3話
「おはよう、藍川」
「ねえ、昨日寝てないでしょ。隈すごいよ」
「人間たった一夜じゃ隈できないさ。まあ寝てないけど」
藍川は少し呆れた表情になる。
「そういうことを言ってるんじゃないの。自分の先輩とは言え他人のために徹夜で何かをする必要ないんじゃないのって言ってるの」
「いやあ、他人はそうなんだけどな。なんか……あの表情が忘れられなくてな」
あの表情とはもちろん昨日、カフェで美桜さんが帰り際に見せた表情のことだ。捨てられた子犬……とはまた違う。何かに縋る表情。誰かに信じてもらおうとは思ってないなんて言っていたが、そんなはずは無いのだ。
「はぁ、呆れた。ろくでもない自己犠牲野郎だね」
「自己犠牲……か。そういえば聞こえは良いかもしれないけどそんなもんじゃないんだよ。相手の想像を絶する苦しみを想像して苦しむくらいなら、自分が苦しみを肩代わりする方が良いじゃないか」
傷つく相手を見たくない。だから自分を犠牲にして助ける。結局自分が一番大事なんだ、人間ってのは。
「自分が一番大事、ね。それは概ね同意だけどさ、その自己犠牲にも限度があるじゃん。徹夜してそんな顔色悪くして、そんなの手助けの範疇を超えてるよ。ほら、予鈴も鳴ったし教室行くよ」
◆◇◆◇◆
───昼休み
僕は3年生のフロアに行くべく階段を駆け上がっていた。
──ドスッ
「あ、すいません!」
「大丈夫よ。でも階段はゆっくり登りなさいね」
「美桜さん!少し時間貰えま──」
「あなた、私が先輩だってわかってる?ちゃんと先輩を付けなさい」
「えっと……昨日美桜さんが自分で言ったんですよね。杠葉先輩って呼ぶなって」
「……音楽室の鍵もってる?場所変えるわよ」
そう言うと、スタスタと階段を降り始めた。
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「それで、なんのつもりよ伊織。もう関わらない方が良いって言ったじゃない」
「関わらないように、とは言われましたが関わるな、とは言われてません」
「屁理屈ね」
ぐうの音も出ない。実際にもう関わるな、と言われた自覚はあるし、それでも関わる道を選んだのだから。
「救う……と言うと生意気に聞こえますが、美桜さんの手助けをしたいんですよ。何か……なんでも良いので!僕に出来ることを言ってください」
今度は美桜さん、と呼ばれても何も反応しない。二人の時はそれで良いのだろうか。
「別に手助けなんていらないわよ。私ひとりでどうにかなるわ」
──嘘だ。そんなはずはない。どうにかなるのであればこの18年弱の人生でどうにかしているはずだ。していないなら……それはできない証拠だ。
「そう…ね。確かに私ではどうにも出来ないかもしれない。でも、どうしようも無い超常現象に関係ない人を巻き込むわけにいかないのもわかるでしょう?」
「僕を巻き込みたくない美桜さんの気持ちも分かります。でも、僕は美桜さんを見捨てたくない。見捨てて、後悔したくない。だから僕は美桜さんが拒んでも勝手に何かをし続けます」
「伊織はさ、何でこの前まで真っ赤の他人だった私のためにここまでしてくれるの?」
「ここで美桜さんに一目惚れしたから、とか言えれば様になったかも知れませんけどね。……少し昔話をしましょうか──」
◆◇◆◇◆
今から3年前、僕が中二だった頃の話。僕のひとつ離れた妹は自殺した。後になって聞いた話だが、妹の愛織は学校で虐められていたらしい。虐めていたやつを同じ目にあわせてやろうかとも考えた。でも、それ以上に、僕は自分が許せなかった。
両親と僕たち兄妹が別居していたこともあり、一般的な兄妹よりは仲が良かったように思う。──異変には気付いていた。朝、必ず僕を起こしてくれる愛織が僕より遅く起きてきたり、話している最中に虚ろな目で呆けていたり。それでも僕は何もしなかった。愛織は明るい子。僕より成績もよく運動もできる、優秀な子だから。だから……僕の手助けはいらないと思っていた。そんなありもしない偶像が、僕の目を曇らせていた。
そしてある日、愛織はいつも通りに戻った。明るい天使を彷彿とさせる笑顔に、ひとつひとつの動きが無駄に大きく怪我をしないか心配になってしまう、何の変哲もない愛織だった。そしてその日の夕刻、僕の通っている高校の近くにある橋から川へ、飛び降りて自殺した。今思えばあの明るさは、自殺を決めて心に余裕が出来たからこそだったのかもしれない。
両親は僕を責めなかった。むしろ、両親は自分たち自身のことを責めていたんじゃないかと思う。自分は異変に気付いていたのに何もしなかった。そして、誰も責めてくれない。それがいちばん辛かった。伊織は悪くない、お兄さんは悪くない、あまり思い詰めるな。両親も愛織の友達も僕の友達も、誰も責めなかった。
そこからの記憶は暫く朧気だ。冬に愛織が自殺してから目が覚めたのは、年度をこした夏休みの最中。ろくに睡眠もせず勉強もせず、学校にも行かず。完全に狂っていた僕は誰かの夏の思い出をぶち壊そうとでもしていたのだろう。狂気という凶器を持ってして、ファンタジーランドに行った。そして、ある女性に出会い、僕の人生は一変する。
◆◇◆◇◆
「そんな感じです。だから、僕は何もせずに誰かを見捨てたくないんですよ」
美桜さんは目に涙を浮かべていた。妹に同情したのか僕に同情したのか、はたまた全く別の理由か。
別に泣いてないわよと言わんばかりに涙を拭い、美桜さんは口を開いた。
「そんな感じです、じゃないわよ。その女性がどんな人かとか、まだ色々語ることがあるでしょう」
「……さっきまで泣いていた人の台詞とは思えないですね。それに、ほんとにあまり覚えてないんですよ、その人のこと。その方に救われたことも、そのおかげで今の僕がいることも確かなんですけど、どうしても顔が思い出せないんです」
「別に泣いてないわよ!……そうね、そんな辛いことがあったあとだもの。記憶が無いのも無理ないわね」
顔も声も思い出せないけれど、間違いなく彼女が僕の初恋の人だった。吊り橋効果もあったのかもしれないけれど、誰が声をかけても狂い続けていた僕に希望の光を差してくれたのだからそれだけではないと思う。
「はい!こんな暗い話をしに来たんじゃないですよ。何か出来ることを教えてください!」