伊織が菖子を抱き竦める。彼は強く優しく、愛の言葉を囁いた。
「私の菖子……私の事だけ考えてお呉れ」
告げられた菖子には、禍々しい呪詛にしか聞こえない。
淫縦に肌を重ねる度に、彼に対する憎悪は深い闇に囚われていった。
自身に潜む激情を遣り過ごす為に私窩子――即ち私娼――の気分を纏っても、此処では伊織が絶対で、彼への隷従が賢明であると菖子も分かっている。が、此の儘で終わる積もりも無かった。囲われた生活に甘んじる気は無い。
――禍福は糾える縄の如し。
正しく其の通りだ。此の生活は、菖子にとっては災いであり、伊織にとっては幸いであったのだから。