6話
遅くなりました。まだ続きます。
「わざわざお時間を作っていただき、ありがとうございます」
言葉に合わせて、藍川が軽く会釈する。
「いえ……藍川葵さん、よね。伊織と同じクラスの」
「私に敬称は不要です、杠葉先輩」
「じゃあ葵ちゃんと呼ばせてもらうわね。私にも敬称はいらないわ。美桜で良いわよ」
「いえ、そういう訳には……では。美桜先輩と呼ばせていただきます」
一通り自己紹介も済んだので、藍川が本題を切り出す。
「それで、今回お呼び出ししたのは、他でもなく美桜先輩ご自身のことについてです。既に紫苑からお聞きかもしれませんが、美桜先輩に起こっている現象──記憶消去をなくすことが出来る可能性に至りました」
「えぇ、つい先日、伊織がそんなことを話していたわ」
言うなと言ったのに話したのか、と藍川に睨まれる。目で必死に弁明を試みるも──無視。
「それでも、確実とは言えません。これは美桜先輩では思いつかなかったであろう、客観的可能性でしかありません。本来なら確実でないことをお伝えするのは正しくありませんが、緊急性を考慮して今日伝えることにしました」
「大丈夫よ、別に。それが駄目でもいつも通りに戻るだけだもの」
「それで、美桜さん。その可能性って──」
「ちょっと紫苑は黙ってて」
えぇー。これ、僕がいる必要あったかな。帰っても支障ない気がしてきたんだけど。
「勝手ながら、調べさせてもらったことを先にお詫びしておきます。……3歳の頃のこと、まだ覚えていますか?」
「それはきっと……あの事件のことを指しているのよね」
藍川が軽く頷く。
「まず第一に、あの事件の犯人は美桜先輩のお父さん──薊實さんは犯人ではありませんでした」
「───っ!!そんなはず、ないじゃない!美羽を殺したのはあいつよ!!だって……だったら……じゃあ…なんで帰ってこないのよ……っ!」
美桜さんは睨み、戦慄し、涙を流し、泣いた。
「……追い打ちをかけるようですが、帰ってこない理由は明白でしょう。恐らく美桜先輩が今、一人暮らしをしている理由。お忘れではないでしょう」
「そう、ね。私を忘れる度に一喜一憂する母を見ていられなかったからよ。だから……あいつ──薊實が忘れていても無理ないわ」
「でも、自分で言っておいて何ではありますが、それに関しては一説ありますよ」
美桜さんが目で先を促す。
「私と紫苑は、記憶消去についてある仮説を立てました。聡明な美桜先輩ならご存知とは思いますが、人間を兎と見なした時に、それは成立します」
「私が与えるストレスが、他人に作用する、ね」
兎と記憶、この二つを並べただけでその可能性に辿り着くとは、美桜さんは知能だけでなく、思考力までも常人を超えているのだろうか。
「……説明の手間が省けましたね。その仮説が正しいとすると、容疑がかかってから一度も美桜先輩に会っていない薊實さんは、記憶が消えません」
「単に気まずくて会いに来れてない、ってことかしら」
「或いは、もう既にお母さんには会っているけど、美桜先輩を覚えていないことに困惑して、会いに来ていないか、ですね」
「……そう。気が向いたら会いに行ってみるわ。ありがとう」
「これに関してはついでだったので、気にしないでください。では、本題に戻りますね」
その一言だけで、その場の温度が1度下がった気がした。目つきは少し鋭くなり、軽口を叩こうものなら切り捨てられるのではないかと、錯覚するくらい。二人は──いや、僕も含めると三人。真剣に話していた。
「言葉にするのも憚られますが、美桜先輩の妹さんがお亡くなりになった時、お母さんは記憶を失いましたね?」
「ええ、そうね。美羽が殺されて、父が逮捕されて。気が付いたら近所の人を忘れて。私のことも少し忘れていたわ」
「当時3歳の美桜先輩には、それが大きなストレスだったのでしょう。自分のせいだと思い込むあまり、三年に一度、他人の中の、自分の記憶が消えてしまうという呪いが形成されました。そもそも、三年に一度記憶が消えるなんてこと自体、幻想だったってことです」
「幻の呪い、ね。私が18年間悩み続けていたことを、呪いで片付けられるとは、私も滑稽なものね」
やや自嘲気味に笑う美桜さんの笑いは、決して解決した喜びのそれではなかった。僕は説明の終わりを感じて、遂に口を挟む。
「幻、だったとしても、人が観測してしまえばそれはそれとして成り立つ、と、藍川が言っていました。だから、美桜さんの人生は、決して滑稽なものなんかではありませんよ」
「ありがとう、伊織。でも、私も何となく分かっていたのよ。これはただの思い込みで、実際は記憶なんて消されていないんじゃないかって。でも、私にはそれがなぜかわからなかった。思い込みがここまで大きくなるなんて、思いもしないもの。……他ならぬ、思い込みのせいで、ね」
これは可能性の問題だ。これを美桜さんが信じたとて、記憶消去がなくならない可能性は十分にある。だから……むしろ美桜さんにこれは信じて欲しくない。これがただの仮説で終わってしまえば、本当に美桜さんは立ち直れないかもしれないから。
「二人にここまでさせて、こんな返事しかできなくて申し訳ないけれど、それでは解決策になり得ないわ」
「──っ!なんでですか!」
「紫苑、うるさい。そんなの考えれば当たり前じゃん」
「百聞は一見にしかず、って言葉があるわよね。自分以外の人がなんて言おうと、私は周りの人の記憶が消えることを体験してしまった。私にとってはそれが現実だった。他の人がどれだけ幻だと説明しようと、私は心の底からそれを信じることは出来ない。だから、その理論だともう一度、記憶は消えてしまうわ」
「解決策はあるはずです。もう少し探ってみますので、美桜先輩も主観的に考えてみてください。些細なことでいいので、情報提供も待っています」